マーテリアンの昇天

井上数樹

 日が暮れかけたころ、ようやく舟を出す準備が整った。

 舟とは言っても大層なものではなく、両手漕ぎのボートに船外機を取り付けただけの代物で、僕とちょっとした荷物を載せてしまえばそれだけで定員オーバーだ。それでも久保さんが十八歳の誕生日にくれたものなので無碍には出来ないし、第一、僕自身とても気に入っていた。

 傷んでいた箇所の修理やペンキの塗り直し、倉庫で埃をかぶっていたエンジンの解体と整備、そうした工程を一つずつクリアする度にこのボートが自分のものになっていくような実感があって、それが単純に嬉しかった。久保さんも手伝うと言ってくれたのだけれど、自分でやると言って押し通したのは、僕だけで何かが出来るということを証明したかったためでもあり、同時に達成感を得たかったからだ。

 それでも最後の点検だけはすると言って聞かず、僕が心配無いと言っても「お前、免許取ったばかりやろ。信用ならんわ」と頑固さを発揮する始末だった。

 僕が荷物の中身をチェックし終えた時も、久保さんはまだ船底に張り付いていた。声をかけるとかりん糖のような色の顔が現れる。灰色の髪はすっかり剃ってしまっていて、それをぼりぼりと掻くのが久保さんの癖だった。今も片手で頭を掻きながら、もう片方の手で船べりを歩いていた小さな蟹を摘まんで、ひょいと砂浜に投げ捨てた。

「ほんまに少ないな。それだけでええんか?」

 僕の荷物は黒いバックパック一つ分で、黒い生地は大きく膨らんでいる。それでも一生地球を離れるかもしれないことを考えれば、確かに少ないかもしれない。だが持っていきたい物なんて特に無かったし、むしろ、地球を懐かしむ原因になるかもしれない。本当なら十二使徒のように袋も、服も、靴も、あるいはお金も持たずに行きたいとさえ思っている。ただ、この航海がどこに至るか分からない以上、さすがに徒手空拳というのは心細かった。

「良いんですよ。これだけあったら十分です」

「サヨか。じゃあ、俺はもうしばらく見とくから、提督に挨拶に行ってき」

「来てはるんですか?」

「そりゃそうやろ。提督やって、お前のことずいぶん気に入ってはるからな」

 灯台の方や、と久保さんは言うと、また屈んで船底を調べ始めた。僕も立ち会っていたかったけど、このまま提督と話さずに行くのは寂しいと思ったので、灯台のある波止場に向かって歩き出した。

 浜辺には打ち捨てられた船が何艘も転がっている。千切れた舫やブルーシートが惨めに揺さぶられる以外はまったく身じろぎもせず、寄せ来る波を延々と砕き続けている。潮騒に朽ちた船体の軋む音が混じり、生臭い海水の臭いと共に腐敗した木材や黴の臭いを僕に吹き付けた。
 船の残骸から少し視線を遠くにやると、黒く染まりつつある海面がなおも光を反射させながら波打っている。沖合には傾いだ廃墟の先端がいくつも見て取れ、それら一切のものが巨大な金屏風を背景にぽっかりと浮かび上がっていた。

 一本の埠頭が西方に向かって真っすぐ伸びていて、先端には小さな灯台が設けられている。そこに一人の女性が佇み、静かに煙草を吸っていた。白いシャツに黒いスラックスというラフな格好で、僕の足音を聞きつけると振り返り、皺の刻まれた顔に微笑を浮かべた。

「準備は出来た?」

「はい」

 提督はポケットから鉄製の携帯灰皿を取り出して、まだ燻っている先端を蓋に押し付けた。この人の律儀な所が、僕は好きだった。

「ここからなら船が見えるかと思ったんだけどね。残念ながら、少し遠いようだね」

 彼女の言う船とは、もちろん僕の船のことではない。かつて彼女が指揮していた宇宙船のことだ。

 提督は地球人ではない。見た目が還暦を過ぎた女性と変わらないため髪が灰色であることにも違和感は無いが、それがマーテリアンと言う種族の特徴なのだ。誰もが抜けるような白い肌を持っているものの、コーカソイドのような彫の深さとはまったく無縁で、印象に残り辛い繊細な容姿をしている。地球人類が初めて彼女たちと接触したとき、誰もが口ぐちに天使、天使と言ったそうだが、僕には天女と表現したほうがより正確であるように思える。

