お狐さま、働かない。

きー子

二十七話/剣鬼

「なあマスター。フィセルちゃんがここを出るって話は本当か?」
「……ああ。近いうちにそうするそうだ」
「そいつは残念だなあ……あの人を慕ってる客も増えてたんじゃないか。妙に」

 酒場――〈鵯の羽休め亭〉。
 すっかり夜も更けた頃、一階の酒場は店仕舞いの準備に入っていた。後はごろつきまがいの男どもが呑んだくれるばかりであり、わざわざ宿の主人が気を使ってやる義理もない。

「たまたま同じ仕事をやった連中らしい。……あれも少しは変わったのかもしれんな」

 強面の主人は誰にともなく感慨深げに呟く。彼は以前からフィセルに口うるさく仲間を作れと言っていた。あいにく部隊パーティを組む仲間ではなかったが、それでも孤高を貫いていた頃よりはずいぶんな進歩である。

「アンナちゃんが寂しがるだろ。ずいぶん懐いてたから」
「おまえはあの人には付いていけん、と言い聞かせていたんだがな。まだ諦めないで魔術の訓練なんぞやってやがる。……本当に聞き分けのない……」
「そりゃマスターに似たのさ」
「……言うな。かもしれんと思っていたところだ」

 渋面を浮かべながら苦々しげに笑う主人。アンナ――アリアンナはこの宿の看板娘であり、そして彼自身の実娘でもあった。
 彼女の両親はともに元探索者であり、母親はアリアンナを産んですぐに倒れた。出産の負荷がかかった肉体に戦傷が祟った結果という。それ以来、主人の男手ひとつで育てられたという経歴は少なからぬ客も知るところだ。

「血は譲れねえってことだろうよ」
「良い貰い手でもいれば安心できるんだがな」
「なんなら俺が貰ってやろうか、あと五年もあればさぞ美人に……」
「お前らみたいな呑兵衛には断じてやらん。すっこんでろ」

 主人は辛辣な言葉とともにため息。カウンターに座っていた酔漢はげらげら笑いながら杯を傾ける。本気で言っているわけではもちろん無いだろう。

「手厳しいねえ……っと、もう空か」
「悪いがそろそろ店仕舞いだ。水でも飲むか」
「……いや、ちょいと外の風に当たってくる。荷物見といてくれ」

 酔漢は荷物を置いてから外に出る。きちんと支払いはするという意思表示。
 おぼつかない足取りで夜気に身を晒し、男は深く息を吸いこんだ。気だるげに店の壁に寄りかかり、満天の月を見るともなしに見上げる。
 瞬間、物陰から伸びた掌が酔漢の口元を押さえこんだ。

「ッ!?」

 手袋に覆われた手が酔漢のうめき声を押し殺す。
 すかさず野太い腕が首に回され、男は瞬く間に昏倒した。

「……どうする」
「捨て置け」

 店の物陰から手短に言葉を交わす男六人組。彼らは人目につかないよう、各々が黒衣に身を包んでいた。所属を示すものは何一つ身に着けていない。

「いや、一緒に燃やしちまおう」
「……そうだな。痕跡を残すと面倒だ」

 男たちは端的なやり取りを終え、酔漢の身体を横たわらせる。上から隠すように布をかぶせ、さらに大量の油を染み込ませた。
 男のうち一人が火打ち石を打ち合わせて点火。もう一人の男が取り出した松明に火種を寄せて火を点ける。次いで油がたっぷり染みこんだ身体と油を店の側壁に押しこむ――全てがあらかじめ決まっていたように段取り良く遂行される。

 そして六人はいくらかの距離を取り、一人が松明を振りかぶる。先端で燃え盛る炎が燃え移れば、店全体に火が回るまでにそう時間はかからない。内部から目標をあぶり出し、ついでに邪魔者も皆殺し。それで依頼は完了だ。今回の依頼人は太っ腹で、多少の略奪はお目こぼししてもらえるようだ。どうせ全て灰になるのだから、少しくらい自分たちが奪っても全く問題ない。
 瞬間、男の手から離れた松明が空中を漂い、

