八咫の皇女は奇病を食む ~おてんば娘の討魔奇譚~

Mt.hachi_MultiFace

二十七:「休憩時間」

 皿江穂らを見送った平間らは、宿で思い思いに過ごしていた。茉莉は川魚を見せて女将に目を丸くさせた後、夕食用にと一緒に捌いているし、平間は空き部屋で当初のするつもりだった資料の海への投身を存分に行っていた。
「大人と言うのは、ああも中身の無い会話を好むものなのか。皇宮ではあれ以上に豪奢な美辞麗句で埋め尽くされておったが、文書の内容は九分五厘(九十五パーセント)は無駄じゃった。あれでは紙と墨と、何よりそれらを書くために費やされた役人らの時間が勿体無い」
 突如聞こえてきた不機嫌そうな声に、腰を落として書物に目を通していた平間が振り向いた。案の定、声の主は壱子である。
 乾いた音を立てる首を回しながら、平間が言う。
「一体、何の話ですか」
「先ほどの皿江穂との会話じゃ。あんなペラペラした会話、要するに『りんと遊んでくれてありがとう』『いえいえ』だけではないか。これではそこらの小役人の面の皮の方が厚かろうに」
「殿下、お言葉ですが私もその“そこらの小役人”ですよ」
 頬を膨らせて腕を組む壱子とは対照的に、平間の表情はにこやかだ。
彼の言葉に壱子はハッとした顔になった後、
「……むう、口が滑った。すまぬ」
と言ってバツの悪そうに薄桜色の頬をしぼませる。その様が大きくなったり小さくなったりする紙風船のようで、平間は思わず口元を緩ませた。
「まあでも、殿下の仰ることもごもっともです」
「そうじゃろう」
「ですが言葉とは面白いもので、基本的に長くなればなるほど相手を敬っていることになるものなのです。『男だ』より『男です』、そしてそれより『男でございます』の方が丁寧でしょう?」
「そうじゃな、しかしそれがどうしたのじゃ」
「大人というものは、といっても私もまだ若輩者ですが、いわゆる上下関係の塊なのです。特に皇宮と言う場所は」
 こんなことを皇宮の最上位にいるはずの人間に言うのも、平間には不思議な心持である。
「であるから文言が冗長になると?」
「そう言うことになりますね」
「確かに、我が大皇国の官位とその順位付けの細かさには舌を巻くのう。しかしそれは必要なことなのか? 上下関係の弊害というものも大きかろうに」
「と、言いますと?」
 壱子の鼻孔が小さく膨らむ。そして
「良くぞ聞いてくれた。皇宮で暮らしてきて、私が感じた弊害がいくつかある」
と言って、右の人差し指を立て平間に向けて突き出した。
「その最たるものは、下の者は上の者に正直にものを言うことが出来ぬということじゃ」
「それはまあ、そうですけど」
「これは良くない。今までも無能な上官に文句も言えずに振り回される能吏を幾人と見てきた」
「上下関係が無ければ彼らが苦悩することがない、と?」
 壱子は首を大きく縦に振る。
「まあ、仰りたいことも分かりますけどね」
 平間自身も同じことを考えたことが無いわけではない。
「でも、上下関係のお化けみたいな存在である貴女が言うのはどうなんです?」
 壱子の顔が、みるみる困惑した表情になる。そんな彼女を見て、平間は維持の悪いことを言ってしまったと後悔した。取り繕うと思っても、適切な言葉が見つからない。
「あの、殿下……」
「いや、そうじゃ。お主の言う通りじゃな」
 おろおろする平間に、壱子は凛とした声音で言う。
「では、私が身分だとか不公平だとかを語るのは傲慢なのじゃろうか」
 真っ直ぐ平間を見つめる壱子の瞳には、彼女の年齢とは著しく不相応な憂いの色が見えた。
 平間は思案する。今の壱子が傲慢かと言われれば、答えは否だろう。ただ、論ずるに適するかと言われれば、それはやはり否だ。しかし――。
「これはあくまで、私個人の考え……いえ、感想ですが」
 そう前置きして平間は言う。
「下に仕える者としては、そういうことを考えてくれる人の下で働きたいですねえ」
 その言葉に、壱子は目をぱちくりとさせた。
平間は続ける。
「私の知る限り、人間と言うのは他者を上か下かにしか見られないものなのです。そして一度下に見たら、その認識がくつがえることは中々ありません」
「同等、というのは無いのか」
「滅多にありません」
 壱子は戸惑ったように、頬の内を舌で這わせた。平間は続ける。
「まず、全く同じ人間がいない、と言うのは納得していただけるでしょう?」
「うむ、それは反論の余地が無い」
「であるならば、ある二者の各能力が全て同じということもありえません。さてそれでは、その二者のうち一方がもう一方を上に見るか下に見るか判断する時、何を基準とするでしょうか。私は、その人の自尊心、すなわち自己を守るために最も大切にしている何かを基準にして判断すると思うのです。その何かとは、官位だったり、生まれの早さだったり、容姿だったり、技能だったりしますが……面白いことに、多くは無意識に自分の得意分野を選んで判断基準としています」
「無意識に得意分野を選ぶ……?」
 平間の話を彼女なりに噛み砕こうとしているのであろうか、壱子の額には幾条いくすじもの皺が刻まれていた。平間は小さく頷く。
「ええ。例えば『俺はあいつより官位が低いが、容姿が優れている』みたいな感じです。なんなら、こんな分かりやすい“一勝一敗”な例はむしろ少数かもしれません。『あらゆることで俺はあいつに負けているが、俺の方が鼻筋が真っ直ぐ通っている』みたいな、客観的に見れば屁理屈みたいな論理を用いて他人を下に見ていることなんてことも、ザラにありますね」
「そう言うものなのか。しかし、何故それが良くあることであるとわかる?」
「他人を観察してきた結果……と言うのと、まあ私自身の経験ですね」
 それを聞いた壱子の頬が、ピクリと引きつった。
「と言うことはお主、そんなことを自分で、一から理論として組み立ててきたと……?」
「はい、そうですが……それが何か」
 不自然に口角を上げて、おずおずと平間が言う。
「何と言うか、人の考えている事……というよりお主の事がよく分からなくなってきた。正直、私はお主をただの学問一辺倒な阿呆じゃと思っておったが、そう言うことにも頭が回るのじゃな。まあ、人が他人を卑下する機序と言う陰気臭い題材ではあるが」
「褒めているように見せかけて、さらりと毒を吐きますね……皇女様なのに、お口が汚れていらっしゃるようで」
「なんじゃ。お主みたく、はらの奥が汚れているよりマシじゃろう?」
 そう言うと壱子がニヤリと笑う。その笑みに、平間はわざとらしい苦笑で返した。

