私の特別な蒼は、

ノベルバユーザー172401

私の特別な蒼は、



ルル、と薄い唇が私の名を呼ぶ。そのように私を呼ぶのは家族か幼馴染か親しい友人たち。――そうして、私の耳元で囁くように名前を呼ぶのは、幼馴染だけ。
私の幼馴染はとってもとっても美しい。銀糸のような髪の毛はさらりと肩まで伸びて、蒼い瞳は宝石のよう。整った顔立ちは、見ているものをうっとりと蕩けさせるほど。身長だって高く、王宮の騎士だって敵わないくらい素晴らしい体躯をしている。言葉にするのも難しいくらいにうつくしい癖に、私の幼馴染は他者に対して愛想の欠片もないのだ。
平坦な声で幼馴染であるセシル――クリスフォード侯爵家の次男である。我が家と彼の母親同士が親友で、幼い頃から共に過ごしていた――は、私の耳元に唇を寄せたまま微かな熱も持たない声で今度はルルーナと呼んだ。

「…聞こえていますわ」
「なら先に言え」
「耳元で言われなくても聞こえるのですもの」

セシル・クリスフォード。私の幼馴染で、侯爵家のご令息は、私の視線をあっさりと受け止めてふんと鼻で笑った。この人を無感情、なんていったのはどこの誰なのかしら。いつだってその噂を聞くたびに、私の中のその人との乖離に首をかしげてしまうのだ。
庭に椅子とテーブルを出して書き物をしていた私は、突然現れた幼馴染に胡乱な視線をおくる。椅子に座っている私の真後ろに立って、高い身長を屈めて私の肩あたりから顔をのぞかせている様は後ろから見たらひどく滑稽なのではないかしら。そう思って、首をふる。この男は、どんな表情をしていても美しいのだ。美しくて、様になってしまう。

「お座りになったら?お茶を持ってこさせますわ」

そろそろ体を離してほしくて私は見上げる横顔にそう告げた。侍女は離れた場所に待機してもらっているから声をかけなければ近寄ってこないだろう。それに、結い上げているのであわらになっている首筋をセシル様の銀髪がくすぐって、とてもむずがゆいのだ。身を捩る様に体をのけぞらせれば、セシル様は唇をやんわりと持ち上げて更に顔を寄せてくる。ひゃあ、と私の口から令嬢らしからぬ声が漏れてしまって思わず手のひらで口を覆った。この男は、いつだって私にこうして意地悪をするのだ。

「そう逃げなくてもいいだろう、ルルーナ」
「……ッ、逃げてなど…」

するり、と男の指先が私の肩に触れる。捕まれているわけでもなく、ただ指先の温度を感じているだけなのにこうされると私はどうしたって身を捩ることが出来ない。いつだって、昔から、私は幼馴染に弱いのだから。
喉の奥でくすりと笑いを噛み殺したセシルは満足げに私から一歩離れた。その際に、彼の指先は私のドレスをそっと撫でていく。今日のドレスはセシル様の瞳に合わせたようなブルーだった。

「お前には蒼が似合う」
「…わたくしだって、蒼以外のものを持っておりますのよ」

言外に蒼以外は似合わないと言われたような気がして唇を尖らせる。思えば昔から、私の身にまとうものは青系統が多かった。セシル様は私の言葉に気にした風もなく侍女を呼び寄せてテーブルの上の物を片付けさせる。そうして私の隣に椅子を置いて座り込んだ。まるで自分の家のように。
セシル様の家のクリスフォード侯爵家と我が家のラズヒルム伯爵家はそれなりに由緒正しい家柄だ。セシル様は次男だから家を継ぐことはないと、早々に王宮魔導士として地位を築いた。王族からの信頼も厚く、いずれは王女殿下たちとの婚姻をと望まれているようだと、人づてに聞く。昔からこの幼馴染はとびぬけて優秀だった。侯爵家は優秀な人間が多いけれど、群を抜いてセシル様と跡取りである彼の兄は名をはせたのだ。引く手あまた、女性の憧れ。その幼馴染の私への針の筵のような視線が年を取るごとに多くなっていくにつれて、彼は悪魔と呼ばれる仮面を身につけていった。

