お狐さま、働かない。
五十六話/束の間の日常
早朝――〈鵯の羽休め亭〉。
フィセルが朝早く宿を発とうとしたその時だった。
「……ふぃ、フィセルさ、フィセルさーん!!」
「――おや」
背後からの声。フィセルは思わしげに振り返る。
そこには大方の予想通り、アリアンナがいた。栗色の髪を結いもせず寝間着のまま、眼鏡だけを着けたような格好である。
とはいえ時間はまだ六時の鐘も鳴っていない。身支度が整っておらずとも無理からぬ事であろう。
「どうかしたかい、アリア。またずいぶん急いで。勝手に出てったりはしないって」
「か、からかわないでください!!」
以前強硬に引き止めた時のことを思い出したのか。アリアンナは頬を薄っすら赤くしつつ、手ずからちいさな袋を差し出す。
彼女のちいさな掌にあっさり収まるような大きさ。腰に括りつけるにも苦労しないだろう。袋の口は革のひもでしっかり縛られている。
「冗談だよ。――で、こいつは?」
「く、薬です」
「薬」
「は、はい。ユエラ先生に教えてもらって、それから自分で調合したものです。痛覚の鈍化と自然治癒力の向上が期待されますので……あっ、ちゃ、ちゃんと先生に見てもらってますから、副作用とかは大丈夫ですので!!」
アリアンナは慌てたように付け足す。説明の途中で自らの未熟さに思い至ったらしい。
フィセルは思わず口元に笑みを浮かべる――アリアンナを探索に連れていけるかといえば自信がないが、彼女をそれほど未熟とは思っていない。公教会奪還の折も、彼女は魔術兵としての役目を十分に果たしていた。
歓迎するべきかは別として、アリアンナは確実に成長しつつある。フィセルもそれは認め得ることだった。
「なるほどね。……調合は一人でやったのかい?」
「は、はい。俄仕込みではありますけども」
負傷したテオがユエラ邸に運びこまれ、そして目を覚ますまでの間、アリアンナはみっちりと調合技術を仕込まれていた。そのことはフィセルの知り及ぶところではないが――
「ありがたく頂くよ。これのおかげで命を拾えるかも限らないんだ。使えるものはなんだって使わせてもらうさ」
「は、はい。是非に!」
探索には同行できないが、それでも彼女なりに役に立とうとした結果だろう。それを無碍にしようとは思わないし、無碍にする理由もない。
フィセルはそれを受け取り、すらりとした長ズボンを引き締めるベルトに括っておく。
「ま、滅多なことはないと思うけどね。クラリスの奴もいるから」
「えっ――――ご、御一緒だったんですか」
眼鏡の向こう側の瞳がぱっちりと大きく見開かれる。
そういえば言ってなかっけかな、とフィセルは思い返す。なにせトントン拍子に決まったことだから、わざと黙っていたわけではないのだが。
「ああ、ちょいとね。同じ仕事をすることになったんだ」
「……うう、必ずやフィセルさんのお供にという計画が先を越されて……いやでも仲間がおられるのは喜ぶべきことの気がしますし……」
――フィセルが思ったよりだいぶショックを受けていた。アリアンナは頭を抱えたまま悩ましげに葛藤する。
正直なところ、フィセルにしてもこんなことになるとは予想外だった。本格的な攻略に乗り出すものなど、今まではとんといなかったのだ。誰かがアリアンナに先んじるなど思ってもいなかった。
「そう急がなくってもいいさ。言ったろう? 私は勝手にいなくなったりしないって」
「は、はい。――なんだか、置いてけぼりにされるような気持ちがして……いえ、それはともかく!」
アリアンナはぶんぶんとしきりに首を振る。
おそらくは彼女も葛藤を振り切るために、何かできることをやろうとしたのだろう。あるいはユエラの入れ知恵か。いずれにせよ、その結果が回復薬というわけだ。
「安心しなよ。迷宮はどっか行ったりなんか――するのかな」
「するんですか!?」
しないとも限らない。魔王が〈封印の迷宮〉の発生源とすれば、もし魔王がいなくなった時、迷宮はどうなるか。
フィセルは迷宮など無くなってもそれはそれで構わないと思っていた――が。
「ま、もし迷宮がどっか行っても待つさ。約束したんだしね」
そこまではアリアンナも付き合いきれないかもしれないが。
「……と、言いますと……?」
「迷宮がもし無くなったら、もうあそこじゃ稼げないだろう?」
「はい」
「だからこの街に用はなくなる」
「……ですよね」
