ウタカタノユメ
闇夜の決戦
誰かの見ている夢のように、人の一生は短い。
息をしているのは当たり前のように思っているかもしれないが、それは刹那の奇跡であり、一瞬、一瞬が貴重なものなのだ。
死ぬかもしれないとわかったからだろうか、森の中で息をひそめながら私はそう感じていた。
死を前にしたからこそ、生が見える、なんて、変なことだとは思うが、不思議なことに今の私は、自分の心臓が動いているだけで、呼吸を一度するたびに、強い『生』を感じていた。
荒神と戦うと決意した私は、森の中で、巨大な岩を背に猟銃を抱えて荒神の接近に備えている。
村の住人に助けを求めるだとか、人の助けはなくとも空き家に立て籠もることも考えたが、万が一にでも無関係の人を巻き込んでしまうかもしれないことを考えて、人が来る場所を避けた。
抱えている猟銃は先ほど一度、試しに撃ってみたので、使えることは確認済みだ。
あとは、あの化け物と対峙するだけ。
日が暮れて、昼間の暖かい森が消えていき、代わりに暗闇とともに寒い森へと変貌していく。その変化を私は、息をのんで見ていた。
手元を見ると震えている。これは、家を出た時からずっとで、収まってくれそうにない。臆病な自分を抑え込むように、手を合わせる。
だが、昨日は日が暮れてからすぐに来た荒神も、今日はすぐには姿を現さない。私が武器を持っているからなのか、それとも、機会をうかがっているのか。
そういえば、と未来へ行ったときのことを思い出す。墓石に刻まれた月日が間違っていないのならば、私が死ぬのは今日ではない、明日だ。
ということは、今日は襲いに来ないのだろうか。
そんなこと思い、気が緩みそうになってすぐに、首を振って甘い考えを振り払う。
「絶対に、生きてやる……」
自分の墓のことなんて考えてはいけない。本当に未来を捻じ曲げて、変えようとするならば、墓自体存在しないことになるのだから。
フクロウの鳴き声、遠くの川が流れる音、風でざわめく木々、家の中で眠っているときは感じなかった森の音が聞こえてくる。都会のように騒がしくはないが、静かではなかった。
遠くで狼の鳴き声がして、震える。夜にはずっと聞こえていた声であったが、今まではまるで他人事だった。自分の周りに守ってくれる人のいないこの空間というのはそれだけで、不安は倍増させる。
周りに気を配りながら、他に何も考えることがなかったからか、私はこの選択が本当に良かったのかと考えてしまう。
私には祖母を殺してまで生き残ることはできなかった。きっと、罪の意識に耐え切れずにすぐに死を選ぶことになってしまうだろう。だから、その選択については後悔などしているはずもなかった。
私が考えてしまうのは、こんな苦しく、辛いことを長引かせずに、おとなしく自ら命を絶ってしまったほうが良かったのではないかということだ。そうすれば苦しまずに済む。
すぐに頭を振って、変な考えを振り払うが。握りしめていた猟銃が急に重くなるのを感じた。
深呼吸をして、頭上に浮かんでいる月を見ると、月はいつもと変わらずに、私を照らしていた。それを皮肉に思えてしまうのは心の余裕がなさすぎだろうか。
そのとき、ガサガサと、茂みが揺れて、銃口を音の方へとむける。
「…………」
静かに、何がいるのかを待っていると、荒い鼻息が聞こえてくる。そして、すぐに大鎌を持った二本足の狼の姿が現れる。間違いない、荒神であった。
私はすぐには猟銃を撃たなかった、いや、撃てなかった。私の腕では逸れるのは当たり前。大型のライフルで連射もできるタイプではあったが、無駄撃ちしている余裕はない。
荒神は銃を構えている私をギョロギョロとした目で見ていたが、動かない。それは私を殺す機会をうかがっているようにも、私の銃に対して警戒しているようにもうかがえたが、おびえている様子はなかった。
引き金に指をかけたまま、時間が過ぎていく。森の音がなければ時間が止まっていると錯覚を起こしそうになる。
先に動いたのは、荒神だった。
身の毛のよだつような遠吠えをしたかと思うと、大きな鎌を持って、まっすぐ私のもとへと迫ってきた。二本足で走っているのではなく、まるで浮いているかのように見える。足音もなく接近してくる荒神に、私は、心臓が飛び出そうになりながらも、堪えた。
そして、荒神が私の目の前で大鎌を振りかざした瞬間、引き金を押す。
銃口から火が噴き出し、闇夜に閃光が走る。狼の苦しそうなうめき声が聞こえたかと思ったときには、私はすでに駆け出していた。弾が出た反動で手がしびれ、猟銃を落としそうになるが、必死に抱えて走る。
もう一発、二発と撃ち込めればよかったのかもしれないが、大きくない私の体では撃った時に起こる連続的な反動には耐えられそうになかった。
(当たった……?)
