日本産魔術師と異世界ギルド
14 小さな決意
お金の入った封筒を持ったまま、川へとダイブした。
その事実は、考えてみれば相当に恐ろしい事なのではないだろうか。
場合によっちゃ札束が……いや、封筒ごと消えてなくなっているかもしれないし、そうでなくても中見が水でぐちゃぐちゃになっているのは明白だ。
乾かして使えるなら良いけど……使えなかった場合、この世界の銀行的な場所で新札との交換はできるのだろうか。
「あ、いや、あの……」
ミラが顔を青くして、一歩一歩と後ずさる。
「だ、大丈夫大丈夫。例えアレな事になってても、俺達今更怒ったりしないから……なぁ、アリス」
「え、あ……うん」
「なんで一瞬言葉詰まらせた」
いや、まあ気持ちも分からなくもないけどな。死に掛けたもんな、報酬を得るまでの過程で。
「まあ不可抗力とはいえ、跳び込んだのは俺の所為だし……ミラは悪く無い。俺が保証する」
「あ……それってつまり裕也が悪いんじゃ……」
「不可抗力って言っただろ。そこ考慮してくれません?」
そもそもあの場で飛びこまなきゃ、取り戻す事自体が出来なかっただろうに。
「第一、まだ駄目になってるって決まった訳じゃないだろ。ミラ、封筒はちゃんと持ってるか?」
「は、はい。それは大丈夫です。走ってる時に服のポケットに入れてたので」
確かに、服に付いてたボタン付きのポケットが結構膨らんでいた。どうやら水の底という事は無いらしい。良かった良かった。ついでに俺も沈まなくてよかったよ本当に。
「で、でも……封筒はあっても、見るのは怖いです」
「でも、見ない事には始まらないだろう」
「う、うん。大丈夫。怒らないから。どんな状態でも怒らないから、とりあえず見せてくれないかしら」
アリスのその言葉の後、観念した様にミラはゆっくりとそれなりに分厚い封筒を取り出す。
「……おぉ!?」
目に入った光景に、思わず変な声が漏れ出してしまった。
何しろ取り出された封筒は、湿り気一つない、俺達が受け取ったそのままの状態だったからだ。
「あ、あれ? なんで濡れて無い……」
ミラも安心した様な、でもどこか腑に落ちない様な表情で首を傾げる。
「ちょっと貸して」
アリスはミラから封筒を受け取って、中のお札を取り出し、扇状に広げて行く。どうやら中身のお札も濡れていない様だ……って、ん?
「なんか挟まってね?」
札束の中に、白い紙きれが混じっていた。まさかとは思うが、かさ増しでもしたつもりなのか?
……と一瞬思った物の、たかが紙きれ一枚でそう厚さが変わる訳が無い。アリスが札束から抜き取ったソレには、黒いペンで文字が書かれていた。
恐らくはリアが何か書いて挟んでおいたのだろう。何が書いてあるかと言うと――、
「……なぁ、なんて書いてあるんだ?」
――俺には全く読めやしない。
少なくともアルファベットではないその文字列は、日本語と、漢字のおかげで何となくぼんやりと読める中国語、そして簡単な英語ぐらいしか理解できない俺では、全く読む事が出来やしない。おそらく、地球にあった様な文字では無いのだろう。
喫茶店のメニューなんかを見る限り、数字ですらこの世界の者と地球の者では違っている。これは全く読めないという現実を直視して、真剣に勉強しなければならないのかもしれない。でないと生活していける気がしないぞオイ。
そして……文字も読めないのかよといった風に、ミラが戦慄を覚えた様な表情を浮かべてこっちを見ているのが痛い。そろそろ、俺の事情説明した方が良いんじゃないですかね。
まあ事情を知っているアリスは特に変な表情を浮かべるわけでも無く……いや、少しだけ参った様な表情を浮かべてその分を読み上げる。
「『浮かれて不注意になったアリスさんが何かやらかした時の為に、一応魔術で防水加工された者を使わせていただきました。お役に立ったでしょうか?』……だって」
なんというか……リアの気が利き過ぎる! もう気が利きすぎて、かえって相手を怒らせちゃうレベル!
