守銭奴、迷宮に潜る

きー子

22.竜、覚醒

 宿の部屋に戻ったあと、クロを説得できるような妙案を考える。当然のように思いつかなかった。思いつかなかったので寝た。無闇に考え続けてもいいことはない。下手な長考は下策を引き寄せかねない。それなりに夜も更けていたので、それなら脳を休めたほうがよほどいい。下手な考え休むに似たりといったものだが、考えていたら休めないので休んだ方が何倍もいいに決まっている。

 いつものように、日が昇るより早く目が覚める。こんな日でも身体に染み付いた習慣はやはり健在だ。屈伸などして身体をほぐしながら、やはり考える。いっそ黙って今日一日は宿に放っておくべきかと考える。変に言い訳するよりそのほうがいいのではないか。しかしクロのほうが率先して自分から追ってくるような気がしたのでやはりダメ。むしろクロを孤立させる可能性があるので最悪である。

 そのままつらつらと考え続けて、やっぱり妙案は浮かばなかった。いや、妙案などなかった。そんなものは初めから無かったのだ。クロの安全と休息もかねて今日一日は休んでいてほしい、その一点張りでいく他はない。最善手が力押しとは我ながら愚将である。将の器があるわけもないから仕方がない。なにせ俺は管理職すらやったことがない。これまた習慣でベルトに剣をさし、探索用の荷を整えてコートを肩にかけ、諦念でいっぱいになりながら扉を開く。

「おはよう、ございます」

 クロが扉の前で待ち構えていたので面食らった。待ちぶせからの奇襲である。ここが戦場だったら死んでたな。混乱しすぎてほとんど他人事のように考える。

 あらためてクロの姿を見る。薄手ながらも踝まで覆ってしまう丈長の黒いワンピースに、長袖の白い羽織もの。しっかりと目深に麦わら帽子をかぶり、その内側に長い黒髪を収めている。おさげの髪が零れてしまっている様はいつも通りながら、不思議とほつれや乱れは見当たらない。繰り返すが、今は早朝である。なんというか、準備万端であった。朝駆けを食らったような気持ちになる。死んでいるどころか部隊潰走までありえただろうか。

 なにはともあれ、焦っていても仕方がない。とりあえずは挨拶である。

「おはよう。どうした」
「ウィル、さま」
「うん」
「今日は、どちらに?」

 見事なまでの先制を食らう。すでにクロを連れることを前提する発言である。しかも、わざわざ、この時間から! よもやエリオとの邂逅を知られているのではないかと危ぶまれる感じだが、あの時は周囲に気を配っていたのでそんなわけはない。おそらく、ダナン・ド・ヴォーダンに狙われていることを知った上での行動であろう。しかしそれなら幸いだ。そこが根っこにあるならば付け入る隙はある。目を細め、クロをじっと見据える。

「時に、クロ」
「はい」
「襲われて昨日の今日だ。無理は、しない。休もう」
「ウィルさまも、です?」
「無論だ」
「その格好で、ですか」

 言われて、視線を落としてみる。俺は完膚なきまでに探索者の格好をしていた。嘘が一瞬でばれた。慣れない嘘をつくものではないと心の底から思った。毎日の習慣は基本的に役立つものだが、時には仇になることもあるらしい。そういう次第で、力押しという第一案は呆気無く破綻をきたしてしまった。

 狭い通路で立ち話もいかがなものかと自室にとんぼ返り。あれやこれやと考えたあと、結局正直に洗いざらい話すことにした。つまるところ、エリオから提案された作戦内容の全てである。ただし、クロがいればなお捗るだろうといった趣旨のことはつとめて伏せた。危険を冒すような真似を後押ししてやるわけはなかった。是非もなく今日は大人しくしていてほしい。

「ウィル、さま」
「ああ」
「私が脚をひっぱるから、ですか」
「率直にいえば、そうだ」

 伏し目がちな視線とともに向けられた問いに、頷く。若干酷な気もしたが、これでうろたえてやるわけにはいかない。実際、そう言い切ってもクロが傷ついたような様子は特になかった。実に食わせものであると思う。それだけ自分の能力と、その限界を知悉しているということだろう。だがここで油断してはいけない。クロは刃を引いていない。物思わしげに瞳を細め、虎視眈々と思考を巡らせ、こちらの隙を息を潜めて狙っているのだ。身構えるようにして向かい合う。鍔迫り合いの心地がする。