「だから、まぁ、当面は隊商の護衛でもして稼ごうかって話になる」
「なるんですか」
「なるんだよ」
アリアンナはピンと来ない様子だった。迷宮街から出たことも無いだろうから無理もない。
「だから、宿を継ぐ気がないなら一緒に来りゃあ良いんじゃないかい?」
継ぐのもそれはそれでありだろうけどね、とフィセルは言う。ティノーブルの立地は各国間を行き来する旅人にとっては都合の良い中間地点だ。
〈封印の迷宮〉が無くなれば今ほどは栄えずとも、賑やかな宿場町として残るだろう。
「――――そ、それは、その」
「ああ」
「お、お付き合い、を……?」
「違う」
どこをどうしたらそうなるんだい、とフィセルは掌を投げやりに振る。アリアンナの顔は耳たぶまで真っ赤だった。
「ま、無理に付き合うこたない。考えとくんな」
未熟な時のアリアンナではまだしも。
その成長を見守った後ならば、むしろ相方として自ら願い出たいほどなのだから。
その時、朝六時を告げる鐘が出る。
そろそろ行かないとね、とフィセルは宿の扉を押し開く。
その背中に向かって、アリアンナは言いつのった。
「ぜ、ぜひもなくっ!!」
「……考えときな、って言ったろうに」
フィセルは苦笑し、少しばかり面映ゆそうに笑う。
扉が閉じる。
彼女の腰にはしかと、アリアンナに送られた薬が結いつけられていた。
◆
「という感じで喜んでもらえました!!」
「ちょいと薬を渡すくらいでそんなに大騒ぎできるのはおまえくらいであろうよ……」
昼前、今日も良い天気の魔術日和。
ユエラとアリアンナは外にも出ず、地下の広間に閉じこもっていた。
「とにもかくにも認めてもらいました! 私の調合した薬がフィセルさんとともに迷宮へ向かったわけで、これはもう実質的に同道したといっても過言ではないと思います」
「実質的もくそもあるかえ。あやつは迷宮におっておまえは今この地下を這いずっておる、現実を見よ」
「ううううぅ」
唸り声をあげながら眼鏡を押し上げ、詠唱を開始するアリアンナ。
その手に杖はない。出力を試す時などはまだしも、習熟するためには杖を持たないほうが効果的であった。
「――ところで」
と、アリアンナは詠唱を続けつつ部屋の隅を見る。詠唱しつつの余所見など、いわゆる並行作業はむしろユエラが推奨していた――実戦においても有用、かつ感応力が高まりやすいからだ。
彼女が目に止めたのは、テオ。彼女は広間の地べたに膝を立てて座り、ずっと静止したままでいる。
「テオさん、なにかお仕置きでもされているのですか……?」
「いや、訓練中でな。どうして私があやつを仕置きせねばならんのだ」
「だって先ほどからピクリとも動いてないですし……もう一時間くらいずっとあのままですけど」
「集中しておるのだ」
「そんな無茶な」
さすがに一日であの傷を完治させるというのは無茶があった。
というわけで、テオは半日を瞑想とイメージトレーニングに努めていた。
イメージトレーニング、とはいってもその内容は極めて正確だ。というのも、ユエラがテオの記憶を洗い出してリグの行動パターンを再構築したためである。
「……なんだか、触っても気づかれなさそうな感じですね」
「首をへし折られても知らんからな」
「怖すぎないですか?」
「そのくらいの差があるということだ。あやつとフィセルは互角、いや、私の贔屓目で見ればあやつのほうが一枚上手なのだぞ?」
「贔屓目という自覚はあるんですね――――『水魔術・白梅花』……!」
アリアンナの目先でお得意の氷結術式が発現し、標的の木人があえなく凍りづけになる。ユエラが見た限り、発現速度に少しばかりの向上が見られるようだ。
うむ、とユエラは納得げに頷く。それは授業での修練のみならず、日課も欠かしていない証拠である。習慣付けが上手く行けば後は勝ったようなもの。
修練を続行するアリアンナを一瞥し、ユエラはテオに目を向ける。
アリアンナの手前ああ言ったが、テオの集中力は確かに眼を見張るほどだった。
アリアンナは一時間と言ったが、それは彼女が見ていた時間に過ぎない。実際はもう三時間もじっと座ったままである。
「無理はするでないぞ、テオ。元より一週間でも厳しいような話なのだからな。頭が茹だっても締まらん話よ」
ユエラが声をかけると、テオはこくりとちいさく頷く。少なくとも外界を知覚しているのは確からしい。