「今日はどうしてここに?お仕事はよろしいのですか」
「たかだか一日くらい何とでもなる。それより、俺に言いたいことはないのか」
「……その言葉、他の魔導士様に言わない方が良いと思いますわ」

ふう、と息を吐いて私はそっとティーカップを持ち上げた。柔らかな紅茶の香りが癒しをくれるようで目を伏せて楽しむ。そうして、ううん、とわからないくらい微かに首を傾げた。
言いたいことも、言わなければいけないことも、正直に言って一つも思い浮かばないのだ。
セシル様は私のそんな状態を分かっているようで、表情の変わらない平坦な顔のままで長い脚を組んだ。
正式には魔導士、民間人には魔法使いと呼ばれる彼らの中で群を抜く幼馴染の力は絶大だ。彼の力は人を癒すことも出来るし、国を丸ごと葬り去ることも出来るくらいに大きい。だからこそ国は離したがらないし、王族と結ばせて力を確固たるものにしたいと思うのだろう。人は彼を悪魔と呼ぶ。彼の気持ち如何では、誰も彼もがただの無力なモノに成り下がるから。
きっと、色々と会ったのだろう。私は彼がどういった思いで魔導士になったのかは知らないし、魔導士を育成する学校で何が在ったのかも知らない。私はただ幼馴染としてこの伯爵家で淑女としての勉強をして、手習いをして、侯爵家で呼ばれるままにお話をして、呼ばれる夜会などに出席して――誰かもしらない貴族の妻となるために、生きてきたから。彼の苦悩を理解する、なんておこがましいことはしてはならないだろう。それでも私にとっては、いつだって、これからも。セシル・クリスフォードは、偉大なる魔導士なんかではなくて、ただの一人の大切な幼馴染だ。
もしかしたら、婚約の話がきているのかもしれない。ぴん、とひらめいたその思考に私は光明が差したように口元を綻ばせた。セシル様の兄上はようやく婚約者を決めて、来年結婚式を挙げることになっている。ということは、彼の婚約も決まったのだろう。女性泣かせなクリスフォード兄弟は、ようやく止まり木を決めたという事か。
なんとなく寂しいような切ないような気持ちが胸を渦巻く。こうして大人になっていくのだろうか。私だってもう16歳になる。夜会に出るたびに向けられる視線は、セシル様たちを狙う女性たち以外にも増えた。伯爵家の娘。権威を手に入れるには、もってこいの物件だもの。

「ご婚約が決まった、とかかしら…?」
「お前にしては的確だな」
「……意地悪だわ、セシル様」

隣に座ったセシル様はいつもより遥かにひねくれたような声で言った。意地悪、ともう一度呟く。こういう時は、おめでとうと言った方が良いのだろうか。
唐突に今日結い上げた髪の毛を下ろしてしまいたい気持ちになった。そうすれば横顔は隠せたのかもしれない。セシル様は基本的に、私の前に座るよりも隣に座ることを好むから。
私はそっと頭を下げた。口元を綻ばせて笑う。貴族令嬢然とした笑い方は、何時だって、指導されてきた。

「おめでとうございます。セシル様がどんな方と婚約したのか、聞いても?」
「…まだ聞いていないのか」

仕方なく隣を伺いながら言えば、セシル様はどこか呆けたような驚いたような顔で私を見ていた。
悪魔のよう、無表情、感情がない男、氷のように冷徹――、彼を現す言葉は何も知らない人々の戯言にしか過ぎないのだと思うのは、こういう時だ。セシル様は確かに表情が分かりにくいけれど、決して感情がないわけでもないし、表情がないわけでもない。悪魔とか、氷のようとかは、身内以外に容赦のないセシル様の行動が悪いのかもしれないけれど。やられたら100倍にして返す、が座右の銘だと彼の兄が笑いながら教えてくれた。逆を返せば、やられない限りはやり返さないという事でもあるのだけれど。