「『邪の火、妙なる六花、凍て付かせ』」

 ――――凛として響き渡る詠唱とともに氷の礫がまとわりついた。
 粒の氷は瞬く間に支配域を広げ、松明の柄から先端までを余すところなく覆い尽くす。一個の氷塊と化した松明が身体の上に落ち、当然、それが燃え上がることはなかった。

「――誰だ」

 男の一人が抑制の効いた声で問う。別の男が腰に下げたキャンドルランプを掲げ、闇の奥に潜む影を照らしだす。

「……っ」

 そこにいたのは、一人の小柄な少女だった。
 栗色のお下げ髪を左右から垂らす、どこにでもいるような町娘。年はせいぜい十五かそこら。一丁前に臙脂色のローブを身にまとうが、突き出された掌は小刻みに震えていた。

 若いが未熟な魔術師。青臭い正義感から突っ込んできた手合いだろう、と男たちは見て取った。熟練した魔術師なら矢継ぎ早に猛攻を加えるか、あるいは逃走するかを選ぶはず。
 しかし少女はどちらかに踏み切ることも出来ず、震えながらその場に立ち尽くしていた。まるで影を縫われたかのように。

「どうする」
「決まってる」
「見られたからには……」
「……見てくれは悪くないだろう」

 男たちはほとんど共通の思いで判断を下す。相手は取るに足らない小娘。邪魔をしてくれたからには殺すだけでは飽き足らない。是非とも戦利品として持ち帰るのだ。

 男たちは彼女がこの宿の娘などとは知る由もない。彼女の名も、魔術の練習のために外に出ていたことも――父の店を守るため、手を出さずにはいられなかったことも。
 男たちは素早く散開して少女を取り囲む。少女は逃げなかった。否、足が震えて逃げることもできなかった。

「詠唱もできねえか」
「大人しいもんだ」
「邪魔しなきゃこんなことにはならなかったのになあ?」

 男たちは口々に言いながらも手早く距離を詰める。無駄口は最低限。また誰かの目に付かないとも限らない。

「や……っ――――!」
「黙りな」

 男の一人が少女を羽交い締めにし、悲鳴を上げかけた口を押さえ込む。
 しかし少女はそれだけでは収まらなかった。ちいさな身体で懸命にもがき続け、男の手から逃れようとする。

「静かにさせろ」
「動くな」
「っ……! ん、んーっ……!」

 男たちが警告するが、少女は暴れるのを止めない。

「……ちっ。聞き分けのねえガキだ」

 羽交い締めにしていた男が腕を振りかぶる。他人を効率よく黙らせるにはいつでも暴力が一番だ。
 少女は怯えたように眉を垂らし、きゅっと目を瞑る――まなじりにかすかな雫が滲む。

 男は拳を固く握りしめ、振り下ろした。
 振り下ろそうとした。
 だが、男の腕は高く掲げられたままぴくりとも動かなかった。

「……な、なんだ……?」
「おい、どうした」
「う、腕が、動かねえッ。何か、まとわりついてやがる……!」

 突然のことに男が慌て出す。少女が何かしたとは思いがたい。彼女自身、きょとんと目を丸くしていたからだ。
 しかしこれを好機と見た少女は激しく身をよじる。彼女のかなり小柄だったが、本気で暴れる人ひとりを腕一本で押さえておくのは現実的に困難だ。

「っ、んぅ、はな、はなしてっ……!」
「くそっ、暴れるんじゃねえクソガキッ!」

 やむを得ず別の男が手を貸そうとする。事態はどうあれ目撃者を逃がすわけにはいかない。
 結論から言えばそれは間違いだった。二度も邪魔が入った時点で、彼らは何らかの作為を疑うべきだったのだ。

 ひゅん。

 上空から鳥の羽ばたくような音がして、銀の閃きが宙を駆け抜ける。
 瞬間、すとんと地に降り立つ一人の女。それと入れ違いに男の腕がスパンと跳ね飛ばされ、空高く宙に舞い上がった。