「本当に、提督は地球に残るんですね?」

「うん。この歳で新しい航海に出るなんて無理だからね。航海の最中に倒れたりしたら、仲間に色々と迷惑をかけることになる。第一、私はもうマーテリアンではなくて、れっきとした地球人だ」

「許可証取れたんですね、おめでとうございます」

 提督は肩をすくめた。

「生きてる間にもらえるか心配だったよ。いくら催促しても前例が無い、前例が無いっていうばかりで、ちっとも話が前に進まないんだから。こんなことで、これから大丈夫なのかって心配になる」

 そう言う提督の口調は、まるでいつまでも息子を子ども扱いしている母親のようだった。

「私が残って、君は出ていく。奇妙なことだね」

 僕が何も言わずにうなずくと、穏やかな提督の表情に、染みのようにかすかな憂鬱が紛れ込んだ。

「シン、君に宇宙の話なんてするべきじゃなかったのかもしれない。いや、今更言ったところで仕方の無いことだということは、分かっているけどね。マーテリアンの旅だって決して安全なものじゃないし、君が一人だけで地球を離れるのも良いことなのか、どうか」

「それ、ほんまにイマサラですよ。無かったことにするんやったら、八歳くらいまで戻らんと」

 提督がマーテリアンであることをやめてこの末波市に居を構えたのは、今から十年も前のことだ。最初はマーテリアンで初めての帰化申請者ということでずいぶん持て囃されたそうだが、半ば隠居老人の心境でいた提督には良い迷惑だったらしい。勝手に名誉市民の称号を贈られそうになって、ずいぶん困惑したとも言っていた。平凡な一市民として生きることを望んでいた提督はそれを断り、代わりに児童向けの家庭文庫を開いた。そこを訪れたことがすべての始まりだった。

 僕には両親に育ててもらったという実感が無い。二人とも存命どころか溌剌としているが、僕の存在などまるで眼中に無いようで、いつも家を離れてどこかに遊びに行っている。どちらも四十手前だが、見た目も精神もハイティーンの若々しさや純粋さを少しも損なっておらず、プレッシャーとはまったく無縁の生活を送っている。十八年前も同じ具合だったようで生まれてきた子供にカタカナだけの名前をつけた。その由来が、両親が共に好きだったアニメの主人公というのだからお笑い草だ。
 そういう人たちだから、子供を育てるということに対する想像力なんてまるで持ち合わせていなかった。僕が憶えている最も古い記憶にさえ両親の姿は現れない。四歳の時に預けられていた保育園から、僕は一人で家まで歩いて帰った。秋だったのか、夕日がやけに赤く燃えていて、僕と同じように無邪気なネグレクトを受けた子供たちが影を背負いながらとぼとぼと歩いていた。その時抱いていた感情は紛れも無く寂しさだったのだけれど、成長するごとに少しずつ薄れていって、今では微塵も覚えていない。ただ寄る辺ない浮遊感だけが残っている。

 両親はどうすれば僕を育てる負担が減るだろうかと常に考えていたようで、預けられるところがあれば片っ端から僕を押し込み、育児に拘束されない自由な時間を満喫した。提督の文庫を訪れたのもそうした理由からだった。
 初めて提督と会った時のことは、今でも鮮明に憶えている。名前を聞かれたので答えたら、提督は「清いと書いてのシン、で合ってる?」と言ってくれた。カタカナの名前にコンプレックスを抱いていた僕にとって、その誤解はとても嬉しかった。

 数日も経つと提督の文庫は家より居心地の良い場所になっていた。通っている間に少しずつ本が好きになって、読書量も比例して増えていった。
 提督の家は二階建ての古い日本家屋で、一階のほとんどを文庫として開放していた。時々遊びに来た女の子と台所でお菓子を作ったこともある。文庫と限定するよりも児童館と表現した方が良いかもしれない。畳張りの居間は本棚に囲まれ、障子を開けると芝生の敷かれた庭が広がっていた。晴れた日には、外に置いてあるベンチに座って本を読んだ。
 小学生の間は、それなりに外で遊ぶことも多かったのだが、中学生になってからはほとんどの時間を文庫で過ごすようになった。学校帰りに直接文庫に寄って、夜まで居座ることも多かった。大抵は六時、遅くても七時になると帰らされたが、時々一緒に夕食を作って食べることもあった。その日あったことや、読んだ本の感想を話すという体験があるのは提督の御蔭だ。

