テッサイ 〜青き春の左ミドルキック〜

進藤jr和彦

翌朝

 久島は逃げた、逃げて逃げて逃げ続け、駅前を走り、帰路を駆け抜けて、我が家である一軒家まで辿り着いた。ここまで走ったのは、小学生の時の毎朝校庭を走るマラソン以来かもしれないと、ジムで偶に行う走り込み以上の高ペースで走り、心臓が痛むほど鼓動が刻まれ、汗だくでヨレヨレのシャツとブレザーのまま、久島は家の門を潜り、扉を開けた。

「た、ただい……」

「何しとったんや、あんた」

 玄関を開けて返ってきたのは『お帰り』ではなかった。パーマネントをあてた髪の毛に、厳しく眉間に皺を寄せ、年季の入ったエプロン姿の母親が玄関に立っていたのだ。

 母親を前にして、久島はさらに気怠さを増させた。久島秀忠は、産みの親であるこの、目の前に立つ母に好意を持っていない。この母は逐一口煩いのだ、それこそ友人がいない事を心配している風に言いながら、心の隅を突く言い方をするし、寄り道をしない事も指摘しておきながら、帰るのが遅いと逐一聞いてくるのだ。

「はぁ……友達と寄り道して帰って来ただけだよ、悪い?」

「あんた、友達おったん?」

 これである、確かに今日の寄り道まで友達と言える人物は居なかったし、今日寄り道を一緒にしただけの水本京介を友人と言えるかは少々説得力に欠けるが、それ以上どう説明する必要があるのかと、息を整えつつ久島は玄関に座り、履き古したスニーカーの紐を解き始める。

「今日できたんだよ……悪い?寄り道していいって言ったの母さんでしょ」

「それでも遅いわ、夕食ラップしとるからチンして食べんさいよ、私これからバレー行くから」

「父さんは?」

「テレビ見とるわ……」

 久島の母は、そう言って家の奥に引っ込んで行った。母の事はあまり知らない秀忠は、確か母はこの辺りのママさんバレーのチームで練習してる事を思い出した。

 そして、今日も父の帰りが早い事に、久島は靴を揃えてから洗面台に行き、うがいをしてから食卓へ向かえば……父はさきイカとロング缶酎ハイを食卓に置いて、テレビを見ていた。

「お帰り、寄り道しとったんけ」

「ただいま……まぁ、そんな所」

「ほぉか、今日夕飯豚生姜焼きやで、温めて食べよ?」

 毎日毎日、晩酌をしてる父の肝臓は大丈夫なのだろうかと、食卓にてラップしてあった豚生姜焼きと、その他諸々の茶色のおかずが乗った大皿をレンジに入れ、500wで2分ほどに設定して久島は温めた。

 昨日は寝転がっていたが、母の居る今は食卓に座っていた。さて、生姜焼きが温まるまで、茶を飲みながら待つかと思った矢先だった。

「秀忠、お前……あれに出るんか?」

「はい?」

 父がさきイカを持つ手で、テレビ画面を指す。未だ現役のブラウン管テレビに映りこむ、四角いリング。そこには『BOF日本代表決定トーナメント』が映し出されていた。

 あぁ、これがBOFかと当の秀忠本人がそのプロキックボクシングの番組を見て、四角いリングの上で殴り合うキックボクサー達を見ながら言った。

「いやいや、僕はまだ決めてないし……ていうか、あれはプロの試合、僕はアマですらないからさ?」

「ほおかぁ……その試合出る云々とはちゃうん?」

「違うけど……何?」

「出んの?試合……アアマチュアのやつ」

 いつになく、父親が食いついてくる様子に、秀忠は言葉が出なくなった。出るか出ないか、と言われればその気は無いと言えるのだが……この時秀忠自らは何故か口を濁し……。

「まだ……決めてない」

 そう言ってしまったのだ、それを聞いた秀忠の父は、それきりテレビを見続けるだけだった。しばらくして、温めていた生姜焼きを取り出し、飯にかけて丼にして掻きこんでから秀忠は、そのまま食卓を後にしようと、さっさと飯を炊飯器からよそおうとしたのだが。

