可愛いことは、いいことだ!
第五話
8.
瞳に暗い憎悪の光を宿して、西野は沙穂を睨みつけている。
一体どうして?なんで?
人からそんな目で見られるいわれはなかったから、沙穂は戸惑った。
しかし――。敵視、蔑視。怒られている、憎まれている。その攻撃的な目つきには、覚えがあった。
だが、どこで?
その問いかけがきっかけとなり、沙穂の頭の中では、映画を早回ししているかのように、様々な映像が展開されては消えていった。それらは全て、彼女の過去の記憶である。
だいぶ時が巻き戻ったらしく、やがて沙穂の脳内には、幼い沙穂と諒が現れた。
「将来ボクはしましまと結婚する!」あの幼なじみは、そんなことを言ってくれて――。
ああそういえば、こんなこともあった、あんなこともあった。今まで忘れていた思い出が、物凄い勢いで蘇ってくる。
頭がガンガンと痛かった。だが、先ほど友人たちと談笑していたときに襲われたのと同じその痛みも、もはや沙穂の記憶の再生を止めることはできなかった。
――どうして、忘れていたんだろう。
おとうさん。
そうだ。お父さんだ。
――私をそんな目で見ないで、お父さん。
目の前の西野が、父と重なって見える。
現在、遠い北の地で単身赴任中の父とは、盆と正月の年に二回ほどしか会えない。それらの機会に接する父は、家族思いの優しい、そして男らしい、立派な人物だと思っていた。
だが、今、思い出の中で蘇った父は、乱暴で自分勝手な、何より、とても恐ろしい目で、実の娘を見下ろすような男だった――。
「島島さんさぁ、ちょっと調子に乗っちゃった?この俺が、せっかくわざわざ告白してやったのに、断るってどーゆうこと~?」
西野は沙穂に一歩近づくと、「優しそう」とか「かっこいい」とか、女子からの称賛を一身に集めている麗しい顔に、嘲笑を浮かべた。血走った目を吊り上げ、歪んだ唇の端はぶるぶると痙攣している。西野はもう、沙穂の知っている西野ではなかった。
醜い笑いを引っ込めたかと思うと、次の瞬間西野は、狂った犬のように吠えた。
「ったくよ!身の程知らずが!クソ女!クソ女!クソがあ!ぶっ殺す!」
唾を飛ばしながら、掴みかかるような勢いでそう繰り返す彼は、正気を失った人間のようでゾッとした。それでも沙穂は、気丈にも言い返した。
「こ、この人たちは誰?なんでこんなところへ連れてきたの?話があるんじゃないの?」
「うるせえんだよ、ブタ!!!!」
「っ!?」
容赦なく振り下ろされた腕を、沙穂は身を捩り、すんでのところで避けた。空を切った西野の腕には手加減がなく、あのまま殴られていたら大変なことになっていただろう。血の気が引いて、沙穂は崩れるようにしゃがみ込んでしまった。
「もうやめて、やめてください……!」
父の姿が重なる西野が恐ろしくて、直視できない。尚もブツブツ悪態を吐き続ける西野に、彼の仲間と思われる男たちが、文句を言い始めた。
「おいおい、ニシぃ。なに、女の子にボウリョク振るっちゃってんの?小さえなあ、相変わらず」
「……うるせえ」
「ケガさせちまったらどうすんだよ?バカが。やだぜ、俺、血まみれの子とセックスするなんてよ。そういう趣味はねえんだよ」
男たちの一人が沙穂の隣にやってくると、俯いている彼女の小さな顎を掴み、上を向かせた。
「だいじょーぶ?俺たちはニシと違って優しいから、安心してね」
かたかたと小刻みに震えながら、沙穂はとぎれとぎれの消え入りそうな声で言った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。ひどいこと、しないでください……。ぶたないで……」
「おっ、可愛い!ひどいことなんてしないよお!楽しくエッチしようね!」
涙を流しながら懇願する少女を、「可愛い」と表現する。この男もやはり、女を平気で殴ろうとする西野と同類のようだ。男は犬猫でも撫でるように、だが全く愛情のこもっていない手つきで、沙穂の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪を乱されながら、沙穂はただひたすら、この場にはいない父に謝っていた。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「うんうん、おとなしくいい子にしててねー。――おい、そろそろカメラ準備しろよ」
