お狐さま、働かない。

きー子

二十五話/魔術師隊練成

 スヴェン・ランドルートの管理下にある練兵場。
 リーネは対角線上に立ちはだかるテオに狙いをつけ、静かに詠唱を開始する。

「『貫け光条よ我がてのひ』――――ら、にッ!?」
「何を棒立ちしているのです。それでは邪魔してくれと言わんばかりでしょう」

 瞬間、テオはすかさずリーネに肉迫する。魔術にも等しい彼女の体術をもってすれば、一瞬にして彼我の間合いを埋めつくす程度は造作もない。

「ま、待ってっ、いくらなんでも一対一は無理だよおっ!!」

 リーネは早速泣きを入れながらも懸命に詠唱を続ける。小刻みに後方へ飛び退り、なんとか距離を保とうとする。

「……リーネのやつ、前々からああだったのかえ?」

 二人のどこか牧歌的な攻防を見守りながら、ユエラは思わずぽつりと呟く。今日はクラリスの姿はない――なんでも上役からの呼び出しがあったのだという。

「いえ、少々様子が違っているように思われますが……」
「……以前はもっと自信に満ちた方であられたかと」

 ユエラの疑問に答えたのは黒いローブに身を包んだ男たち。彼らは以前――イブリス教団原理主義派襲撃の際、フィセルが引き連れて帰ってきた五人の魔術師たちに相違ない。

 彼らは現在スヴェン・ランドルート子飼いの傭兵として雇われ、普段は迷宮探索者として活動している。多くの魔術師は詠唱時間を稼ぐ壁役を必要とするため、他の傭兵たちと部隊パーティを組む試みも行われているという。

「実際に戦っておるところを見たのかえ?」
「ええ。一種のデモンストレーションのようなものですが、司教格としてはある程度の武力も必要するということで。一部始終を見たわけではありませんが、迷宮の地下二十層までは単独で踏破されたと聞き及んでいます」
「……それなりにはやれる、といったところかの」

 やはり相手が悪いのかもしれない。テオの機動性はそんじょそこらの魔物と比べられるようなものではない。
 現在のテオは全くの無手である。リーネとの間合いを詰め、魔術の発動を制するように迫るのみ。直接的な攻撃は行わないものとする。そうでもなければリーネはあっという間に倒れているだろう。

「テオ、一旦引いてよいぞ。戻ってこい」

 ユエラがそう呼びかけた時、リーネは今や練兵場の隅っこに追い詰められていた。両手首をテオにしっかりと掴まれ、壁際に押し付けられている。

「……ゆ、ゆるして……」
「かしこまりました、ユエラ様――では行きましょう、リーネ」
「……え? あ、ちょっと、引っ張らないでえっ! 歩く、歩くよ……!」

 腰が抜けたようにずるずると崩折れるリーネ。テオはそこを無理やり引き起こし、彼女をユエラの元までずるずると引きずっていく。
 かくして練兵場の砂にまみれながら運ばれてきたリーネの姿は見るも哀れであった。魔術師たちが揃って視線を背ける中、ユエラは彼女の頬をぺちぺちと叩く。

「ほれ、しっかりせい。どうした、なにがだめだった?」
「……私は……きみたちみたいな超人じゃないんだよ……」

 ――やはりテオに相手させたのはいかんかったか。

 危害を与えることはないから魔物の幻影よりは良いかと思ったのだが。第一、彼女に相手をしてもらいたいのは魔物ではない――敵意を持って向かってくる人間である。

「護衛の任務でしたら私がうかがうのもよろしいのではないかと存じますが」
「なにもよくない。おまえは私の傍にいつでもいてもらわんと困る」
「――――は、はい」

 ユエラは堂々として断言し、テオはにわかに薄褐色の頬を赤くする。
 テオを便利に使っているのは確かだが、ユエラはそれ以上に彼女を手放しがたい。そのことを忘れてもらっては困る。テオがいなければ誰がユエラの毛づくろいをするのだ。これは極めて実際的な問題である。

「……私が、護衛? 誰の?」
「スヴェンのだ。今のところ、あやつが一番危険な立場であろうからな」

 迷宮街の有力者の一人にして、ユエラ・テウメッサという強大な力の所有者。それが現在のスヴェンの立ち位置だ。
 スヴェンを害してもユエラを排除できるわけではない。だが、スヴェンが躍進すること自体を恐れる向きがあるのだろう。現にこの一週間でスヴェンは二度の襲撃を受け、それらを全て退けていた。

 ユエラが記憶を探ったところ、彼らは他の商家に雇われた火付け強盗の類であった。スヴェンが権勢を拡大した時に最も割を食う立場の有力者。
 今のところは小規模の襲撃ばかりのため、スヴェンの〈影〉だけで対処は間に合っている。しかし情勢が悪化すればどう転ぶかは分からない。
 万一の時に備えるためにも、ユエラとしてはリーネ率いる魔術師たちをスヴェンの護衛に加えたいのだが――――