「つまり、そうでなければ、いいのですね」
「そうだ」

 言葉を選ぶようにして口にされたそれを吟味して、慎重に頷く。いっそ問答無用に否を突きつけようかと思ったが、やめておく。こうなってしまっては、必要なのは納得だ。納得してもらうための説得だ。無理矢理に押し込めたところで、反動から暴発されては本末転倒である。

「迷宮内が、夜でしたら。どうしても、灯りがいります」
「それは斥候と合流するのでまかなえる」
「夜間戦闘は、時間が、かかります。道中を切り抜けるのに、必ずや、お役立ちに」
「利点とリスクが釣り合わない」
「夜間の魔物の生態を、是非」
「それは一月後にな!」

 ひとつ押し込まれるのにあわせてひとつ押し返す。ひとつひとつを勘案して潰していく。クロもまたちょっと頭を押さえるようにして考えている。

「私も、狙い、ならば。そこに、隙を、生じえます」
「優先順位が確かじゃない。はっきりそうとは言えん」
「総合的に判断して、多少なり、利点が上回るはず、です」
「多少ではクロの安全に勝りえない」

 応じながらよくない傾向だと考え始める。俺にとってクロの命は比較的優先されるべきものだが、クロ自身にとっても同じだろうかという問題だ。つまり、価値観の違いである。そこが焦点になると納得からはどうしても遠ざかっていく。軌道修正をはかろうとしたとき、不意に放たれたクロの言葉が思いっきり刺さる。

「"竜"が、蘇れば。私の力は、入り用、です」

 一瞬、言葉につまる。ダナン・ド・ヴォーダンの目的が『竜枝りゅうえ』とやらを用いた竜の復活にあるならば、今回の作戦内容はそれを阻止することだ。つまり、あくまで阻止することを前提に考えているわけだ。竜を蘇らせた、その先──迷宮内部でそんなことをして何になるという疑問は尽きないが、ともかく阻止さえすれば理由まで気にする必要は全くない。だが、もしかなわなかったとすれば。その先の事態を制圧するためには、クロの存在が不可欠であることは確かなように思われた。幼体ならば不可能ではない、とはすでにお墨付きのところである。

「ウィル、さま」
「う、ん」
「お護りすると、仰って、くださいました」
「出来る限りは、な」
「──でしたら。私も、ウィルさま、を」

 つまり、出来るかどうかが問題だ。更に突き詰めていえば死なせたくはないし、それ以上に俺自身が死にたくもないということでもあった。クロを見やりながら立ち上がる。俺を見る気遣わしげな目と目があった。この顔を見られなくなるのは嫌だな、と思った。ふと、袖を引かれる。なので、ただ頷いて応じた。

「わかった」

 そうして、俺が折れることを決めた。

 命は金では買えない。しかしそれにしても、自分の命惜しさが決め手というのは我ながらなんとも情けない感じではあった。


 外が日の出を迎えるより早く、ふたりして迷宮地下二階層へと踏み入る。何時たりとも陽が照っているように思われた空が、今はやけに暗い。黒い太陽──"逆陽"を囲うまばゆいまでの白輪も今はかげり、階層全体に影を落とすのみ。おそらく、外の日の出とすれ違うように迷宮地下二階層の夜が訪れるのだろう。手早くランプに火をつけ、かたわらのクロが灯をともした松明をかかげる。照明としては十分ではないが、最低限の視界はそれで確保できる。

「ウィル、さま」
「ああ」

 頷いて、クロのほうを見やる。灯りにぼんやりと照らしだされる白い肌。ちいさな指先が空の一点を指し示していた。そこにはまるで火の玉のようなものが浮いている。正確にいえば、浮いているというよりは飛んでいた。

「"ヒノトリ"亜種──"ヒクイドリ"、です。灯りを食べられぬよう、ご注意、です」
「そりゃ、厄介な」

 環境が変われば別種も湧き出る、ということか。詳らかに見れば、全身を燃え上がらせる鷲のような魔物──"ヒノトリ"の輪郭によく似ている。迷宮というものはつくづく分からない。しかし、クロのおかげで事前にわかる。自分の至らなさが惜しまれるが、実に重畳と言わざるをえなかった。

