お狐さま、働かない。

きー子

一話/妖狐再臨

 野狐の寿命は十年にも満たない。その多くは病や外敵によって斃れ、たった二、三年で命を散らすことになる。
 だが彼女は違った。迷宮街からほど近い〈森の祠〉にひそむ彼女だけは、もう二十年もこの世に生き永らえていた。

 年経た狐は魔性の力を帯び、化生して人を惑わすという。
 遥か昔。ある雌狐は絶世の美女の姿をとり、人の王を誘惑して思いのままにした。人呼んで〈テウメシアの狐〉の悪名は今も途絶えていない。彼女の系譜に連なる亜人は狐人テウメッサと呼びならわされ、大衆の畏敬と畏怖を集めている。

 あらゆる国々が手出しをしないと合意した緩衝地帯。世界のへそ。大都市でありながら城壁を持たない商業特区――迷宮街ティノーブル。
「迷宮があり、人が集い、街が生まれた」と語られるこの土地で、今まさに、彼女は目覚めようとしていた。

 後の世に、人々は彼女のことをかく語る――――"テウメシアの再来"と。

 ◆

「く……ふぁぁ……」

 人の気配も絶えて久しい春の山奥。
 緑に満ちみちた山腹にある横穴の底で、少女は大あくびしながら目を覚ました。
 晴れやかな昼天のまぶしさにまぶたを擦り、ぴくぴくと頭の上の狐耳を震わせる。

「……やれ、身体を乗り換えるのも何度目やら……」

 魂だけで三千世界を渡り歩いて幾星霜。元いた世界からは追放され、肉体死を迎えるたびに最適な転生体を求めてさまよう日々。もはや自らの年齢すらあやふやなほど魂の記憶は擦り切れてしまっている。
 ともかく、ここはどこなのか把握しないといけない。少女は這いつくばったまま横穴から這い出し、周囲を散策し始める。

 まず探したいのは水場だが、これはすぐに見つかった。野生動物の常として、水場の近くをねぐらとするのは自明の理だからだ。
 山の頂から続くのであろう川の流れ。少女はそっと屈み込み、ちょうど水たまりになっている水面を覗きこむ。

「……うむ。この転生体からだは正解だったな」

 水鏡みずかがみに少女の容貌が映りこむ。艶やかな灰色の長髪に白い肌、蒼い瞳は吊り目がち。頬は薄っすら朱気を帯び、頭の上には灰色の毛並みをほこる狐耳がある。
 身体はまるっきり女児のそれで、起伏など一片たりとも無い。肌を隠すものも皆無であり、生まれたままの姿がむき出しだった。
 臀部から伸びる二尾のしっぽが身体にまとわりつくが、到底肌を覆うには及ばない。
 しかし少女はそんなことを気にもかけず、水をすくって口をつける。

「……なにか、懐かしい……ような」

 少女はこくんと喉を鳴らす。大気中、水分中の魔素濃度は比較的高い。少女が渡り歩いた世界の中には魔素が一切ないところもあったが、少なくともここはそうではない。

 ……手がかりが欲しいな。

 長生きですっかり板についた独り言をつぶやきながら方針を考える。下流に行けば人がいるはずだから、そこに文明があればどのような世界か把握できるはず。
 少女が有する膨大な魔力や身なりなどは問題だが、どちらもごまかす方法はある。あまり細かく考えず、少女は気楽に歩き出した。

 その時だった。
 少女の耳がぴくっと震える。魔力の接近を感知したのだ。

 魔力とは魔素――目視確認できない極小微粒子の集合体――に付随する一種の性質である。魔素が結合することにより発生するエネルギーの蓄積。これを俗に"魔力を帯びる"という。

 ……魔獣か?

 少女の魔力量はまさしく莫大。それを感知した人間が馬鹿正直に近づいてくるとは思えない。
 獣ならば捕って喰らおう。ちょうど腹が減っていたところである。そう考え、少女は下流に目を向けて待つ。

「……ほう?」

 その時、少女の視界に三人の人影が目に入った。彼らは一様に黒装束で身を覆っており、胸元には鉤十字と六芒星の紋章がある。一人は大きなズタ袋を背負っているが、その中身まではうかがえない。
 少女が蒼い瞳をすぅっと細めるのもつかの間。彼らは少女から数歩離れたところで突然跪き、頭を垂れた。

「テウメシア様」

 と、彼らは揃って口にする。
 平坦で、抑揚がなく、それでも昂りを隠し切れない声だった。
 少女はいぶかしむように眉を上げる。三人が舌に乗せたその名こそ、かつての少女の名前に他ならなかったからだ。