……いや、助かったけども。助かったんだけども……良く考えるとこの文普通にアリス煽ってね? 俺の気の所為?
「ま、まあ金が無事だったんだし、いいじゃねえかよ」
「う、うん……」
その言葉の後、俯きながら小さな声で「私、そんなにダメかなぁ」という呟きが聞えたけど、そんな心配されるって事は駄目なんじゃないですかねぇ。
……まあ、少なくとも、その分いい所も両立しているんだと思うけど。
俺がそう考えていると、アリスは突然思い出したように顔を挙げて、今更な事を口にする。
「そういえば封筒で思い出したんだけど……昨日の念写魔術の写真と、ドラゴンの皮膚。どっちも渡すの忘れてたのに、報酬貰っちゃってる」
確かにそうだ。良く考えると、折角証拠取ってきたのに、渡してねえ。
そういえば、今朝出かける前に、机の上にでかめの封筒がおいてあった気がするけど……アレがそうなのだろうか。
「これはアレよ。貰う物を貰い忘れてるのに報酬を渡してしまう様なリアちゃんに、私をどうこういう権利なんて無いって事よ」
「……」
いや、ただ単にお前が忘れてきた事を察して黙ってくれたんじゃないかなぁと思うんだが。そしてそもそも家に忘れてきたお前に何かいう権利もねえけどな。
……やっぱり駄目なんじゃないですかねぇ。まあ今この時まで昨日の証拠の事をすっかり忘れていた俺にも言える事じゃ無いのかもしれないけれど。
「えーっと、ドラゴンの皮膚……それに報酬って、そのお金の事ですよね? あなた達はもしかして……ギルドやってたりするんですか?」
「うん、そうよ。昨日倒したの」
アリスは胸張ってドヤ顔でそう言う。ほんと、効果音にどやぁぁぁとか入れたい位清々しい。
「す、凄いじゃないですか! アリスさんも強いんですね!」
俺達の会話の中で、俺達の名前を理解したのだろう。ミラはドヤ顔のアリスを更に持ち上げる。
も、っていうのは、俺も強いと言ってくれているのだろうか。まああんだけ追いかけまわしたり、目の前でロベルトと戦ったりしたからなぁ。しかし強いとか言われるのは悪い気がしない。
俺も少しだけ優越感に浸る事にしようか。
……まあ流石にドヤ顔とかは浮かべないけどな。
「うん。私は強い!」
まるで自分を鼓舞する様にそう言った後、一拍開けてからこう続けた。
「まあ……私なんかよりも、本当に強いのは裕也なんだけどね」
アリスはドヤ顔ではなく、薄っすらとした笑みを浮かべて俺にそう言ってくれる。その言葉は嬉しいけど……本当にという言葉がどうしても引っかかって、浮かれた気持ちが冷めていく。
……多分本当の力じゃないんだよな、コレ。
きっとアリスのその実力は、ある程度の努力の賜物なのだろう。そのアリスに、偽りと言っても差し支えない俺の力の方が凄いと言われるのは、ほんの少しだけ、後ろめたい気分になる。
俺は今までの人生の中で、一般的な高校生と同等程度の努力はして来た筈だ。だけど、面と向かってアリスの言葉を受け入れられる様になるには、きっとそれだけでは足りない。
だから俺はもう少し、前に進むべきなのかもしれない。アリスの言葉に胸を張って返せる様に。
俺が想定している、最悪な事態が起きた時。それを対処できる様に。
この状態になった事はきっと喜ぶべきなのだろうが、それに慢心してちゃいけないんだ。
「……どうしたの? 裕也」
考え込んでたのが表情に出ていたのだろうか。アリスが声を掛けてくる。
「いや、何でも無い」
本当は、何でも無くは無い。
でもそれはマイナス的な方向では無く、寧ろプラスだ。
自分のやるべき事が少しだけ見えた。魔術が日常生活で殆ど活用されていなかった日本ではあまり感じられなかった向上心が、アリスの言葉で、少しだけ上を向いた気がする。
「ならいいけど」
図らずとも俺にそんな向上心を与えてくれたアリスは、そう言った後に少し安心した様に言う。
「それにしても……色々会ったみたいだけど、目立った怪我が無い様で良かったわ」
