BOXes 20@1

神取直樹

ありすいん

 目線の先に、男が一人、何処か悲しげに青年を見ていた。それに気が付いた瞬間、視界に一線が見える。靴が鼻をかすめかけ、顔に鋭い風が掛かり、やっとのことで自分が蹴られそうになっていたことに気が付いた。
 足を避けるのに自身の体がよろみ、体勢を崩す。アスファルトに頬と肩が打ち付けられ、眩暈がした。咄嗟に立ち上がり、そこからの逃走を試みる。が、更に景色は暗転した。
「Alice in Wonderland!」
 狂ったような笑いが、耳元で唸る。そうだ、これはあの王の声だ。キング、キングの声であった。あの男の顔も、のっぺりとした普通過ぎる顔をアクセサリーや髪型で誤魔化しているようだった。
 結った髪、それを纏めるリボン、薄い眉。顔の表情の作り以外は、全てが同じだ。服装は彼の方がずっと若者風で、王のような雰囲気はあるが。
 暗転した世界が、一気に色彩豊かになる。赤い紅い葉の樹木が並び、地面には白いユリの花が一面に広がる。空は逢魔ヶ時の黄金色のような、鮮やかな紅緋のような、または黄丹だろうか、そんな豊かな色合いが広がっていた。
「お気に召したか青年。お前の好きな花と木、時間だぜ。今はどうだか知らねえけどな」
 朱と白百合は好きだった。ただ、一つだけ胸がおかしくなる要素がある。それを悟られないよう、下唇を噛む。傷みは不思議と感じなかった。
「あぁ……この時間は嫌いか……だよなあ、思い出しちまいそうだもんなあ。めでたいことに何一つとしてお前は何も覚えてやしねえんだ、思い出さねえ方が得だよなあ」
 男はそう、嘲笑う。キングの顔で、キング自身ならばしないであろう表情を次々に見せていく。
「なら、こうしよう」
 キングの顔が今度は指を鳴らす。その途端、天の川が天に現れた。
「お前さんの好きだったはずの、夜だぜ? どうだ?」
 アハハ、と、上から目線の笑いをぶつけられる。それに対して、青年も口角が引き攣る。
「僕の、何を知っているのでしょうか」
「何でもだ。お前が隠してることも、お前が知らないことも。この世界に来た時点で、お前のことは全て理解できる。女王様のこともな」
 どこまで知っているのだろう。彼は。自分は彼の何も知らない。一つの理不尽を感じて、下唇を噛んだ。
「女王、そうか、女王……し、知らない……俺は、俺は何も知らない……」
 突然、青年は狼狽え屈んでしまう。足が震え、手が震え、顔には脂汗を玉にして浮かべている。
「知らない……知らない……しら、し、し、しん、しん……死んで……死んで……死んで……あの、女は……あぁ、知らない……私なんかが知り得ることじゃ、ない……いや、違う、いや、いや嫌嫌嫌……ヤダ、もうヤダぁ……」
「何なんだよ、お前。何を知らないんだよ」
 少しだけイラつきを覚えたらしく、男は青年をただ睨むだけでなく、ゆっくりと間を詰める。ゆっくり、ゆっくり、男は歩んでくる。
 来る、来る、来る。あともう少し。いや、何がもう少しなんだ? 何故私は近寄ることを望んでいる? 俺は彼を知らない、僕を知らない、私を知らない俺も知らない。何も出来ない、霊を近寄らせるしか能のない自分が、何かをしようとしている。青年は、その事実に対して何故だか恐怖を感じた。手の震えが止まらず、汗が止まらない。
 ふと、百合の花弁を食んだ。
 目の奥に、黒い着物が見えた。
 アリスは、背に激痛を感じた。

 澄んだ青空、そんな単語の似合う、ビルの隙間からチラリとしか見えない風景が、青年の目を覆った。世界は紅くはない。灰色で黒くて、青かった。
「……アリス、イン、リアルワールド……ってか。ドジ踏みましたね、王」
 年若い、男性と言うよりも青年と言った方が良いだろう声がが聞こえる。少しだけ気怠そうなその声は、青年に近寄ってきている。
「失礼、青年……と、言って良いのか解らないが、うちの王がトンだ迷惑を掛けたね」
 顔を上げると、その男は青年があの赤い空を見る前に見た、悲観の眼をした男だった。背丈が有り、顔は可もなく不可もない。真面目な体育会系という印象だった。
「俺はナイト。護るのが仕事だ。立て。じゃないと死ぬぞ」
「へ?」
 見上げた先で、轟音が聞こえた。
「運が良いんだか悪いんだか、良くわからないな君は。とりあえず、拉致させていただくぞ」
「へ?」
 非、言わせず。青年は騎士に抱きかかえられて、その場を後にした。