猶予は長くないと言ったが、意外にもクレラントはあれから姿を見せていない。〈封印の大神殿〉近辺には守護霊〈グラーム〉を配置しており、決定的な行動を起こす際に見逃すことはまず無いはずだ。
――他にアテがある、となれば話は別だがのぅ。
ユエラとクレラント。二人にはひとつだけ共通点がある。
時間が無駄に有り余っているため、あまり急がないということだ。
その悠長さを計算に入れるのはあまりに危なっかしいため、ユエラはあえて考えなかったが……。
―――まあ、言わぬでおくか。そのほうがテオも捗るであろう。
ユエラは、あえてその予測を伏せることに決めた。
◆
リグの動きには芯がない。
テオの挙動が機械仕掛けの時計めいた正確さ、冷徹さ、無機質さであるとするならば。
リグのそれは波一つ立たない大海原。
あるいは、風一つない渺々たる砂漠。
その動きには一切の感情というものがない。意図がない。ゆえに、次の手を読み取ることもできない。
否、実際には彼女なりの理路があるのだろう。テオを狙って短剣を投擲した時のように、獲物を追う狩猟者としての意図は確かにある。
だが、いざ相対すればリグを見極めようという試みはもろくも破綻する。
鼻先にエサをぶら下げられた馬のような心地。近づくほどに遠ざかる。近づこうとするほどに遠のく。
――――宗教問答でも無いでしょうに。
そこでテオは一旦、彼女の意図を読み取ろうとすることを止めた。
彼女ほどの使い手なら、相手の動きから次の手を読むのは当然のこと。自然体で行われることと言っても良い。
テオはそれをあえて止めた――滅多打ちにされることのない、頭の中だからこそできることだ。
テオはそれをただ、見た。
ユエラによって打ちこまれた過去の記憶。それを鮮明に――克明に頭の中で思い浮かべ、凝視する。
限界まで無駄を削ぎ落とした最速の挙動。にも関わらず変幻自在に流れる型。まさに武の極みというべきリグの技は、テオの倍ほどもある魔素を惹きつけている。
――――魔素。魔素の量。
そこでテオは勘付いた。
魔素の量はごまかせない。それは彼女が意図したものではなく、魔素のほうがリグに惹きつけられたのだから。
リグの全力とは、あるいは全力に近い動きはどれほどのものか。それは身にまとう魔素量を観察することによって推定できる。
何分か。あるいは何時間か。
テオはリグの動きをひたすら観察し続け、そして理解した。
リグが本気になった時の動きには、武術に付き物の"型"がない。特定の型に沿った動きではないため、必然的に対策のしようもない
例え対策しようと、それに合わせて彼女の動きは変わってしまう――といったほうがより正確か。
流れる水を掌で捉えられようか。遠い空の星に手が届こうか。
断じて否である。
ならば、どうすればよいか。やはり師には、リグには敵うべくもないのか。
テオは目を瞑ったまますっくと立ち上がり、部屋の壁に向き合う。前方は見えていないが、不思議と周りに何があるかは把握できた。
テオはそのまま、真っ暗な頭の中にリグの姿を思い浮かべ……ゆっくりと、彼女の動きを模倣し始めた。
突き出す掌に蝿が止まりそうな遅さ。
当然、それは意図してのこと。早く動けば一つ一つの動作は雑になる。雑然とした動きではリグには及ばない。全てが完璧、かつ流れる水のように自然でなければならない。
この修行方法もかつてリグに教わったこと。今になって往時の教えを思い出すのも癪だが、どうやらそれしか道は無さそうだ。
――そう。
リグに付け焼き刃の対策が通じないというのなら、同じ高みに達すれば良い。
身も蓋もないといえばその通り。だが、真似ることならテオにもできる。彼女がやったことをなぞるくらいならテオにもできる。過去にもテオはそうやってリグの暗殺技術を会得したのだから。
動作の意図。技の意味。そういったことは一切考えないで、ただ繰り返す。見様見真似で覚え、反復する。ゆっくりと、気が遠のきそうな鈍さで、しかし極めて正確無比に。
この身は流水。ただ、流れる水のごとし。そこに意図や意味などはない。ただ、そこにあるから流れているというだけ。それくらいの自然さで一つ一つの動作を繋ぎ合わせ、通して行う。
身体の動かし方、歩き方、重心移動。
それら全てを真似るといっても、当然、テオとリグでは身体性能がまるで違う。リグの身長は170suを大きく上回るのに対し、テオは150suあるかどうかなのだ。どれだけ似せようと、まるっきり同じというわけにはいかない。
