Bar ロックハート 「幻の発泡ワイン」

愛山雄町

Bar ロックハート 「幻の発泡ワイン」

 とある街の小さな路地。
 同じような石造りの家屋が立ち並ぶ狭い路地。L字型に曲がった、その先にある風雨にさらされながらも重厚さを失わない無骨な木製の扉。
 扉の横には注意していなければ見逃すほど小さな木のプレート。そこにはこう書かれていた。
「バー ロックハート」

 私、ロバート・ラドフォードは偶然、いや、神のお導きにより、この店にたどり着いた。それ以来、この店の虜になり、ここ半年ほどは毎日のように通い詰め、常連客となった。
 今日も日が暮れた頃、ぶらりと入っていく。
 その重厚な扉を開けると、カランカランというドアベルの音がバーの中に響く。やや蒸し暑い外とは違い、ひんやりとした空気が私の頬を撫でる。
 窓のない店の中は薄暗い。しかし、柔らかいオレンジ色の光が天井を照らし、幻想的とも言える雰囲気をかもし出している。マスターに聞いたのだが、“間接照明”という手法だそうで、灯りの魔道具の光を天井に当て反射する光によって室内を照らしているそうだ。ここ以外で見たことが無い灯りの取り方だ。

 奥から「いらっしゃいませ」という若い男性の声が聞こえてくる。私は「今晩は」と声の主であるマスターに声を掛けながら、いつもの席である、一番奥の椅子に腰を下ろす。いつも通り、私が一番の客でカウンターには誰も座っていなかった。

 このバーは狭い。カウンター席が七つしかなく、テーブル席はない。
 カウンターはやや低めの物で、手前側の端が緩やかな曲面に仕上げられ、肘を置くのにちょうどいい形になっている。椅子も革張りの柔らかいクッションの物で、いつまでも座っていたいと思う一品だ。
 カウンターの後ろにはガラスでできた酒瓶ボトルが並び、間接照明で照らされたボトルは美しい琥珀色に輝き、同じように並べられている磨き上げられたグラスがキラキラと煌めき、目を楽しませてくれる。
「いらっしゃいませ」ともう一度言いながら、よく冷えたおしぼりを手渡してくれる。このサービスもこの店独特のものだ。
 私がおしぼりを受け取ると、「何になさいますか?」とマスターが笑顔で尋ねてくる。
 マスターは二十代半ばくらいに見える男で、きれいに撫で付けた金色の髪と通った鼻筋、美しい碧色エメラルドグリーンの瞳で、すらりと背が高い色男だ。最も特徴的なところはその長く尖った耳だ。長命種のエルフであり、二十代半ばに見えるものの、実際の年齢は全く分からない。

「いつものものを」と答えると、「かしこまりました」と小さく頭を下げ、すぐに飲み物の準備を始める。
 マスターは銀色の楕円形に近い容器を取り出す。その容器は上下に分割でき、更に上部にはキャップがある構造になっている。マスターが“シェイカー”と呼ぶ、酒専用の道具で、これもここ以外で見たことはない。
 マスターは緑色の皮の柑橘、ライムを取り出し、果汁を絞っていく。そして、一本のボトルをカウンターの下から取り出した。それは透明なガラスのボトルで、冷やしてあるため、すぐに表面が曇っていく。
 銀色の小さな杯に注いでいく。この杯、メジャーカップにボトルから酒、ジンを注ぐ。そして、シェイカーの中に先ほど絞ったライムの果汁を加えていく。その手際に無駄はない。素早く、それでいて優雅な動きだ。
 カウンターの下からグラスを取り出す。それは氷で冷やされているため、白く曇っていた。
 準備が終わると、間髪いれず氷を取り出し、シェイカーの中に詰めていく。

 今では当たり前のように見ているが、このような小さな店で氷をふんだんに使うことに、最初は驚きを隠せなかった。私自身は特殊な家に生まれたため、比較的普通に氷を使っていたが、通常は真冬以外に氷を手に入れることは貴族であっても難しい。
 氷は通常、水属性魔術師のみが製造できるものだ。治癒師には水属性魔法を使える者がいるため、それほど数が少ないというわけでもないが、飲食という娯楽のために貴重な治癒師の魔力を浪費することは、家臣や民から嫌われている。私が生まれたラドフォード子爵家は有名な美食家を輩出した家であり、専属の水属性魔術師を家臣に抱えていることと、美食が重要な産業であることから容認されているに過ぎない。

