守銭奴、迷宮に潜る
05.宿の面々はさわがしい
寝坊などすることは全くなく、夜明けとともに目が覚めた。十年間の森での修行生活のたまものである。なにせ夜にできることなど何もないから、いやでも寝る。早く寝たら早く起きる。それを今でも引きずっているという次第であった。
窓から眺める外はまだ少し薄暗い。軽く屈伸、柔軟などをして目が冴えてくるのを待つ。やがて聞こえてくる鳥のさえずり、そして日の出。窓から顔をのぞかせ空を見上げれば、天気は良好。探索日和である。迷宮に地上の天気は関係ないが。
厠をすませて一階にいく。朝食にはまだ早いが、野暮用というやつ。昨日ひどいことになった衣服を洗濯しておきたかったのだ。使いものになるかは分からないが。血やらが染み付いていたらさっさと捨ててしまおう。水場はどこだろう、ということで不承不承メリアさんを探す。彼女は広めの台所でなかなか忙しそうにしていた。ひとりで切り盛りしている様子である。
「あらぁ、おはよう、ウィルちゃん。どうかしたかしら? ご飯はいま支度してるところだから、待ってるのよぉ」
「おはようございます。ちょっと水を使わせてもらいたいんですが。洗い物を──」
「ま! そんなのいいわよ、かごに入れておいたら私がやっておくのに」
「いや、ちょっと着れるようになるかわかりませんので……」
「そーぉ? えらいわねえ、それじゃ、あっちの隅よ。水は汲んで置いてあるから好きに使ってちょうだい」
どうも、と礼をいってメリアさんの指差すほうにしたがって行く。なんでかこの人の前だと丁寧語になってしまう。恐怖感からかもしれない。しかし、それにしても異常なまでにサービスが行き届いている。その割には他の客が見当たらない。他の宿屋もこんなものなのだろうか。だとすれば競争が激しすぎると思うのだが。
洗い場はギルドのそれと変わりない内装だが、向こうとは比べ物にならないほど綺麗に磨き上げられていた。隅の方にいくつか水を汲まれた桶が並んでいる。そのかたわらには空のたらいが積んであった。水にふれてみると、まだ全然冷たい。取り置きのものではなく、おそらく早朝に井戸から汲み上げてきたのだろう。
取りあえずたらいに汚れた服を放り込み、水をいくらか頂戴する。そして洗い場の方に向かうと、そこで初めて人の姿が目に入った。背中しか見えなかったが、たぶん女性だろう。メリアさんのようなサプライズがない限りは。天丼は勘弁してもらいたい。
「後から失礼します、と」
備え付けの固形石鹸があったのでお借りする。一応の礼儀と声をかけてから腰を下ろせば、かたわらの彼女が向き直ってくる。クリーム色の短い髪。少女、といっても十七か十八か、そこら。面差しは濡れていて、目はいまだに寝ぼけ眼。ちょうど顔を洗っていたのだろう。端的にいって可愛らしいんじゃないだろうか、とひとごと。彼女は俺の存在に気づくなり口を開いた。
「ぴゃ────っ!?」
ひどく素っ頓狂な声をあげ、ほとんど閉じていた目がまんまるに見開かれて、まるで飛び上がるような勢いで逃げていった。
……なんだったのか。
非常に不条理な申し訳無さに襲われながらも、ひとまず洗濯に注力する。無心になってもみ洗いする。布地がだめになるのは今さらのことである。ともかく汚れはなんとかなりそうだった。外にでるときまで着ようとは思わないが、寝着くらいにはなるだろう。本当にだめになったときは裁断して手ぬぐいにでもするまでだ。
そんなことをしていると、なんだか入口の方がやかましかった。いやに賑やかだ。不穏に思うよりも、この宿にきちんと客が入っていることに安心した。なんだろう、と振り返るとそこには女性が三人。いや、もう一人。つまり、三人の後ろに隠れるみたいにさっきの少女もいたのだった。なぜ警戒されているのだろう。まさか痴漢などと思われていないだろうな。痴漢冤罪に怯えるのはごめんだ。
「おー、すまんね、兄ちゃん。騒がしくしとって」
ひらひら、と一番背の高い少女が手を振る。道着──俺の語彙ではそうとしか言い様がない、ともかく薄手で動きやすそうな胴衣にズボン、そして上から半袖の羽織を重ねた姿。赤髪は三つ編みにまとめていて、いかにも無手の格闘家といった風貌だ。実際、その手にはテーピングのように包帯が巻きつけられている。右隣には堅物そうな青い長髪の女。左隣にはむやみに目の細いぽやーっとしたブロンドの少女。その背後でやたらとおどおどしているのがさっきの少女だった。隠れているつもりかもしれないが、それなりに背丈があるせいではみ出ている。
「どうも──どうかしたか。何か怖がらせてみたいなんだけど」
背後の少女を見る。するとますます隠れる。参った。お手上げである。赤髪の女がからからと気さくに笑ったあと、改まっていう。
「ああ、フィリア、こいつなー、どうにもこうにも男が苦手でなあ。いっつもこうってわけやないけど、ここはうちら以外には誰もおらんと思っとったから、びっくりしたみたいやね。堪忍したってや」
「なるほど」
後ろの少女──フィリアと呼ばれた彼女がほとんど震えながらもこくこくと頷く。理不尽な指弾を食らうわけではなさそうなのでひとまずは安心した。面倒を避けるためにも昨日のうちに挨拶をすませておけば良かったか。いや、深夜に挨拶にいくのは迷惑すぎる。夜這いか何か?