――はい、いい子にしています。だから、ぶたないで。お母さんとケンカしないで。お父さん……。
男たちの一人がビデオカメラを構え、にこにこと笑いかけてくる。
「こっち向いて、しましまちゃん。うん、いいよ、可愛いねー」
沙穂はうつろな目を、カメラのレンズに向けた。まるでひとごとのようだった。
自分がこれから何をされるのか。想像がつくが、抵抗しようという気持ちが湧いてこない。
男たちの言うとおり、「おとなしくいい子」にしていれば、すぐに済む。
――私だけが我慢すれば、いいこと。
今、沙穂を支配しているのは、悲愴な諦観であり、彼女をそうさせたのは、西野に宿っている身勝手で暗愚な怒りだ。そしてそれは、かつての父の中に住んでいたものでもある。
西野を見ているだけで、あのときの痛みを思い出す。
ぶたれたのは、頭と頬。蹴られたのは、尻と脛。
そして、ヒステリックな叫び声。
「どうして、言うことが聞けないんだ!このバカ!バカ!バカ!バカ!!!!」
沙穂の父は真面目で仕事もできたし、妻と子を愛する、良き家庭人でもあった。
だがその状況は、彼が、勤めていた会社の生え抜きが集まる部署へ栄転したことから、一変した。
新しい環境にうまく馴染めず、しかも思うとおりに成果が出せなかった父は、精神的に追い詰められていった。 苛立ちを、彼は家庭に持ち帰った。そしてその攻撃の矛先は、一番弱い存在だった一人娘に向けられたのだった。
小学校に通うまだ幼い娘を、つまらないことで毎日叱りつける。そんな夫を沙穂の母親は許さず、娘を庇った。そのせいで、夫婦の間にはケンカが絶えなかった。
両親の不仲を目の当たりした沙穂は、「自分が我慢すればいいのだ」と思い込むようになった。沙穂は昔の優しい父を知っていたから、彼を憎むことも嫌うこともできなかった。
それでも、まだ沙穂に対する厳しい叱咤は、ギリギリのところで躾の範疇に収まっていた。
それがある日、ついに一線を越えたのだ。
その日、父は会社を休み、昼間から酒を飲んでゴロゴロしていた。母はパートへ出かけていた。
学校から帰ってきた沙穂に、父はビールを買ってこいと命令した。店は当然、未成年者には酒など売らない。トボトボと手ぶらで帰ってきた娘を見て、父の怒りは爆発した。
「どうして、お前はこんな簡単なことができないんだ!このバカ!バカ!バカ!バカ!!!!」
それは職場で結果を求められ、だが叶えられない自分への叱責でもあった。結局父は不甲斐ない自分への怒りを、娘にぶつけていただけなのだ。
父は沙穂を突き飛ばし、畳に倒れたところへ馬乗りになって、更に叩いた。最初は尻を、だが徐々に行為はエスカレートしていき、腹や顔を殴り始めた。
普段ならすぐに終わる折檻も、この日はしつこく、いつまで経っても止まなかった。恐らく怠惰な休日を過ごしたせいで、父の体内にべっとりと蓄積した、アルコールのせいだろう。
父は後に、「ちゃんと手加減していた」と語った。それは確かにそうだろう。成人男性が本気で殴れば、幼い少女など、ひとたまりもないはずだ。
だが、いつもより激しい体罰に晒され、沙穂は殺されると思った。その日は我慢することよりも、恐怖が勝った。
「助けて!助けてください!」
たどたどしく、彼女は誰に対して分からぬ救いを求めた。
その途端、自分を痛めつけていた大きな影が、ぐらりと揺れた。動きを止めた父の下から、沙穂はよろよろと這い出した。
「う……」
父は脇腹を押さえ、呻いている。沙穂には、何が起きのたか分からなかった。
人の気配を感じて顔を上げると、うずくまる父の背後に、よく知る顔を見付けた。
仲良しのお友達。――優しい諒くん。
「あ……、さ、沙穂ちゃんが……し、死んじゃう……!」
諒の手には、いつも台所のテーブルの上に置いてある、小さな果物ナイフが握られていた。
「お、おじさん……。沙穂ちゃんを、いじめないで……!」