呪いなどというわけのわからない理由で命を狙ってくる荒神に対して、一矢報いた気になっていた私であったが、この後を全く考えてはいなかった。
どこへ走っているのかは全く考えていなかった。荒神が追跡してきているのかもわからない、とにかく私は、ただ生きたいがために体力を惜しまずに走った。
「えっ……」
しかし、私の足はすぐに止まった。前に立ち塞がる者がいたからである。
いつの間に、と思ったが、すぐに方向転換し、来た道を帰ろうとしたが、再び走り出すことはできなかった。
そして、私はこの呪いの、荒神というこの村の神様の恐ろしさを、同時に私という一人の人間がいかに弱き存在なのかを直面することになる。
(こんな、ことが……)
私は、いつの間にか囲まれていた。
これが野犬や熊ならば、まだ何か方法がないか考えに考え、あがいていたことだろう。
だが、その光景は抗うことすら無意味だと言われているようなものであった。絶望という言葉しか浮かんでこない。
四方八方から聞こえてくるのは、肉食動物が敵に対して発する威嚇の声。暗い森の中に浮かび上がってくる無数の黄色い目玉。
これが夢ならばどんなによかっただろうか、悪夢で済むのならば、泣いて喜んでいたことだろう。
心底、嘘だと思いたかった。
私に見えているだけで、十や二十どころではない。私の持っているライフルの弾倉数は5発。すべて当てられたとしても、とてもじゃないが、これら全てを殺すことなど不可能だった。
私を囲んでいる、獣の集団は一斉には迫ってこなかった。一歩一歩、まるで、懺悔の時間を与えているかのように、ゆっくりと私に近づいてくる。
こうやって、荒神は村を出た『裏切り者』たちを断罪していったのだろう。
呪いに立ち向かおうとしていた自分がバカバカしくなって、私は銃をその場に落とす。
初めから無駄だったのだ、人である限り、決して逃れることのない『死』がそこにはあった。
私はその場で静かに目を閉じる。どうやら人間という生き物は、死を前にして過去を思い出してしまうものらしい。それがたとえ、苦しいものであったとしても。
わずか十七年の記憶だったが、その中には多くの悲しみや苦しみがあった。それを誰かに言うことはなかったし、自分だけで抱えて生きてきた。
もう、いいだろうと、何もかもをあきらめて、目を開けたとき、
そこには、私と狼の間に両手を広げた真っ白な妖狐の姿があった。
「ダメ! お願い、私からミライを取らないで!」
どうして、彼女がここにいる?
なんで、私を護ろうとしている?
