守銭奴、迷宮に潜る

きー子

17.波乱の前ぶれはいつも平穏

 翌日。服を買うことにした。そもそも帽子だけという考えが間違っていた。クロの服装は暗色のローブとフードを基調としていていかにも"魔女"らしかったが、これがまず間違っている。黒色は暑すぎる。迷宮の外ならばなんら問題ないが、地下二階層においてはこれがクロの体力を蝕んでいたことは明らかであった。ゆえに、今日は探索は休業である。思えば、久方ぶりの休日の気がする。服を買うのだ。

 フラウにはしきりに"ピクシーの悪戯"なる女物の洋装店を推された。以前も紹介された気がする。俺に。

 実際のところ俺はなんでも良かったわけだが、クロが全力で拒んだ。嫌がるのが面白かったので試しにと向かってみようものなら、腕にしがみついて引っ張られる始末であった。歯まで立てられた。"ピクシーの悪戯"はなんだか華々しくて、ピンク色で、そして日光の照り返しでやけに輝かしかった。店のまわりにはところ狭しと花壇やらなにやらが敷きつめられていて、ひどくきらびやかだ。俺ひとりなら絶対に入らないだろう。

「私ひとりでも、入りません」
「ふたりなら、どうだ」
「入りません」
「だよな」
「はい」

 そういうわけで、つつがなくアミエーラの元へ向かうことになった。それなりに日を開けていたところだからちょうど良かった。相も変わらず秘めやかなたたずまいの仕立て屋へと向かう。一応の礼儀とばかりにノックをしてみると、あくび混じりの応答があって屋内に入る許しを得る。特になくても入るつもりだったが。

「いらっしゃいー……また来た」
「そんなに最近でも無かったと思うんだが」
「そだっけ」

 一週間くらいは経っているはずだと思う。掴みどころのなさではクロといい勝負であろう。そこにいるはずなのにするりと手からすり抜けていくのがクロとしたら、アミエーラははじめっからここにいないようなものだ。心ここにあらずを突き詰めすぎている。

「ウィル、さま」
「うん」
「大丈夫、なのでしょうか……」
「ちょっと自信がなくなってきた」

 しかし、と上から着ているコートの裾をつまみ上げている。今やこの外套は探索で欠かせない装備となっている。そしてこれの仕手は、まごうことなく彼女なのだった。その腕前を疑う余地は一片たりともない。

「……今日は、そっちの子?」
「そういうこと。クロだ」

 結局、隠しもしていない右手の甲をひるがえす。クロの左手甲にも同じくする十字剣の紋様。名乗りとともにちいさく頭をさげるクロを目にして、アミエーラがまるでずり落ちるように椅子から立つ。馬の尻尾のようなひとつ結びがゆらゆらと揺れ、彼女は颯爽と長物を手にクロへと迫る。長物、すなわち物差しであった。自分のときもああだったな、と俺はのんびり考えながら眺めている。

「動かないで」
「ひ、あ、はい」

 てきぱきと流れるような動作で彼女が採寸をすませていく。クロが若干機械細工じみてぎくしゃくとしている。借りてきた猫みたいだな、と俺はのんびり考えながら眺めている。改まったように彼女はクロに向かって問う。

「……どういうのにする?」
「最低限、動きやすそうなの、です」

 ざっくばらんすぎる。

「そういうことはお婆様には教わらなかったのか」
「なるべく、目立たぬように、と」
「思いっきり目立ってるぞ、あれ」
「えっ」
「えっ?」

 あれで隠れてるつもりだったのか。確かに隠者めいた格好なのは間違いがないが。迷彩服を町中で着ていれば死ぬほど目立つ。つまりそういうことだった。

 しかたがないので俺がちょっと考える。もちろん機能性重視である。意匠のことなどわかるわけがなかった。

「……そうだな、涼しく、通気性がよく、ついでに肌は出ないほうがいいんじゃないか」
「ウィル、さま」
「ああ」
「そういう、趣味ですか」
「そういう話じゃねえ」
「では、肌が出るほうが、いいですか」
「それは断じて違う!」

 断然控えめのほうが好みである。いや、違う。そうじゃない。クロがなにか得心した顔になっている。落ち着け。

 失敬。深呼吸して口を開く。アミエーラが割り箸を刺したナスを見るような目で俺を見ている。なんだその目は。

「あと、日除けに帽子があればなおいい。火に耐性があれば最高だな」
「んー……」

 ふと思わしげにした後、アミエーラがふと上を指さした。そのまま歩き出す。ついてくるように、ということなのだろう。埃っぽい床やら布切れに糸くずが垣間見える床を抜け、クロとふたりして階上へ。