「お前の婚約の話だ。婚約者を決めるのだろう?」
「え……、そうなのですか?」
「俺に聞くな」

つん、とセシル様の指先が私の額を小突いた。目を見開いた私を呆れたように見下ろしながら、彼は何か言いあぐねるように言葉を探している。
私よりも7つ年上で23歳のセシル様に婚約者がいないのに、私に出来てしまうというのは何だか釈然としないものもある。しかして、貴族の子女というものは行き遅れにならないうちに結婚しなければならないのだ。セシル様は家を継ぐ必要はないし、地位だって確固たるものを築いたのだからいいかもしれないけれど。私の家は弟がいるから跡継ぎは問題ない。ただし、いつまでも婚約者もいないままで結婚もしない女子が居たら家の名前は傷付いてしまうだろう。いくら、家族が私を愛していてくれても。私は私の行動で家族が悪く言われることがとても怖いのだ。

「じゃあきっと、これからお話があるのでしょう。お父様は朝何も言っていなかったもの。……そうですわよね、わたくしだって、いつまでもこうしていられるわけではないのだもの」

ふう、とついため息を吐いてしまう。こうして弱音がはける場所はいつだってセシル様のところだった。彼は少しばかり蒼の瞳を柔らかくして私の頬に指先を滑らせた。するり、となだめるように肌に触れた指先は、私の心臓を高鳴らせる。
何時からだったかは忘れてしまった。ただ私にとってはいつまでもずっと大切な人であるということが完結してしまったから。だからこそ、私はこの気持ちを深くまで見つめることが出来ないでいる。
セシル様の指先はそっと私の頭を撫でていた。この人はこんなに柔らかく優しく人に触れるのに、どうして恐れられているのか、私にはわからない。

「不安か、ルル」
「……セシル様には、なんでも分かってしまうのね」
「情けない顔だな、ルルーナ」

くすり、とセシル様は私に向かって微笑んだ。そうして、胸の前で握っていた私の両手を掴むとじっと私を見据えた。蒼い瞳をしているのに、その視線はひどく熱い。捕まれた指先から固まってしまったかのように私は体を動かせず、ただどくどくと煩い心臓が飛び出ないことを願うばかり。
今自分がどんな顔をしているかはわからないけれど、きっと私の火照った顔をセシル様は見ているはずだ。見てしまっている、はずだ。彼に憧れる令嬢たちの一員のように。彼らに熱を上げる女性たちのように。私も変わらないのだと、改めて感じさせられた。

「明後日の夜会に出席するだろう、ルル。俺も行く。そこで、話がある」
「今ここでは、聞かせてもらえませんの?」

明後日の夜会は、国王夫妻の主催する宴だ。私もセシル様ももちろん招待されているはず。きっとまた彼らはご令嬢の熱い視線に晒されるのだろうなとおもいながら、私はそっと目を伏せる。
そこで私の婚約者探しもするのだろうか。もしかしたら、もう大体は決まっているのかもしれない。
セシル様はまるで愛を囁くかのような近さで渡しを見つめる。きっとこの姿を彼を慕う人たちが見たら、彼のことを誤解している人たちが見たら、信じられないと吃驚するだろう。私には当然のことを、彼らは知らないから。

「まだ完全に根回しが終わってないのでな。良い子で待っていろ、ルルーナ・ラズヒルム。俺がお前を攫いに行くまで」

そうして、うつくしいかんばせに極上の笑みをたたえたその人は、私の耳元でそう言い残して颯爽と去っていった。去り際に耳を食んでいくことも忘れない。ひゃ、と私が喉の奥で上げた悲鳴すら愉し気に。これじゃあ本物の悪魔のようだわ、と思いながら私は目を閉じる。
どくりどくりと激しい音を立てる心臓が痛い。きゅ、と胸の前で握った指先にはまだ熱が残っている。
――ああ本当に、攫っていってくれたらいいのに。
期待と不安と、ごちゃ混ぜになりそうな気持ちの中で、私は火照った熱を冷ますためにテーブルに突っ伏した。