しかし、ココロが前にいるからといって、荒神たちの動きが止まることはなかった。彼女のことなど、無視して、私へ迫ってくる。
「止めて!」
私は叫んだ、それは私を殺さないでという意味ではなく、ココロに対してである。
荒神に噛みついたり、しがみついたりして、動きを止めようとしている彼女の姿を見ているだけで私は胸が痛んだ。耐えられなかった。彼女が私のために傷つく必要なんてないのだから。
「…………っ!」
そのとき、荒神が彼女へ向けて、鎌を振りかざす。彼女の体など楽に二つにしてしまうような大きな鎌である。
それを見たとき、声よりも先に足が出た。考えるよりも先に手が先に出ていた。
ココロの体を抱き寄せると、背中に鈍痛が走る。
体が引き裂かれるというのは、どれほど痛いのかと、思ったが、感覚がマヒしているせいか、痛かったものの、話せなくなるほどではなかった。
「もう、いいんだよココロ……」
私は、死ぬ直前になって見つけた。
見つけて、しまった。
彼女に、ココロだけは傷ついてほしくない。いつでも笑ってほしい。そんな、『私が死ぬ理由』を。
「でも、ミライ、私は――」
何か言おうとした彼女の唇を自身の唇でふさいで、思い切り抱きしめる。
小学や中学でなんとなく好きな男子がいたはず私だが、今までのものが好意であり恋ではなかったことに気づいてしまったのだ。
きっと、これが最初で最後の、恋。
長い間ずっと待たせてしまった、私なんかのために、もうこれ以上は苦しんでほしくない。
死を前にして、彼女の傍にいられることが、どうしようもなく、嬉しかった。
そのとき、私の体を鎌が貫く。ココロのきれいな顔に私の真っ赤な血がついてしまった。
立っていられなくなった私は、ココロの腕に抱かれてその場に倒れる。
呼吸しているのが苦しい、口の中が鉄の味で一杯になっている。どこからどこまでが自分の体なのか、神経が回っていなかった。
「もういいでしょ! これ以上、ミライに何もしないで!」
私たちを囲む何十もの鎌を持った狼は、そんなココロの声で手を止めた。そして、しばらく、私を見たあと、一斉に背を向けて帰って行ったではないか。
彼らがすぐにとどめをさないことが意外であったが、もう手遅れだということは、私自身が一番よく分かっていた。死ぬまでの時間がほんの数秒だけ伸びただけ。
ココロの言葉はよくわからなかった。ただ、私の名前を何度も呼んでくれていることだけはなんとなくわかった。
彼女の目からは涙がこぼれていた。考えてみれば、彼女が泣いているところを正面から見るのは初めてだな、なんてことを思う。
遠くで日付を変える合図の鐘が鳴っている。私が死ぬ日が訪れたようだ。
月の光にキラキラと光る妖狐の銀髪と、大粒の涙は、今まで見たどんなものよりも綺麗で、心惹かれるものだった。
――――大丈夫だよ。
声は出なかったが、私はこの言葉を彼女に伝えたかった。悲しんでほしくはなかった。
これで私が死ねば、私が未来で見たものは全て事実になる。
つまり、少し時間がたてばもう一人妖狐が出てくるはず。私が見た、黒くて小さな妖狐が。
それで、ココロが寂しがることはなくなる。
私は笑っているだろうか、それとも、泣いているだろうか。私自身わからなかった。
私の中で残っている感覚は、本当に数少なく、触角はすでになくなり、聴覚も嗅覚も消えてしまった。そして、視覚すらも私の中から、消失していく。彼女の顔が見えなくなっていく。
彼女の涙が、私の唇へと落ち、そのまま口の中へと入ってきた。驚くべきことに、甘い味がした。最後まで残っていたのは味覚だったらしい。
何が引き金になったのか、私にはわからなかったが、体の中が厚くなるのを感じる。
ドクンッ。
私の心臓が疼き出す。いったい何が起こっているのだろうか。
体の中の何かがうごめいている、しかし、それは私以外の生命体ではなく、私自身なのだということはわかる。
目の前が真っ暗になっていく、ついに五感は何一つとして働かなくなる。
ああ、もう駄目だと、思った瞬間に、私の意識も、永遠の深い闇の中へと消えていく。
最後に、私は初恋をしてしまった一人の少女を思い浮かべていた。
さようなら、ココロ。
聞こえてないことはわかってるけど、聞こえてないからこそ、言っておくね。
あの時、言ったこと、嘘だよ。
死んでしまってからも、生者の夢から覚めてからも。
きっと、ずっと、私のこの気持ちだけは変わらない。
『大好きだよ』
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