両目からボロボロと涙を流し、だが諒は毅然と言った。彼は震え、そのはずみで、握っていたナイフから鮮血がぽたりと落ちた。父の血は、畳に染みを作って――。
沙穂が覚えているのは、ここまで。これ以降は、ばっさりと、記憶が抜け落ちてしまっている。
全てを思い出した沙穂は、自らの体を抱き締めた。
――全部、自分のせいだ。
父親の要求に応えられず、怒られたこと。そのせいで、大切な幼なじみの手を、血で汚したこと。
そして、父が家を出て行ったこと――。
忌まわしいあの一件は事故として処理され、諒が罪に問われることはなかった。涼の将来を考えてというより、娘を虐待していたことが公になると、被害者である沙穂の父にとっても、まずいことになるからだろう。
事態を知った沙穂の母は怒り狂い、父とは離婚すると宣言した。だが父は、どうかそれだけは許して欲しいと、土下座までして詫びた。あんなことをしておきながらも、だが彼が家族を愛していることは、事実らしかった。
長い話し合いの結果、それでもすぐには父を許せなかった母は、別居を提案した。父はその申し出を受け入れ、地方の支社へ転勤願いを出し、旅立って行った。
こうして沙穂たち家族は、離れて暮らすことになったのだ。
――もっと自分がうまくやれば、もっと自分が我慢すれば、こんなことにはならなかった。
現実を忘れたくて、幼かった沙穂は記憶を捻じ曲げた。
父のことを「優しいから、大好き」なんて、大嘘だ。本当は彼のことを、世界中の誰よりも恐れている。
父からの電話をいつも取るのは、過去の体験が無意識に染みついており、逆らえないからだ。
そして、沙穂が怖いのは、父だけじゃない。
怒鳴る、殴る、蹴る――男たち。彼女は本当は、世の中の全ての男性が怖いのだ。
当人すら忘れていたというのに。
――「しましまは、ああいう男、好きじゃないでしょ」。
沙穂が西野との交際を断ったその日、諒は確信をもって断言した。
明るく爽やかな、イケメンスポーツマン。実像はともかく、西野は「理想的な彼氏」として人気だった。
だが――西野の性別は、もちろん「男」だ。だがら、諒には分かっていたのだろう。西野が「男」である限り、沙穂は彼のアプローチを受け入れるはずがない、と。
あの悲しい事件のあとも、諒は沙穂の側にずっとい続けた。一部の記憶が抜け落ち、男性を極度に怯えるようになってしまった幼なじみの傍らで、彼は何を思っただろう。
そもそも諒が、あんな格好を――。
スカートを履くようになったのは、いつからだった?
「よし、誰からいく?」
「はい!俺から!処女とやんの、初めてなんだよね!」
「ばぁか。処女とは限らねえじゃん」
「えー?こんなに純情そうなのにー?ああ、でも確かにあの巨乳は、処女の持ちもんとは思えねえなあ」
男たちの勝手な会話が、遠くに聞こえる。
――でも、私がボロボロになっちゃったら、諒は悲しむかなあ。
ぽつんと浮かんだその考えは、湖に生じた波紋のように、沙穂の胸の中に広がっていった。
――そうだ、諒。大好きなあの幼なじみを、悲しませたらいけない。
だって彼は、こんな自分を守ってくれたんだもの。その体を、こんな男たちに汚される?
――殴られても、罵られても、許してはいけないことがあるんじゃないの?
怖がっている場合じゃない。心臓が激しく鳴っている。
勇気を出さなければ。痛みと暴言に耐えられるだけの力を、奮い起こさなければ。
拳を握り締めて、沙穂は立ち上がった。
すると突然、体育館全体を震わせるような、大きな音が鳴り響いた。バンバンと力任せに何かを叩くその音は、時が経つにつれて、ますます激しくなっていく。
入り口だ。誰かが、扉を叩いている。
――諒だ!
沙穂は直感でそう思った。諒は自分がピンチのとき、いつだって駆けつけてくれるのだから。
「おい!待てっ……!」
走り出した沙穂に、西野が手を伸ばす。それをすり抜け、俊足のおかげであっという間に辿り着いた扉の、その鍵を、沙穂は外した。
解錠した途端、勢い良く開け放たれた扉の前に、立っていたのは。
「西野……」
憤怒に取り憑かれた表情をしている、東山だった。
――あれぇー?