「我々一門、貴方様の復活を永きに渡ってお待ちしておりました」
「なにものだ、おぬしら」

 少女の名前を知っている理由はふたつ考えられる。少女のように世界を渡り歩く存在が他にもいるか、あるいは――――この地こそ、かつて少女が追放された世界に他ならないか。
 だとすれば、この土地を懐かしいと感じたのにも納得がいく。昔懐かしき我が故郷。時の流れに晒された風景はかつての面影すらないが、それでも感慨深いものを覚えないではいられない。

「我らはイブリス教団、その一党にございます」
「魔王イブリス様を筆頭とし、かの御方に連なる混沌と災厄の勢力が世界を満たすことこそ我らが大望」
「我々一門にとり、貴方様のご帰還はまさに悲願。今代にて貴方様をお迎えに上がる栄誉に与れるとは、まさしく歓喜の念に堪えませぬ」

 魔王イブリスとやらは寡聞にして知らないが、テウメシアより後の時代に現れた誰かだろう。魔王の名前を冠する以上、教団自体もその頃に出現した怪しげな邪教カルトに違いない。
 少女はすぅっと瞼を閉じ、思案げに尋ねる。

「今は何年だ。どうやって私を探し当てた?」
「貴方様が亡くなられてよりおよそ千年。我々の祖先は貴方様の魔力に共鳴する魔具を遺し、それを我々は連綿と伝え続けてきました――――全てはこの日のために」
「……なるほど。よくやったものよな」

 見たところ目の前の信徒らはさほど優れた魔術師ではないようだ。魔力量もさほど多くなく、脅威は全く感じない。
 彼らの祖先がよくやったのだろう、と少女は結論づけた。なぜそんな暇なことをやっていたのかはわからないが、おそらく、暇だったのだろうと思った。

「……それでおぬしら、何を求めてきた? まさか祝いの言葉のために来たわけではなかろう」

 崇めているなら食い物でもよこせと言いたいところだが、話くらいは聞いてやってもいいだろう。そう思って促すと、男は喜々として言った。

「言わずとも、テウメシア様――――貴方様の力で、この世に滅びと災いを! 迷宮の深淵に封ぜられし魔王イブリス様を呼び起こし、この世を我らが手中に収めましょうぞ!!」
「嫌じゃ」
「…………え?」

 長い沈黙のあと、男は困惑げに顔を上げた。

「嫌じゃ面倒くさい。なぜ私がそんなことをせにゃならん。帰れ」
「え……え?」

 信者の男が聞いていないぞと言わんばかりに視線を左右する。

「私は面倒くさいのが嫌いだ。洗うのが七面倒臭いから服を着るのも好かんし、働くなんぞもってのほかだ。せっかく帰ってきたのになんでそんな面倒くさいことをせにゃならん。私は好きにやるぞ」

 信者らはにわかに絶句する。
 もっとも、少女からしてみれば邪教の道具に成り下がる理由は一切ない。行動原理も以前と全く同じのつもりである。

「ど――どうか思い出してくださいテウメシア様! 貴方様の在りし日、国境くにざかいの村々に莫大な生け贄を求め、民衆を恐怖のどん底に陥れたことを!!」
「ああ。あれな……」

 そんなこともあった覚えがある。当時は国の間で争いが絶えなかったから、村を守るのと引き換えに食料やら世話係やらをせびろうと考えたのだ。
 結果、大失敗した。最初のころは良かったが、国の徴兵などが相次いで人手が不足がちになった。そのせいで村から疎まれ、国の騎士団に討伐依頼が届けられるまでになった。

「国の騎士すらも貴方様一人には及ばず、ついにその魔手を一国の王にまでも伸ばされたと! その偉大なる足跡は、我らが父祖から我々にまで、連綿と伝えられているのです……!!」
「誰があんなことをやりたくてやるか。余計なことを伝えおって……」

 そこで身を引けばまだ良かったが、そうはならなかった。当時、テウメシアは討伐にやってきた騎士団を見てこう考えた――なんか小汚いのがおるな、村を荒らしに来おった山賊かなんかであろう、ちょちょいと追い払ってやるか、と。
 返す返すも大失敗であった。テウメシアは国外に退去せざるを得なくなり、その国の王に庇護を求めた。この行動が後に国家間の外交問題に発展し、世界中を大混乱に陥れたのだが、それはまた別の話である。