 ――――アズライト礼刀法・飛燕――――

「な――」
「あ、あああああッ!? う、腕、俺の腕があああッ!?」

 驚愕、絶句、唖然。男たちは各々に愕然とし、腕を断たれた男はその場でもんどり打つ。
 血に濡れた長剣をたずさえた女はその隙に少女を抱き寄せ、彼女の安全を確保した。

「怪我はないかい。アリア」
「……ふぃ、フィセル、さん……?」
「すまないね。遅くなった」

 剣客の女――フィセルは手短に詫びて剣を構える。
 彼女はいったいどこから現れたのか。その答えは頭上を見てみれば明白だ。
 宿の三階。隅に位置する部屋の窓が開け放たれ、中に風が吹きこんでいる。あそこから飛び降りたのだ。

「う……ち、畜生ッ! に、逃げ――――」

 男の一人が叫びかけ、そして息を呑んだ。

「逃がさないよ」

 冷徹な眼差しが、フィセルの間合いの内側にいるもの全てを威圧する。

「……っ、ぁ……!」

 それは、彼女に救われたアリアンナでさえ例外ではなく。

 ◆

「ふぃ……フィセルさん、なんで、ここに――――」
「……頭から被ってな。子どもが見るもんじゃない」
「わぷっ……!」

 フィセルは有無を言わせず外套をアリアンナに押し付け、男たちを速やかに捕捉する。そして地を滑るように駆け出した。

 彼女が振るう剣術――アズライト礼刀法の極意はただ一点。
 先の先を取るべく駆け、我武者羅に迅速に斬り捨てる。
 フィセルはほとんど歩くような自然さで腕を刎ね飛ばした男と擦れ違い、彼の胴体を水平に断ち割った。

 ――――アズライト礼刀法・水鶏くいな――――

「あがッ――――」

 断末魔を上げることすらも許さない。
 残る五人の男たちもまた、フィセルの鋭利な視線に縫い止められたように足を止める。
 否、そこから動くことができないのだ。先ほどアリアンナが足を止めてしまったのと同じように。

「ま……まて、おねが、ゆる……じッ」

 フィセルの右前方。許しを乞うた男の首が飛ぶ。

「お、おれたちは、なにも、しでな゛ッ」

 返す刀で反対側にいた男の胸を突く。

「火付け強盗の類が。何言ってんだい」
「ち、ちげえ、違うんだ! そうじゃ――お゛ぼッ」

 踏みこみ、振り下ろす。言いつのる男の肩から腰にかけてを斜に両断する。

「た、た、頼む、頼むよ! 俺たちだってやりたくてこんなこどッッ」

 頭を下げて疾駆し、肉迫。柄尻を叩きつけて男の首を叩き折る。
 残るは真っ先に逃げ出そうとした男一人。彼は脚をもつれさせてすっ転び、石畳の上にへたり込んでいた。

「……さ。後はあんただけだよ。大人しく斬られな」

 フィセルは長剣を軽く振り、ぶっきらぼうに言い捨てる。
 男は足腰が立たないままガタガタと震え、掌を突き出して泣き叫ぶように声を上げた。

「ま、待て、待ってくれ!! 全部、全部言うよッ!! 俺たちが誰の命令でここにいるのかも、全部!! だから、だから命だけは助けてくれ!!」
「……へぇ」

 それはおよそ想像したとおりの言葉だった。彼らの狙いはおそらくフィセルの命。ユエラへの警告か、威嚇か、あるいは彼女に味方するものへ圧力をかけることが目的だろう。
 目の前の男たちは単なる下っ端にすぎない。もっとも、だからといって彼ら斟酌してやる義理はなかった――何ら罪のない宿を丸ごと巻きこもうとしたのだから。

 問題は、それが誰からの依頼かということ。
 フィセルは不意に斜め後ろを見上げ、言った。

「どうする、ユエラ。こいつ、生かしとくかい」
『ふーむ……』

 フィセルの頭の中に直接ユエラの声が滑りこんでくる。
 傍目からすると独り言にしか見えない光景。しかし実際はユエラが設置した守護悪霊――〈グラーム〉を介した遠隔通信を行っているのだ。

