お狐さま、働かない。

きー子

五十三話/前哨戦

 一身に群がる幻の剣。
 ユエラはその様子を一瞥し、背にしたテオの様子を咄嗟にうかがう。

「テオ。傷のほうはどうかえ?」
「どうかお構いなさらず。それより前を。彼女は――――私のかつての師です」
「ほぅ」

 その一言だけで、ユエラはリグの力量について合点が行った。
 身にまとう魔素も相当なものだが、それもテオの師匠格とあっては頷けよう。

 刹那。
 リグの蹴り足が彼女を中心にして風圧を巻き起こし、幻影の短剣を即座に打ち払った。

「――――幻か」
「ふん。見抜きおるか」
「猪口才な」

 瞬時に掻き消える無数の短剣。
 なおも戦闘を止めない三人から逃れるべく、人々は悲鳴をあげて走り去っていく。

 リグは委細構わず前に出る。ユエラもそれに応じて前に一歩踏み出した。

「術師が――――私に敵うとでも」

 ひゅん。

 短剣が軽やかに風を切り、刃先がユエラの片腕を跳ね飛ばす。
 それはあまりにあっけない光景だった。子どもじみてか細く白い腕が宙を舞い、ぼとんと地に落ちる。

「阿呆が」

 ユエラはにやっと口端を歪め、そして跳ね飛ばされたほうの腕でリグを思いっ切り殴り返した。

「――――ッぐ!?」

 身に秘めた魔力を直接打撃に載せた一撃。効率は非常に悪いが、ユエラの膨大な魔力量を持ってすれば人体を打ちのめすには十分な威力を発揮し得る。
 リグの痩躯が矢のように飛び、組積造の壁に叩きつけられる。砂埃が立ち、瓦礫が崩れ、豪快な破砕音が響き渡った。

「魔術師がまともに殴り合いをしてやるとでも思ったかえ?」

 確かに、真っ当な殴り合いでは絶対に敵わないだろう。ならば、絶対にありえないような理外の一撃を叩きこめば良いのだ。
 虚を突かれたリグは、しかし緩慢な動作で立ち上がる。さすがに彼女が身にまとう魔素の鎧を突き破るには至らなかったらしい。

「ユエラ様。彼女こそは普遍主義派の最高戦力に他なりません。この場では騒ぎが大きくなりすぎるという危険があります」
「そうだのう。早いとこおまえを安全なとこにやりたいところだが」

 刺し傷は鮮烈だが致命的なものではない。それより喉元――呼吸器官に後遺症を残さないかが心配だ。

「寝ておっても良いぞ。無理に意識を保っておったら頭の中身から死にかねん」
「――――は、い」

 ユエラが端的にそう言うと、テオはかすかに微笑んでふっと意識を落とした。
 今の今まで、気力のみで意識を引き止めていたのだろう。打たれたと思しき喉仏の痕跡を見れば無理もない。

 その時、リグは再び一定の距離までユエラと間合いを詰めた。

「一撃を入れただけで、ずいぶんな余裕だな」
「それは私の言葉だとも。いや、まともに一撃も入れておらぬと言ったほうが良いかえ?」

 ユエラはからからと笑って腕を揺らす。
 それは異様な光景だった。目と鼻の先には切り離されたはずの腕も確かに転がっているのだから。

「惑わしのつもりか」
「何を勘違いしておる? ――――おぬしは、とっくのとうに惑わされておる」
「――――、」

 瞬間、リグはわずかに踏みこむことを躊躇する。
 彼女がどれほどユエラのことを知っているかは分からない。だが、街を騒がせた狐人テウメッサの情報くらいは掴んでいるだろう。それが類まれなる幻術の使い手であることも。

 さて、どう出るか。
 ユエラは「よっこいせ」とテオを背負いながらリグをひと睨みする。
 瞬間、彼女は一歩を踏み出しかけ――――

「そこまでだよ、リグ。今日のところは引き上げだ」

 少年じみた声に、彼女の踏み込みは引き止められた。
 リグはゆっくりと後方を振り返る。そこには命令を口にした主――透き通るような水色の髪、そして白衣を羽織っている少年がいた。

「貴様」
「口答えしなーいのー。どうせ君じゃ絶対に勝てないからさ。というか、今の僕でも勝てるか怪しいね。ちゃんと準備してこないとダメだよ、こりゃあ」

 少年は得意気にひょうひょうと言い放つ。その口振りからして、リグを欠片ほども恐れていないことがよくわかる。ユエラの力量を極めて高く評価していることも。
 そして――続く少年の言葉に、ユエラは心底から驚かされた。

「――いかなる理由あってのことか」
「わっかんないかなーリグ。そいつ、本当の実力を隠してるんだぜ。今の状態じゃせいぜい全力の一割……多くて二割、そんなところさ。君の実力じゃあ全力を引き出すことすらできないだろうねぇ」

 少年はせせら笑うように言う。
 なぜ、とユエラは思う。
 なぜ、彼はそのことを知っている?