 その貴重な氷をシェイカーに入れると、しっかりと蓋を閉め、素早く振り始める。シャカシャカという小気味の良い音が耳に心地良い。その振り方だが、どう表現していいのか困るが、軽く横を向き、シェイカーを持った腕を前後に振るのだが、単純な前後運動ではなく、上下運動も加えている。
 シャカシャカという音が僅かに硬い音を含み始めたところで、マスターはゆっくりと腕を止め、シェイカーをカウンターに置く。そのシェイカーの側面は白く曇っており、金属が冷やされていることが見て取れる。
 それを用意してあったグラスに勢いよく注いでいく。特に最後は振り出すような感じで最後の一滴までグラスに注ぐ。
 マスターが爽やかな笑みと共に私の前にグラスを滑らせた。

「ギムレットです。いつも通り、ハードシェイクで」

 この店に来て初めて知った酒だった。全体を表す名は鶏の尾カクテルというそうで、様々な素材を混ぜ合わせ、絶妙な味を作り出す手法だ。なぜ、“鶏の尾”というのか聞いてみたが、マスターも知らないらしく、「この技を教えてくれた人に聞いたのですが、教えてくれなかったのですよ」と笑いながら教えてくれた。

 よく冷えたギムレットに口をつける。
 独特の香りを持つ酒、ジンを感じながらも、ライムの新緑の森のような爽やかでいて、強い酸味が舌を刺激する。ハードシェイク、つまり強めに振っているため、氷が表面に浮き、それがまたアクセントとなる。
「一杯目のギムレットはやめられないね」とマスターに言うと、「今日のように少し蒸し暑い日にはよく合います」と頷いていた。

 私が一杯目を飲んでいると、次の客がやってきた。
 カランカランというドアベルの音と共に、「いつものを頼む」というドラ声がバーに木霊する。ドラ声の主は「相変わらず早いな」と言い、「たまには仕事をしろよ」と笑っている。そして、私の横にドッカという感じで腰を下ろす。
「親方こそ、今日は早いですね。仕事が上がったところですか?」と声を掛けると、おしぼりを受け取りながら、「ああ、急ぎの仕事がちょうど終わったところじゃ」と言いながら、ジョッキを取り出す。
 この“親方”という人物は背が低く恰幅のいい髭面、すなわちドワーフで、近くの工房を取り仕切っている鍛冶師の親方だ。私は武具に興味がないため詳しいことは知らないが、有名な鍛冶師らしく、遠方から高名な騎士が訪れることもあるらしい。私にとっては気の合う客同士、酒飲み仲間で、気を使うことはない。
 親方は仕事が終わると、必ず一杯引っ掛けに来る。いつもはもう少し遅い時間だが、今日は早めに仕事が終わったらしい。
 マスターはジョッキを受け取ると、カウンターの横にあるレバーを操作し、ジョッキに酒を満たしていく。そのレバーの先を追っていくと、銅色の配管が天井に繋がっている。これもマスターに教えてもらったのだが、二階に樽が置いてあり、そこから酒を注げるようにしているということだった。レバーは三本あり、親方が飲む若いスコッチと、ビールが二種類注げるようになっている。

「どうぞ」とマスターが私の時と同じように、爽やかな笑みと共に親方にジョッキを差し出す。
 親方はジョッキを受け取ると、一瞬だけ愛おしそうに見た後、豪快にジョッキを傾けていく。いつ見ても豪快な飲みっぷりだが、見ている私の方が酔いそうになる。
 ちなみにジョッキは持ち込まなくても用意してあるそうだが、親方に言わせると「こいつは儂の相棒じゃからな。かかあより長い付き合いなんじゃ。他のジョッキなぞ使えるか」とのことだった。ドワーフにとってジョッキはハンマーと同じく、特別な道具らしい。
 三年物の若いスコッチを一気に呷ると、親方はプハーと息を吐き出す。本当に美味そうで真似をしたくなるが、一度やろうとしたら、マスターに「人間がやると死ぬかもしれませんよ。それにスコッチは少量をゆっくり飲む酒です」と真剣な表情で止められた。知識としては知っているが、確かに六百ccものスコッチを一気に飲むということは、五リットルのビールを一気に飲むのに等しい。そう考えるとマスターの言っていることは正しいのだが、目の前で美味そうにやられるとどうしても気になってしまう。