 指定された待機場所に向かっていると、まるで炎の熱量をかぎつけたかのように魔物が空から寄り付いてくる。なんだか誘蛾灯じみていた。規則的に羽ばたくその影が刹那、接敵に際して急加速する。一瞬目を見張るが、見切れないほどの速さではない。抜刀して難なく斬り捨てる。部位は持ち帰らない。行軍に支障をきたしては本末転倒だからだ。非常に惜しまれるが、仕方ない。ぐっと飲み込む。稼ぎの分を取り返して余りあるほどの金貨を是非とも勝ち取らねばならない。

 指定場所に辿り着いたころ、"逆陽"からの光が完全に消える。後は灯火と炎を帯びた魔物、そして所々から吹き上がる溶岩だけが頼りだ。あらかたの地形については俺もクロも叩き込んでいるが、進むときにはそれなり以上に気をつける必要がありそうだった。

 果たして暗闇の夜であるせいか、心なし外界魔力マナの濃度も高く感じられるように思う。魔術についてからっきしの俺がそう感じるのだから、おそらく気のせいではない。魔術師にとっては独壇場というわけか。しかし、だからこそおびき寄せられるということでもあり──難儀な話だ。

「クロ」
「はい」
「前には出るなよ」
「承知、しております」
「絶対にだぞ」
「はい」

 力強くこくりと頷く姿を目にする。大丈夫だろうな。大丈夫なはずだ。前振りなどでは決して無い。

 そのまましばらく待機を続けるはらであったが、さほど間を置かないうちに矢文が届く。内容は『ダナン・ド・ヴォーダンの存在を確認』──すなわち、作戦行動開始の合図だった。すかさず登山口に移動すると、灯火を頼りに騎士団員と思しき斥候ひとりを見つけられる。すでに殺されてやしないものかというのがひとつの懸念であったが、幸い杞憂ですんだようだった。軽く会釈すると、頷き返して応じられる。

「目標は?」
「このまま、上に。脇目も振りやしない」
「どこまで、やってくれる」
「五体満足で帰りたい所だな」
「なら、十分すぎる」

 見れば、斥候の彼は二〇にも至っているかという若い男だった。だからこそかもしれないが、こちとら探索者風情である。エリオはよくやってくれているらしい。とはいえ相手は騎士団の麾下である。二つ返事で信用できるわけはない。ちょっと指先で上を示していう。

「後から登ってきてくれ」
「後から?」
「山の途中は細道だ。そこへ斥候に出てる奴らはやられてる可能性が高い。なんなら医者引き連れてきたっていい」
「────、わ、わかった」

 男の顔が少し青い。ひとつボタンを掛け違えば、"やられる"立場にあったと気づいたせいかもしれない。一瞬戸惑った様子だったが、すぐにその場を走り去っていく。彼の役目はすでに果たされているのだから、応援を引き連れに戻ったしても問題はあるまい。医者を護衛するような戦力があるかは分からないが。厄介払いにもなったので万々歳である。その足で山道を急ぐ。

 時間も時間だからか、他のクランの姿といったものはほとんど見当たらない。しかし皆無というわけでもなく、地下二階層の夜という稀有な状況もあってか山岳の裾野には人の気配がしばしばあった。いずれにしても、横槍が入る可能性はあまり無さそうだから良しとする。考えるべきは騎士団をいかに出し抜くかだ。肝要なのは彼らが迎え撃つ側であり、ダナン・ド・ヴォーダンも護り手の存在は予期しているであろうことだった。つまり、奇襲というアドバンテージが俺にはある。それを最大限に活かすためには、最初の一撃で首をとりにいくしかない。

 静かな中に魔物の這いずる音が聞こえる。クロの鋭い声が命じるままに駆けて切り飛ばす。相手にするのはあくまで最小限に抑えていて、ともすればダナンの背後を捕捉出来るのではないかと考えたが、一向にその気配はなかった。一体どういう速度で進んでいるのかと思案しながら中腹にまで至る。クロの姿をちらりと見やる。息は上がっていない。