目立った怪我が無い……ねぇ。
確かに目立った怪我は無いだろう。だけど裏を返せば目立たない怪我はあるという訳で。
「いや、実はな……右肩脱臼してる」
結構平然としているけども、相当痛いからな。物凄い痛いからな。必死に我慢してるからね俺。
「え、ほんと? そういえば右手がぷらーんてしてるわね」
「とりあえずはめねえといけねえんだけど、やった事ねえしな」
基本的に回復魔術で脱臼を治す事は出来ない。少なくとも、俺が覚えているものではだ。
そりゃ折れた訳では無く、外れているだけだからな。合ってるかどうかも分からない例えだが、回復魔術では砕けて壊れたおもちゃのブロックを治す事は出来ても、ブロックを積み上げて出来た作品は治す事が出来ないといった所か。
はめた後のケアなんかは回復魔術でやれるらしいけど……そこまでは、自分の手なり医者なりにやってもらう必要がある。ちなみに医者推奨だ。
だがまあ……医者に診てもらえば金が掛る。それにそもそもこの世界にはあるかどうか分からないが、健康保険的な物を持っていない訳だし、いくら掛るか分かった物じゃ無い。
しかも俺の財政状況はおそらく不安定と来た。となれば、まずは自力でやってみるべきか。
「はめれるかな……」
正直すげえ怖い。失敗したらすげえ痛そうだもの。
俺が恐る恐る肩に手を伸ばそうとしたところで、救いの手がさし述べられた。
「私がやってあげようか?」
アリスがそう提案してきたのだ。
「ま、マジで? できんのか?」
「うん。多分ね」
「ごめん。自分でやる」
絶対に乗ってはいけないと脳が全力で警告音を放っていた。なんとなくだが、身を任せれば今より悲惨な事になるのではないだろうか。
「あ、あの……」
そこで遠慮しがちに手を挙げたのはミラだった。
「私、そういう治療の本を読んだ事があるんで、とりあえず知識だけはあるんですけど……」
「マジで?」
これはなんだろう。強引にはめるしかないという選択肢の俺。多分大丈夫と自負してるアリス。知識だけはあるミラ。この状況下でもっとも安全に肩をはめられるのは、ミラなのではなかろうか。
「じゃ、じゃあお願いしてもいいかな」
俺は恐る恐ると言った感じでミラに頼んだ。結局の所、誰がはめようが怖いものは怖い。
「わかりました」
そう言ってミラは、自分の記憶を掘り起こす様に、過去に読んだであろう本の内容を暗唱しはじめる。
「……腰を入れてまっすぐ突き出す」
「なに? 正拳突きでも入れたいの?」
その本……大丈夫?
「や、やっぱいいよ。やっぱいい。後で決心付いたら自分で入れるから」
もう絶対に自分でチャレンジする方が安心だぜこれ。絶対にそうだ。
「自分でやって……大丈夫?」
「少なくとも二人に任せるよりは大丈夫な気がする」
失礼だが事実である。
「……まあ裕也がそう言うなら仕方ないわね。折角私の敏腕テクを見せようかと思ったのに」
「敏腕テクを持ってる人は、多分とか使いません」
「じゃあ多分とか使わない人の所に素直に行きましょ。その位の治療費位なら、報酬金から充分に捻出できるから」
「おう……じゃあ、そうする」
自分じゃ踏み切れなかったが、そう勧められると踏ん切りが付いた。まあきっとコレが正解なのだろう。
「……で、その脱臼以外に怪我は無いの?」
「ん? ああ、まあな。一応殴られはしたけど、怪我ってもんじゃなかったし、良く分からねえゴム弾も喰らったけど、アレも痛いだけで怪我はねえ」
「ゴム弾?」
「ああ、ゴム弾。なんか貫かれる様な、妙な痛み方だったな」
俺がそう言うと、アリスは少しだけ考えを巡らせる様に黙りこみ、そして何かに思い至った様に口を開く。
「それ、多分暴徒鎮圧用の魔術弾ね」
「魔術弾?」
「そう。着弾した時に魔術を発動させるの。裕也の世界には無かった?」
「無かったよ。どうも俺の居た世界の魔術は、この世界の物より遅れているみたいだしな」
故に暴徒鎮圧様のゴム弾なんて打ち込んでも牽制程度にしかならない。それどころか、全く動じないまである。