 二階はさすがに一階ほど薄暗くはなく、差しこむ正午の昼に照らされてほどよく明るい。二階は居住スペースか何かになっているのかと思っていたが、そんなことは全くなかった。つまりアミエーラは一階の惨状ともいうべき仕事場で寝起きしているということになる。ちょっとどうかしていると思う。

「こ、れ」

 クロが一瞬、長い前髪の下にひめられた瞳をまたたかせる。俺も釣られて同じほうを見て、ちょっと驚いた。そこに全く知らない人がいるように見えたからだった。しかし実際はなんのことはない。真っ白のマネキンである。決して綺麗とは言いがたいが人体をよく模していて、その輪郭には崩れがないように見える。よく出来ていた。近づいてよく見てみればしっかり服を着せられていて、驚いた自分がちょっと間抜けだった。

「体格──……あたしとそう変わりないから。試着もだいじょうぶ」
「せっかくだし、試してみるか」
「わ、わたしは、いいです」
「クロがやらなきゃ誰がやる」

 この後に探索の予定があるわけでもないから、時間はありあまっているのだった。アミエーラが流れるようにそれ用の着衣を引き渡す。試着用に仕切りがあって、天幕が垂れ下がり壁となっているほうへと俺が押す。見事なまでの仕事人間ぶりだった。俺もそうだからわかる。ハイタッチでもしたいどころであったが、あいにく通じないだろう。残念。

 仕切りの向こう側から衣擦れの音がする。黒い布切れがするりと床に落ちる。露わになった白いくるぶしが見える。失敗した。またはかられた。落ち着け、魔女の罠だ。完全に自業自得であることを自覚しながらもつとめて無心になり、天井を見上げてシミを数える作業に従事しはじめる。

「かなり、張ると思う──いい?」

 不意にアミエーラの声。視線を戻して頷く。少しでなくかなりと言ってくれるのに誠実さを感じる。ありがたい。

「女物ならそうなるだろ。どれくらいかはわからんが」

 少なくとも男物よりははるかに高いと相場が決まっている。加えて耐性付加エンチャント──それに要する魔物の部位や手間を考えたら倍率がかかるかもしれない。今の手持ちは概算して5000ENである。足りるかな。たぶんなんとかなるだろうと思いたいところ。

「一式2500EN」

 目玉飛び出るかと思った。

 俺の目玉どこ?

「そこに」
「良かった」

 まぶたを押さえる。目玉は無事だった。それはいいが予想以上だった。流石にこれに間を置かず頷けるほど太っ腹ではありえない。使ったぶんは稼ぐ。それが俺のいわゆる信条といってよく、数日かければ取り戻せる金額には違いなかったが、ちょっとすごい。かといって値切るのもどうかと考える。ご贔屓にといった手前、懇意にしたいと考えているのが本当のところだ。アミエーラはちょっと困ったように頭が揺れている様子だった。つられて馬の尻尾も揺れている。

「わかった」

 重々しく頷く。眠たげだった彼女の瞳が見開かれる。俺は着替え途中であろうクロの方を一瞥したあと、いった。

「3000EN出す。もう何着かいかせてくれ」
「がってん」
「わ、わたしの意志は、どこに!」

 金は大事だ。だが、金は貯めるだけでは意味が無い。そしてクロは大事だ。稼ぎの要であるところのクロが万全であるためにも、装備は必須だった。予備もあればなおいい。だから今はおとなしく着飾られてくれ。そういうことだった。

 一着目。普段のローブ姿とあまり変わりはないが、表になる色合いが違うだけでずいぶん印象が変わる。黒のワンピーススカートに、白い上着。ひらひらと棚引く感じで、羽衣というイメージが脳裏に浮かぶ。いずれも薄手で袖口が広くつくられており、通気性は十分だろう。裾は足首の上くらいまで。強いていうならば問題は耐久性か。アミエーラの腕に期待したいところだった。

「んー……」

 アミエーラがおもむろに駆けまわって、どこかから帽子を引っ張り出してくる。それをクロに手渡した。クロはそれを目深に、ほとんど顔を隠すようにしてかぶる。押しこむように頭上を押さえる。そんなに。