「秀忠、お前喧嘩したんか?返り血がシャツに付いとうぞ?」

 父は表情を崩す事無く、秀忠に聞いたのだ。秀忠の心臓が跳ねた、確かにブレザーの下に着たカッターシャツに血が付いていた。

「あ、いやこれは……」

「怒らんから言い、おかんも聞いとらんし…….秀忠お前、やったったんか?バキーッてシバきあげたんか?」

 父は笑った、嬉しそうに笑った。秀忠は、父があまり笑みを作るところを見た事が無かったので、いかに言うべきかと悩んだ。しかし、喧嘩した事を嬉しそうに聞く父とは、教育的にはどうなのだろうかとも感じた。

「喧嘩っていうか、不良に追われて……一発殴って……逃げて来た」
 
「ほぉか……まぁ、まぁ、賢いわな、別にお父さん喧嘩で学校呼ばれるくらいならかまへんからな?いや、むしろお前、呼ばれるくらいな事せぇよお前、おかんの代わりに中学でさ、三者面談した時も、せんせに何もない良い子です〜言われて逆に、逆に悲しかったんやで?」

「なんだよそれ……親に迷惑かけれないよ」

「カァーッ!言うねぇ秀忠くん!」

 父親はチューハイを飲みながら、酔いも入っているのだろうが、むしろ俺は迷惑かけて先生に呼ばれたいと言い出した。息子である秀忠からすれば、親に迷惑をかけるなどしたくないし、する気もないと思っていたが、父からすれば余り手のかからないし、文句もなければ欲しい物も無い息子故、少しは親として迷惑かけてあまえてほしいのだろう。

「ま、あれやあれ……お前はもうちょい気い抜いてって言うか……高校生らしゅうせぇっちゅう話や、喧嘩の一つして、鑑別所行って……そりゃちゃうか?ちゃうな!だははははな!!」

 秀忠は、父が大笑いするのを無視して、生姜焼きをよそったご飯に乗せて丼にしてさっさと食らって、自室へ戻るのだった。



 久島秀忠の自室は二階にあった、部屋の中は無味乾燥としか言えず、殺風景の字の如し。見る人が見れば『刑務所の独房の様な一室』と言われても仕方がない程であった。

 木製の勉強机に木製ベッドと、あるのはそれだけである。テレビやゲーム機も無ければ、山積みの雑誌も無く、一般的高校生らしい様相はその部屋に見て取れない。勉強机の棚に精々教科書やらファイルがあり、ベッド近くに衣装掛けとプラスチック製の簡易クローゼットがあり、そこに代えのワイシャツや下着やら、適当な服があるだけの部屋であった。

 正しく無味乾燥、無色の部屋。その部屋唯一の『色』が衣装掛けに引っ掛けられた8オンスの、色が剥げ落ちたボクシンググローブに、白のバンデージ、見た目で選んだ蛇のイラストが描かれたメーカーの、練習用の半袖ラッシュガードに、キックショーツであった。

 部屋に入った久島は、ブレザーからズボン、ワイシャツを脱ぎ捨ててクローゼットの寝間着用のシャツと半ズボンに着替える。指定鞄を勉強机に置いて、課題は今日は無いので、翌朝の授業の教科書やらを用意してから……気怠さからシャワーを浴びずにベッドへ倒れた。

「はぁ……疲れた……」

 ここ最近の出来事の多さに、思わぬ疲労の大きさから、久島の瞼はもう重くなってきていた。松原太一との練習試合に、掃除当番のいざこざ、寄り道、不良から逃走してから助けられて……寝て忘れる事が出来るならば忘れられないだろうかと、汗は朝シャンで流そうと決めた久島は、深い眠りについた。



 と、思ってみたものの、寝て忘れるなどはそう簡単に出来る事では無く、無情にも朝日が昇っても、昨日の出来事を久島は忘れる事はできなかった。そして思いのほか汗の匂いは凄まじく、朝一でシャワーを浴びたので目はぱっちりと覚めてしまい、気分は虚なれど肉体は完璧な目覚めを迎えるという、何ともアンバランスな状態で学校へ久島は向かうのだった。
 
 いつもの通学路、いつも何も変わらぬ慧学館高校正門、いつもの下駄箱で上履きを履いて、教室へ久島は向かう。時刻にして7:45分、残り30分で予鈴が鳴り、8:20よりホームルームとなる。