***



淡いブルーのドレスはドレープをふんだんに使って、けれどウェストはきゅっと絞ってある。華やかすぎるほどでは行けれど、私の身体にぴったりと合ったドレスは父からの贈り物だ。不承不承という体で、当日の朝になって父が持ってきた。何をそんなに渋っているのかと不安になりながら広げたそれは、とても美しいドレスで驚く。合わせるように入れられたペンダントもイヤリングも、静謐な美しさをたたえている。まるで、セシル様を思わせるようだと感じてしまった。きっと偶然なのだろうけれど、とても素敵なドレスに心が躍ったのは確か。
侍女たちが磨いてくれた私の姿は、いつもよりもきちんとしていた。今は亡き母譲りの金髪は結い上げられて、父譲りの緑の瞳はどことなくかがやいているように感じる。お美しいです、と侍女たちが誉める言葉に苦笑を零しながら、少しだけ気持ちが浮上していく。セシル様のようにうつくしい訳ではないけれど、私だって年頃の娘だから、こうして綺麗なものを身に着けられるのはとても嬉しいのだ。
エスコートをしてくれる父に淑女の礼を取りながら感謝を述べる。母を亡くした父は、再婚することなく私と弟を慈しんでくれている。

「ありがとうございます、お父様」
「似合っているよ、ルルーナ。私としては、もっと違うドレスを送りたかったんだがね」
「まあ、これで十分です。とても素敵ですもの」
「…ところで、ルルーナ。セシルからは何か聞いているかい」
「セシル様から、ですか?いいえ、何も……あっ、」
「えっ」

父がびくりと肩を震わせる。私はおずおずと伺うように父を見上げた。父は何だかこの世の終わりのような顔をして私を見ている。私というか、私の背後というか。

「お父様、わたくしの婚約の件について何かご存じなのでしょう?」
「ああ、そうだな、うん。それはまた、今度にしよう…」

どこか寂し気に目を伏せた父は私の手を握ってうなだれた。ダンディで素敵だと後妻の話が後を絶たない父は、私と弟をとても可愛がってくれているのであまり将来の話をしたがらないのだ。はい、と頷いておく。私としても、あまり早く婚約の話を進めないといけないのは少しばかり、悲しい。父はそっと表情を戻すと私の姿を眺めて眩しそうに目を細めた。
私の身体を彩るドレスは柔らかく私の身に沿っている。上から下まで全部、父が持ってきてくれたものだ。父はどこか不機嫌そうに、忌々しそうにドレス一式が入っていた箱を睨んでいたように見えたけれど、私の視線に気が付くとことさら穏やかな笑みを浮かべた。

「時がたつのは早いものだね。お前はもう立派な淑女だ。……手放したくはないのにな」

最後の言葉は微かすぎて聞き取れなかった。



夜会の会場について、父について挨拶を共にする。結婚をしたら、私は未来の旦那様と一緒にこういったことをするのだろうか。笑みを口元に浮かべたままで、私は優雅に礼をとる。生まれてからずっと学んだ礼儀作法は、今や私の一部として私を守る武器となっている。
陛下へのご挨拶もすんで、父と別れた私はそっと周りを伺った。セシル様も、来ているはずだ。一昨日の庭での事を思い出して、私はそっと頬を染めた。思い出すたびに私の心臓は高鳴るのだ。一緒に過ごした時は長くても、あんな風に男の人に触れられたのは初めてだったから余計に。
多くの人が行きかう会場でぼんやりしていた私の肩を、誰かの手がそっと叩いて触れた。

「はじめまして、淑女レディ。ご挨拶させていただいても?」
「あ、ぼうっとしていて…。申し訳ありません。ルルーナ・ラズヒルムと申します」

ドレスの裾を持ち上げて礼の姿勢をとる。ゆったりと、優雅に。目の前の男性はセシル様には劣るけれど、精悍な顔立ちで自信たっぷりに立っている。こういう時は何時だって隣に父やセシル様がいたから、どうしたらいいか困ってしまって扇を口元にあてながら微笑んだ。目の前の男性は少しばかり目を開いて、そうして笑う。家族が私を見るような親愛の情ではなくて、ねっとりと絡みつくような目つきで笑って私の方に手を伸ばした。

