お狐さま、働かない。

きー子

二十四話/策謀の影

 クラリスは自室に入るなりベールを外し、まとめていた髪をさっとほどいた。藍色の艶やかな髪が肩を滑り、床に引かれて背を流れる。
 落ち着いた部屋の中には最低限の物しかない。クラリスは滑らかなログチェアに座し、ゆっくりと背中をもたせかかった。

「……ふぅ……」

 今日も無事に一日が終わった。ユエラ・テウメッサに振り回され、上役の司教に報告を上げる日々。迷宮調査の任務とは打って変わって命の危険は無いが、むしろ精神の消耗は激しくなった気もする。
 しかしのんびりしていられる時間はない。なにせ報告するべき事由が多すぎるのだ。クラリスは仄明かりに照らされた机に向かい、新しい報告書に所見を記していく。

 クラリス・ガルヴァリンが見た限り、公教会が懸念しているような危険性はユエラにはうかがえなかった。
 ユエラが強大な魔術師であることは疑いようがないが、同時に彼女は非常に狡猾だ。力を振り回して弾圧されるような下手は踏まない。彼女は周囲と協調する重要性を心得ている。自分が必要以上に目立たないよう懸命に努めている。

 ――――そのことがむしろ恐ろしい、とクラリス・ガルヴァリンは考える。

 ユエラはあまり自らの力を振るわない。彼女がもっぱら弄するのは言葉である。あの時、奴隷の女を目覚めさせたのはただの言葉に過ぎなかった。心を操る魔術など用いずとも、彼女は言葉だけでひとりの人間の心を揺さぶったのだ。

「……だめ、ですね」

 クラリスは不意に筆を止めてため息をつく。
 どれだけの言葉を尽くそうと、ユエラ・テウメッサの脅威を表現できる気がしなかった。

 ユエラの恐ろしさは彼女の特異性――狐人テウメッサであることに起因しない。彼女はむしろ人間よりも人間らしい。人間というものを知り尽くしていると言っても良い。それこそが彼女の最たる強みなのだ。

 ユエラは人間が持つ脆弱性――人間性の隙を突く。言葉巧みに人心へ取り入り、掌握する。この人心掌握術こそ、彼女が操る幻魔術などよりよほど恐ろしい。否、幻魔術というわかりやすい脅威が目眩ましになっているといっても過言ではないだろう。
 それはまさに、狐人テウメッサの起源として知られる神代の魔物――〈災厄の神狐〉テウメシアさながらではあるまいか。

「……それこそ、まさか、ですね」

 この報告は主観が過ぎるだろう。クラリスは羊皮紙の端を切り離し、客観的な事実のみを書き記す。
 と、その時。不意にこんこんと扉をノックする音がした。
 この邸宅はアズラ聖王国が所有する物件であり、滞在者はクラリスの他に二人しかいない。

「どうぞ。どなたです?」

 アルバート・ウェルシュとエルフィリア・セレム。どちらだろうと首を傾げ、クラリスは扉の向こうに声をかけた。

「あたし。入るね」

 と、言って姿を見せたのは肩まで届く亜麻色の髪の若き乙女。髪の下から覗く長耳はまるで葉っぱのようにピンと尖り、華奢な肢体は薄絹のローブに包まれていた。

「エルフィリア。いかがなさいましたか?」

 この夜分に姿を見せるのも珍しい、とクラリスは彼女に向き直る。
 エルフィリア・セレム。〈聖弓の射手〉とあだ名されし〈勇者〉部隊の一人にして、今代〈勇者〉の側近である。祖先は〈初代勇者〉アルベインに仕え、それ以降も先祖代々〈勇者〉に仕える出自なのだという。

「え……っとね。ちょっと、気になることがあるの」

 言葉を選ぶように一寸口ごもるエルフィリア。

「なんでもお聞きいたしますよ。……どうぞ、こちらに座って下さい」

 クラリスはひとまず彼女に椅子を勧め、座らせる。
 このようにエルフィリアが思い悩む姿を見ることは珍しい――彼女は良くも悪くも直情的な性格だからだ。アルバートへの忠誠心は本物だが、それゆえに先走ることも少なくない。兵は拙速を尊ぶを地で行くが、熟慮を要するときには当然すっ転ぶ。その姿はさながら忠犬の如しである。