 親方は「次を頼む」と言って、飲み終えたジョッキをカウンターに置いた。
 マスターは「かしこまりました」と言い、ジョッキを水できれいに洗うと、再びレバーを操作し始める。先ほどのスコッチではなく、ビールを注いでいく。

 親方はいつもこういう飲み方だ。最初にスコッチを飲み、その後にビールを飲むのだが、逆の方が味は判るのではないかと思ってしまう。一度、理由を聞いてみたら、「ビールなんぞ酒のうちに入らん。仕事が終わったら、まず美味い“酒”を飲むんじゃ」と教えてくれた。つまり、一日働いたご褒美に“酒”を飲む。そして、親方にとって酒とはスコッチやブランデーといった蒸留酒であり、だから、最初にスコッチを飲むのだそうだ。その後にもスコッチを飲めばいいと思うのだが、「儂が一人で飲み続けたら、他の連中が飲めんじゃろう」と自主規制していると教えてくれた。だから、スコッチの後にビールを飲むのだそうだ。この辺りのドワーフの心理は私には理解できない。

 親方のジョッキにビールが注がれると、マスターが小さな声で呪文を唱えている。このマスターだが、魔術師であり、魔法でビールを冷やしているのだ。詳しくは知らないが、魔術学院で優秀な成績を修めた英才だそうだが、酒好きが講じてバーのマスターをやっているらしい。

 親方と他愛のない話をしていると、ギムレットがなくなった。次の飲み物をどうしようかと考えていると、再びドアベルが鳴った。
 次に入ってきた客は親方とは正反対。つまり、妙齢の美女だった。人間であれば二十代半ばといったところだ。しかし、特徴的な細く長い耳が美しい金色の髪の間から覗き、彼女がエルフであることを示しており、実年齢は分からない。
 間接照明が淡く照らすその女性は、冒険者のような革製のジャケットにロングパンツとロングブーツという姿でありながらも、神秘的とも言える雰囲気を醸し出していた。

 普段はどのような客にも態度を変えないマスターが、「お久しぶりです!」と声を弾ませている。その一方で、美女の方は「お久しぶり、元気そうね」と言いながらも、ほとんど表情を変えていない。
 私とは反対側の端の席に座ると、肘を突きながら、「いつものはあるかしら?」と上目遣いでマスターに話しかける。やはり、私が知らない昔馴染みのようだ。
「ございます。すぐに用意します」とマスターは満面の笑みで答えると、バックヤードに消えていく。
 私は親方越しにその美女を眺めていた。というより、目が離せなくなっていたのだ。愁いを帯びた碧色の瞳に影を落とす長い睫。淡い光を受け、艶やかに輝くピンク色の唇。しみ一つない白皙の肌……彼女はカウンターの奥にあるボトルを確認するかのように、視線を動かしていき、見知ったボトルを見つけると、小さく何かを呟きながら、僅かに表情を緩める。
 私は親方の話を聞き流しながら、空になったグラスを無意識に傾けていた。

 一分ほどでマスターは戻ってきた。その手には銀色のワインクーラーと発泡ワインのボトルが握られていた。「いつもの物です」と言って、ボトルを彼女の前に置き、後ろの棚から細長いワイングラスを取り出した。そして、ワインクーラーに氷を入れていき、最後に水属性魔法で水を張っていく。
 マスターは「既に適温に冷やしてあります。確認されますか?」と窺うように尋ねる。
 エルフの美女は「いいえ、あなたにお任せするわ」と僅かに微笑んだ。
 マスターは一礼すると、いつもより緊張しているのか、ややぎこちない動きで発泡ワインのコルクを抜き始める。
 その時、私の目にワインのラベルエチケットのデザインが映った。その瞬間、思わず「あっ!」という声を上げていた。
 マスター、親方、そして、エルフの美女が一斉に私に視線を向ける。マスターは手を止めることなく、「どうしました?」と聞いてきた。

 私は最初、言葉が出せなかった。
 なぜなら、その発泡ワインは伝説のワインだったからだ。
 数秒後、ようやく声帯が機能を回復した。そして、搾り出すように、「そ、それは……もしかしたら、“リディアーヌ”では……それもZLの“ナンバー”では……」としゃべった。
 マスターが答える前に美女が「あら、よく分かったわね」と驚き、「見事に当てたから、ご褒美に一杯奢らせてもらうわ。いやじゃなければね」と笑いかけてくれた。