「ウィル、さま」
「ああ」
「まだまだ、大丈夫です」
「いざとなれば引きずっていくから安心してほしい」
「は、はい」

 流石にひとりで放り出すような真似ができるわけはない。もちろん引きずるわけでもなく、背負ってベルトで縛り付けるつもりだった。クロの分の灯火は諦めざるをえないが、指揮は問題なく受けられるからかえって好都合かもしれない。しかし背を向けられないのは問題だな。なにせ逃げられない。脇に抱えられるほうがいくらか良い。

 中腹から狭まる道を進み続ける。そのとき不意に、倒れた人影を見付けた。そのかたわらには松明が転がり、周囲にはくすぶる火種が燃え続けているものだからすぐに分かった。周辺警戒を瞬時に済ませて駆け寄る。

「息はあるか」

 屈んで声をかける。呻き声が聞こえた。鎧に包まれた胸がわずかに上下している。意識はなさそうだが、死んではいない。傷口は見えないが肉の焼ける不快な臭がした。下手人は明らかだった。ダナンの姿も遠くはないかもしれない。どちらに行ったかを問いかけると、震える指先で示してくれる。ありがたい。手厚い看護をしてやるつもりはないので、もちろん放っていく。俺は知らない、あいつがやった。

「助け、お呼びしました、から」
「運が良けりゃ生きれるよ」

 クロが彼のかたわらに魔物避けの香を置くのを見届けると、足早に急ぐ。いつかの音響爆弾に類するクロの手製の道具である。稼ぎたい俺にとっては無用の長物でしかないが、なるほど役に立つこともあるものだ。

 やがて空が近づくと、襲いかかってくる鳥が増える。頂点に至ればかえって減るものだが、途上においては厄介極まりない奴らだった。進みながら"ヒクイドリ"をダース単位で切り飛ばしたところで、新たな犠牲者を発見。ことここに至れば、斥候といえども逃れ得る場所が中々ない。つまり、男はすでに死体であった。念入りにそうされたというわけではなさそうで、むしろ雑なやり口だ。ただただ火力にあかして薙ぎ払ったという感じ。そっと掌を合わせる。クロが十字を切る。そして先を急ぐ。悠長に弔ってやる暇はない。

 ────そしてついに、視界の端にとらえた。顔が見えたわけではないから確かなことは言えないが、それは闇にとけそうな黒いローブを羽織っていた。裾はぼろぼろに擦り切れていて見るに堪えない。焼け焦げたような痕跡もある。隠そうともせず、あからさまな姿だった。

 さて、どうしたものか。ここで接敵すれば横槍が入ることなくダナンを相手取ることが出来る。ただし仕留めることが出来るかどうか、その確実性はいかんともしがたく薄れる。ゆえに、確実な機を狙うべきであると判断。具体的には他者に攻撃の矛先を向ける──無防備になるまさにその瞬間だ。どういう種を隠しているかわからない以上、それを最善と考える。

 ついに山頂近辺へと至る影を追う。以前に遭遇したはずの"くろいあくま"は見かけられなかった。今が夜であるからかもしれない。あるいは、ダナンもまたかの魔物を嫌っての夜の襲撃なのか。定かでないが、地下第二階層──その頂点へと至る。ダナンが"竜の卵"を直線上に捉えただろう、まさにその瞬間であった。

「来たぞ! 総員迎え────てえッ!!」

 騎士長マリウスの声が高く響く。ほとんど四方から降り注ぐ矢がダナンを串刺しにする。暗闇のせいか、何発かが反れていく。突き刺さった端から矢尻が燃え上がり、半ばで折れて地に落ちる。まるで気にした様子もなくダナンは前へと突き進む。やはり奴は、化け物だ。

「ウィル、さま」

 かすれたような、囁くようなクロの声。

「首のみ、ならず──心の臓、を」

 首を落としても動きそうな気は大いにしていた。頷くばかりで応じて、包囲戦を見やる。"竜の卵"の護衛は騎士たちが崩さぬまま、騎士長マリウスが飛び出す。鋭と繰り出される剣を退かれるように炎の槍が返される。それを咄嗟のところで避けたマリウスに、踏み出しながら追撃の劫火が振り放たれ────