「失礼、私の婚約者が何か」

その指先が私に触れる前に、私の肩を後ろから伸びた手が引き寄せる。耳をくすぐる低い声が私の胸をぽっと明るく灯したように落ち着かせていく。
そっと上を伺うように見上げると、銀髪を緩く結ったセシル様が私の身体を囲うように腕を回している。私が困っているからと助けに来てくれたのだろうか。それにしても、これは、ちょっと、くっつきすぎのような気もするのだけれど。身の置き場を探してもぞもぞと動く私に平坦な目を向けて、セシル様はわずかに息を吐いた。
目の前の男の人は、わずかに顔色を悪くしてそそくさと去って行ってしまう。女性には熱い目を向けられているけれど、セシル様は男性には怖がられているようなのだ。だからこういうパーティでは一緒に居ると得である。下手に話しかけられることもなければ、先ほどのような視線を貰うこともないのだから。しっかりとした男の人の腕の中で囲われて、知らず頬が熱を持つ。そっと解放されたことで息をついてセシル様を見上げれば、いつも家で見せてくれる柔らかな目が私を見つめていた。
それよりも、と先ほどの行動でざわめく周りの声を拾い上げて私はきょとんと首を傾げる。今、このひと、婚約者って言わなかったかしら?

「良く似合っている、ルル。着てくれてよかった」
「ええ、お父様が朝持ってきてくださったのです」
「ほう、お義父上は誰からか、ということは言わなかったか」

あら、と目を瞬かせる。どこか拗ねたように私の耳を飾るイヤリングに触れたその人の様子に、私は考え込んだ。そういえば、父は持ってきただけで「自分から」だとは言わなかったかもしれない。これはセシル様がくださったのだろうか。私を彩る、セシル様の色。碧眼と同じ色のドレス、髪色と同じ銀のアクセサリー。なんだか守られているようだ、と思いながら背の高いその人を見上げた。

「これはセシル様がくださったのですか?」
「俺以外の男から贈られたものをお前に身に着けさせると思うか?――思った通り、良く似合う。綺麗だ」

ひゅ、と息をのむ。この人はどうして、こんな風に私の心臓を高鳴らせることしか言わないのかしらと。甘い声が私の耳に注がれて、胸の前で握った指先の力を強くした。セシル様はそっと私の手に触れながら、他の誰にも見せたことがないような笑みでもって私の心臓を壊しにかかる。それでも、と脳裏に過る言葉を思い出して私はあの、と尋ねた。

「セシル様、あの、婚約者とはどなたのことですの?」
「………聞いていないのか?」

この人が人前でこんな風に素顔をさらすことなんて、ほとんどないんじゃないかしらと思うと珍しいことをさせている私はなんだかうれしくなってしまったのだけれど。
セシル様は目を見開いたあと、上を向いて何かを堪えるように額に掌を当てた。

「……あの狸め…」

呻くような言葉の意味は分からなかったけれど、セシル様はきょとんとする私を抱き寄せたままするすると人ごみをぬって、会場から抜け出てしまったのだった。
ざわめきだけが残る会場から抜け出せたのはとてもほっとしたので、父に声をかけてこなかったことに気が付いたのは、セシル様の家の馬車に乗り込んでからだった。


***


馬車に乗り込んで私を隣にぴったりと寄り添うように座らせたセシル様は、いまだに私の指先を掴んで離してはくれない。するりと指の腹で私の手の甲を撫でるので、口から心臓が飛び出てしまいそうなくらいに緊張している。緊張、とは少し違うかもしれないけれど、的確な言葉が思い浮かばないのだ。
この人の傍はとても心地がいいのに、落ち着かない。結い上げられた髪の毛を下ろしてしまいたくなる。顔を隠してしまえば、この気持ちも少しは落ち着くだろうか。