「にしても……暴徒鎮圧用ね」
アリスはその弾を、その効力を、直接見て体験した訳じゃないから、その推測が正しいかどうかは分からない、だけどそれが正しいのだとすれば、少なくともあの悪人は、俺を殺す気など毛頭も無かったという事になるんじゃないだろうか。
……また訳のわからない要素が増えたぞ。答えに辿り付けねえ様な、こんな半端な情報ばっか出てくるんじゃねえよ。モヤモヤしか出てこねえだろうが。
俺は軽くため息を付く。
そして俺達の会話が途切れた事を見計らってか、ミラが不思議そうに俺に問い掛けてきた。
「あの、さっきから裕也さん、ちょっと知らない事多すぎじゃないかなと思ってましたけど……その、俺の居た世界ってのは一体……」
……説明するにはいいタイミングか。
俺は軽く文章を組み立てて言う。
「まあ簡潔に言えば、転移術式でこの世界に飛ばされてきた、違う世界の人間って事だよ。だから文字も読めねえし、黒点病もロベルトの事も何も知らなかった。そういう事だ」
「え……ん?」
ミラはイマイチ理解できないといった風に首を傾げる。
言われてみれば、コレが当然の反応なんじゃねえの? 既に日本の存在を知っていたリアならともかく、よくアリスは俺の言葉を信じたな。異世界の存在とか普通信じねえよ。
「……まあ証拠なんかも何もないわけだし、信じてもらえなくても仕方ねえんだけどさ」
「証拠ならあるわよ」
アリスはそう言って、スマートフォンを取り出した。そういえばアリスに貸してたな。充分に証拠になりそうだ。
「ちなみに……まだバッテリー残ってるのソレ?」
「一回何も映らなくなったんだけど、魔術で電気流したらもう一回使えるようになったわ」
「危ねえ! でもすげえ!」
なにその原始的な充電方法。そしてそんな無茶苦茶な充電方法を行っても、現状起動できるスマフォすげえ!
……いや、でも取扱説明書に魔術の電流を流すなとか書いてあった気が……まあいいや。これもまた、地球と異世界の魔術の微妙な違いなのだろう。
「えーっと、コレは?」
「いいから触ってみて」
「はい……うわっ!」
「どうどう、凄いでしょ」
「ななななんですかコレ!」
そんな風にワイワイやっているのをみながら、俺はその声に掻き消される様に小さく自分の腹が鳴った音を聞いた。
こうしてびしょ濡れで汚れてしまっている服装で飯を食いに行く訳にもいかないだろう。この際どっかで服を何着か購入しておくべきだな。
「ほら、ここをこうすれば……」
「す、凄い……凄いですよコレ!」
もう完全にミラもスマフォに夢中になっている。
……凄い楽しそうだ。すんげえ笑ってるもんな。
元々、明るい子なのだろう。それがさっきまでは暗い顔をずっと浮かべてたんだからさ……ミラがどんな思いで俺達から金を取ったのか、痛いほどに伝わってくる。
そしてそういう事を考えると、やっぱり一つだけ確信が持てる事がある。
ロベルトやあの青年の事は分からない事が多すぎるけど……でも、間違っているという事だけは間違いない。ミラにあんな表情を浮かべさせて、正しい事の筈が無いんだ。
まあ正しい事や間違っている事の判断基準は、主観の問題だ。だけど……俺が正しいと認識しているなら、やる事は決まっている。
あの青年は言った。何処かで会っても突っかかって来るなと。
……知らねえよ。
ロベルトの目的や、青年の思惑。そういう事は一旦頭から外して簡単に事を捉えろ。
アイツらは間違った事をしている。だったら……それを止める。
当然此方から探すなんて熱心な真似はしない。別に世界の平和を守るスーパーヒーローにでもなりたい訳じゃないからな。
ただ……何かした所を見つければ、容赦無く突っかかる。無理矢理にでも首を突っ込む。
疑問の解を知るのは、きっとそれからでも遅くは無い。
俺はワイワイやってる二人を視界にとらえながら、静かにそう決意した。
