無題
無題
その日は、奨学金関係の書類に書き込みを行った。
正直言うと、第一種を受けるための『評定平均3.5以上』はムリだ。次のテストで全教科九十点を取って、仮評定をオール五にしてギリギリなんだ。
そんなの、わたしの成績じゃムリ、絶対。
はぁ……
わたしは白系の小物で装飾した勉強机の、文具を締まっている引き出しの中。そこに鎮座しているカッターナイフを、ボンヤリと眺める。
はぁ……死んだら楽に、なれるのかな……
何も、成績の事だけでこんな事を考えている訳じゃない。問題は別にあった。
奨学金は、貰える物じゃなくて、借りる物。そんな事は常識で既に知っていたけれど、わたしをこんな黒い雲みたいな気持ちにしているのは、連帯保証人だ。
なにもお母さん、お父さんがなってくれないとか、そういう事はなくて、いいよって言ってくれたんだけど……。
わたしはそこで、一歩大人になったんだ。絶対に親に迷惑はかけない、その覚悟を決めざるを得なくなって、少し悩んだだけだ。
けど、それは今までバイトをしたことも無く、何かと親に頼っていた子供なわたしには、ひどく重たい責任に感じた。
子供なりに一生懸命、恋だの、テスト勉強だの、悩み事にはこと欠かさないけど、それは少し違った。なにがどう違うのかと聞かれると、責任の重さ……?としか返せないけど、わたしにとっては随分違うものだったのだ。
自殺……リスカ……
ふとそんな単語が、頭を過ぎる。
本気でするつもりはない。けど、わたしは死については、大したことはないと思っている。
しょせん人はいつか死ぬもの。どんな死に方をしても、早くても遅くても、そこにナニカを感じるのは人間だけだ。動物としての本能が、それを恐れているだけ……。そういう考えだ。
だから辛くなれば、躊躇なくその冷たい刃を滑らせられる……そう思っていた。
あと、リストカットというのは小説で読んで知った。最初はなんとも思わなかったけど、少しずつかっこいい、なんて憧れる気持ちが、私の心に芽生えていた。
ものは試しに……
大人になる事への恐怖とか、何に対してかはわからないけど、いくらかの憤り。それがわたしに、カッターナイフへ手を伸ばさせた。
…………かるい
こんな軽いものが、こんな軽いもので人間は、死んでしまうんだ。そんな事を思った。
甲高い悲鳴みたいな音を立てて、刃を精一杯伸ばす……。鈍色のそれは、実に鋭そうに見えた。
そしてそれを、左手首に押し当てる──というよりも、触れさせている程度だが、それをゆっくり動かし…………。
ふーっ、ふーっ
気付けば、カッターナイフを握る右手は汗で濡れていた。
なんだ、しょせんわたしも、人間か…………
わたしは小さくも荒く、カッターナイフを机に放り投げた。
現にリストカットをしている人はいるのだから、本当に死ぬわけではない。そうわかっているが、あの氷のように冷たい刃が肌に触れたとたん、考えられないような、純粋な恐怖を覚えた……。
手を拭い、わたしは雑にカッターナイフの刃を仕舞い、引き出しへと片付けた。
その日はシトシトと雨が降る、暗い日だった。
その日は、例のテストの数日前だった。
わたしは得意とは言い難い世界史の勉強をしていた。とにかく覚えるのだ……。
しかしそう簡単にはいかない。何周もして、何度も捲って、それでも覚えられない。間違える。
ああもう!
わたしは荒々しくカードを叩きつけた。
ムリだ。間に合わない。けど、やらなければならない……。今まで味わったことの無いジレンマが、わたしの体を這い登って来た。
こんなに辛い日々が一生続くだなんて……考えるだけで憂鬱になる。
ストレスが、わたしを蝕んだ。
半場衝動的に引き出しを開け、カッターナイフを手に取る。容赦なくレバーをスライドさせ、その凶器の切先を当てる。
あぁ、恐い。恐いけど、前ほどじゃない……。
そして引っ掻くように、手を動かした。
んっ
声が漏れた。傷は、ほぼ無い。血が滲み出る程もない。痛みも、ない。
もう一度場所を変え、刃を動かす。
これも傷は出来ず、赤い痕が残るのみ。それも。三日ほどで跡形もなく治る程度の痕だ。
しかし、たったそれだでも、心にあった棘が融けていくように感じた。
はぁ……っ、はぁ……っ
わたしは力なくソレを置き、ふと場違いに可愛い机の上の、置き鏡を覗き込めば、肩の辺りまである髪も乱れ、虚ろにも開かれた瞳に、憔悴した顔、まるで落ち武者のようだ。
さっきまでの衝動は、消えていたし、再びカッターナイフを手に取ろうだなんて気持ちは、ちっとも湧いて来なかったが、なにかの機会に、今度はもっと深く、刃を滑らせるんじゃないか…………そんな予感が、わたしの頭を掠めた。
もしかしたら、わたしは愚かな勘違いをしていたのかもしれない。
タバコやお酒をやっている未成年が恰好いいから、なんて言っているのを見て、蔑むような気持ちを抱いていたが、わたしもリストカットにそれと同じ事を思っていたのかも、そうなのかも知れない。
けど、今はもう、違う。人の肉の味を覚えてしまった獣のように、手首を切ることにより得られる、あの開放感を、わたしは覚えてしまったのだ。
喉が、震える。
笑っている。そのことに気付くのに、少し時間がかかった。愉しい、なんて気持ちになっているとは、さすがのわたしも考えていなかった。
気付いていなかったが、窓の外はさっきまでのわたしの心のように、激しく雨が降っていた。
正直言うと、第一種を受けるための『評定平均3.5以上』はムリだ。次のテストで全教科九十点を取って、仮評定をオール五にしてギリギリなんだ。