「……本当に何もしてないだろうな?」青髪の疑念。不埒な思考を読んだのだろうか。勘が良すぎる。フィリアが必死で首を振っている。
「アホウ、人様うたがってどないすんの。これからよろしくすんねやで」いさめる赤髪。あなたは人が良すぎやしないか。
「メリアさんは平気なのにねぇ」ブロンド女のおっとりとした声。俺も疑問になったところだった。このブロンドは少し鋭そう。
それにしてもかしましいことこの上なかった。取りあえず割って入る。
「すまんね、挨拶が遅れた。ウィル。ウィル・ヘルムートだ。よろしく」
「うちがアカネ。そこのカタブツがアオイ。バカっぽいのがフラウ。そんでビビリがフィリア。四人でクラン『ライラック』や。よろしゅうね」
「ちょっとぉ、バカはあんまりじゃないのぉ?」
「こ、こわがりじゃないです……」
好き放題いいっぱなしだが、それだけ仲が良さそうでもある。ひどくかしましいが俺のほうは名前を覚えるのに忙しいので放っておく。こればかりはどうにも苦労する。後でしっかりとメモに残しておくとしよう。
「ウィルどのは誰かと一緒ではないのか」
何の気ない言葉だと思うのだが、アオイにいわれるとやけに震えるものがある。敵情視察でも受けているような気分。思い過ごしだと思いたい。
「昨日来たばっかりなんだ。しばらくは一人でいると思う」
「……そうか」
アオイが一瞬思わしげにする。
「フィリアがいるからな、共には出来ないが……なるたけ助けあおうじゃないか。情報とか、融通できることもあるだろう」
なるほど、と頷く。開口一番疑いをかけられたときにはどうなるかと思ったが、心配性が高じているのかもしれない。たかが一新人にすぎない俺にこういってくれるのも、たぶん、一人でいるからあっさりとおっ死んでしまうことを考えているんだろう。
「そりゃ、ありがたい。なにせ分からんことだらけだ」
「アオイちゃん、珍しく優しいねぇ?」
「メリアどのには世話になっているからな。少ない客を私達のせいで逃したとあっては顔向けが出来まい」
どちらかといえばそのメリアさんがために逃げ出しそうではある。たとえ短くともあと6日はお世話になるのは確定しているのだが。
「さ、そろそろご飯やで、行かな。ウィルはん、また後でなー!」
桶など片付け、改めて引き上げていく四人を見送る。なんだかえらく静かになった。そして朝でありながらすでにして疲れた。もう一度布団に潜り込んだら余裕で寝られる気がする。
──そして目の前の洗濯はびっくりするくらい進んでいないという現実に打ちのめされた。そして投げ出した。諦めよう。思えば死ぬほど腹が減っていた。半日以上、ずっとなにも食べていない。飯を。飯。
朝食は食堂──といっても全く大層なものではなく、"杉の雫"亭の一階にある一室だ。部屋の面積の半分以上を占拠するような長テーブルがあって、人数分の食事が用意されているので勝手知ったるままに取って食べる。席は自由。今日の品目は以下の通り。
黒パン。いかにもかたそうだが意外に硬くもなく、柔らかくもなく。噛めば噛むほど味が出る。ベーコンエッグ。とてもオーソドックスな一品である。ベーコンは油で揚げるように焼いているのだろう、カリカリとした食感がとてもいい。スープはトマトベースに野菜がメイン。パンとスープはお代わりあり。
かしましい面子と食事を共にするのか……などという憂慮は全くの杞憂で、欠食児童かなにかのような勢いで食してしまった。率直に言って、この十五年の中で一番美味かった。スープは二杯いただいた。満足である。
「ごちそうさまでした」
神に敬服する。ゲルダの言葉は正しかった。あのおっさん正気か、などと思ってすまない。