 ――――口にして言ったことはないですが。

 エルフィリアは椅子に座るなり瞑目し、しばらく唸ったあと顔を上げた。

「……最近ね、クラリス、別の任務についてるじゃない?」
「ええ。公教会からの推薦という形ですね。お二人にはご迷惑をかけてしまっておりますが……」

 クラリスはアズラ聖王国の公教会所属であり、本来ならばアズラ聖王国からの国命が優先される。それがどういうわけか、監察官としての任務が優先されたのだ。
 背後でどのようなやり取りがあったかは不明だが、アルバートもすでに了承済みとのこと。するとクラリスに断るべき理由はなかった。

「ん、それは大丈夫。アルバートさまも最近はあちこち動き回ってて、あたしも久しぶりの休みって感じだし……でも、いつまでになるのかなって気になったんだ」
「……そうですね。その点は確かに気がかりです。対象の保護観察処分ですから、もし危険性が明らかになればその時点でお役御免になるでしょうが……そうならなければ、長期の任務になる可能性はありますね」

 いわゆる悪魔の証明だ。危険性があると証明することは容易だが、ないと証明することはほとんど不可能である。

「……だよね。だからさ、ひょっとしたら、クラリスとはこのまま別行動になったりしちゃわないかなって」

 エルフィリアの青い双眸がクラリスを見上げ、どこか不安げに揺れる。

「絶対に無いとは言い切れませんが、その可能性は極めて薄いかと。私共三人での探索が上手く回っているのは明白で、そこから私をあえて外す利点は少ないでしょう。代わりの誰かを入れるにしても、私の替りになるものを探すのはずいぶんな手間のはずです」
「……意外と言うよね、クラリス」
「卑下は致しませんよ。その程度の自負はあります」

 クラリス・ガルヴァリンとエルフィリア・セレム。二人はほとんど正反対の気質で、当初は馬も合わなかった。クラリスがアルバートに懐疑的だったことも要因のひとつだろう。
 今でこそ彼の実力は認めているが、〈勇者〉の末裔というだけで傅こうとは思わない。その点でエルフィリアとは何度も衝突したものである。

「でもさ、それなら最初からクラリスが監察官に推薦されたりしないんじゃないかな。他の誰でもできるような気がするけど」
「対象の傀儡にされるのを恐れたからでしょう。初期の観察対象は全くの未知ですから、なによりも正確な情報が必要です。ある程度の危険性がはっきりすれば、私からどなたかに監察官の任を引き継ぐことになる……と、思いますよ。おそらく、ですけれど」
「そっか! クラリスなら操られたり騙されたりとか、そういう心配は無いもんね」

 エルフィリアは納得げに掌を打ち、ほっとした笑みを覗かせる。彼女はクラリスよりも年上――二十代半ばのはずだが、傍目にはミドルティーンの少女と変わらないようにも見えた。

「……ええ。ですから、長くても一ヶ月程度の任務になるかと思います。順調に情報は集まっておりますから」

 ―――本当に?

 エルフィリアに答えながらもクラリスは自問する。本当に自分は操られていないのだろうか。騙されてはいないのだろうか。あのかわいらしい姿をした狐人の少女に。ともすれば好感を覚えてしまいかねないというのに。

 ――――私の正気は、いったい誰が保証してくれるのだろうか?

「……ありがとね、安心した。あたしはゆっくりしてるから、クラリスもこっちのことは気にしないで、気をつけてね。万が一ってこともあるから」

 エルフィリアはそういって立ち上がり、背を向ける。先ほど見せた悩ましげな影はすっかり去っていた。直情的なだけに気分が晴れるのも早いのだ。

「もちろんです。あまり顔を合わせられていませんが、アルバートにもよろしく伝えておいて下さいな」
「あはは、それくらい自分で言いなよ。……そうだ、アルバートさまも心配してたんだ、心情が相手寄りの報告になってるんじゃないかって。クラリスに限ってまさかよねぇ」

 クラリスはそっと頭を下げて彼女を見送る。エルフィリアは何気なくそう応え、「おやすみっ」と言い残して部屋を出た。
 ばたん、とひとりでに扉が閉まる。クラリスは一人になった部屋の中で立ち尽くす。

「……な……?」

 ――――なぜ、アルバートがクラリスの報告について知っているのだ?