そんなの、わたしの成績じゃムリ、絶対。
はぁ……
わたしは白系の小物で装飾した勉強机の、文具を締まっている引き出しの中。そこに鎮座しているカッターナイフを、ボンヤリと眺める。
はぁ……死んだら楽に、なれるのかな……
何も、成績の事だけでこんな事を考えている訳じゃない。問題は別にあった。
奨学金は、貰える物じゃなくて、借りる物。そんな事は常識で既に知っていたけれど、わたしをこんな黒い雲みたいな気持ちにしているのは、連帯保証人だ。
なにもお母さん、お父さんがなってくれないとか、そういう事はなくて、いいよって言ってくれたんだけど……。
わたしはそこで、一歩大人になったんだ。絶対に親に迷惑はかけない、その覚悟を決めざるを得なくなって、少し悩んだだけだ。
けど、それは今までバイトをしたことも無く、何かと親に頼っていた子供なわたしには、ひどく重たい責任に感じた。
子供なりに一生懸命、恋だの、テスト勉強だの、悩み事にはこと欠かさないけど、それは少し違った。なにがどう違うのかと聞かれると、責任の重さ……?としか返せないけど、わたしにとっては随分違うものだったのだ。
自殺……リスカ……
ふとそんな単語が、頭を過ぎる。
本気でするつもりはない。けど、わたしは死については、大したことはないと思っている。
しょせん人はいつか死ぬもの。どんな死に方をしても、早くても遅くても、そこにナニカを感じるのは人間だけだ。動物としての本能が、それを恐れているだけ……。そういう考えだ。
だから辛くなれば、躊躇なくその冷たい刃を滑らせられる……そう思っていた。
あと、リストカットというのは小説で読んで知った。最初はなんとも思わなかったけど、少しずつかっこいい、なんて憧れる気持ちが、私の心に芽生えていた。
ものは試しに……
大人になる事への恐怖とか、何に対してかはわからないけど、いくらかの憤り。それがわたしに、カッターナイフへ手を伸ばさせた。
…………かるい
こんな軽いものが、こんな軽いもので人間は、死んでしまうんだ。そんな事を思った。
甲高い悲鳴みたいな音を立てて、刃を精一杯伸ばす……。鈍色のそれは、実に鋭そうに見えた。
そしてそれを、左手首に押し当てる──というよりも、触れさせている程度だが、それをゆっくり動かし…………。
ふーっ、ふーっ
気付けば、カッターナイフを握る右手は汗で濡れていた。
なんだ、しょせんわたしも、人間か…………
わたしは小さくも荒く、カッターナイフを机に放り投げた。
現にリストカットをしている人はいるのだから、本当に死ぬわけではない。そうわかっているが、あの氷のように冷たい刃が肌に触れたとたん、考えられないような、純粋な恐怖を覚えた……。
手を拭い、わたしは雑にカッターナイフの刃を仕舞い、引き出しへと片付けた。
その日はシトシトと雨が降る、暗い日だった。
その日は、例のテストの数日前だった。
わたしは得意とは言い難い世界史の勉強をしていた。とにかく覚えるのだ……。
しかしそう簡単にはいかない。何周もして、何度も捲って、それでも覚えられない。間違える。
ああもう!
わたしは荒々しくカードを叩きつけた。
ムリだ。間に合わない。けど、やらなければならない……。今まで味わったことの無いジレンマが、わたしの体を這い登って来た。
こんなに辛い日々が一生続くだなんて……考えるだけで憂鬱になる。
ストレスが、わたしを蝕んだ。
半場衝動的に引き出しを開け、カッターナイフを手に取る。容赦なくレバーをスライドさせ、その凶器の切先を当てる。
あぁ、恐い。恐いけど、前ほどじゃない……。
そして引っ掻くように、手を動かした。
んっ
声が漏れた。傷は、ほぼ無い。血が滲み出る程もない。痛みも、ない。
もう一度場所を変え、刃を動かす。
これも傷は出来ず、赤い痕が残るのみ。それも。三日ほどで跡形もなく治る程度の痕だ。
しかし、たったそれだでも、心にあった棘が融けていくように感じた。
はぁ……っ、はぁ……っ
わたしは力なくソレを置き、ふと場違いに可愛い机の上の、置き鏡を覗き込めば、肩の辺りまである髪も乱れ、虚ろにも開かれた瞳に、憔悴した顔、まるで落ち武者のようだ。
さっきまでの衝動は、消えていたし、再びカッターナイフを手に取ろうだなんて気持ちは、ちっとも湧いて来なかったが、なにかの機会に、今度はもっと深く、刃を滑らせるんじゃないか…………そんな予感が、わたしの頭を掠めた。
もしかしたら、わたしは愚かな勘違いをしていたのかもしれない。
タバコやお酒をやっている未成年が恰好いいから、なんて言っているのを見て、蔑むような気持ちを抱いていたが、わたしもリストカットにそれと同じ事を思っていたのかも、そうなのかも知れない。
けど、今はもう、違う。人の肉の味を覚えてしまった獣のように、手首を切ることにより得られる、あの開放感を、わたしは覚えてしまったのだ。
喉が、震える。
笑っている。そのことに気付くのに、少し時間がかかった。愉しい、なんて気持ちになっているとは、さすがのわたしも考えていなかった。
気付いていなかったが、窓の外はさっきまでのわたしの心のように、激しく雨が降っていた。
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黒山羊
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