 先ほどアリアンナに手を挙げようとした男の腕を止めたのも、男たちの襲撃をフィセルに知らせたのも〈グラーム〉だ。アリアンナが割って入らずとも最悪の事態は避けられたわけだが、彼女がそれを知るはずもない。かくてフィセルは鉄火場に呼び出され、存分に剣腕を振るったというわけだ。

『いや、要らぬであろう。何を言うても信用ならんからな。喧しく生きておるよりは静かに死んでおるほうがいくらかマシだ』
「了解」
『脳は壊すでないぞ。記憶を引き出すからな』

 フィセルは鷹揚に頷き、長剣にこびりついた血液をすっと懐紙で拭い去る。

「……た、た、助けて、くれるのか……?」

 男は今にも泣き崩れそうな表情をにわかに緩める。
 彼にユエラの言葉は届いていないのだから無理からぬことだろう。
 フィセルは腰だめに構えた長剣の柄尻に指を絡め、水の流れのように抜き払った。

 ――――アズライト礼刀法・はやぶさ――――

 それは音をも置き去りにする一太刀。
 魔力を帯びた一閃が人智を遥かに逸脱し、男の脇腹を抜けていく。一刀のもとに上半身と下半身を切り分けられ、男は内臓を零しながら崩折れた。

 他の連中に比べれば、彼はまだしも幸福だったろう。痛みを覚えることもなく、生き残ったという希望を抱えながら逝くことができたのだから。

〈皆殺し〉のフィセル。
 あまりに身も蓋もない二つ名そのままの惨状を後に、フィセルはユエラに呼びかける。

「……片付いたよ。後始末、頼めるかい」
『うむ、今ちょうど向かっておる。しばらくその場を保持しとくれ。目撃者の記憶は消さねばならんのでな』
「ああ。わかった」

 フィセルの端的な答えと同時、〈グラーム〉はまた拠点防衛の任務に戻る。さながら〈鵯の羽休め亭〉を取り巻くように。
そしてフィセルは、この場に残った生存者――アリアンナのほうに振り返った。

「……見ていたのかい」

 と、フィセルがつぶやく声はやや物憂げ。
 アリアンナはフィセルの外套をぎゅっと握り締めたまま、彼女の殺戮を最後まで見続けていた。男たちの命乞いなど一顧だにせず、一片の慈悲もなく斬り捨てる光景を。

「……フィセル、さん」

 アリアンナの顔はすっかり青ざめていた。怖い目にあったから、では決してないだろう。襲撃を受けたことの衝撃は、彼女が目の当たりにした光景に比べれば毛ほどでもないに違いない。

「……どう、して……?」
「ただの私憤だよ。アリア」

 彼女の問いにも淡々と応じる。
 殺戮を正当化する気など微塵もない。

「……私がここを出ようとしたのは、この手の輩が寄ってくるのを恐れたから。そしてそれは実際に起こってしまった。だから腹が立ったのさ。八つ当たりに皆ぶち殺してやりたくなるくらいにね」

 偽悪的、露悪的ですらある一言。
 だがアリアンナはそれを拒むように首を振る。

「う……うそ。だって、フィセルさんは、私を助けてくれてッ――――」
「アリア。あんたを助けることと、私があいつらに怒りをぶつけることは別に矛盾しない。違うかい?」
「……ッ」

 フィセルは子どもに聞かせるように言い含め――しまったな、と少し思う。
 アリアンナが凄惨な現場を見てしまったのも、フィセルが子供扱いしたせいというのが大きいだろう。そもそもアリアンナはテオと同年代だ。二人の育ち方はあまりに違うにしても、フィセルが思うほどの子どもではなかった。
 だが、もう遅い。彼女が見てしまったからには、そのことを最大限に利用する。

「……私は頼れる剣士でも、英雄的な探索者なんかでもない。魔物殺しで、人殺しだ。棒振りがちょっと上手いだけの、ただの殺し屋だよ」
「そんな――そんなこと、どうして、どうして、私にッ……!」
「……憧れが期待外れだと後で落胆するよ。それだけのことさ」