その事実は、考えてみれば相当に恐ろしい事なのではないだろうか。
場合によっちゃ札束が……いや、封筒ごと消えてなくなっているかもしれないし、そうでなくても中見が水でぐちゃぐちゃになっているのは明白だ。
乾かして使えるなら良いけど……使えなかった場合、この世界の銀行的な場所で新札との交換はできるのだろうか。
「あ、いや、あの……」
ミラが顔を青くして、一歩一歩と後ずさる。
「だ、大丈夫大丈夫。例えアレな事になってても、俺達今更怒ったりしないから……なぁ、アリス」
「え、あ……うん」
「なんで一瞬言葉詰まらせた」
いや、まあ気持ちも分からなくもないけどな。死に掛けたもんな、報酬を得るまでの過程で。
「まあ不可抗力とはいえ、跳び込んだのは俺の所為だし……ミラは悪く無い。俺が保証する」
「あ……それってつまり裕也が悪いんじゃ……」
「不可抗力って言っただろ。そこ考慮してくれません?」
そもそもあの場で飛びこまなきゃ、取り戻す事自体が出来なかっただろうに。
「第一、まだ駄目になってるって決まった訳じゃないだろ。ミラ、封筒はちゃんと持ってるか?」
「は、はい。それは大丈夫です。走ってる時に服のポケットに入れてたので」
確かに、服に付いてたボタン付きのポケットが結構膨らんでいた。どうやら水の底という事は無いらしい。良かった良かった。ついでに俺も沈まなくてよかったよ本当に。
「で、でも……封筒はあっても、見るのは怖いです」
「でも、見ない事には始まらないだろう」
「う、うん。大丈夫。怒らないから。どんな状態でも怒らないから、とりあえず見せてくれないかしら」
アリスのその言葉の後、観念した様にミラはゆっくりとそれなりに分厚い封筒を取り出す。
「……おぉ!?」
目に入った光景に、思わず変な声が漏れ出してしまった。
何しろ取り出された封筒は、湿り気一つない、俺達が受け取ったそのままの状態だったからだ。
「あ、あれ? なんで濡れて無い……」
ミラも安心した様な、でもどこか腑に落ちない様な表情で首を傾げる。
「ちょっと貸して」
アリスはミラから封筒を受け取って、中のお札を取り出し、扇状に広げて行く。どうやら中身のお札も濡れていない様だ……って、ん?
「なんか挟まってね?」
札束の中に、白い紙きれが混じっていた。まさかとは思うが、かさ増しでもしたつもりなのか?
……と一瞬思った物の、たかが紙きれ一枚でそう厚さが変わる訳が無い。アリスが札束から抜き取ったソレには、黒いペンで文字が書かれていた。
恐らくはリアが何か書いて挟んでおいたのだろう。何が書いてあるかと言うと――、
「……なぁ、なんて書いてあるんだ?」
――俺には全く読めやしない。
少なくともアルファベットではないその文字列は、日本語と、漢字のおかげで何となくぼんやりと読める中国語、そして簡単な英語ぐらいしか理解できない俺では、全く読む事が出来やしない。おそらく、地球にあった様な文字では無いのだろう。
喫茶店のメニューなんかを見る限り、数字ですらこの世界の者と地球の者では違っている。これは全く読めないという現実を直視して、真剣に勉強しなければならないのかもしれない。でないと生活していける気がしないぞオイ。
そして……文字も読めないのかよといった風に、ミラが戦慄を覚えた様な表情を浮かべてこっちを見ているのが痛い。そろそろ、俺の事情説明した方が良いんじゃないですかね。
まあ事情を知っているアリスは特に変な表情を浮かべるわけでも無く……いや、少しだけ参った様な表情を浮かべてその分を読み上げる。
「『浮かれて不注意になったアリスさんが何かやらかした時の為に、一応魔術で防水加工された者を使わせていただきました。お役に立ったでしょうか?』……だって」
なんというか……リアの気が利き過ぎる! もう気が利きすぎて、かえって相手を怒らせちゃうレベル!
……いや、助かったけども。助かったんだけども……良く考えるとこの文普通にアリス煽ってね? 俺の気の所為?
