お狐さま、働かない。

きー子

三十五話/苦痛の最中で

「あっぐッ……!」

 薄暗がりに包まれた独房。短鞭がキリエ枢機卿の背中をしたたかに打ち据えた。
 華奢な背筋が弓なりに仰け反り、彼女を戒めた鎖がピンと張り詰める。ほっそりとした身体は逃れることもできず、また額を壁に密着させる。

「――――……」

 キリエの背後から鞭を振るうは男二人。彼らは独房に入ってから一言も喋らず、ただキリエの肉身を痛めつけるのみ。その顔はいずれも無機質な鉄仮面に覆われていた。

 何のためにこんなことをするのか。それを問いただす試みはすでに何度も失敗していた。キリエ枢機卿は全身を汗みずくにし、燃えるような痛みに耐えながら考える。

 実のところ、彼らの目論見はすでに検討が付いていた。
 要するにはキリエの心を折ること。抵抗の意志を挫き、ヨハン司教の言いなりに貶めること。それらの目的を遂行するためには、確かに暴力が最も効率的だろう。

 彼ら――尋問官の振るう暴力は不規則的だ。十分以上も連続してキリエを打ち据えたかと思えば、何十分もひたすらに放置することもある。
 今のキリエは壁のほうを向いたまま、天井から両腕を吊り下げられた姿勢。このまま立たされているだけで十分に苦痛ではある。

 ひゅ、と鋭く風を切る音。

「あ、ぎ……ッ!」

 腰を打たれる。衝撃のあまり着衣の布地が擦り切れ、雪のようにはらはらと舞い落ちる。
 キリエの足元にはすでに、紅き衣の切れっ端がまるで落ち葉のように散らばっていた。

 屈辱を与えるならば脱がせたほうが手っ取り早かろう。しかし彼らはあえて枢機卿の証――紅の衣を身につけさせたまま痛めつけることを選択した。まるで権威の象徴を貶めるかのように。

 ひゅん。

「う……ぐッ……!!」

 身を打たれるたび、布地の切れ端がこぼれ落ちる。キリエの精神が擦り切れていく。
 本来ならとっくに膝を突いていたろうが、天井の拘束がそれを許さなかった。キリエの足腰から力が抜けるたび、頑丈な鎖は彼女の身体を強引に立たせた。

 左、右。左右の男が立て続けに鞭を振るい、キリエの背中を打ちのめす。
 声にもならない激痛の悲鳴。にじみ出る汗を紅の衣が吸い、それすら重いように感じる。肌にまとわりつく布切れが鬱陶しい。身体の震えが止まらない。涎まで零してしまいそうになる。まるで肉体の制御が効かない――――。

 ばちん、という打擲の音が連続する。まるで破裂するような音をキリエはどこか遠くに聞く。

「あ……あ、あ、あ……ッ!」

 眼鏡が汗ですべり、うつむいた顔からすべり落ちる。かつん、と甲高い金属音がにわかに響く。
 もう何も見えない。何も聞こえない。疼くような激痛の感覚だけが肉体を支配する。

 どこを打たれたかもわからないまま、キリエは激痛の絶叫をほとばしらせた。

「あ――――が……っ……」

 仰け反った身体が絶え間なく痙攣し、不意にガクンと脱力する。
 力の抜けた脚と脚の間から透明な雫が流れ落ち、無残にも足元を濡らしていった。

 キリエが醜態を晒してなお、男たちは依然として無反応。
 彼らは独房の隅に用意されていた水桶の中身をキリエの頭からぶちまける。
 寒い。熱い。痛い。半ば飛びかけていた意識を不意に呼び覚まされ、キリエは胡乱な声を上げる。

「……大分衰弱なされたようですな?」

 ――――どれだけの時間が過ぎていたのか。

 キリエは突然の声に振り返ろうとし、自分が拘束されていたことを思い出す。もっとも、顔を見るまでもなく声の主が誰かはよく分かった。

「……ヨハン、司教……です、か……」
「……思ったより落ち着いておられますな」

 ヨハン・ローゼンクランツ。
 彼が尋問官に一瞥をくれると、鞭の一撃がすぐさまキリエを襲った。

「あぎっ……! ぃ、ぐっ……!!」

 悲鳴を噛み殺そうとするも歯の根が合わない。
 かちかちと歯を打ち合わせる音が立つ。その間にもヨハンは囁くように言う。

「いやはや、キリエ枢機卿は実に忍耐強くていらっしゃる。もし私にお手伝いできることがあれば、今すぐにでもそうして差し上げたいところなのですがな」

 白々しい言葉。キリエは答える気も起こらなかった。浅い呼吸を繰り返し、慎ましやかな胸をゆっくりと上下させる。

「それもタダでというわけには参りません。そこで条件を提案させていただきたいのですが、よろしいですかな」
「…………発言を、どうぞ」

 キリエは気力を振り絞って口にする。おそらくは、ここが評議会の場であっても同じように述べたであろう。
 ヨハン司教はにわかに鼻白み、男を一瞥する――また破裂音と悲鳴が地下独房にこだまする。