「あ、の…、セシル様」
「どうした?」
「手を、はなしていただけません、か」

ああ、とそういって、彼は私の指先を解放した。ほっと息を吐く間もなく、腰を持ち上げられて膝の上に座らされる。恵まれた体躯のその人は、私を腕の中に閉じ込めたままでじっと私を見下ろしていた。

「ルル、そう固くなるな。それに、俺はお前に許しを得なければならない」
「……許し?」
「ああ。お前の意思を聞くことなく、お前を俺の婚約者にした」

ばっと顔を上げれば、近い場所で視線が交わる。いつだって私の傍にいてくれた人は、こんなにも男の人になっていたのだと、気付く。
ルル、と、私だけを呼ぶ声が耳朶から私を酔わせていく。自分の息遣いがひどく鮮明に聞こえて落ち着かない。揺らぎそうな身体を支えるのは、熱くたくましい腕。横向きにされたまま片足の上に座り込んだ私を容易く抱きしめるその姿に、本能で逃げられないと悟る。――逃げる気なんて、欠片もないのだけれど。

「ルルーナ、俺はお前が欲しい。ずっとずっと、お前だけが俺の特別だ。それはこれからも変わらない。俺のものになってくれ、俺だけを目に映して欲しい。ルル、お前が俺を恐れずに笑ってくれていたことがどれだけ俺を掬い上げたか、知らないだろう?」

熱い視線が私を射抜く。こんな風に熱烈な言葉を口にする人だったのだろうか。私は知らないことばかりだ。それでも、それなのに。セシル様の熱がうつったように私の胸の内はあつく昂ぶっていく。
私を欲しいと言ってくれた言葉が嬉しくて。特別だという言葉が幸せで。貴族という社会の中で愛のない結婚ばかりの世界でこうして望んでくれていることがどんなに得難いことか良く分かっているから。
私はそっと手を伸ばしてセシル様の頬に触れた。両手で包み込むように触れたその先に、大好きな特別な人の顔がある。私をじっと見つめる視線の中に、微かな怯えと懇願が込められているのに気が付いて、思わず笑ってしまう。断れるはずがない。私をこんなに愛してくれる人は、こんなにも私の中で特別となっていた人は、家族以外で居ないのだから。

「セシル様、わたくし……私、貴方をお慕いしております。ずっとずっと、もし政略結婚になっても、貴方を想うつもりでした。――貴方のお傍にいることを許してくださいませ」
「ルル、ルルーナ。愛している、誰よりも何よりも。どうか俺と生きて欲しい」
「もちろんです、ずっと、身も心も貴方のお傍に居ります」

抱きしめられた腕の力の強さに身体をすくめる。宥めるように背中を撫でる手の平の熱が私をそっと落ち着けていく。腕の中で見上げた彼の人は、とろけるように甘く微笑む。私以外見る人のない顔。私だけに向けてくれる言葉。そこまで貰って、身をゆだねないなんてこと、あるはずがない。
セシル様は私の身体を離さないまま、顔を寄せた。柔らかな唇が額を頬をついばんで、くすぐったいと身を捩る私を味わうように吸い付いていく。きゅ、と目の前の人の首に腕を回して抱き着いた。こうしていないと持たないのだ。高鳴る心臓が痛くて、幸せに眩暈がしそう。
抱きしめあった腕の中でそっと目を合わせると、セシル様の手が私の後頭部に回って距離を詰める。あまりの近さに目を伏せれば、私の唇に、熱が触れる。

「…っ、ん、」

がたん、と止まった馬車の中でただひたすらに私はセシル様の唇の熱を受け止めていた。どこかについたのだろうとはわかるのに、離れがたくて身を離せないのだ。
ぺろりと舐められる唇のくすぐったさに、塞がれている息苦しさに口を開けば、中にぬるりとしたものが入り込んで私はびくんと体を跳ねさせた。止まらない口づけに体の力が抜けていく。こんな風に世の女性たちは求められているのだろうかと思いながら、ようやく解放されたことでぐったりとしたまま胸に体を預けていると、セシル様がひどく愉し気に笑い声を上げた。喉の奥で笑う低い声が、私の耳をくすぐって、恥ずかしさに顔を隠したくて首筋に顔をこすりつけた。
がやがやと外がうるさいのは、どうしてだろうかと思っていると甲高い子供特有の声が聞こえてきて私はばっと顔を上げた。
駄目です坊ちゃま、と従者の声が聞こえる中でじゃま!と少年特有の声が響いたと同時に馬車のドアが開け放たれる。セシル様の腕の中でドアの方に顔を向ければ、むっすりと顔をしかめた子供が立っている。