「やっぱり男の子は食べっぷりが違うわねぇ~」
それの調理が、このメリアさんであるのだからなんとはなしに不条理なものを感じないでもない。天は彼女に二物を与えたが……その、なんだ、一物も与えてしまったのだろう。
失敬。
「メリアさんのご飯はおいしいからぁ」
「なんでお客さん増えへんねやろなあ」
「……ひとつ、その格好をやめてみるというのはいかがだろうか」
「まあ! アオイちゃん、そんなこと! 私は絶対にやめないわよ!?」
「メリアさんは、そのままのほうがいいと思いますです……」
なんともよく馴染んでいる四人だ。どことはなしに家族じみたものがあった。平和である。
「あらぁ、フィリアちゃん、嬉しいこといってくれるわねえ」
フィリアがメリアさんに頬ずりされている。恐らく髭も思いっきりこすれているだろう。特に気にしている様子はなかった。──それは明らかに男を思わせる要素だと思うのだが良いのだろうか。解せぬ。
ともあれ、平和な光景をおすそ分けしてもらったところで立ち上がる。俺は稼ぎにいかなければならない。使っただけ金は減る。だからまた稼ぐのだ。
「あら、ウィルちゃん、もう行くの? 食器は置いておいてちょうだい、後で片付けるわ」
「ありがとう──それと、服を買いにいきたいんだけど。どっかいい店ありますか」
そう、出費がすでにして確定事項であるのだ。やむを得ないことではあるのだが。
「それならぁ、中心近くの"ピクシーの悪戯"がおすすめぇ」
「アホ、フラウ、それは女物の店やろが」
「俺に何をさせる気なの?」
「ふわってしてるからぁ、ウィルくんくらいの身体でも似合うと思うの」
何を考えているんだこの人は。ボケなのか素でいってるのかわからないのがとても怖い。彼女のいうことは話半分に聞くことにする。して、メリアさんはというと、しばらく首をひねって考えたあとでいった。
「そうねえ、ここから迷宮を通りすぎて、町外れのほうにいいところがあるわよ! ちょっと待ってなさい」
そう言って一度引っ込むと、片手に紙を持って帰ってきた。もう片方にはちょっと大きめの布の包み。土産でも渡さなきゃならんのだろうか。
「ほらっ、これが地図よ。迷わないように気をつけなね!」
どんと両手にあるものを渡してくれる。地図の方はありがたくいただくとして、この包みはなんだろう。ちょっと見つめて首をひねる。生暖かい。ああ、と思いだしたようにメリアさんがいった。
「そっちはお弁当よ、ちゃんと途中で食べなさいね? ウィルちゃんくらいの年ならまだまだ成長するんだから!」
なるほど、包みに触れてみると布越しにまだほのかに暖かった。パンか何からしい。──それにしても、えらく手厚い歓迎である。ちょっと危機を感じるほどだ。なんだろう、先に美味しい思いをさせて逃すまいとする罠かなにかだろうか。軽く疑心暗鬼に陥る心根の醜さが少し悲しい。
「……ありがとうございます。いただきます」
思わず丁寧語になった──恐怖感などではなく別の意味で。改まって彼女を見るとちょっと笑いそうになってしまったから、そっと顔を伏せた。
「人情やなぁ」
「メリアどのの心遣いは他の宿の比でないからな」
なにか『ライラック』の面々がしみじみとして頷いているのであった。
そういうわけで、町の外れにいくことになった。当然ひとりである。やはりひとりはいい。とても落ち着く。
宿を出て迷宮を過ぎ、まっすぐいって小路に入る。こういう路地を見れば町の治安は知れるものだが、悪くはなさそう。迷宮都市にはよくある話である。いかにも危険そうな迷宮を近場に抱えこんでいるのは大きなリスクといえたが、皮肉なことにそれがもたらす経済的波及は大きい。結果、多少の差はあっても迷宮都市は治安が良好であることが多いそうだ。