「……いまだにご自分の立場をご理解頂けていないようですな。あなたはもっと賢いお方だと思っておりましたが……」

 わざとらしくため息を吐くヨハン司教。彼はキリエの濡れ髪を鷲掴みにし、懐から取り出した羊皮紙に目を向けさせる。

「なに、条件は実に簡単なもの。こちらの契約に同意していただければ良いのです。さすれば時が満ち次第、すぐにもあなたを解放致しましょうぞ」
「……眼鏡を」

 キリエの要求にヨハン司教は舌打ちひとつ。部下が水滴まみれの眼鏡を拾い上げ、それをそのまま彼女にかけさせる。
 キリエは見辛そうに目を細め、羊皮紙の文面を凝視した。摩耗した精神では理解するのが難しい文章をなんとか頭の中で咀嚼する。

 契約内容は噛み砕いて言えば極めて単純。
 支部長権限の全てをヨハン司教に委譲。事態が収束した暁には正式に支部長の座を譲り渡す。また、今回の転覆騒動について一切の抗議や情報公開などを禁ず。

 まさかここまで露骨な内容だとは。キリエは思わず笑ってしまいそうになる。
 しかしそれを呑まぬ限りは、自分が解放されることも無いのだろう。

「どうですかな、キリエ枢機卿。これらを受け入れて下さいましたら、今すぐにでもこの男たちは退かせるように命じさせていただきますが……」
「お断りいたします」

 キリエは即座に断ずる。
 考える必要もないほど当たり前の答え。

「……ッ」

 ヨハン司教は歯噛みし、男たちに命令を下す。
 そこから五分、ひたすらにキリエを打ちのめすだけの時間が続く。焼けるような痛みが全身を襲い、キリエはわけのわからぬ声をあげる。
 言語を絶するほどの苦痛に身悶えながら、キリエの心中は喝采でいっぱいだった。

 ざまをみろ。
 しょせんはこれがあなたの限界だ。
 この男にはこの程度の能しかありはしない。

「……あなたの家があなたを救って下さるとでもお思いですかな? それは甚だ楽天的なお考えですな! 我々の包囲網をもってすれば、街を出ようとする鼠を見逃そうはずもない! あなたの御家があなたの窮状を知るのはずいぶんと先のことになるでしょうな!」

 そんなもの。キリエは端から期待してもいない。
 カルディナ家。それはかつて、〈勇者〉アルベインの同胞だった巡礼僧ドーラ・カルディナを祖とする一族である。ドーラは貴族の家柄を捨てて出家したという奇特な人物で、その気風は今なお受け継がれている。

 一族のほとんどは権力争いを嫌っており、キリエはその中でも珍しく権力の座を射止めた。理由は実に単純で、ティノーブルに信仰の光をもたらすにはそれが一番手っ取り早かったからだ。キリエの功利主義的な価値観が功を奏した結果とも言えよう。

「……っ……う、く……」

 キリエは血混じりの唾を吐く。激しい打擲を受けたせいでまた眼鏡がどこかに飛んでいってしまった。
 ヨハン司教は肩を怒らせてキリエを睨めつける。彼のほうが圧倒的に有利な状況でありながら、顔に浮かんだ焦りは隠しようもない。

 キリエはちいさく口端を釣り上げ、笑う。――この状況で笑わずにいられようか?