「スヴェンさんの、敵……それは、要するには……」
「うむ。公教会の息がかかっておる輩、という可能性も十分にあろうな」

 ユエラはそう言ってちいさく頷く。
 瞬間、リーネは呆気に取られたようにぽかんと口を開ける。その言葉は、彼女が恐れているものを理解していなければ決して言われなかっただろう。

「な――なん、で、ご主人様、私のっ……」
「……なぜおまえが恐れているものを分かったか、と? 分からぬほうがどうかしておる。というか、おまえ、もしかして気づかれておらぬとでも思うたか?」
「えっ……ちょっ……嘘っ、だよね……?」

 リーネは慌てて五人の魔術師たちを見渡す。彼らは当然知るはずもない。リーネと接する機会そのものが無かったのだから。――そんなこともわからないほどにリーネは動転してしまっていた。
 しかしながら、この場にいるもう一人は話が別である。

「テオ、言うてやれ。おまえなら分かっておるだろう」
「リーネはクラリスさんといらっしゃる時に一段と顔色が悪いように思われます」
「……そ、それは、気のせいだよ。初めての時だって、あれはたまたまで――――」
「さらに言えば、あなたは常にクラリスさんと距離をおいています。複数人でいる場合、彼女の隣にいることはまず皆無です。誰かが間に挟まらない時、あなたは極度の緊張状態にあります。もっとも、最近はクラリスさんのほうからあなたとある程度の距離を置くように努めているようですが」
「…………う」

 なお、間に挟まるように立っているのは大抵の場合フィセルである。彼女は大雑把そうなわりには細かいところにも目が行くのだ。
 リーネの顔色が青から白を通りこしてわずかに赤くなる。興奮とも羞恥とも付かない色。砂色の髪に覆われた眼がどのような感情を浮かべているかはうかがえない。

「これはあなたと買い出しに出た時のことですが、公教会の象徴やそれと分かる所属の人物を見かけられた瞬間、クラリスさんとの接触時と同様の緊張状態がうかがえました。つまり、これらの反応はクラリス・ガルヴァリンという個人に依拠するものではなく、公教会という属性に対する拒絶反応ではないかと考えられます」
「……うううううう」

 俯いたまま唸り声を絞り出すリーネ――ほんのわずかに涙声。
 ぐうの音も出ないと言わんばかりに唇を引き結び、鼻をすすり、リーネはゆっくりと顔を上げた。
 そして白んだ唇をそっとほころばせる。

「…………そう、だよ」

 ぽつりと、一言。
 そこからはもはや雪崩を打つかのようだった。

「そうだよ。……私はあれが怖い。恨めしくて、腹立たしくて、なのに怖くて仕方がない。……前は違ったってわけじゃない。いきなりこうなったわけじゃない。前はうまく隠せてたってだけ。もう、なんでかわからないけれど、隠せなくなったってだけ。……私は、元から、こうだったんだよ」

 訥々と語られる言葉には恥も外聞もない。諦観に満ちた声を切り、やせ細った華奢な肩を落とす。言葉の代わりに疲れきったため息が口から漏れる。

「……虚飾の仮面を剥ぎ取られたらこのざまだよ。権力は、あれは、私の仮面だったんだ。……きみらも笑えばいいと思うよ」

 リーナは笑い混じりの息を吐き、背中からどさっと地べたに倒れこんだ。
 ユエラはやれやれと腕を組み、彼女を見下ろす。いささか投げやりに過ぎるが、反応としては上々だ――――少なくとも、彼女は自らの恐怖を認めた。精神に刻みこまれた瑕疵の存在を認識した。

「よしテオ」
「はい。起こしますか?」
「いや、良い。そいつらとちょっくら遊んでやれ。一対五だ。ちょうど良かろう?」

 ユエラはそういって五人の魔術師たちを一瞥する。
 魔術師たちはその提案に戦慄した――まさか矛先が自分たちに向くとは思わなかったのだろう。彼らはテオの力量を知らないが、フィセルの同格としたら恐れるには十分だ。

「じ、自分たちがですか」
「うむ。上官候補がさんざっぱらやられたのだからおぬしらもちょっとはやられんと勘定が合わんだろう?」

 ユエラはにこやかに微笑みかける。すると魔術師たちは苦笑しながらも覚悟を決めた。彼女は常に本気なのだ。

「……お、お手柔らかに」
「どうぞ。殺す気でかかってきて結構ですよ。こちらは素手で参りますので」

 テオと五人の魔術師たちは広い空間に出て、お互いに距離を開け対峙する。
 絶望的な戦力差の訓練が始まる最中、ユエラは屈み込みながらリーネに向き直った。

「……どうする気? もう、わかったじゃない。私はもう、使いものにならないよ」
「簡単だ。使いものにならぬならば使い物になるようにすれば良い」
「それじゃ簡単に言ってるだけだよ。……力があれば少しは落ち着くかと思ったけど、だめだったなあ。もっと上を、ってなるだけだったよ」

 その結果が先日の事件であり、そしてこのザマなのだろう。
 皮肉げに笑うリーネを覗きこみ、ユエラは囁く。

「……おまえをそんな風にしたやつをぶち殺せる方法がある、といったらどうかの?」

 ――――瞬間、リーネは跳躍するような勢いで飛び起きた。

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