だが、テオはあえてその違いを気にしないことにした。
似せるといっても、できないことをやろうとしたら歪な動きになるだけ。ならばいっそ開き直ったほうが良い。実際に動いているのはテオの肉体なのだ。ならば、動作を反復するうちにテオの肉体へ最適化されるはずである。
「――――はっ……」
と、テオは身体を動かしながら不意に息を吐く。
痛みの感覚などはとうに無い。彼女の全神経は周囲の空間――風の流れ、空気の質感、動作の手応えを感じることに集約されている。
そこでテオは何となく思い至る。
テオの体術はリグに教わった暗殺技術を基本としている。彼女は生粋の暗殺者であり、それ以外の武術はほとんど心得ていない。
しかしリグはそうではない。彼女の修めた武術は数限りなく、暗殺術もそのうちのひとつに過ぎなかった。
ならば、リグの体術が全く異質なものだったのも納得である。それは言うなれば、彼女が習熟した技術の集大成。テオが一昼夜で達する領域では断じてない――が。
――――見えました。
テオは心中うそぶき、不意に両手を下ろす。
リグの体術の元になったであろう体系的な武術。テオはそれを何一つとして修めていない――だが、リグの集大成というべき体術をそのまま真似ることは不可能というほどではない。
瞬間。
テオは目を閉じたまま幻影のリグと相対し、彼女が動き出すのを静かに待った。
目を開く必要はない。幻影とはユエラの産物であり、それは脳内に直接投影されたものなのだから。
リグの蹴り足が放たれる。
それと全く同時にテオも蹴り足を放つ――お互いの蹴閃が衝撃を伝え、重なりあう。
「……ッ」
かすかな痛みが脳裏に走る。肉体的な差異はやはり如何ともしがたい。
だが、テオの放った足刀はリグのそれと全く同じ動きであった――速度、角度、爪先が描いた弧の形。何もかもが、寸分足りとも変わらなかった。
どうということはない。先ほどまでゆっくりやっていた動きを早回しにしただけのこと。
テオはさらに幻影との手合わせを継続する。拳をぶつけ合わせ、足払いを捌き、手首を取る掌を弾き、放たれた肘を屈んで躱す。
テオ自身の体術ではまず回避が間に合わないだろう。
確実に仕留めることを目的とする暗殺術。染み付いた癖とでも言うべきか、テオは必殺の間合いに踏みこむことを是としている。敵わないと悟ればすぐさま逃げ出すことも。
ぎりぎりの死合ではそれこそが命取りになる、というわけだ。
至近から放たれた掌打を流れるように下がって避ける。距離を置く。
打ち勝てるかというと全く見当はつかない。しかし互角に打ち合う程度ならば決して不可能ではなさそうだ。
テオは再び、硬く拳を握り固め――――
「――――テオ、そろそろ何か食べんかえ。あまり根を詰めておっては明日がどうにもならぬぞ?」
「ユエラ様」
瞬間、彼女はユエラの声であっという間に現実へ引き戻された。
テオがそれを見逃すはずもない、と言うべきか。後ろを振り返れば、やや心配そうに眉をひそめるユエラがいる。
「申し訳ありません。そんなに時間が経っておりましたか」
「うむ。集中しておるようだから放っといたんだが、気になってのぅ。一応は怪我人なのだぞ、おまえ?」
「御心配をおかけしたようで……今からでも宜しければ、昼の支度もいたしますが」
と、テオは言って周囲を見渡す。
いつの間にやらアリアンナはいなくなっていた。
「テオや」
「……なんでしょう」
「おまえ、今は何時だと思うておる?」
「六時の鐘のころに地下へ降りましたから……十二時頃でしょうか」
なぜそんなことを聞かれるのだろう。
そう考え、テオは不意にはっとした。
「も、もしかしますと」
「うむ」
「今は」
「六時の鐘が鳴ったとこだのう。夕方の」
「――――も、申し訳も次第もございません。すぐに支度を」
「怪我人にさせるわけなかろう。粥を作っておいたわえ。……まぁ、その調子なら怪我も大丈夫そうかのぅ?」
二尾のしっぽを揺らしてニヤニヤと笑うユエラ。
これにはテオも恐縮しつつ、大人しくご相伴に預かることにした。
意外なことに――といってはなんだが――ユエラの手料理はたいへん美味だった。
刻んだ甘い油揚げが入っているお粥、といういささか奇妙な代物ではあったが。
