八咫の皇女は奇病を食む ~おてんば娘の討魔奇譚~

Mt.hachi_MultiFace

九:「脱出、脱出、大脱出!」

玲漸院壱子はこの時、生まれて初めて眼下に巨木を見た。
その要因は二つあり、一つは人口の割に国土が広いこの国ではほとんどの建物が平屋であると言うこと、もう一つは彼女を背負っている男、平間京作が木々の高さをゆうに超える跳躍を見せたことである。

 唐突に開けた視界に移るのは、鮮やかな半月とぼんやりとした闇夜の黒雲、そして遠くかすかに見える家々の明かりであった。
 見たことの無い絶景と言うべき新鮮な景色に感嘆していた壱子は、間もなくある種の新鮮さを備えた感覚を覚えることとなる。浮遊感である。
「~~~っ!?」
 元来、そこまで活発な方ではないこの第七皇女は、未知への胸の高鳴りを忌避する傾向にある。しかし、今回ばかりは違う。
「平間ー! お主、すごいのう!!」
 壱子は高揚した。
「只者ではない体つきをしておるとは思っていたがふっ」
 着地。
「殿下、あまり喋ると舌を噛みますよ」
「もう少し早く言ってくれぬか……」
「私自身も焦っておりますので、余裕がありませんでした」
 大跳躍で囲いからの脱出を果たした平間は、淡々と駆け続ける。

「殿下、追っ手は見えますか?」
 壱子は後ろを振り返る。しかし、暗闇と平間が駆ける事による振動のせいか、はたまた本当に誰もいないのか、人影を目視することが出来ない。
「今のところは何も見えぬぞ!」
「分かりました。ですが用心の為まだしばらく走ります!」
「うむ、頼むぞ」

 その時だった。
 平間の前に立ちはだかる人影。平間は瞬間的に追っ手だと判断し方向を変える。さらに数度地を蹴るが、別の追っ手にまたもや行く手を阻まれた。平間の足が止まる。

 実は平間は、持久力と下肢の筋力は並外れたものを持っているが、幼少期から外に出る事は少なかったため基本的に運動は苦手で、先ほどのように筋肉に物を言わせて高く跳ねる事はできても、脚を素早く回転させて速く駆ける事は苦手だった。
 もちろんそれくらいの自覚は平間にもあったが、それ以上に自信の脚力には自信を持っていたため逃走に踏み切ることが出来たのである。
 しかし、こうも易々と回り込まれてしまった今では、その気力も影を潜めざるを得なかった。

 敵は見えるだけでも四人、いずれも刀を手にしている。
 対してこちらは男と少女が一人ずつで、武器は無い。戦ってもまず勝ち目が無いことは、戦闘の素人である平間の目にも明らかだった。
「男、その娘を置いて行け。そうすれば見逃してやろう」
 追っ手の一人が言う。
 やはり壱子が狙いか。もしかしたら野党の類かも知れぬと思ったが、置いてきた荷にも目をくれず追ってきた事からそんな予感を平間は感じていた。
 もはや逃げることは出来ない。だが奴の言う通り、その哀れな少女を置いていけば、自分は助かるかもしれない。約束を反故にされることも十分想定できるが、しかし……。そんなよこしまな考えが平間の脳裏を掠める。
 刹那の逡巡があった。
「平間……?」
 自分の背にしがみ付く手の震えを感じる。
「私は大丈夫じゃ。お主だけでも身を隠せ。これ以上お主が私のせいで迷惑をこうむることは無い」
 だが、彼は普段は現実主義者を気取っているものの、根幹は理想主義的である。そのような行動を取ろうはずも無かった。
「何を馬鹿なことを、旅は道連れと言うではないですか。なぜこ奴らが貴方の身を狙うかは知りませんが、きっと碌な理由じゃないでしょう。大の大人が寄って集って丸腰の娘を狙うなど、畜生のすることです。そんな連中に『はいそうですか』と貴方を預けられるわけ無いでしょう」
「しかし……」
「いいんですよ。短い旅でしたが、ずっと一人旅をしていた私にはすごく新鮮でした。この際どこまでもお供しましょう」
 平間は壱子を下ろし、名も知らぬ男達に向き直る。
「聞け、下衆げす共。貴様ら、そんな大人数で娘一人を捕らえようとはよほど腕に自信が無いと見える。そのような者共にくれてやるものなど何も無いわ。この平間が相手してやろう。纏めてかかって来い。それとも、女子供が相手でないと怖じ気付いて手も出せぬか」
 平間の渾身の啖呵に応じてか、追っ手の男達が構える。
 足が震える。恐ろしい。口内が渇いている。動悸も速い。歯の裏のざらつきが妙に棘々(とげとげ)しく感じられた。
 敵が駆け出し、距離がどんどん短くなってゆく。刀を振りかぶった。敵の姿が大きくなったり小さくなったりする錯覚。
 身体が動かせないほど恐怖と緊張で頭が真っ白になっているはずなのに、思考は意外と明瞭だった。思えば無駄なことしかない人生だった、と平間は思う。自分のためだけに時間と労力を費やしてきたから、誰かの心の中に自分が深く残っている事も無いだろう。しかしそんな自分でも、最後はなかなか綺麗じゃないか。弱いものを守って命を落とすなど、早々出来ることではない。英雄的ですらある。自分に敵の目を向けることで、多少の時間が稼げる。壱子は賢い。一人でもうまく逃げ延びられるだろう。これでいいのだ、これで。

 刀が振り下ろされる。平間はグッと目を閉じた。
 次の瞬間、平間が感じたのは左肩の焼けるような感覚――――ではなかった。

 目を開けた平間が見たものは、振り下ろされた刀を自らの刀で受け止める女――月村茉莉である。
「よくぞ言いました! それでこそ男です!」
 茉莉は一度力んでから敵の斬撃を傍らに受け流し袈裟懸けに斬りつける。切っ先が敵を掠めた。
 別の敵が飛び出してくるが、茉莉はその攻撃も受け流し、器用に手首をしならせて敵の刀を弾き飛ばす。
「さあ、お前は皇女殿下を守って差し上げなさい! お身体に傷を一つでも付けさせたら許しませんよ!」
「分かった! だがアンタは――――」
 茉莉は敵の攻撃を次々に捌いていく。その姿は華麗と言う表現がぴったりである。
「私はここでこいつらを止めます! 心配ありません、なんたって――――」
 またもや茉莉が敵の刀を弾き飛ばす。
「こいつら、そんなに強くないですし」
 茉莉が己が刀をくるくると回し、ニッと笑った。激しく立ち回っているにも関わらず、その呼吸に乱れは無い。

「恩に着る!」
 平間は壱子を再び背負い、駆け出す。
「茉莉、きっとまた会おうぞ!」
「ありがたき幸せです、殿下!!」
 壱子のほとんど絶叫のような声に、心底嬉しそうに茉莉が応じた。

 山を抜け、野を駆けた平間がようやく足を止めたのは、それから半刻後のことである。

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