このままでは町の西端にたどり着いてしまうのではないかと危惧するうちに、目当ての建物を見つける。それは路地に軒を連ねる建物の間に埋もれてしまっているようなたたずまいだった。木造の二階建てだが、なんとも古ぼけている。埃をかぶっていそうな感じ。お店を所望したはずだが、看板のたぐいは全くかかっていない。見たところドアベルがついているので、遠慮なく中に入ってみる。鍵はかかっていなかった。
入るなり思わず咳き込む。実際に埃が下りてきたのだった。家内に灯りはなく、小路だから日照も悪いせいでなんとも薄暗い。その中で目を凝らすように周りを見渡してみる。
そこは糸くずと布切れが支配する世界だった。毛玉やら巻き取られた糸やらが雑然としてかごに積まれている。布のほうは余計にスペースを取っていて、ロール状に巻かれたものが無秩序に並んでいる有様だった。色とりどりではあるが、あまり綺麗には思われない。
部屋の隅には人型を模した人形があって、それに一着の服が着せられている。他に陳列する棚なんかは見当たらず、どうも売り物といった雰囲気でもない。この世界でまともに服を買ったことなど全くないので困惑する。後ろでドアベルの音がやかましく響く。
するとその音に呼応してか、むくりと起き上がるちいさな影があった。それはまるで机に突っ伏すようにしていたようだった。金色の頭が揺れる。ひとつ結びにした金髪だった。金色ではあるが、フラウのようなブロンドとはまた異なる。黄土色というべきか、少しくすんだ印象があった。
「……いらっしゃい」
眠たげな声。大きなあくび。なるほど、商売をしようという気がびっくりするほどないが、不法侵入として騒がれないのだから全く問題ない。無事に服を買えたらなお問題ない。
「ここで服を買えるって聞いてきたんだけど」
「んー……どういうの? 何着?」
単刀直入である。あまり考えていなかったな。取りあえず予算を決めよう。予算から決めるとどうすべきか話がまとまる。取りあえず残金280ENからお勘定。100EN紙幣を二枚抜いて机の上に取り出す。
「これで上から羽織るものを最低ひとつ。その下に着れるものを何枚か、買えるか。ものにあまり拘りはないが、羽織るものは汚れに強ければありがたいな」
「んー……」
少女は100EN紙幣をなぞって、開けつ広げつしては思いを巡らせている様子である。考えこんでしまった。マイペースにもほどがあるが、しばらく放っておく。暇にあかせて服を着せられた人形を眺めたりする。
その時、ふいに後ろに気配──いつの間にか少女が立ち上がって、歩み寄っていた。その手には長物があった。
「動かないで」
「えっ」
「採寸」
「あ、ああ」
よかった。殺されるかと思った。よく見たらその手にあるものは物差しであった。少女に腰回りやら肩幅やら腕やらをされるがままになる。遠慮無く触りまくられる。なんだろう。この町に住んでいる人は基本的にこんな調子なのだろうか。いや、単に必要なのだろう。多分。物差しがあてがわれる硬い感触がしたりして、ようやく離れてもらった。
「上着……いちばん強いのだと、少し張って、160EN。……丈夫な短衣が、ふたつで40EN。いい?」
ぱちぱちと少女の瞳が瞬く。眠たげな碧眼。信頼してもいいものだろうか。メリアさんの料理の腕を信じてここは乗ってみるとしよう。正直安くはないと思ったが、物によるといったところか。
「いいよ。頼む」
「魔物由来の繊維を、織り込みたい……かまわない?」
「いいものになるなら是非。いつに来ればいい」
「……明日。今くらいの時間なら、だいじょうぶ」
ちょっと早すぎない?