フィセルが朝早く宿を発とうとしたその時だった。
「……ふぃ、フィセルさ、フィセルさーん!!」
「――おや」
背後からの声。フィセルは思わしげに振り返る。
そこには大方の予想通り、アリアンナがいた。栗色の髪を結いもせず寝間着のまま、眼鏡だけを着けたような格好である。
とはいえ時間はまだ六時の鐘も鳴っていない。身支度が整っておらずとも無理からぬ事であろう。
「どうかしたかい、アリア。またずいぶん急いで。勝手に出てったりはしないって」
「か、からかわないでください!!」
以前強硬に引き止めた時のことを思い出したのか。アリアンナは頬を薄っすら赤くしつつ、手ずからちいさな袋を差し出す。
彼女のちいさな掌にあっさり収まるような大きさ。腰に括りつけるにも苦労しないだろう。袋の口は革のひもでしっかり縛られている。
「冗談だよ。――で、こいつは?」
「く、薬です」
「薬」
「は、はい。ユエラ先生に教えてもらって、それから自分で調合したものです。痛覚の鈍化と自然治癒力の向上が期待されますので……あっ、ちゃ、ちゃんと先生に見てもらってますから、副作用とかは大丈夫ですので!!」
アリアンナは慌てたように付け足す。説明の途中で自らの未熟さに思い至ったらしい。
フィセルは思わず口元に笑みを浮かべる――アリアンナを探索に連れていけるかといえば自信がないが、彼女をそれほど未熟とは思っていない。公教会奪還の折も、彼女は魔術兵としての役目を十分に果たしていた。
歓迎するべきかは別として、アリアンナは確実に成長しつつある。フィセルもそれは認め得ることだった。
「なるほどね。……調合は一人でやったのかい?」
「は、はい。俄仕込みではありますけども」
負傷したテオがユエラ邸に運びこまれ、そして目を覚ますまでの間、アリアンナはみっちりと調合技術を仕込まれていた。そのことはフィセルの知り及ぶところではないが――
「ありがたく頂くよ。これのおかげで命を拾えるかも限らないんだ。使えるものはなんだって使わせてもらうさ」
「は、はい。是非に!」
探索には同行できないが、それでも彼女なりに役に立とうとした結果だろう。それを無碍にしようとは思わないし、無碍にする理由もない。
フィセルはそれを受け取り、すらりとした長ズボンを引き締めるベルトに括っておく。
「ま、滅多なことはないと思うけどね。クラリスの奴もいるから」
「えっ――――ご、御一緒だったんですか」
眼鏡の向こう側の瞳がぱっちりと大きく見開かれる。
そういえば言ってなかっけかな、とフィセルは思い返す。なにせトントン拍子に決まったことだから、わざと黙っていたわけではないのだが。
「ああ、ちょいとね。同じ仕事をすることになったんだ」
「……うう、必ずやフィセルさんのお供にという計画が先を越されて……いやでも仲間がおられるのは喜ぶべきことの気がしますし……」
――フィセルが思ったよりだいぶショックを受けていた。アリアンナは頭を抱えたまま悩ましげに葛藤する。
正直なところ、フィセルにしてもこんなことになるとは予想外だった。本格的な攻略に乗り出すものなど、今まではとんといなかったのだ。誰かがアリアンナに先んじるなど思ってもいなかった。
「そう急がなくってもいいさ。言ったろう? 私は勝手にいなくなったりしないって」
「は、はい。――なんだか、置いてけぼりにされるような気持ちがして……いえ、それはともかく!」
アリアンナはぶんぶんとしきりに首を振る。
おそらくは彼女も葛藤を振り切るために、何かできることをやろうとしたのだろう。あるいはユエラの入れ知恵か。いずれにせよ、その結果が回復薬というわけだ。
「安心しなよ。迷宮はどっか行ったりなんか――するのかな」
「するんですか!?」
しないとも限らない。魔王が〈封印の迷宮〉の発生源とすれば、もし魔王がいなくなった時、迷宮はどうなるか。
フィセルは迷宮など無くなってもそれはそれで構わないと思っていた――が。
「ま、もし迷宮がどっか行っても待つさ。約束したんだしね」
そこまではアリアンナも付き合いきれないかもしれないが。
「……と、言いますと……?」
「迷宮がもし無くなったら、もうあそこじゃ稼げないだろう?」
「はい」
「だからこの街に用はなくなる」
「……ですよね」
「だから、まぁ、当面は隊商の護衛でもして稼ごうかって話になる」
「なるんですか」
「なるんだよ」