 クラリスは決してユエラの心情に寄りそった報告を行ったとは思っていない。必要以上の危険性を喧伝することを抑制し、可能な限り客観的な記述や事実の羅列に務めたつもりである。
 その上でクラリスはユエラについて結論付ける。ユエラの危険性は彼女の能力そのものにあらず、彼女の性格や性質にこそあるのだと。

「……気がかり、ですね」

 クラリスは足に力を入れ、ベッドまで這い寄るように歩む。
 彼女の上役に当たる司教は保守派であり、ティノーブル支部長のキリエ・カルディナ枢機卿とは親和的な関係だ。そこから必要以上に情報が拡散しているとは考えたくないが――なにせ今回の観察対象は特別だ。魔王並み、という触れこみはあまりにも扇情的すぎた。

 ウェルシュ家は仮にも貴族家であり、情報がどこからともなく耳に入ってくることはあり得る。アルバートを問いただすよりかは司教に伺いを立てるほうが有意義だろう。
 クラリスはそう決意する。しかし彼女の中に生じた疑問――公教会という組織自体への不信は拭いがたく残った。

 ◆

「……キリエ枢機卿。どうしても、こちらの嘆願書は容れてくださらぬというのですね?」

 公教会ティノーブル支部、支部長室。
 そこでは今、二人の人間が長机を挟んで向かい合っていた。

「先ほどに申し上げた通りです、ヨハン司教。現在、決定的な情勢の変化や不可避的な危険性は認められていません。我々がみだりに武力を行使することはいたずらな被害の拡大を招きます。それは私の立場上受け入れることはできません」

 女枢機卿――キリエ・カルディナは眼鏡のつるを軽く持ち上げて断言する。年若いにも関わらず紅き法衣は彼女の華奢な身体によく馴染み、まるで浮ついたところがない。

「キリエ枢機卿。この嘆願書には多くのものの名が著されています。私も含めて四人の司教。そして各国大使や街の有力者。彼らは皆、ユエラ・テウメッサという異端の存在を不安に思っているのです。だからこそこれだけの名が連なっている。このことの意味が分かられませぬか?」
「……私の判断には理がない。あるいは、対象の危険性を不当に過小評価している、と?」
「いいえ。そうではありません」

 ヨハン司教。キリエ枢機卿とは一回りも年の違う屈強な体格の男聖職者。彼はゆっくりと横に首を振り、持って回った口調で言う。

「キリエ枢機卿、あなたの言葉には理があります。しかし、理だけで人は説得されません。不安や恐怖というものはもはや理屈では無いのです。人間は恐怖を御することが出来るが、それにも限度というものがある。魔王にも匹敵しようかという巨大な力を前に、誰しもがあなたのように平静でいられるわけではない!」

 だん、と白手袋に覆われた拳を叩きつけるようにして主張するヨハン。彼が提出した嘆願書にある要望は単純極まりない――ユエラ・テウメッサの公式手配、そして武力行使の容認である。
 その要望に至るまでの理路として、ヨハンの主張はそれなりに筋が通っていた。同意を示す署名人は数多く、司教の半数までもが向こう側。キリエ枢機卿としては頭が痛い状況だろう。
 だが。

「……不安、恐怖。それに類する負の感情は容易く理解が行くものです。その感情を私は否定いたしません。ですが、それを武力行使に直結することは大変な危険がともないます。排除に至る筋道はあやふやな人の感情に拠って立つものではなく、明確な危険性の認知によってのみ行われるものでなければなりません。……かつての魔王がそうであったように」

 キリエは机に両肘を突き、ちいさく息を吐く。
 彼の嘆願書を容れることは、不安感による暴力の肯定だ。無制限な争いの拡大だ。それを受け入れるわけにはいかない。いたずらに社会不安を膨張させるような真似は、断じて。