買うでなく仕立ててもらうというのには合点がいったが、それにしてはずいぶんなものに思える。他に誰か手伝いがいるのかと思ったが、どこからどう見ても少女はひとりだった。
少女のほうはといえば特にそれを気にする風でもない。少女は胸ポケットからちいさな紙を取り出すと、それを俺に突き出してくる。走り書きのサインが書かれていた。
「……それ、そのときに、見せて」
「了解」
仕舞いこむ。少女のほうをよくよく見ると、簡素なワンピーススカートに身を包むばかり。服飾に関わる人間とはちょっと思えなかった。格好について俺がなにかを言えるわけがないので首を振るしかないが。
ふと気づくと、少女のほうも上から下までこちらを見ていた。見るというよりも、眺めるというか、観察するといった感じ。全く物怖じする様子なく暫くそうしていると、やがて担ぎ上げるように手頃な布を辺りからひとつ取り上げた。
そして思い出したようにこちらを向き直ると、一言。
「……アミエーラ。アミエーラ、……よろしく」
「ウィルだ。また来る」
少女──アミエーラはこくりと頷くと、きびきびとした動きで席についた。鋏を手にして大胆に切る。しばらく眺めていようかと思ったが、やめた。まるで信用していないようだ。今はただ無心に稼ごう。使ったぶんを稼ごう。
礼だけいって、裁断の音色ばかりが響く静謐の空間を後にした。腕のほどは後のお楽しみとしよう。
窓から眺める外はまだ少し薄暗い。軽く屈伸、柔軟などをして目が冴えてくるのを待つ。やがて聞こえてくる鳥のさえずり、そして日の出。窓から顔をのぞかせ空を見上げれば、天気は良好。探索日和である。迷宮に地上の天気は関係ないが。
厠をすませて一階にいく。朝食にはまだ早いが、野暮用というやつ。昨日ひどいことになった衣服を洗濯しておきたかったのだ。使いものになるかは分からないが。血やらが染み付いていたらさっさと捨ててしまおう。水場はどこだろう、ということで不承不承メリアさんを探す。彼女は広めの台所でなかなか忙しそうにしていた。ひとりで切り盛りしている様子である。
「あらぁ、おはよう、ウィルちゃん。どうかしたかしら? ご飯はいま支度してるところだから、待ってるのよぉ」
「おはようございます。ちょっと水を使わせてもらいたいんですが。洗い物を──」
「ま! そんなのいいわよ、かごに入れておいたら私がやっておくのに」
「いや、ちょっと着れるようになるかわかりませんので……」
「そーぉ? えらいわねえ、それじゃ、あっちの隅よ。水は汲んで置いてあるから好きに使ってちょうだい」
どうも、と礼をいってメリアさんの指差すほうにしたがって行く。なんでかこの人の前だと丁寧語になってしまう。恐怖感からかもしれない。しかし、それにしても異常なまでにサービスが行き届いている。その割には他の客が見当たらない。他の宿屋もこんなものなのだろうか。だとすれば競争が激しすぎると思うのだが。
洗い場はギルドのそれと変わりない内装だが、向こうとは比べ物にならないほど綺麗に磨き上げられていた。隅の方にいくつか水を汲まれた桶が並んでいる。そのかたわらには空のたらいが積んであった。水にふれてみると、まだ全然冷たい。取り置きのものではなく、おそらく早朝に井戸から汲み上げてきたのだろう。
取りあえずたらいに汚れた服を放り込み、水をいくらか頂戴する。そして洗い場の方に向かうと、そこで初めて人の姿が目に入った。背中しか見えなかったが、たぶん女性だろう。メリアさんのようなサプライズがない限りは。天丼は勘弁してもらいたい。
「後から失礼します、と」
備え付けの固形石鹸があったのでお借りする。一応の礼儀と声をかけてから腰を下ろせば、かたわらの彼女が向き直ってくる。クリーム色の短い髪。少女、といっても十七か十八か、そこら。面差しは濡れていて、目はいまだに寝ぼけ眼。ちょうど顔を洗っていたのだろう。端的にいって可愛らしいんじゃないだろうか、とひとごと。彼女は俺の存在に気づくなり口を開いた。
「ぴゃ────っ!?」
ひどく素っ頓狂な声をあげ、ほとんど閉じていた目がまんまるに見開かれて、まるで飛び上がるような勢いで逃げていった。
……なんだったのか。
非常に不条理な申し訳無さに襲われながらも、ひとまず洗濯に注力する。無心になってもみ洗いする。布地がだめになるのは今さらのことである。ともかく汚れはなんとかなりそうだった。外にでるときまで着ようとは思わないが、寝着くらいにはなるだろう。本当にだめになったときは裁断して手ぬぐいにでもするまでだ。
そんなことをしていると、なんだか入口の方がやかましかった。いやに賑やかだ。不穏に思うよりも、この宿にきちんと客が入っていることに安心した。なんだろう、と振り返るとそこには女性が三人。いや、もう一人。つまり、三人の後ろに隠れるみたいにさっきの少女もいたのだった。なぜ警戒されているのだろう。まさか痴漢などと思われていないだろうな。痴漢冤罪に怯えるのはごめんだ。
「おー、すまんね、兄ちゃん。騒がしくしとって」
ひらひら、と一番背の高い少女が手を振る。道着──俺の語彙ではそうとしか言い様がない、ともかく薄手で動きやすそうな胴衣にズボン、そして上から半袖の羽織を重ねた姿。赤髪は三つ編みにまとめていて、いかにも無手の格闘家といった風貌だ。実際、その手にはテーピングのように包帯が巻きつけられている。右隣には堅物そうな青い長髪の女。左隣にはむやみに目の細いぽやーっとしたブロンドの少女。その背後でやたらとおどおどしているのがさっきの少女だった。隠れているつもりかもしれないが、それなりに背丈があるせいではみ出ている。
「どうも──どうかしたか。何か怖がらせてみたいなんだけど」
背後の少女を見る。するとますます隠れる。参った。お手上げである。赤髪の女がからからと気さくに笑ったあと、改まっていう。
「ああ、フィリア、こいつなー、どうにもこうにも男が苦手でなあ。いっつもこうってわけやないけど、ここはうちら以外には誰もおらんと思っとったから、びっくりしたみたいやね。堪忍したってや」
「なるほど」
後ろの少女──フィリアと呼ばれた彼女がほとんど震えながらもこくこくと頷く。理不尽な指弾を食らうわけではなさそうなのでひとまずは安心した。面倒を避けるためにも昨日のうちに挨拶をすませておけば良かったか。いや、深夜に挨拶にいくのは迷惑すぎる。夜這いか何か?