 そういう時、自分の話がすべて終わると、決まって提督に銀河旅行の話をせがんだ。

マーテリアンたちはいくつもの銀河を股にかけ、自分たちの生まれた星すら忘れるほどの長い年月を巨大な宇宙船の中で過ごし、時折知的生命体の存在する惑星と接触しては離れるということを繰り返してきた。
 提督は彼女が知る限りの異星体について語ってくれた。提督自身がコンタクトを取ったのは地球人が初めてらしいが、船のデータベースには過去のコンタクトに関する膨大な資料がおさめられていて、その資料を基に相手との対話方法を模索するそうだ。
 提督の話を聴いている時だけは、僕は浮遊感を忘れられる。提督の話す宇宙に思いをはせる時、それについて考えているということが何だか高尚なことのように思えたからだ。考えるに値する、意義のある話だと思っていた。だから自分から進んで宇宙のことを勉強するようになっていった。
 高校生になったころ、こんな質問をされたことがある。

「知的生命体には様々な形質が存在する。その内、機械化文明を創り上げる類の生物には、必ず一つの形質が備わっている。何か分かるかな。もちろん、脳があることは前提だよ」

 僕は少し考えてから、右手を広げて答えた。

「手、ですか?」

「その通り」

「簡単ですよ」

 機械化文明は道具によって作られ、その道具を操るのは手に他ならない。技術を発展させてオートメーション化を進めれば手の役割は減っていくかもしれないが、そこまでたどり着くにはやはり手が必要だ。
 もちろん、異星人たちが皆地球人のような手を持っているわけではない。指や腕の本数が一致することなどほとんど無い。それでも、手という部位の持つ究極的な目的は、やはり物を掴むという一点に集約されている。

「手というものはね、欲望に最も近しい器官なんだ。手のために道具が出来たのか、あるいは道具のために手が発達したのかと問われれば、正解はおそらく後者だろう。地球人類の近縁種には道具を使う生物がいるというけど、単に身近にあるものを道具として転用していることを考えれば、納得出来るのではないかな。他の知的生命体にしても変わらない、常に必要性に迫られ続けたからこそ、手というものが必要になったんだ」

 でも、と提督は言いつつ、片手を広げたり閉じたりしていた。

「そうして文明が進んでいくと、次第に星そのものを疲弊させてしまう。資源、食料、空気、土地……これらを満たすためには、どうしても宇宙に出ていかなければいけない。私たちマーテリアンの先祖も、恐らくはそうした理由で星を出たのだろうね」

「やから、地球に来はったんですか?」

「今はもう違うよ。いつかまた旅に戻る。私はついていく気は無いけどね」

「じゃあ、代わりにぼくが乗ってっても良いですか?」

 僕は突拍子もないことを言った。提督は少し呆気にとられているようだったが、やがて笑い飛ばしてしまった。出来るならね、と挑発し、その上僕に技術や知識の個人教授を始めた。本当に贅沢な経験だったと思う反面、提督にとっては始終冗談のつもりだったのだろうなと邪推せずにはいられない。
 僕は今、現実にそれを成そうとしている。提督は自分が煽るようなことを言ってしまったことを後悔しているのだろうけど、そんなことは思わないでほしい。多くの人間が堕落してしまったこの世界で、なおも目標を持ち続けていられるのは幸福なことだ。たとえ、その目標がどれほど荒唐無稽なものであろうとも。

「提督、今までお世話になりました」

「もう二度と戻らないつもりなんだね」

「成功しても失敗しても、どの道無理ですよ。もうこの街に居場所は無いです。まあ、マーテリアンが居なくなってしばらくすれば、生活だってがらりと変わるやろうし、ほとぼりが冷めるまでは歩き回ってみます」

「たどり着けさえすれば、たぶん誰も君を拒もうとはしないはずだ。君の他にも、進んで地球を離れるという人間が何人か居るみたいでね。居座ってくれという頼みは聞けなくても、出ていきたいという希望は聞いてくれるだろう」

「助かります」

「怖くはない?」

 その質問は、これまでにも何度かされたことだった。正直、怖くないと言えば嘘になるのだけれど、僕にとってはこの星に居続けるほうがよほどぞっとしないことだった。

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