「とにかく、あんな面倒な真似は二度とごめんだ。もう繰り返さん。誰にも指図はさせない。私は死んでも働かん」
「て、テウメシア様――――」

 頑として耳を貸さない少女を前に、信者の男は途方に暮れかける。
 そこで、ズタ袋を背負っていた別の男がさっと顔を上げた。

「どうか、なにとぞ考え直してはいただけませぬか」
「ならん」
「こちらに、捧げ物を。テウメシア様のために用意をさせていただきましたもので」
「……ふむ」

 この男はまだ物が分かる、と少女は考えた。都合よく祭り上げられるのはまっぴらごめんだが、相互扶助なら悪くない。できれば継続的に、かつ積極的に貢いでもらいたいところである。

「見せてみよ」
「はっ!」

 男はそれを取っ掛かりと見て、威勢よく袋を縛っていた紐を解く。
 ――その中から頭を覗かせたのは一人の少女だった。

 烏の濡れ羽色のショートヘアに薄褐色の肌。ブラウンの瞳には生気がなく、いたいけな顔付きは透明な無表情。ちいさな身体を白黒のエプロンドレスに包み、そのほっそりとした線には女性らしい起伏もない。折れそうなほど細い喉首には鉄製の首輪が巻かれている――中心に"テオ"の文字刻印。

「こちらです! テウメシア様はもっぱら若い子ど――ぶげぇッ!?」

 瞬間、少女は男の顎を思いきり蹴った。
 いたいけな少女のものとは思われない脚力が男が吹き飛ばす。彼は勢いよく山道を地すべりし、そのままぴくりとも動かなくなった。

「もうよい。おぬしらに期待した私が一向に馬鹿だった。全員去ね」

 面倒を減らすために従者を欲しているのは確かだが、その代わりにより大きな厄介事を持ち込まれたら本末転倒だ――たったそれだけでこの私を翻意させようとは舐め腐っている。負の感情を煮詰めながら少女はちいさな拳を鳴らし、全身に帯びた魔力を活性化させた。

 魔術の行使。それは意志によって引き起こされる魔素の結合現象であり、俗に魔素結合能力とも言う。発露する力は魔術師が有する〈魔術の器〉に由来し、まさに千差万別と言って良い。
 そして少女が振るうそれは、かつてのテウメシアが得意としたものと寸分違わない、彼女固有の異能であった。

「ひ、ひっ……!!」

 ――――幻魔術・神撫手カンナデ――――

 少女は何気なく手を伸ばし、信者の顔を軽く撫でる。彼はそれだけで声もなく昏倒し、その場にどさりと崩折れた。

「こ……この魔力は――――まさに、あの御方の……ッ!!」

 ぶつぶつと呟いている男にも同じようにする。少女は倒れた男の頭に手を伸ばし、そっと円を描くように撫で回した。

 ――――人の意志を惑わし、掻き乱す異能。幻魔術。それはすなわち、対象の神経系などに干渉する類の力であった。人の意識を刈り取る程度ならばまさに赤子の手をひねるより容易い。
 魔術師が最も重要視する個人の自由意志。魔素結合能力はおよそ意志の強度によって左右される。それを自在に操るというのだから、いかにかつての彼女が畏れられたかがうかがえよう。

「……ふぅむ」

 相手の意識を断ち切るとともに記憶を読み取り、少女はこの時代の一般知識を習得する。手で触れたのはこのためだ。ついでに少女に関する記憶もいじっておく。
 彼らはこの近くの街――迷宮街ティノーブルで活動していたようだ。そこなら文明的な生活が期待できるだろう。

 だがそこに向かうのは後でいい。少女はあらためて貢物――テオのほうに向き直る。
 彼女の来歴もまた信徒の記憶にあった。彼らイブリス教団の傍流派閥――〈闇の緋星あけぼし〉きっての武闘派にして暗殺者。とてもそうには見えないが、そう見えないからこそ有用なこともある。

「さて、おぬしを連れてきた輩はこの通りのびてしまったが」

 ……おぬしは、どうする?
 その問いに、テオは全くの無表情で答えた。

「あなたさまの御心のおもむくままに」
「……ほう?」
「偉大なるものを人の偏狭な尺度で測るべきではない、と存じております」
「こやつらとは考えが異なる、と?」

 テオはこくりと首を縦に振る。嘘はついていない、とわかった。

「なぜ生け贄になんぞなった?」
「あなたさまに捧げられるのなら、それを辞する理由はございません。あなたさまが望むなら、何者にでもなりましょう。下僕でも、奴隷でも、道具でも――あるいは非常用の食料にでも」