「……本当に何もしてないだろうな?」青髪の疑念。不埒な思考を読んだのだろうか。勘が良すぎる。フィリアが必死で首を振っている。
「アホウ、人様うたがってどないすんの。これからよろしくすんねやで」いさめる赤髪。あなたは人が良すぎやしないか。
「メリアさんは平気なのにねぇ」ブロンド女のおっとりとした声。俺も疑問になったところだった。このブロンドは少し鋭そう。
それにしてもかしましいことこの上なかった。取りあえず割って入る。
「すまんね、挨拶が遅れた。ウィル。ウィル・ヘルムートだ。よろしく」
「うちがアカネ。そこのカタブツがアオイ。バカっぽいのがフラウ。そんでビビリがフィリア。四人でクラン『ライラック』や。よろしゅうね」
「ちょっとぉ、バカはあんまりじゃないのぉ?」
「こ、こわがりじゃないです……」
好き放題いいっぱなしだが、それだけ仲が良さそうでもある。ひどくかしましいが俺のほうは名前を覚えるのに忙しいので放っておく。こればかりはどうにも苦労する。後でしっかりとメモに残しておくとしよう。
「ウィルどのは誰かと一緒ではないのか」
何の気ない言葉だと思うのだが、アオイにいわれるとやけに震えるものがある。敵情視察でも受けているような気分。思い過ごしだと思いたい。
「昨日来たばっかりなんだ。しばらくは一人でいると思う」
「……そうか」
アオイが一瞬思わしげにする。
「フィリアがいるからな、共には出来ないが……なるたけ助けあおうじゃないか。情報とか、融通できることもあるだろう」
なるほど、と頷く。開口一番疑いをかけられたときにはどうなるかと思ったが、心配性が高じているのかもしれない。たかが一新人にすぎない俺にこういってくれるのも、たぶん、一人でいるからあっさりとおっ死んでしまうことを考えているんだろう。
「そりゃ、ありがたい。なにせ分からんことだらけだ」
「アオイちゃん、珍しく優しいねぇ?」
「メリアどのには世話になっているからな。少ない客を私達のせいで逃したとあっては顔向けが出来まい」
どちらかといえばそのメリアさんがために逃げ出しそうではある。たとえ短くともあと6日はお世話になるのは確定しているのだが。
「さ、そろそろご飯やで、行かな。ウィルはん、また後でなー!」
桶など片付け、改めて引き上げていく四人を見送る。なんだかえらく静かになった。そして朝でありながらすでにして疲れた。もう一度布団に潜り込んだら余裕で寝られる気がする。
──そして目の前の洗濯はびっくりするくらい進んでいないという現実に打ちのめされた。そして投げ出した。諦めよう。思えば死ぬほど腹が減っていた。半日以上、ずっとなにも食べていない。飯を。飯。
朝食は食堂──といっても全く大層なものではなく、"杉の雫"亭の一階にある一室だ。部屋の面積の半分以上を占拠するような長テーブルがあって、人数分の食事が用意されているので勝手知ったるままに取って食べる。席は自由。今日の品目は以下の通り。
黒パン。いかにもかたそうだが意外に硬くもなく、柔らかくもなく。噛めば噛むほど味が出る。ベーコンエッグ。とてもオーソドックスな一品である。ベーコンは油で揚げるように焼いているのだろう、カリカリとした食感がとてもいい。スープはトマトベースに野菜がメイン。パンとスープはお代わりあり。
かしましい面子と食事を共にするのか……などという憂慮は全くの杞憂で、欠食児童かなにかのような勢いで食してしまった。率直に言って、この十五年の中で一番美味かった。スープは二杯いただいた。満足である。
「ごちそうさまでした」
神に敬服する。ゲルダの言葉は正しかった。あのおっさん正気か、などと思ってすまない。
「やっぱり男の子は食べっぷりが違うわねぇ~」
それの調理が、このメリアさんであるのだからなんとはなしに不条理なものを感じないでもない。天は彼女に二物を与えたが……その、なんだ、一物も与えてしまったのだろう。
失敬。
「メリアさんのご飯はおいしいからぁ」
「なんでお客さん増えへんねやろなあ」
「……ひとつ、その格好をやめてみるというのはいかがだろうか」
「まあ! アオイちゃん、そんなこと! 私は絶対にやめないわよ!?」