「────ッ!!」

 まさに、ここ。声は発さない。息も吐かない。左足を軽く踏み出し、続く右足に精気をのせ、全力で踏み切る。その一歩でダナンの背後へと肉迫──接地と共に、諸手で握りしめた剣を振り下ろす。宙空左上から右下に、その素っ首を断ち切るように。

 ダナン・ド・ヴォーダンの首が飛ぶ。首を失った胴体が続く矢雨の第二斉射で冗談のような姿になる。まるで針鼠のよう。しかし攻め手は緩めず返す刀ですくい上げるように薙ぐ。心臓を破壊する。

『────』

 その時、なにかが聞こえた。それは理解できる言語ではなかった。声として発せられたものかも分からないが、確かに聞こえたのだ。その方を見ると、胴からわかたれた首が動いていた。その口が、なにかを唱えるかのように動いていた。いつか殺した魔術師──呪文を唱えるかのように泡を吹き続けていた姿が重なる。あの時は何も起こらなかった。いや、まさか。

 乱入の驚愕と、死を確信したせいかにわかに弛緩した空気が流れる。違う。そうじゃない。咄嗟にダナンの頭を砕こうと脚を踏み出した途端、それが燃え上がる。胴体もまた同じ様に。炎は瞬く間に火勢を増して、魔術師の肉をすり潰すかのごとき勢いで灼き尽くしていく。灰と塵が吹き抜ける熱風に流され、騎士たちの隙間を縫っていく。

「貴様ッ、なぜここに──」
「それどころじゃない!」

 マリウスの刺すような声をさえぎって叫ぶ。刹那、魔術師の姿が再現出する。"竜の卵"を固めていた騎士たちの背後に、さながら浮かび上がるかのごとく。ダナンの手の中には掌大──否、更に大きく膨れ上がっていく黄金色の火球があった。あれに、近づいてはいけない。半ば本能的に察して飛び退る。騎士共には犠牲になってもらって構わない。クロを前にして確かめ、かぶさるように俺の背中を壁にする。

 火球がダナンの掌中でひときわ収縮し、わななく。今にも危うげに震える。思わず目を瞑ってしまいそうな光条が四方八方に放射され、次の瞬間に爆撃音と熱風が吹き荒れた。その最中、耳をちいさな手にふさがれる。クロの手だった。間近での爆音──耳が駄目にならなかったのは幸いだ。直視していれば目もいかれていたかもしれない。ずっと暗闇を目にしていたところにこの光量はつらい。

「ひ────ひ」

 やがて光が収まるのに交わり、狂ったような笑い声が響く。振り返ればそこにダナン・ド・ヴォーダンはいまだ健在であった。"竜の卵"を守っていた騎士の姿はすでにない。吹き飛ばされたか、あるいは跡形もなく消し飛んだか。至近距離で受ければああなるのだと思いながら、ダナンのかたわらにある"竜の卵"には傷ひとつさえないのが不思議だった。マリウスは盾をかざした姿で耐え忍んでいる。ち。エリオを筆頭とする弓兵部隊は身を伏せる物陰をまとめて剥ぎ取られた格好であった。

「惜しい。実に惜しい。しかしこれまで────」

 相対するダナンは何も見ていない。ぼんやりと宙空を眺めているものだから、その言葉を誰に言っているのかさえもわからない。マリウスが突撃をかけるのを炎の壁でいなして、緩慢な仕草で懐を探りだす。その手に取り上げられたものはなにか、暗闇ではっきりと見えないが金属の輝きをかすかに瞬かせた。

 その手を狙うように、引き絞られた弓から矢が飛ぶ。エリオのそれだ。正確無比な射撃はその手を射抜く軌跡をたどり、そしてその途中で静止し、燃え上がって地に落ちた。まるで炎の掌に掴み取られたような様子だった。

 続く矢に合わせ踏み込む。足りない。速度が、彼我の距離を埋めるにはあまりにも足りない。

「竜の再誕、ここに為さん」

 ダナンはその手の中にあるちいさな金属器を、振りかざす。とても剣とはいえないが、先端は輝きを返すほどに鋭利に見えた。おそらくは『竜枝りゅうえ』と思しきそれを、"竜の卵"へと──突き入れる。勢いのままに、押し込まれた。