「何を笑っている!! あなたの生殺与奪は今や私の手にあるのだぞ!!」
「なら殺せばいい」

 キリエは俯いたまま間髪入れずに吐き捨てる。ヨハン司教が絶句する。

「なぜそうしないのですか? 正式な約束? あなたにはあなたの正義があるのでしょう? ならばそれを全うすればいい。あなたがその正義を信じる限りにおいて」
「だ……黙れッ!!」

 ヨハン司教が怒りもあらわに叫ぶ。この時、尋問官は初めて動揺するような素振りを見せた。
 よくもこの状況で口が回るもの。キリエは自嘲するように笑いながら言葉を紡ぐ。

「――――結局のところ、あなたの望みは権力の座にしがみつくことに過ぎない。でなければ私が生きていても邪魔なだけ。私の死も革命騒ぎも、全ての責任をあなたが引き受ければ、後は別の誰かを次期支部長に指名するだけでいい。なのに、あなたはそうしない――公的に私に認められたという保証が欲しいから。私を殺せば、それだけで簒奪者の汚名は免れえないから」
「黙れッ、黙れェェッ!!!!」

 図星、だったのだろう。
 ヨハン司教は顔を真っ赤にして尋問官に命じる。さらなる痛みで、苦しみで、キリエ枢機卿の心身をへし折らんことを。
 鞭打ちの激痛に身悶える最中、キリエの痩身に怒声が浴びせかけられる。

「貴様……貴様のような腑抜けが私の邪魔を! 殺してやる! 貴様が死を恐れぬというならば、貴様を慕う信徒を一人また一人と縊り殺してやる! 貴様が首を縦に振るまでな!」
「……そうしたとき、批難の矢面に晒されるのはあなた自身です。あなたの権威が地に落ちるのが早いか、私が屈するのが早いか、我が身を切って試すつもりですか?」
「……ッッ!!」

 歯を食いしばるヨハン司教を見て勘付く。この男、まだ公教会ティノーブル支部の頂点に立ったという自覚がないのだ。この期に及んで、いまだに追い落とす側にいるつもりなのだ。

 ヨハン司教の手がキリエの髪を鷲掴みにする。濡れた白金色の髪が無惨に広がり、男の掌に張り付いた。
 そして彼はもう片方の手を握り固め、振りかぶり――――

「お待ちいただきたい、ヨハン司教!!」

 瞬間、鋭い声がヨハン司教を制止する。
 それは独房の外から聞こえた。扉を勢い良く開け放ち、入室するは赤毛の若い男。

 ヨハン司教は瞬時にたたずまいを正したが、この場の惨状は繕うべくもない。

「……ヨハン司教、これはいかなる事態です?」
「滞りなく権限を移譲するための手続き、といったところですな。あいにく、枢機卿殿はいささか頑固でいらっしゃいますが」

 しかしヨハンは鉄面皮を保ち、いけしゃあしゃあと言ってのける。
 整った顔立ちの青年――アルバート・ウェルシュの詰問を受けてこの態度なのだから大したもの。彼は苦々しげに表情を歪め、キリエの痛ましい姿を一瞥した。

「……押し問答は無用です、ヨハン司教。こんなことは明らかに間違っている。止めさせるべきだ」
「その通りですな。こんなことは間違っている――ですが、我々にはそうしなければならない理由がありましょう。でなければ私どもは今、ここにはおりますまい?」
「それとこれとは別問題でしょう。痛めつけて、言うことを聞かせて何になる? これが駄目だとしたら次はなんです? いたずらに彼女を意固地にするだけだ。全く馬鹿げている」

 アルバートに指弾され、このまま"尋問"を継続することは不可能と判断したのか。ヨハン司教は困り果てたと言うように禿頭を掻き、ちいさく息を吐いた。

「……そう仰るならば致し方ありません。ですが、これは必要な措置ですぞ。彼女を捕らえることにはアルバート殿も合意なさったことでしょう」
「その通りだ! そして、このようなことを仕出かそうとはまさか思いもしなかった!」
「想像力の欠如ですな。いくら彼女を一時的に抑留しようと、事によっては後から我々が糾弾されることにもなりかねんのです。今から確約を得るのは当然のこと」

 キリエは二人のやり取りをぼうっと観察する。会話がうまく頭の中に入ってこない。揉めていることは確からしいが。

「結果も出さずして同意を得られるはずも無いでしょう! 私はそのために協力したのです、ヨハン司教。あなたの動きはいささか拙速に過ぎる!」
「……確かに、アルバート殿の言葉も道理。我々とて時宜を選ぶことと致します。それでよろしいですかな?」

 ヨハン司教が折れてみせると、アルバートも頷いて同意する。
 ヨハン司教は二人の尋問官を引き連れて独房から引き上げていく。退出間際、彼の目は忌々しげにキリエの姿を睨めつけていた。