アリアンナはピンと来ない様子だった。迷宮街から出たことも無いだろうから無理もない。
「だから、宿を継ぐ気がないなら一緒に来りゃあ良いんじゃないかい?」
継ぐのもそれはそれでありだろうけどね、とフィセルは言う。ティノーブルの立地は各国間を行き来する旅人にとっては都合の良い中間地点だ。
〈封印の迷宮〉が無くなれば今ほどは栄えずとも、賑やかな宿場町として残るだろう。
「――――そ、それは、その」
「ああ」
「お、お付き合い、を……?」
「違う」
どこをどうしたらそうなるんだい、とフィセルは掌を投げやりに振る。アリアンナの顔は耳たぶまで真っ赤だった。
「ま、無理に付き合うこたない。考えとくんな」
未熟な時のアリアンナではまだしも。
その成長を見守った後ならば、むしろ相方として自ら願い出たいほどなのだから。
その時、朝六時を告げる鐘が出る。
そろそろ行かないとね、とフィセルは宿の扉を押し開く。
その背中に向かって、アリアンナは言いつのった。
「ぜ、ぜひもなくっ!!」
「……考えときな、って言ったろうに」
フィセルは苦笑し、少しばかり面映ゆそうに笑う。
扉が閉じる。
彼女の腰にはしかと、アリアンナに送られた薬が結いつけられていた。
◆
「という感じで喜んでもらえました!!」
「ちょいと薬を渡すくらいでそんなに大騒ぎできるのはおまえくらいであろうよ……」
昼前、今日も良い天気の魔術日和。
ユエラとアリアンナは外にも出ず、地下の広間に閉じこもっていた。
「とにもかくにも認めてもらいました! 私の調合した薬がフィセルさんとともに迷宮へ向かったわけで、これはもう実質的に同道したといっても過言ではないと思います」
「実質的もくそもあるかえ。あやつは迷宮におっておまえは今この地下を這いずっておる、現実を見よ」
「ううううぅ」
唸り声をあげながら眼鏡を押し上げ、詠唱を開始するアリアンナ。
その手に杖はない。出力を試す時などはまだしも、習熟するためには杖を持たないほうが効果的であった。
「――ところで」
と、アリアンナは詠唱を続けつつ部屋の隅を見る。詠唱しつつの余所見など、いわゆる並行作業はむしろユエラが推奨していた――実戦においても有用、かつ感応力が高まりやすいからだ。
彼女が目に止めたのは、テオ。彼女は広間の地べたに膝を立てて座り、ずっと静止したままでいる。
「テオさん、なにかお仕置きでもされているのですか……?」
「いや、訓練中でな。どうして私があやつを仕置きせねばならんのだ」
「だって先ほどからピクリとも動いてないですし……もう一時間くらいずっとあのままですけど」
「集中しておるのだ」
「そんな無茶な」
さすがに一日であの傷を完治させるというのは無茶があった。
というわけで、テオは半日を瞑想とイメージトレーニングに努めていた。
イメージトレーニング、とはいってもその内容は極めて正確だ。というのも、ユエラがテオの記憶を洗い出してリグの行動パターンを再構築したためである。
「……なんだか、触っても気づかれなさそうな感じですね」
「首をへし折られても知らんからな」
「怖すぎないですか?」
「そのくらいの差があるということだ。あやつとフィセルは互角、いや、私の贔屓目で見ればあやつのほうが一枚上手なのだぞ?」
「贔屓目という自覚はあるんですね――――『水魔術・白梅花』……!」
アリアンナの目先でお得意の氷結術式が発現し、標的の木人があえなく凍りづけになる。ユエラが見た限り、発現速度に少しばかりの向上が見られるようだ。
うむ、とユエラは納得げに頷く。それは授業での修練のみならず、日課も欠かしていない証拠である。習慣付けが上手く行けば後は勝ったようなもの。
修練を続行するアリアンナを一瞥し、ユエラはテオに目を向ける。
アリアンナの手前ああ言ったが、テオの集中力は確かに眼を見張るほどだった。
アリアンナは一時間と言ったが、それは彼女が見ていた時間に過ぎない。実際はもう三時間もじっと座ったままである。
「無理はするでないぞ、テオ。元より一週間でも厳しいような話なのだからな。頭が茹だっても締まらん話よ」
ユエラが声をかけると、テオはこくりとちいさく頷く。少なくとも外界を知覚しているのは確からしい。
猶予は長くないと言ったが、意外にもクレラントはあれから姿を見せていない。〈封印の大神殿〉近辺には守護霊〈グラーム〉を配置しており、決定的な行動を起こす際に見逃すことはまず無いはずだ。
