悪夢を食べるのは獏、命を狩るのがヴァルキュリア

ノベルバユーザー173744

趙子龍の妻……。

 子龍しりゅうと妻の出会いは孔明こうめいたちも知らない。



 知っているのは、黄夫人こうふじんは、夫が劉備りゅうびに仕えるようになった後、定期的に挨拶に来るようになった母子……。

 母親は瞳の澄んだ優しい顔立ちの女性で、幼い二人の男の子を抱っこして手を引いて、質素な姿である。

「初めてお目にかかります。私は趙子龍ちょうしりゅうの妻にございます。そして、上の子はとう、下の子はこうと申します。未熟な者ですが、どうかよろしくお願い致します」

 丁寧に礼をした女性は、影の薄い人だった。
 しかし、とても幸せそうに微笑む人だった。

「夫は本当に素晴らしい方なのです。優しく、強く……きっと、きっと参謀様の期待以上の力を発揮できますわ」
「とても優しいのですわ。夫はお忙しいと言うのに、夜中に戻っても必ず子供たちの顔を見て頭を撫でてくれるのです」

 普通、とるに足りないことでも、彼女には幸せな事だったのだ。
 ささやかで、それでいてかけがえのない一時。

 特に、癖の強い軍の中で、一番柔軟な考え方を持つのは趙子龍。
 二人も彼と親しくなり、忙しい時には屋敷に泊めたりと言うこともあった。
 その時には必ず使いを送っていたのだが、寂しくはなかったのだろうか……と思ったこともある。

 一度果が問いかけたことがある。
 すると、儚げに微笑み、

「夫は頑張られていらっしゃいます。私は、あの方を影で支えて差し上げたい。それが幸せですわ。子供たちも二人も傍にいてくれる。夫には夫の家はここにありますよと、お疲れになられた時には、帰って頂けるようにと思っております」
「それでいいんですか?」
「はい」

即座に答えが返る。



 しばらくして、孔明と共に戦場にいた子龍の妻は、静かに息を引き取り、まだ15歳になるかならずかの兄弟が、

「奥さま、本当に私たちに良くして頂き、ありがとうございました」

 母を亡くし、迷ったような眼差しの統と泣きじゃくる広。

「お二人はどうされるの?」

 黄夫人の一言に、

「母は『お父さまには大事なお勤めがある。私の死を伝えなくても構いません。二人は力を合わせ、お父様のような人になりなさい』と……私たちは軍にと思っております。あの……屋敷のことですが、母が自分が亡くなった後には、自分のものは全て処分して欲しいと……。新しい女人を迎えて頂くようにと……整えて逝きました。私たちは軍ですので、父と会うことも少ないかと思います。父の地位を鼻にかけては、母が嘆きます」
「それより、私は、父なんて要らない‼」

泣きながら叫ぶ広。

「母上は、待っていたのに‼ずっとずっと待ってたのに‼会いにも来ない‼だいっきらいだ‼あんな奴に、母上のことを伝えなくたっていい‼兄上や私のことだって何にも思ってない癖に‼」
「広‼」
「だいっきらいだ‼」
「……そなたたちは……」

 孔明に従い歩いてきた存在に、二人の少年は見上げる。
 滅多に会うこともなかった父親。

「何があった?遊びに来て良いところではないのだぞ?」

 静かにたしなめる子龍に食って掛かろうとした広を押し留め、統は、

「申し訳ありません、将軍。私用にて参謀どのの奥方にお会いしに参りました。終わりましたので、すぐに失礼致します」
「……そうか。しかし、その……」
「何もございません。では、広、失礼しようか」

二人は頭を下げ、帰っていった。
 静かな空気が流れる。
 孔明が、視線をさ迷わせながら……、

「趙将軍のご親族が……亡くなられたのか?」
「……いえ……」

躊躇う夫人の横で、果は、

「おばさまが亡くなったそうです‼自分のものは全て処分し、将来将軍が新しい方をお迎えになられても構わないようにと、準備をされて‼統と広は、軍に入るから、屋敷を頼みますって来たのよ‼将軍が帰ってきても大丈夫なようにって‼」
「……そ、うですか……」

無表情の子龍に、

「将軍‼統と広を追いかけて‼奥さまのお墓はどこか、今までは本当に忙しかったのだから……」
「……それは、無理でしょうな……」

寂しげに微笑む。

「私は夫、父親失格です。息子たちには恨まれ……妻にも、全て処分と言うことだけで……解ります」
「子龍どの。私が……」
「いえ、孔明どの。ありがとうございます。私は、一度だけ……荷物を取りに参ります。それから、軍に留まりましょう……失礼致します」

 頭を下げ、帰っていった背中に、

「本当に失格よ‼」

ぷんぷんと怒る娘に、黄夫人は、

「果?お止めなさい。奥さまは子龍さまの為にとお考えだったようだけれど……哀しいことね」
「何がよ?」
「大切な方の微笑みも姿もなく、屋敷の中にあるのは、ご自分の衣類のみ……。奥方は全てを処分されたと言われていたでしょう?『生きた証は息子たちです。見守って下さい』亡くなったあの方を責めるのはいけないけれど、そこまで綺麗さっぱりと存在そのものを消し去りたいと思う程、将軍を愛して憎んでおられたのかしら……」

囁いた。

「自分の思いを告げて差し上げれば、良かったでしょうに……」



 がらんとした屋敷……。
 ただ、子龍の部屋は綺麗に掃除がされ、衣も整えられていた。
 しかし、子供たちの寝顔を共に見た、妻はいない。

『貴方……花が咲きましたね……来年も一緒に見ましょうね?』

 声が聞こえたような気がして庭を見ると、いつか約束をした桃の花が咲いていた。
 その木に近づき、見上げる。

「……約束を、守れなくて……済まなかった。済まなかった……」



 膝をつき号泣する姿を、戻ってきていた統と広は見つめるしかなかった。

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