人生ハードモード
暴走の果てに
昨晩雨が降ったらしく、快晴のわりに湿度がやたら高いジメジメとした暑さに包まれている教室の中、冷たくて気持ちいという理由で私は朝っぱらから机にへばりついていた。
寝不足のためか、冷たい机に頬を当てていると眠くなってきて、ふわぁ、とあくびを一つ。
一晩中考えた私は結局何の答えも出せずにいた。
アリスさんには許嫁がいて、たとえ、今付き合えたとしても、卒業するときには必ず別れることになる。
出会いがあるのだから別れがあるなんて言葉はよく聞くが、そんな言葉でこの状況を理解して納得できるほど私は大人じゃなかった。
何よりもまずアリスさんの気持ちが知りたいわけだが、保健室の時の様子から、私が自意識過剰な人間でないと仮定するならば、脈はあると考えていいだろう。
しかし、私はあと一歩が踏み出せない。
もう一度だけ勇気をもって告白してフラれたら?
付き合うけれど、重い愛は嫌だと拒絶されたら?
付き合うことができたとして、その先はどうする?
茶色の机を目の前にしながら、グルグルと回る思考の中、不意に私はつぶやく。
「駆け落ち、か……」
アリスさんの手を引っ張りながら空港まで行って、辺りまで行く。そして、向こうで結婚してしまえばあるいはどうにかなるかも……とか、二人そろって純白のウエディングドレスを着ているところを想像してみたが、いやいやとすぐに首を振る。いろいろ問題がありすぎる。というか、そもそも私はパスポート持ってないし……。
「恋愛ドラマか何かの話でしょうか?」
「うん? いや、これは私とアリスさんの話なんだ、け、ど……」
あれ?
この聞き覚えのありすぎる声って……?
まず、思わず自分の発してしまった言葉の意味を冷静に考えて、その次にココが教室という事実、そして、今聞こえた声の主を確認した私は、サーと、顔を青ざめる。
カクカク、と機械のような動きで恐る恐る声のした隣の席の方を見ると、顔を耳まで真っ赤にさせているアリスさんの姿があった。
その姿を見て、脳内が真っ白になると同時に、それでも頭のどこかでは冷静に、可愛すぎるでしょその表情は反則過ぎだよ、とか思ってしまう私は精神科かどこかでこの恋の病をせめて軽減してもらった方がいいと思う。
どうやらアリスさんもパニック状態に陥っていしまっているようで、パタパタと手をばたつかせながら、
「えーとですねあれですね、簡単な冗談ですよね、わかっていますはい、大丈夫です、嬉しいとか思っちゃってすみません、本当にごめんなさい」
「いや、なんで唐突に謝って――」
「だってこの前、私メイヤさんを拒絶してしまいましたし、きっと、いや、絶対もう好かれていないですし、私はこんなに好きになってしまったのにメイヤさんには責任とってもらいたいのに、どうしてあの時断ってしまったのかと後悔の真っただ中なわけでして――」
私以上に混乱している様子のアリスさんは目をグルグルとまわして顔を真っ赤にさせてこっちが恥ずかしくなるようなことを永遠と語り始めたので、驚きながらも私がしっかりしないと、と思って、アリスさんの肩を両手でたたいてなだめる。
大丈夫だからちょっと冷静になろう、と私が言うと、ピタリと止まったアリスさんは、私の顔を穴が開くほどに見つめてくる。その頬は未だに赤く、目はうるんでおり、そんな彼女の表情を見て綺麗やら可愛いやらとにかく愛おしいやらで、落ち着かせようとしていた私の方がどぎまぎしてしまう。
「まだ、私のこと……好きですか?」
「はいもちろんいつなんときでも愛しちゃってたりいなかったり――ってイッタ!」
「ツッコミ皆無の夫婦漫才を教室でするな!」
ペシンッ、とヤヨイに頭をはたかれて私はようやく正気に戻る。ちなみに、同時にアリスさんも同じところを叩かれていた。
いつの間にか教室の視線の大半は私たちに注がれており、ずっと公開中だった事実にいまさらながら気づく。ヤヨイに止めてもらわなかったら、と思うと、背筋が寒くなった。