――他にアテがある、となれば話は別だがのぅ。
ユエラとクレラント。二人にはひとつだけ共通点がある。
時間が無駄に有り余っているため、あまり急がないということだ。
その悠長さを計算に入れるのはあまりに危なっかしいため、ユエラはあえて考えなかったが……。
―――まあ、言わぬでおくか。そのほうがテオも捗るであろう。
ユエラは、あえてその予測を伏せることに決めた。
◆
リグの動きには芯がない。
テオの挙動が機械仕掛けの時計めいた正確さ、冷徹さ、無機質さであるとするならば。
リグのそれは波一つ立たない大海原。
あるいは、風一つない渺々たる砂漠。
その動きには一切の感情というものがない。意図がない。ゆえに、次の手を読み取ることもできない。
否、実際には彼女なりの理路があるのだろう。テオを狙って短剣を投擲した時のように、獲物を追う狩猟者としての意図は確かにある。
だが、いざ相対すればリグを見極めようという試みはもろくも破綻する。
鼻先にエサをぶら下げられた馬のような心地。近づくほどに遠ざかる。近づこうとするほどに遠のく。
――――宗教問答でも無いでしょうに。
そこでテオは一旦、彼女の意図を読み取ろうとすることを止めた。
彼女ほどの使い手なら、相手の動きから次の手を読むのは当然のこと。自然体で行われることと言っても良い。
テオはそれをあえて止めた――滅多打ちにされることのない、頭の中だからこそできることだ。
テオはそれをただ、見た。
ユエラによって打ちこまれた過去の記憶。それを鮮明に――克明に頭の中で思い浮かべ、凝視する。
限界まで無駄を削ぎ落とした最速の挙動。にも関わらず変幻自在に流れる型。まさに武の極みというべきリグの技は、テオの倍ほどもある魔素を惹きつけている。
――――魔素。魔素の量。
そこでテオは勘付いた。
魔素の量はごまかせない。それは彼女が意図したものではなく、魔素のほうがリグに惹きつけられたのだから。
リグの全力とは、あるいは全力に近い動きはどれほどのものか。それは身にまとう魔素量を観察することによって推定できる。
何分か。あるいは何時間か。
テオはリグの動きをひたすら観察し続け、そして理解した。
リグが本気になった時の動きには、武術に付き物の"型"がない。特定の型に沿った動きではないため、必然的に対策のしようもない
例え対策しようと、それに合わせて彼女の動きは変わってしまう――といったほうがより正確か。
流れる水を掌で捉えられようか。遠い空の星に手が届こうか。
断じて否である。
ならば、どうすればよいか。やはり師には、リグには敵うべくもないのか。
テオは目を瞑ったまますっくと立ち上がり、部屋の壁に向き合う。前方は見えていないが、不思議と周りに何があるかは把握できた。
テオはそのまま、真っ暗な頭の中にリグの姿を思い浮かべ……ゆっくりと、彼女の動きを模倣し始めた。
突き出す掌に蝿が止まりそうな遅さ。
当然、それは意図してのこと。早く動けば一つ一つの動作は雑になる。雑然とした動きではリグには及ばない。全てが完璧、かつ流れる水のように自然でなければならない。
この修行方法もかつてリグに教わったこと。今になって往時の教えを思い出すのも癪だが、どうやらそれしか道は無さそうだ。
――そう。
リグに付け焼き刃の対策が通じないというのなら、同じ高みに達すれば良い。
身も蓋もないといえばその通り。だが、真似ることならテオにもできる。彼女がやったことをなぞるくらいならテオにもできる。過去にもテオはそうやってリグの暗殺技術を会得したのだから。
動作の意図。技の意味。そういったことは一切考えないで、ただ繰り返す。見様見真似で覚え、反復する。ゆっくりと、気が遠のきそうな鈍さで、しかし極めて正確無比に。
この身は流水。ただ、流れる水のごとし。そこに意図や意味などはない。ただ、そこにあるから流れているというだけ。それくらいの自然さで一つ一つの動作を繋ぎ合わせ、通して行う。
身体の動かし方、歩き方、重心移動。
それら全てを真似るといっても、当然、テオとリグでは身体性能がまるで違う。リグの身長は170suを大きく上回るのに対し、テオは150suあるかどうかなのだ。どれだけ似せようと、まるっきり同じというわけにはいかない。