「メリアさんは、そのままのほうがいいと思いますです……」
なんともよく馴染んでいる四人だ。どことはなしに家族じみたものがあった。平和である。
「あらぁ、フィリアちゃん、嬉しいこといってくれるわねえ」
フィリアがメリアさんに頬ずりされている。恐らく髭も思いっきりこすれているだろう。特に気にしている様子はなかった。──それは明らかに男を思わせる要素だと思うのだが良いのだろうか。解せぬ。
ともあれ、平和な光景をおすそ分けしてもらったところで立ち上がる。俺は稼ぎにいかなければならない。使っただけ金は減る。だからまた稼ぐのだ。
「あら、ウィルちゃん、もう行くの? 食器は置いておいてちょうだい、後で片付けるわ」
「ありがとう──それと、服を買いにいきたいんだけど。どっかいい店ありますか」
そう、出費がすでにして確定事項であるのだ。やむを得ないことではあるのだが。
「それならぁ、中心近くの"ピクシーの悪戯"がおすすめぇ」
「アホ、フラウ、それは女物の店やろが」
「俺に何をさせる気なの?」
「ふわってしてるからぁ、ウィルくんくらいの身体でも似合うと思うの」
何を考えているんだこの人は。ボケなのか素でいってるのかわからないのがとても怖い。彼女のいうことは話半分に聞くことにする。して、メリアさんはというと、しばらく首をひねって考えたあとでいった。
「そうねえ、ここから迷宮を通りすぎて、町外れのほうにいいところがあるわよ! ちょっと待ってなさい」
そう言って一度引っ込むと、片手に紙を持って帰ってきた。もう片方にはちょっと大きめの布の包み。土産でも渡さなきゃならんのだろうか。
「ほらっ、これが地図よ。迷わないように気をつけなね!」
どんと両手にあるものを渡してくれる。地図の方はありがたくいただくとして、この包みはなんだろう。ちょっと見つめて首をひねる。生暖かい。ああ、と思いだしたようにメリアさんがいった。
「そっちはお弁当よ、ちゃんと途中で食べなさいね? ウィルちゃんくらいの年ならまだまだ成長するんだから!」
なるほど、包みに触れてみると布越しにまだほのかに暖かった。パンか何からしい。──それにしても、えらく手厚い歓迎である。ちょっと危機を感じるほどだ。なんだろう、先に美味しい思いをさせて逃すまいとする罠かなにかだろうか。軽く疑心暗鬼に陥る心根の醜さが少し悲しい。
「……ありがとうございます。いただきます」
思わず丁寧語になった──恐怖感などではなく別の意味で。改まって彼女を見るとちょっと笑いそうになってしまったから、そっと顔を伏せた。
「人情やなぁ」
「メリアどのの心遣いは他の宿の比でないからな」
なにか『ライラック』の面々がしみじみとして頷いているのであった。
そういうわけで、町の外れにいくことになった。当然ひとりである。やはりひとりはいい。とても落ち着く。
宿を出て迷宮を過ぎ、まっすぐいって小路に入る。こういう路地を見れば町の治安は知れるものだが、悪くはなさそう。迷宮都市にはよくある話である。いかにも危険そうな迷宮を近場に抱えこんでいるのは大きなリスクといえたが、皮肉なことにそれがもたらす経済的波及は大きい。結果、多少の差はあっても迷宮都市は治安が良好であることが多いそうだ。
このままでは町の西端にたどり着いてしまうのではないかと危惧するうちに、目当ての建物を見つける。それは路地に軒を連ねる建物の間に埋もれてしまっているようなたたずまいだった。木造の二階建てだが、なんとも古ぼけている。埃をかぶっていそうな感じ。お店を所望したはずだが、看板のたぐいは全くかかっていない。見たところドアベルがついているので、遠慮なく中に入ってみる。鍵はかかっていなかった。
入るなり思わず咳き込む。実際に埃が下りてきたのだった。家内に灯りはなく、小路だから日照も悪いせいでなんとも薄暗い。その中で目を凝らすように周りを見渡してみる。
そこは糸くずと布切れが支配する世界だった。毛玉やら巻き取られた糸やらが雑然としてかごに積まれている。布のほうは余計にスペースを取っていて、ロール状に巻かれたものが無秩序に並んでいる有様だった。色とりどりではあるが、あまり綺麗には思われない。