 なるほど狂信者と呼ばれるわけだ。
 少女はちいさく鼻を鳴らして笑い、テオをズタ袋から引きずり出す。傍目ではわからなかったが、テオは少女より頭一つ背が高かった。

 すらりと細く、長い手足。それらを縛る縄を引きちぎり、首輪も力づくで握りつぶす。テオはその間、完全にされるがままだった。
 少女はその場にひざまずくテオを見下ろして言う。

「ならばテオ、私はおまえを傍仕えに命ずる。私は動きたくない。だからおまえが私のために、私の代わりに働け。良いな?」
「……具体的には?」

 テオは困惑げに少女を見上げ、そして慌てて視線をそらす。裸身を目にするなど恐れ多い、と言わんばかりの迅速さであった。

「楽ではないぞ」

 表情をこわばらせるテオを前に、少女は口端を吊り上げながらちいさな指を一本ずつ折りたたむ。

「買い物、炊事、洗濯、護衛……水回りも重要だな。風呂が無い生活など耐えがたい。宿の確保も任せたいところだが、まあそれくらいは私がやってやっても良い。冬眠の時季にまではなんとかせんと……あとは毛づくろいも大事だな」
「……狐人テウメッサの毛づくろいをした経験はございませんが」
「構わん、私が教えてやる。私好みにな。すぐには難しかろうが、必ずできるようになる。なにせ私が教えてやるのだからな」

 少女は堂々と薄い胸を張って言う。テオは呆気にとられたように目を丸くする。

「……つまりは、使用人ですか」
「できる限りは衣食住と身の安全の確保もだ。あと冷える夜は同衾せよ。良いな?」

 少女がそう言った瞬間、テオはぶはっと吹き出した。口元を押さえてげほげほと咳きこみ、息遣いを荒くする。
 無表情がかたなしだった。頬の色がほんのり赤く染まっている。

「どうした」
「……いえ。是非もなく拝命させていただきます、御主人様マスター
「その呼び方はやめろ。あと鼻血が出ているぞ」
「申し訳ありません。ではなんとお呼びを」
「まず鼻を拭け」

 少女に叱咤され、テオはやむなく手の甲で鼻を拭う。

「……して、名前か」

 少女は狐耳をぴくぴくと小刻みに揺らして思索にふける。
 過去の名前でも構わないが、面倒なく暮らすには適さないだろう。新しい名前を考えたほうがいい。
 なんでも狐人は"テウメッサ"の姓を名乗るのがお約束で、種族としてもそう呼ばれるようだ。少女は少し考えてテオに告げる。

「ユエラ・テウメッサ。単にユエラで良い。私は堅苦しいのは好かん」
「では、ユエラ様と」
「……まあ、今はそれでも良い」

 少女――ユエラが幻魔術を用いれば強制することもできる。だがそれでは面白くない。何かの拍子に術がとけないとも限らない。いちいち命令しなければならないのも面倒くさい。それ自身の意志で味方してくれるのが最も望ましいのである。なにせ手間がかからない。

 ユエラはにやりと笑い、テオに立ち上がるよううながす。彼女は素早く身を起こすが、視線は逸らしたままだった。

「早速だが、テオ。私は腹がすいた。狩りはできるか?」
「……弓の心得はありますが、道具がありません。魚を獲りましょうか」
「それで良い。……頼んだぞ、テオ?」

 ぐぎゅるるる、とうるさく鳴く腹の虫をなだめながらユエラは上流に向かって歩き出す。滝壺に向かえば魚などいくらでも見つかるはずである。

「ユエラ様」
「うむ?」

 テオは少女のすぐ後ろをついて歩きながら言う。

「服を着ませんか」
「嫌じゃ面倒くさい。人がいるならまだしも。洗濯の手間が増えるばかりだろう」
「……洗濯をするのは私では」
「まあ、そうなる」

 ユエラの裸身を隠すのは、臀部で揺れる二尾の尻尾ばかり。テオは釈然としないように一旦戻り、信者の男が身にまとっていた黒衣を剥ぎ取っていった。着ろということだろうか。しかしユエラはそれをびりびりに千切り、足裏に巻きつけるタイプの足袋をつくった。山道での裸足はさすがに厳しかったのだ。

 ――――目指すは今生早期リタイア。全ての面倒事を下僕に丸投げするユエラの人生計画が今、幕を開けた。

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