 フィセルがそう言ったっきり、アリアンナはその場でうつむいて押し黙る。黒い瞳を透明な雫でいっぱいにして。
 その時、慌てた様子で入り口から店の主人が飛び出してくる。

「大丈夫か、アンナ、怪我はないかッ!?」
「……マスター。もうちょっと早く迎えに来てやんな」

 フィセルが渋い顔で言うと、彼も苦く笑って言う。

「すまねえ。お前がいるなら表は大丈夫だろうと思ってな、客を避難させてたんだ」
「酔っぱらいの相手なんかより娘のほうを優先しなよ」
「呑兵衛どもがいないと生活も回らんのが辛いところでな……」

 とはいえ、彼としても本当は真っ先に娘のところに駆けつけたかっただろう。あまり責めても仕方がない。
 フィセルはちいさく首を横に振って言う。

「いや、謝るのは私の方だね。……こいつら、多分、私を狙ってきた奴らだ。巻き込んですまない」
「……お前」

 だからか、と店の主人は重々しくつぶやく。フィセルは頷くのみでそれに応じた。

「……もうちょっと早く出られてたら良かったんだけどね。もう、ここには近づかないようにするよ。これ以上の迷惑はかけられない」

 フィセルは深々と頭を下げるが、彼はなんとも形容しがたい表情で頭を掻いた。

「その、なんだ。……あまり気に病むなよ。こいつはおまえを気に入ってんだ。ここを出てもたまには顔を見せてやってくれ。部屋を引き払おうが酒は飲めるからな」

 だろう、と娘に呼びかけるが、当のアリアンナはうつむいたまま応えなかった。
 憧れの人の理想と現実。先ほどまでは懐かれていたかもしれないが、それはすでに過去の話だ。どうせ別れるのだから、嫌いになったほうが気も楽だろう。だからフィセルはことさら露悪的に振る舞った。アリアンナを突き放すように。

 もっとも、それは完全な偽りとも言えなかった。酷薄で残虐な殺人者という一面が、フィセルの中には確かにある。

「……ここは私が片付けとくよ。休ませてやんな。魔術の練習までしてたみたいだからね」

 視界の端に見える――昏倒している男と凍てついた松明。あれはアリアンナがやってみせたのだろうという推測はつく。

「じゃあ、甘えさせてもらうぞ。……繰り返すが、気に病むなよ。誰も死んでやいねえんだ」
「……運良く、ね」

 倒れている男にも息はある。彼にはユエラが記憶処理をすることになるだろう。
 致命傷ではないから見逃したのか、あるいは単に反応が遅れたか。どちらが本当かはフィセルの知るところではなかった。

 父娘が背を向けて店に戻る姿を見送り、その場でしばし待つ。

「うむ、待たせたな。すっかり寝ておったわ……」

 程なくしてユエラが大あくびをしながら現れた。かたわらには影のようにテオが付き添っている。
 ユエラは手早く男たちの記憶を読み、死体の処理はテオが担当。酔漢の記憶処理も完了すると、ユエラは情報共有もせずにさっさと帰ろうとする。

「ちょ、ちょっと待ちなよ。依頼主はどこのどいつなのさ」
「すまぬが、今のおまえには言えぬな」
「……どういうことだい?」

 フィセルはいぶかしげに眉をひそめる。ユエラは当然であろうと言わんばかりに肩をすくめる。

「私がそれを言うたら、おまえ、今すぐにでも報復に乗りこむつもりであろう。言えるわけがない」
「…………」

 フィセルはユエラの指摘に黙りこくる。
 図星だったからだ。

「フィセル、あなたは一旦頭を冷やすべきです。血で血を贖う報復はユエラ様脅威論を高揚させることにもなりかねません。重々自重なさるべきでしょう」
「……ああ。そう、だね。そうさせてもらうよ」

 なにさユエラ様脅威論って――などという戯れ言を押し殺し、フィセルは大人しく頷く。
 二人して去っていく背中を見送り、ため息。明日には去ることになるであろう宿に振り返る。

「……結構、長くなったね」

 だが、そろそろ良い頃合いだ。フィセルは荷物をまとめるため、自分の部屋に歩き出した。

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