部屋の隅には人型を模した人形があって、それに一着の服が着せられている。他に陳列する棚なんかは見当たらず、どうも売り物といった雰囲気でもない。この世界でまともに服を買ったことなど全くないので困惑する。後ろでドアベルの音がやかましく響く。
するとその音に呼応してか、むくりと起き上がるちいさな影があった。それはまるで机に突っ伏すようにしていたようだった。金色の頭が揺れる。ひとつ結びにした金髪だった。金色ではあるが、フラウのようなブロンドとはまた異なる。黄土色というべきか、少しくすんだ印象があった。
「……いらっしゃい」
眠たげな声。大きなあくび。なるほど、商売をしようという気がびっくりするほどないが、不法侵入として騒がれないのだから全く問題ない。無事に服を買えたらなお問題ない。
「ここで服を買えるって聞いてきたんだけど」
「んー……どういうの? 何着?」
単刀直入である。あまり考えていなかったな。取りあえず予算を決めよう。予算から決めるとどうすべきか話がまとまる。取りあえず残金280ENからお勘定。100EN紙幣を二枚抜いて机の上に取り出す。
「これで上から羽織るものを最低ひとつ。その下に着れるものを何枚か、買えるか。ものにあまり拘りはないが、羽織るものは汚れに強ければありがたいな」
「んー……」
少女は100EN紙幣をなぞって、開けつ広げつしては思いを巡らせている様子である。考えこんでしまった。マイペースにもほどがあるが、しばらく放っておく。暇にあかせて服を着せられた人形を眺めたりする。
その時、ふいに後ろに気配──いつの間にか少女が立ち上がって、歩み寄っていた。その手には長物があった。
「動かないで」
「えっ」
「採寸」
「あ、ああ」
よかった。殺されるかと思った。よく見たらその手にあるものは物差しであった。少女に腰回りやら肩幅やら腕やらをされるがままになる。遠慮無く触りまくられる。なんだろう。この町に住んでいる人は基本的にこんな調子なのだろうか。いや、単に必要なのだろう。多分。物差しがあてがわれる硬い感触がしたりして、ようやく離れてもらった。
「上着……いちばん強いのだと、少し張って、160EN。……丈夫な短衣が、ふたつで40EN。いい?」
ぱちぱちと少女の瞳が瞬く。眠たげな碧眼。信頼してもいいものだろうか。メリアさんの料理の腕を信じてここは乗ってみるとしよう。正直安くはないと思ったが、物によるといったところか。
「いいよ。頼む」
「魔物由来の繊維を、織り込みたい……かまわない?」
「いいものになるなら是非。いつに来ればいい」
「……明日。今くらいの時間なら、だいじょうぶ」
ちょっと早すぎない?
買うでなく仕立ててもらうというのには合点がいったが、それにしてはずいぶんなものに思える。他に誰か手伝いがいるのかと思ったが、どこからどう見ても少女はひとりだった。
少女のほうはといえば特にそれを気にする風でもない。少女は胸ポケットからちいさな紙を取り出すと、それを俺に突き出してくる。走り書きのサインが書かれていた。
「……それ、そのときに、見せて」
「了解」
仕舞いこむ。少女のほうをよくよく見ると、簡素なワンピーススカートに身を包むばかり。服飾に関わる人間とはちょっと思えなかった。格好について俺がなにかを言えるわけがないので首を振るしかないが。
ふと気づくと、少女のほうも上から下までこちらを見ていた。見るというよりも、眺めるというか、観察するといった感じ。全く物怖じする様子なく暫くそうしていると、やがて担ぎ上げるように手頃な布を辺りからひとつ取り上げた。
そして思い出したようにこちらを向き直ると、一言。
「……アミエーラ。アミエーラ、……よろしく」
「ウィルだ。また来る」
少女──アミエーラはこくりと頷くと、きびきびとした動きで席についた。鋏を手にして大胆に切る。しばらく眺めていようかと思ったが、やめた。まるで信用していないようだ。今はただ無心に稼ごう。使ったぶんを稼ごう。
礼だけいって、裁断の音色ばかりが響く静謐の空間を後にした。腕のほどは後のお楽しみとしよう。
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