だが、テオはあえてその違いを気にしないことにした。
似せるといっても、できないことをやろうとしたら歪な動きになるだけ。ならばいっそ開き直ったほうが良い。実際に動いているのはテオの肉体なのだ。ならば、動作を反復するうちにテオの肉体へ最適化されるはずである。
「――――はっ……」
と、テオは身体を動かしながら不意に息を吐く。
痛みの感覚などはとうに無い。彼女の全神経は周囲の空間――風の流れ、空気の質感、動作の手応えを感じることに集約されている。
そこでテオは何となく思い至る。
テオの体術はリグに教わった暗殺技術を基本としている。彼女は生粋の暗殺者であり、それ以外の武術はほとんど心得ていない。
しかしリグはそうではない。彼女の修めた武術は数限りなく、暗殺術もそのうちのひとつに過ぎなかった。
ならば、リグの体術が全く異質なものだったのも納得である。それは言うなれば、彼女が習熟した技術の集大成。テオが一昼夜で達する領域では断じてない――が。
――――見えました。
テオは心中うそぶき、不意に両手を下ろす。
リグの体術の元になったであろう体系的な武術。テオはそれを何一つとして修めていない――だが、リグの集大成というべき体術をそのまま真似ることは不可能というほどではない。
瞬間。
テオは目を閉じたまま幻影のリグと相対し、彼女が動き出すのを静かに待った。
目を開く必要はない。幻影とはユエラの産物であり、それは脳内に直接投影されたものなのだから。
リグの蹴り足が放たれる。
それと全く同時にテオも蹴り足を放つ――お互いの蹴閃が衝撃を伝え、重なりあう。
「……ッ」
かすかな痛みが脳裏に走る。肉体的な差異はやはり如何ともしがたい。
だが、テオの放った足刀はリグのそれと全く同じ動きであった――速度、角度、爪先が描いた弧の形。何もかもが、寸分足りとも変わらなかった。
どうということはない。先ほどまでゆっくりやっていた動きを早回しにしただけのこと。
テオはさらに幻影との手合わせを継続する。拳をぶつけ合わせ、足払いを捌き、手首を取る掌を弾き、放たれた肘を屈んで躱す。
テオ自身の体術ではまず回避が間に合わないだろう。
確実に仕留めることを目的とする暗殺術。染み付いた癖とでも言うべきか、テオは必殺の間合いに踏みこむことを是としている。敵わないと悟ればすぐさま逃げ出すことも。
ぎりぎりの死合ではそれこそが命取りになる、というわけだ。
至近から放たれた掌打を流れるように下がって避ける。距離を置く。
打ち勝てるかというと全く見当はつかない。しかし互角に打ち合う程度ならば決して不可能ではなさそうだ。
テオは再び、硬く拳を握り固め――――
「――――テオ、そろそろ何か食べんかえ。あまり根を詰めておっては明日がどうにもならぬぞ?」
「ユエラ様」
瞬間、彼女はユエラの声であっという間に現実へ引き戻された。
テオがそれを見逃すはずもない、と言うべきか。後ろを振り返れば、やや心配そうに眉をひそめるユエラがいる。
「申し訳ありません。そんなに時間が経っておりましたか」
「うむ。集中しておるようだから放っといたんだが、気になってのぅ。一応は怪我人なのだぞ、おまえ?」
「御心配をおかけしたようで……今からでも宜しければ、昼の支度もいたしますが」
と、テオは言って周囲を見渡す。
いつの間にやらアリアンナはいなくなっていた。
「テオや」
「……なんでしょう」
「おまえ、今は何時だと思うておる?」
「六時の鐘のころに地下へ降りましたから……十二時頃でしょうか」
なぜそんなことを聞かれるのだろう。
そう考え、テオは不意にはっとした。
「も、もしかしますと」
「うむ」
「今は」
「六時の鐘が鳴ったとこだのう。夕方の」
「――――も、申し訳も次第もございません。すぐに支度を」
「怪我人にさせるわけなかろう。粥を作っておいたわえ。……まぁ、その調子なら怪我も大丈夫そうかのぅ?」
二尾のしっぽを揺らしてニヤニヤと笑うユエラ。
これにはテオも恐縮しつつ、大人しくご相伴に預かることにした。
意外なことに――といってはなんだが――ユエラの手料理はたいへん美味だった。
刻んだ甘い油揚げが入っているお粥、といういささか奇妙な代物ではあったが。
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