 自分のクラス1-Aの引き戸を開けて、教室に入った瞬間だった。

「久島くん!!昨日はごめん、本当ごめん!!」

「おわぁああ!?」

 最敬礼九十度の角度で頭を下げて、水本京介がそこに居た。

「あ、あぁ……水本くん、おはよう……どうしたの?」

「いや昨日久島くん見捨てて逃げちゃったじゃん!!」

 一応挨拶を返した久島は、水本にどうしたのかと聞けば、やはり昨日一人で逃げた事を気にしていたようだった。もしも、普通の人間ならば一人で逃げた事に対して責めるだろう。しかし、久島からしてみれば、あの状況で逃げるのは得策だったし、自分も怪我はしてないし助かったので、さほど気にしておらず……。

「あぁ……いいよ、別に怪我とかしなかったしさ?」

「へぁっ!?マジ!?」

 淡々と、簡単に久島は水本を許した。いや、久島からしてみれば謝る程でも無いので、あしらったが正しい。久島は水本の横を通り抜けて、窓際指定席へ向かえば、水本もまた彼に付いて行った。

「久島くん、婿川工業からよう逃げれたね……」

「まぁ、正義の味方が来てね……」

「警察が助けてくれたの?」

「そんな感じ」

 席に着く久島、その机に手を付けて話を聞き続ける水本。久島は昨日の、水本が逃げた後を濁して説明した。警察では無いが、確かに正義の味方が来て助かったのは事実である、しかし全て話せば水本が罪悪感やらを抱きそうな気がして、久島は話を濁す事にしたのだった。

「いやでも、改めて謝らせて……本当にごめん」

「わかった、わかったからさ、大丈夫だから水本くん」

 それでも、余程悪気があったらしい。水本は度々頭を下げて、それを久島がなだめていれば……。

「久島くん……」

「うん?」

 水本の背後に、大きな影が見えた。その先を見上げ、水本も振り返ると……。

「ゲェッ!?せ、戦艦小山ぁんぎゃあ!!」

 小山陽子がそこに居て、朝のげんこつ一撃を水本の脳天に振り下ろしたのだった。



 ジムの姫路会長から、身長差から来る振り下ろす形のパンチは力学上から見れば強い威力になり、これが身長差におけるリーチのアドバンテージとなるのだと、教えられた事を久島は思い出す。つまりは小山陽子が放つげんこつは、水本京介を悶絶するに足りる威力を有するのは、まさしく現実的であるのだ。

 床に屈み込み、脳天を押さえて声にならぬ声を絞り出す水本をよそに、小山陽子は席に着いた久島秀忠を見下ろした。久島は思った、確かに彼女は大きい、自分が座った状態で見上げたら首が攣りそうになる程には。

「あのね久島くん……その、昨日の事……怒ってるよね?」

 昨日……つまりは水本を庇い、彼女の蹴りを受け止めた事かと、久島は未だ眼に焼きついたその瞬間を思い出す。しかして、まだ彼女は気にしていた様子に、気にしないでいいと言おうとしたのだが。

「別に、大丈夫だから」

 久島の言葉は最小限だった、気にしてはいない。怒ってもいないと、だから大丈夫だ。それら全ての意味を込めた二言だったのだが……。

「ごめんなさい、許されないのは……分かってる、ごめんなさい久島くん……」

「え……いや、だから大丈夫って……!?」

 その率直なる短さは、時として怒りを抱えている風に捉えられてしまう事を、久島は知らなかった。何度も何度も謝る小山に、久島は再度大丈夫と言うのだが、彼女の目が泣きそうに潤んでいる事には驚かざるを得なかった。

 何故彼女が泣きかけているかは分からない久島、しかし久島に問題があったのだ。彼自身は自分の表情から普通と思っていても、他人から見れば無表情極まり無い、全く表情を変えていない。それで『大丈夫』など言おうものならば……怒りであしらうかの様に見られて仕方が無いのだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……本当に……」

「だから、僕は大丈夫と……」

 重ねる度に、余計久島は小山を追い詰めてしまった。堂々巡りに、久島は大丈夫と言う度に小山を締め付ける。久島はどうもできず、言葉が無くなりつつあるその時……。

「小山さんほっときなよ、そんなキモくて器の小さい男さぁ?」

 別の席より聞いた、少々ガラガラ気味な声が響いた。その声へ視線を向ければ、だらしなくブレザーを来た、茶髪のロングヘアーの女生徒が、頬杖をつきながら睨みつける様に久島を見ていたのであった。

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