「あ、ありがとうございます。ですが、よろしいのですか? 貴重なものですが」と遠慮気味に答えた。横では親方が「やると言っておっておるんじゃ。遠慮なくもらっておけ」と無責任に煽る。
「貴重ね……そうね。貴重かもしれないけど、味が判る人に飲んでもらった方がお酒も喜ぶわ。そうでしょ、マスター?」と話を振る。そう言ってもらえて嬉しかったのだが、彼女の顔に一瞬だけ、寂しそうな表情が浮かんだことが気になった。
 マスターも「そうですね。この方なら、このワインも、それにあの方も喜ぶでしょう」と僅かに憂いを含んだ笑みで答えた。

 マスターは静かにコルクを抜くとゆっくりと発泡ワインをグラスに注いでいく。私の席からは照明の明かりがグラスに入り、神秘的な光景を見せていた。それはまるでトパーズ色の絶え間なく湧き上がる小さな泉。
 マスターは滑らせるようにエルフの美女の前にグラスを置く。
 彼女は「ありがとう」と言って受け取り、静かにグラスを傾けていく。

 私は思わず「美しい」と呟いていた。親方が「確かにそうじゃが、女の顔を見続けるのは感心せんぞ」と小さく忠告してくれた。そこで自分が彼女を見つめ続けていたことに初めて気付き、慌てて視線を正面に戻す。
 その間にマスターが私の分のワインを用意していた。フルート型のワイングラスは水晶から切り出したかのように美しいが、それ以上にグラスを満たす発泡ワインは美しかった。
 その後のことは良く覚えていない。それほど至福の時間だった。絶妙な酸味と淡い甘み、白ブドウの芳醇な香りが混ざり合い、それを湧き上がる炭酸が口の中に広げていく。空を飛ぶようなフワフワとした感じで飲んでいたが、発泡ワインの味だけはしっかりと記憶している。

 この発泡ワインは“リディアーヌ”という名が付けられている。ラベルエチケットに描かれているのは、エルフの女性の横顔。
 ザカライアス・ロックハート卿の妻、リディアーヌの横顔と言われ、発泡スパークリングワインをこよなく愛した妻の名をワインの名にしたという逸話が残っている。そして、“ZLのナンバー”というのは、ザカライアス卿が自ら作った発泡ワインのことをいう。
 この“ZLナンバーシリーズ”なのだが、長い年月を経ても未だに最高の状態で保存され、数年に一度だけ世に出てくる幻のワインなのだ。長期保存にそれほど適していない発泡ワインが未だに残っているのは、ザカライアス卿が開発した収納魔法と呼ばれる特殊な魔法のおかげだと言われている。魔術学院の高名な研究家が理論を発表しているが、四つの属性を使う魔法であることから、ザカライアス卿が直々に手ほどきした直系の弟子のみが使える秘技となっているらしい。

 私がこのナンバーを見分けられたのは、ボトルの特徴を知っていたからだ。ラドフォード子爵家はロックハート家と交流があり、一度だけ“リディアーヌ”の“ZLナンバー”を飲んだことがあった。その時に知ったのだが、“ナンバーシリーズ”のボトルにはその名の通り、“数字”が入れられているのだ。このボトルにも“五二〇”という数字が入っている。
 ザカライアス卿は土属性魔法の名手であり、多くのボトルやグラスを残している。そのいずれもが芸術品と呼ぶに相応しいものだが、このボトルも例外ではない。
 数字が入れられているが、これはボトルに彫られたものでも、張り付けられたものでもない。厚みのある発泡ワインのボトルという特徴を生かし、透明なガラスの内部にグリーンのガラスで数字を入れてあるのだ。この製法も直系の弟子にのみ伝えられ、文字を入れたボトルは作られているのだが、数字を入れたボトルはザカライアス卿しか作っていない。

 これにも逸話がある。当時は自家消費分として作っていたため、エチケットを張らずに収納魔法に保管していたが、熟成期間などの管理のために番号を振り始めた。当初はコルクに番号を書いていたが、ボトルを再使用リサイクルするのだからと、ボトルにナンバーを入れ始めたというのがことの起こりらしい。現存する“ZLナンバー”の数は不明だが、ナンバー自体は三桁までしかないと言われている。
 そのリディアーヌのZLナンバーが、この店に置いてあるとは思ってもみなかった。そのため、大きな声で叫んでしまったのだ。お陰でご相伴に与ることができたので、結果としては良かったのだが。