「ま、まあ金が無事だったんだし、いいじゃねえかよ」
「う、うん……」
その言葉の後、俯きながら小さな声で「私、そんなにダメかなぁ」という呟きが聞えたけど、そんな心配されるって事は駄目なんじゃないですかねぇ。
……まあ、少なくとも、その分いい所も両立しているんだと思うけど。
俺がそう考えていると、アリスは突然思い出したように顔を挙げて、今更な事を口にする。
「そういえば封筒で思い出したんだけど……昨日の念写魔術の写真と、ドラゴンの皮膚。どっちも渡すの忘れてたのに、報酬貰っちゃってる」
確かにそうだ。良く考えると、折角証拠取ってきたのに、渡してねえ。
そういえば、今朝出かける前に、机の上にでかめの封筒がおいてあった気がするけど……アレがそうなのだろうか。
「これはアレよ。貰う物を貰い忘れてるのに報酬を渡してしまう様なリアちゃんに、私をどうこういう権利なんて無いって事よ」
「……」
いや、ただ単にお前が忘れてきた事を察して黙ってくれたんじゃないかなぁと思うんだが。そしてそもそも家に忘れてきたお前に何かいう権利もねえけどな。
……やっぱり駄目なんじゃないですかねぇ。まあ今この時まで昨日の証拠の事をすっかり忘れていた俺にも言える事じゃ無いのかもしれないけれど。
「えーっと、ドラゴンの皮膚……それに報酬って、そのお金の事ですよね? あなた達はもしかして……ギルドやってたりするんですか?」
「うん、そうよ。昨日倒したの」
アリスは胸張ってドヤ顔でそう言う。ほんと、効果音にどやぁぁぁとか入れたい位清々しい。
「す、凄いじゃないですか! アリスさんも強いんですね!」
俺達の会話の中で、俺達の名前を理解したのだろう。ミラはドヤ顔のアリスを更に持ち上げる。
も、っていうのは、俺も強いと言ってくれているのだろうか。まああんだけ追いかけまわしたり、目の前でロベルトと戦ったりしたからなぁ。しかし強いとか言われるのは悪い気がしない。
俺も少しだけ優越感に浸る事にしようか。
……まあ流石にドヤ顔とかは浮かべないけどな。
「うん。私は強い!」
まるで自分を鼓舞する様にそう言った後、一拍開けてからこう続けた。
「まあ……私なんかよりも、本当に強いのは裕也なんだけどね」
アリスはドヤ顔ではなく、薄っすらとした笑みを浮かべて俺にそう言ってくれる。その言葉は嬉しいけど……本当にという言葉がどうしても引っかかって、浮かれた気持ちが冷めていく。
……多分本当の力じゃないんだよな、コレ。
きっとアリスのその実力は、ある程度の努力の賜物なのだろう。そのアリスに、偽りと言っても差し支えない俺の力の方が凄いと言われるのは、ほんの少しだけ、後ろめたい気分になる。
俺は今までの人生の中で、一般的な高校生と同等程度の努力はして来た筈だ。だけど、面と向かってアリスの言葉を受け入れられる様になるには、きっとそれだけでは足りない。
だから俺はもう少し、前に進むべきなのかもしれない。アリスの言葉に胸を張って返せる様に。
俺が想定している、最悪な事態が起きた時。それを対処できる様に。
この状態になった事はきっと喜ぶべきなのだろうが、それに慢心してちゃいけないんだ。
「……どうしたの? 裕也」
考え込んでたのが表情に出ていたのだろうか。アリスが声を掛けてくる。
「いや、何でも無い」
本当は、何でも無くは無い。
でもそれはマイナス的な方向では無く、寧ろプラスだ。
自分のやるべき事が少しだけ見えた。魔術が日常生活で殆ど活用されていなかった日本ではあまり感じられなかった向上心が、アリスの言葉で、少しだけ上を向いた気がする。
「ならいいけど」
図らずとも俺にそんな向上心を与えてくれたアリスは、そう言った後に少し安心した様に言う。
「それにしても……色々会ったみたいだけど、目立った怪我が無い様で良かったわ」
目立った怪我が無い……ねぇ。
確かに目立った怪我は無いだろう。だけど裏を返せば目立たない怪我はあるという訳で。