「……無事ですか、キリエ枢機卿――いや、愚問だな」

 アルバートは彼女を一瞥するなり首を振る。その姿を見て無事などと思えるはずもない。
 キリエはぼんやりと顔を上げ、アルバートを一目見て、言った。

「……"良い尋問官"の真似事ですか」

 瞬間、アルバートは額に眉根を寄せて歯噛みする。身を切られる激痛に晒されたような表情。

「……今までで一番刺さった一言ですよ、キリエ枢機卿」
「申し訳ありません。今の私はとても弱っています」
「……全くそうは見えませんが」

 キリエは苦笑いする。先日吐き捨てた言葉よりも手厳しく聞こえようとは。
 弱っている時は攻撃性があらわになるもの。無闇に敵を作らないためにも普段は控えているのだが……非常時に抑えきることは難しい。

「……着替えと、水と……食事をお持ちします。……術師も連れて参りましょう」
「死ねば困るのはお互い様でしょうからね」

 キリエは皮肉げに笑う。さりとて死んでやるつもりもない。
 もしヨハン司教の計画が破綻した時、公教会を支えるものはいなくなる。その時、誰かが指揮を執らないといけない。代役がいれば問題ないが、言うなれば非常時の貧乏くじだ――そんな役を自ら引き受けたがるものは誰もいないだろう。
 その時のためにキリエは備えておく必要があった。

「……キリエ枢機卿。俺はそのようなつもりでは、決して」
「感情の問題ではありません。これは私とあなたの立場の問題です、アルバート殿。私は現時点で、あなたを、明確に敵と定めざるをえない。すでに道は分かたれたのです」
「……らしくないのではありませんか、キリエ枢機卿。あなたが二元的な判断を下すとは」
「いいえ。あなたは現に、私をこの独房に繋ぎ止めている。この外に出ることを良しとはしない。この行為こそが私とあなたの立場を明確に分けている。――それ以外の些事をもって関係性を誤魔化すような行いには感心できません」

 キリエは断言し、アルバートを一瞥する。
 ヨハン司教の振る舞いは不快感こそあるが疑問はない。なればこそ、アルバートの煮え切らなさははなはだ不可解だった。

 ――すでに陣営は定まった後なのだから。

「そして私がここを出ることがあるとすれば、此度の件を追求しないという選択肢は無いでしょう。私の立場として、そうしないわけには行かないのです」

 ゆえに、彼がキリエを釈放してくれる可能性など全く信じてはいない。
 今後の趨勢はただ一点、彼ら叛乱勢力とユエラ・テウメッサの生存競争によって決するだろう。果たしてどちらが勝利するかはキリエの知る由もない。

「……こちらとしては、先ほども言ったように――結果をもって示させていただきましょう。私どもの決断があればこそ、後々の脅威を回避することができたのだ、と。その時には、我々の選択を認めて頂きたい」
「……その時は私の追認など無くとも、この街があなた方を認めることでしょう」

 キリエは端的に言い捨てる。自分がヨハン司教の提案を受け入れることはない、という宣言。

 ユエラ・テウメッサが討ち滅ぼされれば自分はどうなるか。ヨハン司教が自ら権力を手放す可能性は皆無に等しい。おそらくは今日のような"尋問"が続くに違いない。
 キリエが壊れるか、あるいはその前に屈服するか。どちらにせよまともに生き延びることは不可能だろう。あの苦痛を耐え抜けるという保証はどこにもなかった。

 逆にヨハン司教が敗れたとしても、良い方向に転がることがあるだろうか。
 ユエラ・テウメッサ。報告書に見られる穏健な振る舞いを鑑みたうえでも、あの狐人テウメッサは食わせ物だ。それをさせないためにも、相手を刺激しない程度の抑止を続けたというのに。

「……どうあっても歩み寄りは不可能、ということですか」
「そんなことを考えるよりは、あなたの為すべきことをより確実にするよう努めたほうがよほど有益でしょう」

 ユエラ・テウメッサの討伐。キリエはその可能性について当初から懐疑的だった。その気持ちは今も変わらない。
 アルバートは言葉もなく頷き、静かに背を向ける。

「……可能な限り待遇を改善するよう手配します。戦時中の捕虜でも処遇は鑑みられて然るべきだ」
「すこしは期待しておきましょう」

 実際には望むべくも無いだろうが。あれだけのことでヨハン司教が手を引くとも思えない。
 独房から出て行くアルバートの背を見送り、キリエはちいさく息を吐いた。

「……解放される道はといえば、怪物の跋扈を許すほかには無し……です、か」

 秩序の混乱こそキリエが何より嫌うものだというのに。それが無くては囚われの身から逃れることもできないという事実。
 キリエは皮肉な笑みを漏らし、疲れ果てたようにうなだれた。


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