「……キリエ枢機卿のお考えは理解いたしました。今日は取り下げといたしましょう。ですが、以降はどう対応なさるおつもりですかな?」
「対応に変化はありません。クラリス司祭には保護観察任務を継続していただきます。最長で四週間――それだけの時間があれば対象の身辺調査は漏れなく完了することでしょう。それ以後は滞りなく任務の引き継ぎを行います。彼女の手をいつまでも煩わせるわけには参りませんから。対象の保護観察については可能な限り継続されなければなりません」
「……そうですか。では、今後情勢の変化があった時にどうなさるかは、いまだ定かではないということですな」
「その時には然るべき対処を行いましょう。クラリス司祭の報告は信頼が置けるものです。ヨハン司教、あなたの推薦は間違いがないものでした」
「……お褒めの言葉、まことに光栄でございますぞ」

 思わず額に眉を寄せるヨハン。キリエの一言が刺さったのだろう。
 クラリス司祭を監察官に推薦したのはヨハンに他ならない。しかし彼の期待に反し、クラリスの報告は極めて中立的かつ穏健だった。ヨハンとしては好い面の皮である。
 一瞬肩をいからせるも、すぐに取り繕って支部長室を退室するヨハン。キリエはそれを見送り、嘆願書の複写を手に取る。

 改めて中身を見る価値はない。だが、誰が名を連ねているかには意味がある。
 特に多いのはティノーブルの一等地に居を構える有力者。彼らが恐れているのはユエラというより、彼女を擁するスヴェン・ランドルートの台頭だろう。
 スヴェンの来歴はすでに調べが付いている。ロジュア帝国生まれの元軍人。ティノーブルでしのぎを削る商屋としては上品で控えめな方だろう。仮にユエラの力が悪用されるとして、派手な手段は用いない可能性が高い。無視できるほどちいさなリスクである。

 ―――問題は、私がこの嘆願を蹴ったこと。それに対して彼らはどう出るか。

「キリエ枢機卿猊下。ヨハン司教がお帰りになられました!」

 その時、支部長室に入ってくる一人の少年。年の頃はせいぜい十四、五かそこらだろう。
 金髪碧眼の少年祓魔師、アルマ・トール。黒い法衣に包まれた身体は若いながら逞しく、身の丈は180suにも迫る勢いだった。

「……ありがとうございます、アルマ。しばらくそこにいて下さい」
「はいっ!」

 アルマにはキリエの身辺警護に加え、連絡係も受け持ってもらっている。悪く言えば便利に使える補佐官というわけだ。
 キリエは彼を一瞥し、額を指で押さえながら思考する。

 クラリスの報告に信を置くならば、ユエラ・テウメッサを刺激することは避けるべき。むしろ緩やかな監視体制の維持こそが最大の抑止力となる。今警戒を払うべきは、ユエラよりもむしろ彼女を排除しようとする勢力の動向だ。
 必要とあらば聖堂騎士団を動員し、暴発しかねない連中を抑えられる。短期的にはそれが良策だろう。

「……アルマ」
「はい! いかがなさいましたか?」

 キリエは騎士団に連絡するよう命じかけ、ふと思いとどまる。
 ヨハン司教の言い分も正論ではあるのだ。不安や恐怖に駆られるものを強引に抑えつけても、いつかは不満が爆発してしまう。それはキリエが望むところではない。

「……いえ、何でもありません。私の思い過ごしでした」
「お構いなく。キリエ枢機卿はいつも考えすぎでいらっしゃいますからね」

 屈託なく皮肉るように笑う少年。それが嫌ではないというか、妙な愛嬌があるから不思議なものだ。
 ユエラへの武力行使を否定した以上、やはり身内への抑圧も肯定するべきではない。それでは単なる二重基準である。キリエの立場としてはやはり、可能な限り説得的な対話を繰り返すべきだった。

 キリエは嘆願書の署名を見つめ、最後に記された名前を目で追う。
 アルバート・ウェルシュ。魔王を討伐した〈勇者〉の血族の末裔。

「……アルマ。しばらく警護を二人ほど増員して下さいますか。迷宮攻略に当たるものからで結構です。外部への連絡手段も確立しておいてください」
「――了解です。お任せ下さい、腕っこきの祓魔師を揃えておきますよ!」

 キリエの突拍子もない命令に、アルマは疑問のひとつも漏らさず動き出す。

 まさか、とは思う。それでも、もしもの時の備えは必要だった。

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