 その頃、晶と了は街の中を駆け巡っていた。アリスは、おそらくこの近くにまだいるだろうと、淡い期待を抱いて、失踪した近くを了が探索していた。
 それなりの美青年だ、その辺りを歩いていればきっと目立つ。それに、彼自身はこの街をよく知らないのだから、上ばかりを見上げているだろう。それならば、すぐに見つかる。交番に聞いて、捜索できる身分ではないが、いればすぐに見つかる自信があった。
 シャッターの締まっている店の前に立ち、人を避け、目を瞑る。何処も決して静寂ではない。だが、一つ感覚を遮断することで、情報を整理させようとした。

――――その直後、轟音。

 何が何だかわからないその場で、ハッと瞼を持ち上げる。道を行く人間たちは、皆総じて辺りを見回していた。多数の人間の目線の先へ、自らの目線を動かす。
 上がる煙に、消えた一つのビル。確か、数秒前の視界には、七階程度の細い建設物があったはずだ。だが、それの上部分が斜めの切り口で消えている。まるで、良く研いだ包丁で豆腐を切った時のように、その切り口はスッパリと綺麗なのが解った。
 了はその建物に向かって地面を蹴る。そして、携帯が鳴った。
「晶か!?」
「あぁ! ビル、見たか!」
「あぁ! 俺の居る場所のすぐ近くだ! 今から行ってみる! もしかしたら」
「アリスが居るだろうな。能力じゃなけりゃ、あんなこと出来ねえ。多分、巻き込まれてるだろうな」
「お前は今どこだ」
「ピスケスに一端戻ってみてたんだ。車出して超特急で行く。何人か戦えそうなの持っていくから、現場によろしくな」
「あぁ、切るぞ」
 画面を叩くようにタッチして、晶との通話を切った。目の前に広がるのは阿鼻叫喚だ。この場所で一々話してなどいられない。
 落ちてきた建物の一片が、地面で爆ぜて。人々を巻き込んだらしい。人通りの多い道に、重力の関係か、ずり落ち、轟音がしたようだった。だが今はそんな轟音何処かに行ってしまったようで、血の臭いと混ぜこぜにした、人間たちの叫びが五月蠅かった。
 瓦礫の下敷きになった人間が何処に埋まっているか、どうなっているかは正確に、了の眼にビジョンとして見ることが出来た。が、生々しいそれから目を逸らす。あの中に、自分の欲しい人物はいない。
 何処かで子供の声と、三種類のサイレンが交じり合って、気持ちが悪い。直ぐにでもここを立ち去りたかった。

 ふと、逃げ惑う人間の中で一人だけ走り方の違う影を見る。何か明確な意識を持って、それが動いていることが解る。こんな状況で冷静でいられるのは、多少なりともおかしい。了はその影を追った。明らかにその影は、何か大きなものを抱えて動いているようで、簡単に傍に寄れた。
「ちょっとそこの人、何持ってんの。あんま大きい物持って走るとあぶねえよ」
 優しい振りで、その人間の肩を叩く。近くに寄れば、それが男だとわかる。
「無視しないでくれ、警察もすぐ来てくれるから」
「離してくださらないか、了」
 肩を掴んだ相手は、知っている奴だった。この街ではよくあることだが、まさか、この男に出会うとは思わなかった。
「ナイト? 何でお前がここにいる」
「何、スナーク狩りに」
「相も変わらず意味わからねえことばっか言いやがるな」
「そして、きっとお前の望みの者は、俺の手の中にって感じだ」
 噛み合わぬ会話だが、了はハッとする。
「お前、その抱えてるもん、ここに置いてけ」
「置いてけ堀でもないのに。置いていく意味がないじゃないか。すまないね、これを納品するのが今日の俺の仕事だ」
「交渉しようとなんて、端から思ってねえよ」
「ならば、ここで戦えるかい? 君の自論を犯すけれど。少し、道をそれてからするべきでは?」
 抱えている者、アリスとナイトの襟首を掴み、細い路地に身を移す。
「相変わらず身軽だね」
「お前ほどデカくないだけだ」
「さて、始めようか。勝てるわけがないんだけれど」
 地面に落ちた衝撃で、アリスが唸り、おぼろげに目を開けていた。が、そんなことも気にせずに、了はナイトの肋に拳を当てた。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品