予想をあっさり裏切られて、沙穂はばしばしと瞬きした。
東山は扉の脇に立っていた沙穂にちらりと目をやり、無事を確かめると、すぐにまた西野に鋭い視線の焦点を合わせた。
つづく
瞳に暗い憎悪の光を宿して、西野は沙穂を睨みつけている。
一体どうして?なんで?
人からそんな目で見られるいわれはなかったから、沙穂は戸惑った。
しかし――。敵視、蔑視。怒られている、憎まれている。その攻撃的な目つきには、覚えがあった。
だが、どこで?
その問いかけがきっかけとなり、沙穂の頭の中では、映画を早回ししているかのように、様々な映像が展開されては消えていった。それらは全て、彼女の過去の記憶である。
だいぶ時が巻き戻ったらしく、やがて沙穂の脳内には、幼い沙穂と諒が現れた。
「将来ボクはしましまと結婚する!」あの幼なじみは、そんなことを言ってくれて――。
ああそういえば、こんなこともあった、あんなこともあった。今まで忘れていた思い出が、物凄い勢いで蘇ってくる。
頭がガンガンと痛かった。だが、先ほど友人たちと談笑していたときに襲われたのと同じその痛みも、もはや沙穂の記憶の再生を止めることはできなかった。
――どうして、忘れていたんだろう。
おとうさん。
そうだ。お父さんだ。
――私をそんな目で見ないで、お父さん。
目の前の西野が、父と重なって見える。
現在、遠い北の地で単身赴任中の父とは、盆と正月の年に二回ほどしか会えない。それらの機会に接する父は、家族思いの優しい、そして男らしい、立派な人物だと思っていた。
だが、今、思い出の中で蘇った父は、乱暴で自分勝手な、何より、とても恐ろしい目で、実の娘を見下ろすような男だった――。
「島島さんさぁ、ちょっと調子に乗っちゃった?この俺が、せっかくわざわざ告白してやったのに、断るってどーゆうこと~?」
西野は沙穂に一歩近づくと、「優しそう」とか「かっこいい」とか、女子からの称賛を一身に集めている麗しい顔に、嘲笑を浮かべた。血走った目を吊り上げ、歪んだ唇の端はぶるぶると痙攣している。西野はもう、沙穂の知っている西野ではなかった。
醜い笑いを引っ込めたかと思うと、次の瞬間西野は、狂った犬のように吠えた。
「ったくよ!身の程知らずが!クソ女!クソ女!クソがあ!ぶっ殺す!」
唾を飛ばしながら、掴みかかるような勢いでそう繰り返す彼は、正気を失った人間のようでゾッとした。それでも沙穂は、気丈にも言い返した。
「こ、この人たちは誰?なんでこんなところへ連れてきたの?話があるんじゃないの?」
「うるせえんだよ、ブタ!!!!」
「っ!?」
容赦なく振り下ろされた腕を、沙穂は身を捩り、すんでのところで避けた。空を切った西野の腕には手加減がなく、あのまま殴られていたら大変なことになっていただろう。血の気が引いて、沙穂は崩れるようにしゃがみ込んでしまった。
「もうやめて、やめてください……!」
父の姿が重なる西野が恐ろしくて、直視できない。尚もブツブツ悪態を吐き続ける西野に、彼の仲間と思われる男たちが、文句を言い始めた。
「おいおい、ニシぃ。なに、女の子にボウリョク振るっちゃってんの?小さえなあ、相変わらず」
「……うるせえ」
「ケガさせちまったらどうすんだよ?バカが。やだぜ、俺、血まみれの子とセックスするなんてよ。そういう趣味はねえんだよ」
男たちの一人が沙穂の隣にやってくると、俯いている彼女の小さな顎を掴み、上を向かせた。
「だいじょーぶ?俺たちはニシと違って優しいから、安心してね」
かたかたと小刻みに震えながら、沙穂はとぎれとぎれの消え入りそうな声で言った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。ひどいこと、しないでください……。ぶたないで……」
「おっ、可愛い!ひどいことなんてしないよお!楽しくエッチしようね!」