「……麦わら帽子」
「いいな」
「いい……」
「よく、ないです」

 頭の部分にあたる丸いところに黒いリボンが巻いてあるのが一味あって可愛らしい。とてもいい。意匠などわかるわけがないと言ったが、撤回する。いいものはいい。俺が今着ているコートを気に入っているように、とても良い。

 次へ。二着目。純白のワンピース。それひとつ切りというきわめてシンプルな選択が光る。足取りにつれて裾がふわっと膨れる。そこに麦わら帽子をあわせる。クロの長い黒髪が収まりきらずにこぼれて棚引く。素朴ながらも理知的なワンピースの少女という幻想がそこにあった。

「んー……」
「いや、いい。とてもいい。かえっていい」
「ウィルきもちわるい」
「はい」

 アミエーラにたしなめられてしまった。同感である。気持ちだけは正座しておく。前世にまで遡ってさえも長らく見たことのない、いやもはや見ることの決してかなわないであろう神秘的な光景を目にして昂ってしまった。いけない。魔女の罠だ。当のクロはすこぶる頬を赤らめて引っ込んでいた。とてつもない罪悪感に襲われる。俺はクズだな。

 三着目。何と呼んだものかわからないが、どことはなしに民族衣装的な感じ。それでいてイスラームとかその辺の気配がする。肌を全く隠し切っているからだった。藍色の衣装に臙脂色のスカーフで髪も半ば伏せていて、クロほど長い髪がなければ全く秘めてしまっていることだろう。

「これは、いいです」
「んー……あり」
「こういうのでいいんだよこういうので」

 四着目。なめらかな感じがする淡紅の布地のレオタード。格子目の黒いタイツ。兎の耳。バニースーツ。

 さすがのクロも着ていなかった。手に取った瞬間からその不条理さが知れるからだった。むしろ床に叩きつけんばかりの勢いである。当たり前だった。通気性もへったくれもない。色気だけは──いや、クロではそれは厳しいか。厳しいな。

「だめ?」
「だめです!!」

 今までにないくらい力いっぱいの拒絶だった。なぜか俺まで睨まれた。いらぬことを考えていたのが勘付かれたのかもしれない。すまん。

「アミエーラ。これはない。なぜつくった」

 そしてなぜ持ってきた。憤激である。いや、怒ることでもないが。力強く抗議する。そのうちにクロがしきりの内側に戻っている。全くもって正解であった。

「……わかる?」
「ああ」
「あたしも、脚は隠すほうが、いいと思ってた」
「そういう話じゃねえよ!」
「……でも、これは高いから」
「買わねえから!!」

 総括。

 お代は3000EN。三着をお買い上げ。それぞれに"彷徨う火蜥蜴"や"ヒノトリ"など魔物の部位を織り込み、炎への耐性を得る。探索用のものについては明日のうちに仕立てるものとして構わないとのこと。

「ウィル、さま」
「ああ」

 帰り路、神妙にクロがつぶやく。さまはよせ、とも今はいわない。その頭の上にはフードでなく、麦わら帽子がある。迷宮の外でもあるものだから、だいぶ涼しげだった。それは結構気に入ったらしい。

「お礼を、言いたいのですが、素直にいえない気持ちです」
「いいんだ」

 疲れ切っていたので仕方ない。たぶんクロはもっと疲れているだろうと思う。空はすでに紅く、陽がかたむいていた。今日は帰ろう。帰ってゆっくり休もう。そして3000ENをすり減らした財布を思い、少しだけ、泣いた。


 何はともあれ、探索に明け暮れることにした。地下二階層を拠点として、三日ほど。二日目時点ですでに3000ENは取り戻していて、その三日目が今日である。幸い新しく仕立てた装備の効き目はてきめんであり、ランプの火が一周するほどの時間はさほど労なく探索を継続することが出来た。実地での調査を経てのち、今日は二周分の探索を行っても問題はないだろうという判断である。

 クロは長めの黒いワンピースに白い羽衣、麦わら帽子という出で立ち。髪をわければかなりこざっぱりとするが、そこは変わらないままだった。俺が何かをいうところでもない。むしろそのほうが落ち着く。それに俺のほうこそ全く装備を変えていないのだ。暑さよりも血肉を引っ被るほうがだいぶ耐え難かった。その点の心配はクロにはないので問題ない。安心である。