「いや、実はな……右肩脱臼してる」
結構平然としているけども、相当痛いからな。物凄い痛いからな。必死に我慢してるからね俺。
「え、ほんと? そういえば右手がぷらーんてしてるわね」
「とりあえずはめねえといけねえんだけど、やった事ねえしな」
基本的に回復魔術で脱臼を治す事は出来ない。少なくとも、俺が覚えているものではだ。
そりゃ折れた訳では無く、外れているだけだからな。合ってるかどうかも分からない例えだが、回復魔術では砕けて壊れたおもちゃのブロックを治す事は出来ても、ブロックを積み上げて出来た作品は治す事が出来ないといった所か。
はめた後のケアなんかは回復魔術でやれるらしいけど……そこまでは、自分の手なり医者なりにやってもらう必要がある。ちなみに医者推奨だ。
だがまあ……医者に診てもらえば金が掛る。それにそもそもこの世界にはあるかどうか分からないが、健康保険的な物を持っていない訳だし、いくら掛るか分かった物じゃ無い。
しかも俺の財政状況はおそらく不安定と来た。となれば、まずは自力でやってみるべきか。
「はめれるかな……」
正直すげえ怖い。失敗したらすげえ痛そうだもの。
俺が恐る恐る肩に手を伸ばそうとしたところで、救いの手がさし述べられた。
「私がやってあげようか?」
アリスがそう提案してきたのだ。
「ま、マジで? できんのか?」
「うん。多分ね」
「ごめん。自分でやる」
絶対に乗ってはいけないと脳が全力で警告音を放っていた。なんとなくだが、身を任せれば今より悲惨な事になるのではないだろうか。
「あ、あの……」
そこで遠慮しがちに手を挙げたのはミラだった。
「私、そういう治療の本を読んだ事があるんで、とりあえず知識だけはあるんですけど……」
「マジで?」
これはなんだろう。強引にはめるしかないという選択肢の俺。多分大丈夫と自負してるアリス。知識だけはあるミラ。この状況下でもっとも安全に肩をはめられるのは、ミラなのではなかろうか。
「じゃ、じゃあお願いしてもいいかな」
俺は恐る恐ると言った感じでミラに頼んだ。結局の所、誰がはめようが怖いものは怖い。
「わかりました」
そう言ってミラは、自分の記憶を掘り起こす様に、過去に読んだであろう本の内容を暗唱しはじめる。
「……腰を入れてまっすぐ突き出す」
「なに? 正拳突きでも入れたいの?」
その本……大丈夫?
「や、やっぱいいよ。やっぱいい。後で決心付いたら自分で入れるから」
もう絶対に自分でチャレンジする方が安心だぜこれ。絶対にそうだ。
「自分でやって……大丈夫?」
「少なくとも二人に任せるよりは大丈夫な気がする」
失礼だが事実である。
「……まあ裕也がそう言うなら仕方ないわね。折角私の敏腕テクを見せようかと思ったのに」
「敏腕テクを持ってる人は、多分とか使いません」
「じゃあ多分とか使わない人の所に素直に行きましょ。その位の治療費位なら、報酬金から充分に捻出できるから」
「おう……じゃあ、そうする」
自分じゃ踏み切れなかったが、そう勧められると踏ん切りが付いた。まあきっとコレが正解なのだろう。
「……で、その脱臼以外に怪我は無いの?」
「ん? ああ、まあな。一応殴られはしたけど、怪我ってもんじゃなかったし、良く分からねえゴム弾も喰らったけど、アレも痛いだけで怪我はねえ」
「ゴム弾?」
「ああ、ゴム弾。なんか貫かれる様な、妙な痛み方だったな」
俺がそう言うと、アリスは少しだけ考えを巡らせる様に黙りこみ、そして何かに思い至った様に口を開く。
「それ、多分暴徒鎮圧用の魔術弾ね」
「魔術弾?」
「そう。着弾した時に魔術を発動させるの。裕也の世界には無かった?」
「無かったよ。どうも俺の居た世界の魔術は、この世界の物より遅れているみたいだしな」
故に暴徒鎮圧様のゴム弾なんて打ち込んでも牽制程度にしかならない。それどころか、全く動じないまである。
「にしても……暴徒鎮圧用ね」