アリスさんも同じことを考えていたらしく、教室の生暖かい視線を見渡してから、ガタンッと席を立ちあがって、逃げるように教室を出ていこうとする。
それを唖然と見ていた私は、ヤヨイに手を引っ張られて、無理矢理立たされる。
「ほら、行ってこいメイっち!」
物理的にも精神的にもヤヨイに背中を押された私は、振り返ってヤヨイを見るも、彼女の笑顔にさらに押されて、すぐにアリスさんの後を追うことにした。
アリスさんは私の想像している以上に足が速く、私よりも胸に大きな重量と抵抗があるにも関わらず、私と同じくらいのスピードで走っていく。というか、もしかしたら私がただ運動不足なだけなのかもしれないが。
途中教師に廊下を走るな、などという小学校並みの注意を受けたが、彼女の名前呼びながら、止まらずに走り続けたところ、ようやく、アリスさんは止まる。
彼女が止まったのは校門の前だった。流石は優等生、学校の外に出てはならないと踏みとどまってくれたようだ。ちなみに走っている最中に朝のホームルーム開始のチャイムは聞こえていたため、校門あたりに人はいなかった。
「やっと、捕まえた!」
結構なスピードでここまで追いかけてきたため、虫の息になりながらも、ようやく私はアリスさんの腕を掴んだ。
アリスさんも全力だったらしく、後ろから見ても肩で息をしているのがわかった。
「なぜ、追いかけて、きたのですか……?」
乱れた息で振り返ることなく、アリスさんは聞いてくる。
声だけ聴けば怒っているような、でも少しうれしそうな、曖昧なものだったので、どんな表情をしているのかは想像できなかった。
「後悔したく、ないから」
大きく深呼吸をして、息が戻った私は彼女へ告げた。
「後悔、ですか……」
うん、と私は頷いた。
いろいろ考えていたけれど、結局何すればいいのかなんて私にはすぐにわからない。
だから、一瞬、一瞬、せめて彼女を前にしたこの瞬間だけは、後悔がないようにしたい。悔いが残るような選択だけはしたくなかった。
私もアリスさんも口を閉じたので、静かになる。後ろで一限が始まる鐘の音が鳴っていた。授業が始まってざわざわしていた校舎の中も静かになる。
そんな静寂を破ったのは、アリスさんの「ごめんなさい」という言葉だった。
「私も、もう後悔したくありませんから」
「……っ!」
そんな言葉が聞こえたかと思うと、アリスさんは袖を掴んでいた私の腕をグイッと引っ張ってくる。
不意なことだったので、そのまま彼女の方へと倒れ掛かった。
次の瞬間、チュッ。
唇に湿った感覚が伝わるとともに、ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐり、目の前にはほんのり赤く染まった頬と、サファイアのような瞳が私の目だけを見つめていた。
「大好きですよ、メイヤ」
私の元から離れたアリスさんは少しいたずらっぽく笑っていた。
一方、私はというと、何が起こったのかわからなくて、しばらくの間、目をぱちくりさせたまま、放心していた。
遅れてさっきまで驚きで止まっていた心臓が動き出し、一気に加速、耳元まで聞こえてきそうなほどのスピードになる。
すぐに「私もアリスのことが好きだよ」と返したかったが、私の中で爆発した喜びは私の唇を震わせ、泣きそうになって、何も話せなくなってしまう。
立っているだけで何もできなくなってしまっていた私の手を今度はアリスさんが引っ張る。
「ほら、行きますよ」
うん……、と夢見心地のままで気の抜けた返事をした私は彼女の後ろをフラフラとついていく。その手はとても暖かかった。
授業中の静かな廊下を歩きながら、私は片手で、まだ少しだけ濡れている唇をなぞる。
この一か月間でおそらく何千回も想像しただろう、アリスさんとのキスは、たとえ一瞬の触れ合う程度のものであったとしてもとても甘く感じた。
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