 夜の闇に光が走る。大地が鳴動する。高さにして3mほどもある"竜の卵"が小刻みに揺れ始める。視界が揺らいで足元さえ覚束なくなりそうな地鳴りの中、ダナンの高笑いが絶え間なく響き続ける。「竜王よこの地を領土とし支配せよこの地を汝が宮とし足掛かりに世界に破滅を混沌を────」だめだ。やつは狂っている。言葉を耳に入れる価値がないので左から右に流す。

「クロ、これ、幼体にしては、大層な!」
「おかしい、です、この、揺れ、もしかして──」
「もしかして、なんだッ!?」

 何だかとてつもなくろくでもないことを聞かされそうな気がする。『竜枝』とやらが本体の力を爆発的に膨れ上がらせるとか、そんな力があるのだとすれば思わず諸手を上げて投げ出したくなる。いや、すでに逃げ出していてしかるべき状況だろう。弓兵隊の面々だって今にも逃げたそうにしている。腰が引けていた。この地震さえなければ部隊の潰走はほとんど約束されたようなものだった。

「もしかして、あれは、一部かも──」

 ひときわ強く大地が鳴動した瞬間、クロが足を取られてすっこける。一部、一部ってなんだ。いやもしかして。揺らぐ視界で必死に捉える向こう側、白い繭にも似た"竜の卵"に蜘蛛の巣めいた罅が走る。それはまるで内側から溢れる力を留めかねるように溢れて、弾け飛ぶ前兆のようにも思われた。

 瞬間、"竜の卵"を食い破って現れる。夜闇にあっても克明な存在感を示す紅蓮の鱗。分厚く強靭な皮膚。巨大な一対の牙。見るに悍ましい大顎。ギョロギョロと周囲を睥睨する、炎のような激しさを灯した双眸。それは、竜だ。

 3mほどもある、竜の頭だった。

「お、おお、お────」

 時間が止まったような感覚を味わわされる中で、ひとりダナンが感極まったような奇声をあげている。竜はのっそりとした動きで首をもたげると大口を開く。

「おおぉ────ギャッ」

 竜はその乱杭歯でダナンの上半身を食い千切った。上半身がいとも簡単に半身と別れを告げる。赤い噴水を吹き上げる下半身といういかにも悪趣味なオブジェが出来上がる。乱暴に男を咀嚼した竜がげっぷのように喉を鳴らすと、拍子に吹き出した吐息が炎のようにその下半身を灼き尽くした。ダナン・ド・ヴォーダンは死んだ。跡形もなく消えた。もはや蘇ることはなかった。

 依然として目の前にあるのは、巨大な竜の頭。だが、果たして頭だけで、その下が無いなんてことがあるのだろうか。当然、そんなわけがなかった。

 竜は重く低い声を発すると、視線が順繰りに周囲へと向けられる。何を見るともなく見る。虫けら程度にさえも認識しているのか、わからない。瞬間、巨大な風の唸りがどこかから聞こえる。まるで羽ばたきのように。音源は、真下。もし、この下に竜の体があるとして。この下が空洞であるとするのならば。どうなる?

「下がれ! 全員死ぬぞッ!!」

 言うまでもなかった。ほとんど押し寄せるように総員が降り口へと殺到している。クロを小脇に抱えるようにして退避する。──あと一歩遅れていれば、そういうところで地面が盛り上がる。みしみしと大地の軋む音がする。そして、爆ぜた。

 ────階層全域。否、階層の壁を突き抜けてさえも響き渡りそうな竜の咆哮がほとばしる。山頂の底面をぶち抜いて、岩を瓦礫のように飛び散らかしながら空にまごうことなき"竜"が飛翔する。全長にして十数mか、あるいはそれ以上。ちょっと見ただけではまるで分からない。決定的に規模が違う。絶望的に種族が違う。衝撃波さえもともなっていそうな共鳴に押しやられ、両翼の羽ばたきに荒れ狂う突風にかき回されて地を転がる。這いつくばる。クロを下敷きにするような真似だけはなんとか避けた。

 砂や埃にすすけたような風体で顔だけあげて、クロがいう。

「ウィル、さま」
「ああ」
「逃げましょう」
「逃げます」

 是非もなかった。

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