ふと気付いたように、壱子が口を開いた。
「座る場所が無いのう」
 実際、平間はもともと座っていた座布団の上を動いていないが、壱子は部屋の入り口近くにある柱に寄りかかって立っていた。二人の身分からして公的な場所ではこんなことは絶対にありえないのだが……彼らがそれだけ打ち解けてきたということなのだろう。
 すっかり気を抜いていた平間は辺りを見回すが、部屋には彼が散らかした資料が山と散乱していて、確かに壱子の座れるような場所は無かった。
「すみません、すぐに片付けますね」
「いや、良い」
「しかし――」
 立ち上がろうとする平間を制した壱子は、紙の山脈を跨いで、すとん、と従者の膝に腰を落とした。
 小さく舞う細い髪に乗った、少女特有のかすかに甘い匂いが自分の鼻腔を抜ける感覚と、膝にかかる人として確かな質量を、同時に平間は感じる。さらに、時に外見の何倍も歳を重ねた人格のように見える壱子だったが、薄い肩や丸い小さな耳などを近くで見ると、やはりただの十一歳の娘なのだ、と再認識する。

「待てよ、先ほどの話を踏まえると……お主は私のことも下に見ているのか!?」
「そんなことはありません」
「しかし、他人を対等に見ることは出来ないと言ったのはお主ではないか」
 壱子が振り向く。顔の近さに、思わず平間は仰け反った。
「“ほとんど出来ない”と言ったのです」
「私の場合は例外であると?」
 ずいっ、と壱子がさらに顔を寄せてくる。平間は、がくがくと首を振った。
「そうですそうです。最初こそ私は『頭の可哀相な子なんだなあ』と下に見ていたかもしれませんが、今は違います」
「おい、頭が可哀相とはどういう意味じゃ」
「変わっている、と言う意味で捉えていただければ……」
「……まあ良い。それで?」
 そう言いつつ、壱子の表情は未だ不満げである。
「はい、ですが今は、思考の明晰さなどの部分においては私は敵わないと思っていますので、少なくとも下には見ていません」
 そのことを受け入れるために年甲斐も無くベソをかいた、とは平間は言わなかった。
「では上に見ていると? それはそれで違和感があるのじゃが」
「ええ、私も多分違うと思うのです」
 話の続きを促すように、壱子は首をかしげた。
「私は殿下に、私の自尊心の置き場である思考力とか、ついでに身分などの部分で勝ちを譲っていますが、生活力だとか世の中の常識だとか、そういう重要な点では勝っていると自負している気がするのです。これも無意識に、ですが」
「……お主とて毒を吐くではないか」
 まばらに無精髭の生えた平間の頬を、壱子がぐいぐい引っ張る。
「痛いです殿下。それで、全体を見れば勝ち負けが混在していて、結果的に対等になっているのかなと……」
「皇女の私と対等とは、お主も偉くなったものじゃのう」
 悪戯っぽく壱子が笑って言った。
「そう言う意味でないことは分かっていて仰るんですから、全く性質が悪い。場所が場所なら大事おおごとですよ」
「それくらいわきまえておる。それを言うなら、私とこの距離で口を利くのも相当な大事じゃと思うが?」
「……慣れって恐ろしいですね」
「ふふふ、全くじゃのう」

 二刻の後、夕食の声が掛かるまで二人は駄弁っていた。そしてこれが壱子の暇つぶしに付き合わされただけだと平間が気付いたのは、彼が床に入ってしばらく経ってのことである。

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