「ウィル、さま」
「うん」
「あまり、汗をかかない、ですね」
「よくわかったな」

 クロの双眸がこちらをじっと見てくる。いつも見ているのだからと言わんばかりであった。

「体質、でしょうか」
「後天的だけどな」

 頷く。理由は明確にあった。特に隠すようなことでもない。ちょっとクロを一瞥して周囲を見渡したあと、気負うでもなく話しだす。

「──むかし、剣の師に冬の深い森に放り出された。一月ほど」
「よく、いきてます」
「死にかけたな」

 笑って言う。というか、もはや笑うしかなかった。今となっては笑い話としか言いようがないので、そうしている。ともあれ、その経験があるからこそ逃げ出さず戦闘に身を投げ出せる。殺生も、まあやる。糧のためならやる。つまり金稼ぎだ。稼ぐためならやるに決まっていた。

「起きたら、寝汗が凍っててえらいことになった。そういうのが何日かあって、しまいには目に入ったりして、ひどかったな。瞼開かなくなったり。で、いつの間にかあまり汗が出なくなった」
「それで、どうなったの、です」
「えらいことになった」
「そ、そっちじゃなく」

 歩を進める。今は麓を離れて山道を上り詰め、同じ高さのところを周回するようにしている。その円を少しずつ縮めるような足跡、つまり螺旋を描いて頂きへと至る手はずであった。今はまだランプの火も半周をこしたところ、今日中には探索を詰められるかもしれない。無理のない速度で歩み、後につくクロと出来るだけ離れないようつとめる。

「無事、だったのですか」
「見ての通りな」

 特に視力を損ねたりはしていないし、四肢を落としたわけでもない。なんだか間の抜けたクロの言葉に思わず笑ってしまった。

 クロはふと小走りになると、俺のすぐ隣までよってくる。袖を引かれる。こはなにごとか。

「ウィル、さま。剣術に諸流諸派ありし、と、お婆様から聞きましたが」
「うん」
「そんな修行、聞いたことがない、です」
「修行というか、それで習うのを許された感じだな」

 頭がおかしい人を見る目で見られている。クロにいわれる筋合いはない気がする。ふと、出くわした溶岩溜まりに浮かぶ大きな蜘蛛の姿をした魔物──"火渡り蜘蛛"の頭をとっさの指揮に応じてすくい上げるように叩き潰す。尻に内臓された糸は良い値がつくので、溶岩に沈ませぬようにうまくやるのだった。さすがに三日目ともなって何度も相対した魔物であるから、すでに対処も問題ない。

「以前の、火蜥蜴の、ことです」
「ああ」

 言われて頷く。それはよく覚えている。小型の竜──どちらかといえば爬虫類に近しい魔物、"彷徨う火蜥蜴"についてである。俺は大したこととも考えていなかったのだが、クロはしきりに夜になると頭を抱えてうんうん唸りながら考えこんでいたりした。よほど悩ませられているらしい。変異種のたぐいではないかとも考えたが、それにしてはあまりにも外見や内臓にも変化が見られないとのこと。

 余談だが、殺して解体した魔物の内臓やら断面やらをしきりに観察するクロの姿はそれなりに落ち着くものがある。そしてサイコだ。

「他のクランが戦ってるところも、見られましたけども。やっぱり、変異と思わしいところは、ないです。──なので、やはり理由は、ウィルさまにあるのです」
「俺か」
「はい。正確にいえば、ウィルさまの流派に、です」

 心当たりは、と首をかしげるクロに、ひとまず俺は一から噛み砕いて説明することにする。

 そもそも人が振るう剣には限界がある。有効な動きはそれこそ決まりきっているといっていい。この決まりきった基本、それが剣術だ。どの流派の者を師とするかによって細かな差異は必然的に生ずるだろうが、この基本に大差は生まれない。人の腕は二本しかないし、脚も二本しかない。そして四肢を自在に扱うだけでも、十分に手一杯なのだ。それが限界というものだ。

 その基本に、ある理念を混ぜ込む。例えば守るを第一とするか、攻めを第一とするか。人を殺すことを目的とするか、獣を狩ることを目的とするか。その理念にしたがって基本の剣術を変化させたもの──これがこの世界の"流派剣術"というものだ。代表的なものは人喰流や獣殺流など、仮想敵を明確に定めたものであった。主流といえる多数派の流派はさらに派閥で細かく枝分かれしており、もはやまともに把握できたものではない。その流派である自覚さえなく剣を振っていることさえ珍しくないという。