「姉さまから離れろ悪魔!姉さまもこんな男とふたりきりなんて危ないですよ!」
「…あら、まあ…。レイン、セシル様に失礼だわ。それに危ないのは貴方の行動でしょう?」

見られたことが気恥ずかしくてそそくさとセシル様から離れてレインの元へ行く。年が離れているからか母がいない寂しさからか、今年9つになるレインは姉である私を良く慕ってくれているのだ。心配をかけてしまったようだけれど、それでも、侯爵家の令息である方の馬車を開け放っていいという理由にはならない。セシル様も彼の兄上も私たち姉弟を大切にしてくださるけれど、礼儀は忘れてはいけないのだ。少しばかり厳しい声を出した私に気まずげに肩をすくめながら、それでもレインは厳しい顔を解かなかった。

「ですけど姉さま!いつまでたっても馬車から降りてこないから心配したのですよ!」
「心配することは何もない、レイン。君の姉上の婚約者は私なのだから」
「貴方だから心配なのです!」

レインが噛みつくと、セシル様はどこか余裕な表情で弟を見返した。喧嘩をするほど仲が良いと言うけれど、この二人はきっとより仲良くなるだろうなと思う。
心配をかけてしまったからとレインの頬にキスをして、私はセシル様を振り返った。レインは甘えるように抱き着いてきたので、額にも同じようにキスをして、セシル様を見る。セシル様はどこか憮然としたように私の腰のあたりを見つめていた。腰のあたりにはレインがへばりついているのだけれど、レインはどこか誇らしげな顔をしていたのだった。

「ルル、また明日会いに来る。今日はゆっくり休みなさい」
「はい、ありがとうございました」

レインを先に外に出して、弟の非礼を詫びる。構わないと首を緩く振ったセシル様は、一瞬だけ外を見据えるとするりと私の傍に寄った。

「早く攫って行きたいくらいだ。ここには邪魔が多い」
「……ええと、そうなのですか?」

邪魔とは何だろうかと首を傾げた私の首筋に、セシル様は唇を寄せた。ぺろりと舐められてぴりりとした痛みが走る。きゃ、と背を震わせた私をぐいぐいと小さな手が引っ張る。

「次はもっと鮮やかな衣装を用意しよう。お前に良く似合う、蒼を」

私だけに甘く微笑んだその人の目を見たところから記憶がない。というよりも、強引にレインに引っ張って屋敷の中に入らせられて、着替えをしてとしているうちにいつの間にか朝を迎えていたのである。
刺激的な夜が明けたその日、甘えたように私から離れなくなったレインが、言葉通り訪ねてきたセシル様に噛みついたり、どこか憔悴したような父がセシル様を連れて部屋の奥に引っ込んだりと色々あったのだが――、どうやら本当に私は彼の婚約者として日々を歩めることになっていたようである。
嬉しくて思わず父に抱き着いた私を、父は複雑な表情で抱きしめ返してくれた。夢中になっていた私は知らない。レインが私を見守る様に立っていることをいいことに、その足をげしげしと蹴りあげていたことも、父が鋭い目つきで彼を睨んでいたことも。もちろん、それが堪えるような人ではないので、毛ほども思っていないようだったらしいと言うことも。
ともかく、私はとてもとても幸せなのだ。






コメント

  • ノベルバユーザー603850

    これからも繰り返し読みたいほど素敵な作品です!
    番外編とかでもいいので他作品でも期待しています!

    0
  • ノベルバユーザー601499

    想像以上に深く涙が出るストーリーです。
    読み出したら止まりません。
    ありがとうございました。

    0
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