 私がそんなことを考えていると、くだんの美女は再び愁いを帯びた表情で、静かにグラスを傾けていた。お礼を言いたいのだが、それを許さない雰囲気があり、声を掛けることを躊躇っていた。

 私もZLナンバーを飲み干したので、次の酒に移ろうとボトルを物色していく。今日はザカライアス卿にあやかろうと、ブランデーを頼むことにした。
 マスターに目で合図を送り、「シーウェルブランデーを。“雌虎タイグレス”の十五年物はまだあるかな」と注文する。マスターは「ございます」と答えると、後ろの棚から夕日が沈んだ後の空のような濃い茜色のブランデーを取り出す。
「いつも通り、ストレートで?」と尋ねてきたので、小さく頷く。
 シーウェルブランデーは私にとって馴染み深い酒だ。ラドフォード家はシーウェル家の家臣なので、その関係もあるのだが、それ以上にラドフォード家がシーウェルブランデーの蒸留所を運営していることが大きい。シーウェルブランデーは帝都で最も人気のある蒸留酒だが、その中でも雌虎タイグレスという名のブランデーは最高グレードのものを指す。
 マスターは大振りの丸みを帯びたグラスにブランデーを注ぐ。カウンターに置き、数回ブランデーが回るようにグラスをゆする。仄かにブランデーの甘い香りが漂ってくる。
「あら、それは……」と美女が雌虎タイグレスのボトルを凝視する。「今日は懐かしいお酒ばかりね。昔を思い出すわ……」と呟く。
「そうですね。本当に……」とマスターも普段は滅多に見せない、少し遠い目をしていた。
 この二人はどのような関係なのだろうと思っていると、親方が「何をしんみりしておるんじゃ。酒は楽しく飲むもんじゃ」と言って、私の背中をその大きな手でバシンと叩く。
「うわぁ」と思わず声を上げるほど驚くが、この親方はいつもこんな調子なので、諦めるしかない。

「そうね。お酒は楽しく飲むもの。あの人もそう言っていたわね……」と美女は言うと、「ごめんなさいね。私がしんみりとしちゃったから。では、改めて、乾杯!」と陽気な声でグラスを掲げる。親方が「それでいいんじゃ」と頷き、「乾杯!」と同じようにジョッキを掲げる。
 私もそれに続くように「乾杯!」とグラスを上げた。

 その後のことは良く覚えていない。一度、マスターに解毒の魔法を掛けられたことは憶えているが、何を飲んで、何を話したのか、それよりどうやって自分の部屋に戻ったのかすら憶えていない。
 ただ、楽しい話をたくさんしたことだけは憶えている。内容は全く覚えていないが、楽しいようで少し寂しい話だった気がする。
 結局、エルフの美女の名を聞いていない。もしかしたら、憶えていないだけかもしれないが、今は聞く必要が無いと思っている。
 私の推測が間違っていなければ、彼女の名は……

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 後に彼は高名なワイン評論家となった。
 美食家として有名な実家の名を使わず、母方の名を使い、“ロバート・パーマー”と名乗っていた。彼は生涯にわたり旅を続け、多くのワインに評点をつけた。辛口の評点を付けることで有名な彼だが、唯一満点をつけたワインがあった。

 それは“リディアーヌ・ZLナンバー”。
 後に生涯で一番美味いと思ったワインは何かと聞かれ、即座に「リディアーヌ・ZLナンバー」と答えた後、「五二〇が最高だった」と付け加えたという。

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 ロバート・ラドフォードが親方に連れられて店を出た後、エルフの美女が愁いを帯びた表情で「あの子が飲んでいたのはギムレットとジンライム……きっと意味は知らないんだろうけど」と口にした。
 マスターはグラスを拭きながら、やや寂しげに見える表情を浮かべ、「そうですね」と頷く。
「ギムレットは“長いお別れ”」と言い、少し間を置き、グラスを拭く手を止める。
「そして、ジンライムは“色あせぬ恋”……今の貴女に……」と言いかけて、視線を落とし、それ以上は言葉を続けなかった。
 エルフの美女が「もう一杯頂こうかしら。お任せするわ」と微笑む。

「では、ジントニックを」

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