 一方で獣殺流の手練などは、3Mにも及ぶひぐまをただの一刀のもとに斬り伏せるものまで存在するらしい。何がそうさせるのかはわからない。神業というほか無かった。

 だいたいを飲み込んだようで、歩きながらクロが静かに頷く。歩は緩めていない。岩陰から襲い来る魔物を露払いとして斬り伏せながら順調に山道を行く。例え雑魚であっても無心に集めるべきだ。後できいてくる。刈り取る時間でほどよい小休憩にもなるから、よほど囲まれない限りは欠かさないようにする。その最中はクロが周囲に警戒の視線を走らせていて、集中できるおかげで作業時間自体が短く済む。実にいい。

「……と、なりますと。ウィルさまの、は……?」
「それがわからん」
「えっ」
「あー……」

 がしがしと髪をかく。よくない癖だな。少しだけ困った後、口を開く。

「それは教えるものではない、と言われてそのまま、だ。お手上げだな」

 とはいえ、手がかりはないでもない。俺の剣はどちらかといえば獣殺しのそれに近い。間合い外から一気に踏み込んで一撃で斬り捨てることがまず基本にある。その上で継戦のために間合いを取る技も持ちあわせており、一撃で仕留め切れない大型の魔物を考慮に入れているものである。剣術における基本の中では、刺突をきらう傾向にある。放った後で隙を生じやすいからだろう。加えて身軽であることが望ましく、軽業じみた動きを取り入れていて、そもそも敵の攻撃を受けることを前提にしていないことがわかる。

 取り留めもなく語る言葉をクロが時おり拾い上げて書きとめている。こんな話が何かの役に立てばいいのだが。ふと下を見れば山道は中腹をいくらか過ぎていて、これは帰りが難儀するなと思う。ロープでも張って上り降り出来るようにしてしまおうか。しかし魔物の手出しを考えると難しそうだった。

「ウィル、さま!」

 考えていたとき、ふとクロが驚いたように飛び出した。ちいさな歩幅が俺を追い越していく。元気そうなので安心する。ぴったりと後についていきながら、クロが指さしていたものを見つける。それは溶岩の上を渡る"火渡り蜘蛛"に少しだけ似ていたが、違った。蜘蛛のように毛の生えた脚とは違い、もっと細くて頼りない足だった。アメンボともなんともつかない姿だが、アメンボならばこんな姿を晒したりはしないだろう。

「"火沈む大蚊"です」
「沈んでないか」
「はい。沈んで、ます。名前のとおり」

 クロの瞳がきらきらと輝いている。それは六本の足と二枚の翅をたたえた巨大なアメンボ──というよりは蚊というべきなのだろうか。足先はゆっくりと溶岩に沈んで、ぷるぷると痙攣している。生まれたての子鹿のようだった。まだそっちのほうがしっかりしているかもしれない。率直にいうが、馬鹿みたいだった。

「とても、珍しいです。資料として、高値がつくかと」
「なんだと」

 こんな意味のわからない魔物が珍しいのか。いや、こんなものがあふれていても困るが。意味がわからないからこそ珍しいのかもしれない。いずれにしても金になるのならば全く問題はない。むしろありがたい。

「叩いていいか」
「も、もうちょっとだけ……」

 クロが哀れみを誘う目で見てきたのでそっと目をそらして頷く。周囲を警戒しながらしばらく待つ。一分ほどして、クロがいきなり悲鳴をあげた。

「あっ……」

 瞬間的に視線を戻す。

 そこには六本の足がバラバラになった"火沈む大蚊"の姿があった。跳ねて溶岩から飛び出そうとしたのだろう、幸いにして死体は地面のほうに散らばっている。その反動で足が自壊したのだろうか。勝手に出来上がってしまった猟奇的な死体を戦利品の袋につめこみながら、いう。ひどく神妙な気持ちだった。

「クロ」
「はい」
「本当に、珍しいのか、こいつ」
「すごく、です」

 クロはそれこそ珍しいくらいにはっきりと頷いて、目を上げて言い切る。

「弱すぎて、人に見つかる前に、死んでしまうんです」
「左様か」

 馬鹿なんじゃないかな。ちょっと頭を抱えた。

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