JKは俺の嫁

ノベルバユーザー91028

第17話 せかいにひとつだけのきみへ。③




鼻腔をくすぐる消毒液の匂いで彼女は目を覚ました。


久方ぶりに瞼を開くと、窓から射し込む陽光が痛いくらいに瞳の奥へと突き刺さってくる。
どこもかしこも真っ白な病院の個室はがらんとしていて、彼女は言い知れぬ不安を覚えた。
「……ここ、病院? でも、なんで……?」
あのとき、ナイフは自分の腹を確かに刺し貫いたはず。だって彼女自ら突きつけたのだから。なのに、生きている。
「私、生きてる……? そんな、どうして、」
信じられなかった。痛みが全てを支配した瞬間、もう死ぬのだと思っていたから。でも、この手は確かに動くし意識はこれ以上ないほど明瞭だ。だとするならば、誰かが助けてくれたことになる。
しかし、一体誰が。


コンコン、と控えめなノックが鳴って、彼女は思わず息を詰めた。
「藤澤さん? 起きているかしら。あなたにお見舞いが来ているのだけど……」
どうやら看護師さんのようだ。
だが、わざわざお見舞いに訪れてくれるような人間に心当たりはない。通すか通すまいかしばし悩んで、結局ドアを開けてもらうことにした。
せっかく時間を割いてくれたのに、追い返すのも悪いだろう。


「……あの、絵真ちゃん。体調はどうかな?」
入るなり、おずおずと声をかけてきたその少女の姿をみとめて、彼女はくしゃりとあどけない顔立ちを歪めた。
「どうして、……どうして来たの、理央……っ」
少し、髪が伸びたように感じた。あのとき肩くらいまであった栗色の髪は、もう背中で括れるほどに長い。それに化粧をしているからか、ずいぶんと大人びたようにも見える。
そして、ようやっと彼女は悟った。自分が眠っている間に、ずいぶんと時が流れてしまっていたのだ–––––と。


「あのね、本当は来ないつもりだったの。きっと絵真ちゃんは私を許さないだろうなって思っていたし、それに私もどんな顔をすればいいのか分からなかったから」
静かに語る彼女–––––春田理央は、ベッドに上体を起こした状態で話に耳を傾ける絵真に向かって手を伸ばした。
相変わらず、綺麗な色をしているな、と短く切られた少女の髪を見て思う。昼下がりの穏やかな日差しを柔らかく跳ね返す金髪は、とても染色されたものとは信じ難い。キラキラと輝くそれは、ただ、美しかった。
「でもね。会いたいって気持ちが収まらなかった。もう一度会ってきちんと話がしたかったの。きっと絵真ちゃんは嫌がるだろうなって分かっていたけれど」
言葉にしてようやく、本当に自分がしなければならないことは何なのか、理央は理解する。
それは、謝罪ではなく……、
「絵真ちゃん、一緒に戦ってくれてありがとうね。絵真ちゃんが副部長として支えてくれたおかげで、私はずっと頑張ってこれたんだよ」
–––––感謝、だった。


「……私、何もしてないよ。副部長らしいことなんて、何も」
「違うよ。絵真ちゃんは何も言わず傍にいてくれたでしょ。私が試合で負けた日も、初めて勝った日も、ずっと」
同じ空手部員として、互いに高めあってきた日々を彼女が忘れたことはない。藤澤絵真は大切な仲間にして、かけがえのないライバルだった。
彼女が傍にいたからこそ、自分はここまで強くなれたのだ。
あの日彼女が倒れた瞬間まで、理央はそのことに気付けなかった。絵真がいなくなって初めてその考えに至ったのだ。
何度もあの日のことを夢に見ては後悔して、後悔して、後悔して。そして、謝らなければと、それから、誓った。
「私ね、なんで絵真ちゃんがあんなことをしたのか、よく分からなかったの。今も分かってない。たくさん考えたけどやっぱり分からないままなんだ。ねえ、私はもっと絵真ちゃんのことが知りたいな」
そこで初めて、藤澤絵真は口を開いた。静かに凪いでいた瞳から、ポタポタと透明な雫が落ちては布団の上に吸い込まれていく。
「……ずるいわ、やっぱり理央は、ずるいよ。そんなこと言われたら、赦すしかなくなるじゃない」
凍り付いたように硬い顔だった彼女が、微かに表情を変えた。薄い唇が小さく笑みを刻む。
「誰よりも輝いてみえた、私が目指すところにいたあなたが、ただ羨ましかっただけなの。……それだけよ」