「おぬし。何者だ?」

 そのことを知るものは決して多くない。否、この時代にいるはずもないのだ。
 一方、リグは少年の言葉に驚きを隠せない様子であった。

「――――そんな馬鹿なことが」
「あるのさ。知らないかい? 本来、テウメシアの狐のしっぽは九尾なきゃあいけないんだぜ。全力を引きずり出して、無力化して、それでようやく何とかできるのさ。今すぐ片手間にやれるようなことじゃない」

 少年はまるで見てきたことのように言う。
 ユエラは彼の姿に覚えがない。だが、彼の言葉を耳にする限り、思い当たる人物はたった一人しかいなかった。

「おぬし――――クレラントか!」
「ご明察」

 瞬間。少年はぐるりと首を回し、目線をリグからユエラに移し替えた。
 彼は――クレラントは、見たことのない顔で、聞いたことのない声で、ゲタゲタと笑いながら言う。

「久し振りだねぇ、ユエラ。いや、テウメシアと言うべきかい。僕は君を一目見ただけでわかったよ――あぁ、やっぱり君だったんだ、ってねぇ」

 千年前、ユエラの魂をこの世界から追いやった魔術師。
 そして、枢機卿の得た情報に寄るならば、三百年前に魔王を封じたという〈賢者〉。

 加えて、何よりも懸念するべきは。
 魔王を封じこめた当の本人が、よりにもよって、魔王復活を志向するイブリス教団普遍主義派の最高幹部とつるんでいるという事実。

「ああ、くそ、しまったなぁ。リグと一緒にいるところは見られたくなかったなぁ。でも有能な手駒をむざむざ失うわけにもいかないからねぇ。くけけっ――ねぇテウメシア。君にはもう僕の狙いが分かっちゃったんじゃないかい? 残念だなぁ。こんなにあっさり種が割れちゃって、本当に残念だよ――――」
「……随分、イカれてしまいおったのう」

 千年の昔。ユエラが彼と対峙した時、クレラントはここまで壊れてはいなかった。
 魔術師などという人種は多かれ少なかれ壊れているのが世の常だが――それでも、ここまで壊れてはいなかった。

「むしろ君が普通すぎるのさ、テウメシア。千年ってのは永いね。いや、本当に永すぎるよ。本当に死にたかった。死んでしまいたかった。三百年前もさ、やっと死ねるかなって思ったんだよ」

 ゲタゲタと笑いながら、クレラントはふと真顔になる。
 一切の表情を見出だせない虚無が面差しに浮かぶ。

「――――でもダメだった。死ねなかった。死ねなかったんだよ。ハハハ」

 また笑みを浮かべる狂態を垣間見せるクレラント。これにはリグも言葉が無いようだった。

「もうよい、失せよ。私はこやつの看病をせねばならん。おまえも、もう私に用は無かろうが」
「いいや、そうはいかないんだよ――でも今日は帰るよ。今から迷宮潜りってのも気が乗らないからね。ほら、行こうかいリグ」

 ユエラはしっしと追い払うように掌を振る。クレラントは存外素直に頷いて歩み出し、リグもしぶしぶ彼の後を追った。

「……ふん」

 リグ。テオの師匠だけあって彼女の実力は本物だろう。今のテオをしても彼女には敵わないようだ。
 できれば今ここで仕留めておきたかったが……クレラントはそれを許さないだろう。この場はユエラも退くしかない。

「……やむを得ぬな」

 周囲の人だかりはそう多くない。誰も喧嘩に巻き込まれたくはないということだろう。
 ユエラは衛兵がやってこないうちにテオを背負って歩き出す。

 と、その時。背中に負ぶさったテオがもぞもぞと動き、ちいさく呻く。今にも消え入りそうなか細い声で。

「――――ユエラ、さま……」
「おお、起きおったか」
「……御世話を、かけてしまい……まことに、もうしわけも、ございません……」
「……テオ?」

 そのあまりに儚い声ときたら。ユエラはいぶかしげに眉をひそめて様子をうかがう。
 いまだにじっと目を閉じたままのテオ。緩やかに胸元を上下させ、無意識のうちに謝罪を口にする。どうやら先ほどの言葉もうわ言であったらしい。

「……気に病むようなことでもなかろうに」

 人には生きた年月というものがある。
 リグの年齢ははっきりしないが、テオよりもかなり歳上なのは確かだろう。テオはせいぜい十五、六歳の少女なのだ。いくら強いといってもその点だけは揺るがない。年経た歳月を誤魔化すことはできない。

 自らに倍するような年齢の男どもを軽々打ち払ってきたのも確かだが――それはテオの才覚と、血の滲むような修練で時間の差を埋めたに過ぎない。
 相手が同じような修練を積んでいれば。あるいは同等以上の才覚の持ち主ならば。後は年経た歳月が、いかんともしがたく実力の差に直結する。

 ――――やはり気に病むことでもなかろうが、のぅ。

 だが、それでも。
 ユエラ様、と無念を訴える声を聞けば、少しは真剣に向き合ってやろうという気にもなる。

 そう。テオ自身が、師に打ち勝つことを望むのならば。

「……おまえも、ちょいと、気張ってみるかえ?」

 帰り路。まるで喧嘩に負けてきた我が子に語りかけるような風情。
 テオはゆっくりと寝息を立てながらも、無意識のままにこくこくと頷いた。


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