アリスはその弾を、その効力を、直接見て体験した訳じゃないから、その推測が正しいかどうかは分からない、だけどそれが正しいのだとすれば、少なくともあの悪人は、俺を殺す気など毛頭も無かったという事になるんじゃないだろうか。
……また訳のわからない要素が増えたぞ。答えに辿り付けねえ様な、こんな半端な情報ばっか出てくるんじゃねえよ。モヤモヤしか出てこねえだろうが。
俺は軽くため息を付く。
そして俺達の会話が途切れた事を見計らってか、ミラが不思議そうに俺に問い掛けてきた。
「あの、さっきから裕也さん、ちょっと知らない事多すぎじゃないかなと思ってましたけど……その、俺の居た世界ってのは一体……」
……説明するにはいいタイミングか。
俺は軽く文章を組み立てて言う。
「まあ簡潔に言えば、転移術式でこの世界に飛ばされてきた、違う世界の人間って事だよ。だから文字も読めねえし、黒点病もロベルトの事も何も知らなかった。そういう事だ」
「え……ん?」
ミラはイマイチ理解できないといった風に首を傾げる。
言われてみれば、コレが当然の反応なんじゃねえの? 既に日本の存在を知っていたリアならともかく、よくアリスは俺の言葉を信じたな。異世界の存在とか普通信じねえよ。
「……まあ証拠なんかも何もないわけだし、信じてもらえなくても仕方ねえんだけどさ」
「証拠ならあるわよ」
アリスはそう言って、スマートフォンを取り出した。そういえばアリスに貸してたな。充分に証拠になりそうだ。
「ちなみに……まだバッテリー残ってるのソレ?」
「一回何も映らなくなったんだけど、魔術で電気流したらもう一回使えるようになったわ」
「危ねえ! でもすげえ!」
なにその原始的な充電方法。そしてそんな無茶苦茶な充電方法を行っても、現状起動できるスマフォすげえ!
……いや、でも取扱説明書に魔術の電流を流すなとか書いてあった気が……まあいいや。これもまた、地球と異世界の魔術の微妙な違いなのだろう。
「えーっと、コレは?」
「いいから触ってみて」
「はい……うわっ!」
「どうどう、凄いでしょ」
「ななななんですかコレ!」
そんな風にワイワイやっているのをみながら、俺はその声に掻き消される様に小さく自分の腹が鳴った音を聞いた。
こうしてびしょ濡れで汚れてしまっている服装で飯を食いに行く訳にもいかないだろう。この際どっかで服を何着か購入しておくべきだな。
「ほら、ここをこうすれば……」
「す、凄い……凄いですよコレ!」
もう完全にミラもスマフォに夢中になっている。
……凄い楽しそうだ。すんげえ笑ってるもんな。
元々、明るい子なのだろう。それがさっきまでは暗い顔をずっと浮かべてたんだからさ……ミラがどんな思いで俺達から金を取ったのか、痛いほどに伝わってくる。
そしてそういう事を考えると、やっぱり一つだけ確信が持てる事がある。
ロベルトやあの青年の事は分からない事が多すぎるけど……でも、間違っているという事だけは間違いない。ミラにあんな表情を浮かべさせて、正しい事の筈が無いんだ。
まあ正しい事や間違っている事の判断基準は、主観の問題だ。だけど……俺が正しいと認識しているなら、やる事は決まっている。
あの青年は言った。何処かで会っても突っかかって来るなと。
……知らねえよ。
ロベルトの目的や、青年の思惑。そういう事は一旦頭から外して簡単に事を捉えろ。
アイツらは間違った事をしている。だったら……それを止める。
当然此方から探すなんて熱心な真似はしない。別に世界の平和を守るスーパーヒーローにでもなりたい訳じゃないからな。
ただ……何かした所を見つければ、容赦無く突っかかる。無理矢理にでも首を突っ込む。
疑問の解を知るのは、きっとそれからでも遅くは無い。
俺はワイワイやってる二人を視界にとらえながら、静かにそう決意した。
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