一番になりたかった、誰よりも強くありたかった。自分には戦うことしかないのだと思い込んでいたから。
だから、いつも軽々と上を行く彼女に憧れて、けれど羨ましくて、嫉妬なんかしていたのだ。
浅ましいと己で分かっていながら、それでも妬む気持ちが消せなかった。
あの男から渡されたナイフで、気持ちが揺らいでしまったのは、きっと己の弱さが原因なのだろう。それでも彼女を殺すことはどうしても選べなかったのは、彼女を憎みながらもその才能を愛していたから。
誰よりも強くて、きっともっと高みを行ける。自分を、周りを飛び越えて、更に上へ、上へ。
彼女の前に広がる可能性は、確かに自分が欲しかったものだけれど。強くなり続ける彼女が果たしてどこまで向かうのか、見届けたいと強く願ったから。
だから、殺すことをためらった。
一時でも彼女を憎んだ自分が許せなくて、どうしても、認められなくて。消してしまいたいと、こんな自分など死んでしまえばいいと、自棄を起こしてしまったのだ。
–––––それが、大いなる間違いなんだと、どこかで気づいていたのに。


–––––憎んだ、憎んだ、今も恨みの炎は消えないままに、あなたを傷付けてしまいたいと昏い欲望を抱えてる。
でも、もう、やめるの。
あなたを許したい。そして、今度こそほんとうの「ともだち」になりたいんだ。
……私はあなたが、「だいすき」だったよ。ずっと、ずっとずっと一緒に居たかった。この気持ちは嘘じゃない。
だけどあなたをまっすぐに見つめるには、私の心は汚れすぎてしまったから。どうか時間をください。
–––––いつか、あなたに向き合えるように。


こうして生きながらえて、ほんとうに良かったと素直に思う。もしもあのまま死んでいたら、きっと理央はこんな風に笑みを見せることはなかっただろうから。
……でも、本当に一体誰が自分を助けてくれたのだろうか。




–––––同日、午後五時。
開け放たれた窓からは、生ぬるい風がゆったりと入り込んでくる。つられて漂ってくるのは、夕餉の匂いや花の香りだったりした。黄昏時の橙色の光が白かった病室を鮮やかに染め上げる。


「……すまなかった。……ほんとうに、すまない……」
低く艶やかでありながら、微かに震える声が鳴る。男らしいはずのそれは、どうしようもなく弱々しく聞こえた。


低く低く頭を垂れる少年を前に、絵真は小さく嘆息する。
「それは、何に対する謝罪なの。私が死にかけたこと? それとも、……このナイフをあげたこと?」
あのとき、この少年が自分に手渡したナイフは今もここにある。
正確には、全く同型というだけで、彼女を傷付けたそれはとっくに回収されている。だから、現在絵真が持っているのはそれとは別に購入していたものだ。
「それ、どうしてあんたが……」
「不良の君なら入手経路くらい知ってるでしょ、いちいち驚かないの。……それより、質問に答えて」
詰問するかの如く問う彼女に、少年–––––不動御剣は眉尻を下げた。
「……全てだ、何もかも悔やんでいる。あのとき、俺が関わらなければこんなことにはならないはずだった……!」
高校生の未熟さで、何も深く考えず彼はナイフを授け、唆した。そこに絵馬への思慮はなく、ただ己の欲のままに行動してしまった。
–––––まさか、人一人の生命が喪われるかもしれないなどとは思わずに。
よくよく考えてみれば、最悪の可能性などいくらでもあったはずなのに、そこへ思い至ることさえなく。
だから、ただ、悔いた。


「ばあか。……あんたがいてもいなくても、やっぱりこんな風になってたよ。だから、あんたは、関係ないの。私が愚かだっただけの話だよ。……気にしないで。って言っても、やっぱり気にしちゃうか……」
視線を伏せたまま告げる彼女は、あのときに覗かせた狂気などもうどこにもないように見える。けれど完全に消えたわけではなくて、ただ隠れてしまっただけなのだろう。
昏い輝きを瞳に浮かべた彼女の姿しか見ていない彼には、とても信じ難い光景だった。
「あなたも、私も、みんなちょっとずつ悪かったんだと思う。……でも、もう、過ぎたことだから。だから、どうか忘れて。……私のことなんか思い出さなくていいから、きちんと生きてね」
それぞれに悔いるところがあって、悩んで苦しんで、そうして今がある。なら、もう、それでもいいではないかと彼女は思うのだ。
生きている、それだけで儲けものだ。
これ以上何を望むことがあろう。
ほんとうならあのときこの命は失われていたのだから。
この先、想像を絶する苦難が待ち構えているとしても。今、穏やかな時を過ごせるのなら。それだけでいい。
「お前は、それでいいのかよ。……一番に、なりたかったんだろ」
「そうだよ。……でも、憧れてた人を傷付けてまで欲しいものじゃなかったわ」
ほほえむ彼女は、綺麗だった。
誰よりも、何よりも、彼が恋した『彼女』よりも、美しかった。
だから、これ以上関わってはいけないと彼は悟った。あれほどの狂気を奥底にしまい込んで、こんなにも綺麗に笑ってみせる、彼女はきっと誰よりも強い。
それは、彼女本人が望んでいたものよりももっと貴い強さであるはずだ。


故に、不動御剣は退場を決意する。
–––––その後、彼はこの町を離れた。以降、その姿をみたものはいない。

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