涙を流しながら懇願する少女を、「可愛い」と表現する。この男もやはり、女を平気で殴ろうとする西野と同類のようだ。男は犬猫でも撫でるように、だが全く愛情のこもっていない手つきで、沙穂の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪を乱されながら、沙穂はただひたすら、この場にはいない父に謝っていた。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「うんうん、おとなしくいい子にしててねー。――おい、そろそろカメラ準備しろよ」
――はい、いい子にしています。だから、ぶたないで。お母さんとケンカしないで。お父さん……。
男たちの一人がビデオカメラを構え、にこにこと笑いかけてくる。
「こっち向いて、しましまちゃん。うん、いいよ、可愛いねー」
沙穂はうつろな目を、カメラのレンズに向けた。まるでひとごとのようだった。
自分がこれから何をされるのか。想像がつくが、抵抗しようという気持ちが湧いてこない。
男たちの言うとおり、「おとなしくいい子」にしていれば、すぐに済む。
――私だけが我慢すれば、いいこと。
今、沙穂を支配しているのは、悲愴な諦観であり、彼女をそうさせたのは、西野に宿っている身勝手で暗愚な怒りだ。そしてそれは、かつての父の中に住んでいたものでもある。
西野を見ているだけで、あのときの痛みを思い出す。
ぶたれたのは、頭と頬。蹴られたのは、尻と脛。
そして、ヒステリックな叫び声。
「どうして、言うことが聞けないんだ!このバカ!バカ!バカ!バカ!!!!」
沙穂の父は真面目で仕事もできたし、妻と子を愛する、良き家庭人でもあった。
だがその状況は、彼が、勤めていた会社の生え抜きが集まる部署へ栄転したことから、一変した。
新しい環境にうまく馴染めず、しかも思うとおりに成果が出せなかった父は、精神的に追い詰められていった。 苛立ちを、彼は家庭に持ち帰った。そしてその攻撃の矛先は、一番弱い存在だった一人娘に向けられたのだった。
小学校に通うまだ幼い娘を、つまらないことで毎日叱りつける。そんな夫を沙穂の母親は許さず、娘を庇った。そのせいで、夫婦の間にはケンカが絶えなかった。
両親の不仲を目の当たりした沙穂は、「自分が我慢すればいいのだ」と思い込むようになった。沙穂は昔の優しい父を知っていたから、彼を憎むことも嫌うこともできなかった。
それでも、まだ沙穂に対する厳しい叱咤は、ギリギリのところで躾の範疇に収まっていた。
それがある日、ついに一線を越えたのだ。
その日、父は会社を休み、昼間から酒を飲んでゴロゴロしていた。母はパートへ出かけていた。
学校から帰ってきた沙穂に、父はビールを買ってこいと命令した。店は当然、未成年者には酒など売らない。トボトボと手ぶらで帰ってきた娘を見て、父の怒りは爆発した。
「どうして、お前はこんな簡単なことができないんだ!このバカ!バカ!バカ!バカ!!!!」
それは職場で結果を求められ、だが叶えられない自分への叱責でもあった。結局父は不甲斐ない自分への怒りを、娘にぶつけていただけなのだ。
父は沙穂を突き飛ばし、畳に倒れたところへ馬乗りになって、更に叩いた。最初は尻を、だが徐々に行為はエスカレートしていき、腹や顔を殴り始めた。
普段ならすぐに終わる折檻も、この日はしつこく、いつまで経っても止まなかった。恐らく怠惰な休日を過ごしたせいで、父の体内にべっとりと蓄積した、アルコールのせいだろう。
父は後に、「ちゃんと手加減していた」と語った。それは確かにそうだろう。成人男性が本気で殴れば、幼い少女など、ひとたまりもないはずだ。
だが、いつもより激しい体罰に晒され、沙穂は殺されると思った。その日は我慢することよりも、恐怖が勝った。
「助けて!助けてください!」
たどたどしく、彼女は誰に対して分からぬ救いを求めた。
その途端、自分を痛めつけていた大きな影が、ぐらりと揺れた。動きを止めた父の下から、沙穂はよろよろと這い出した。
「う……」
父は脇腹を押さえ、呻いている。沙穂には、何が起きのたか分からなかった。
人の気配を感じて顔を上げると、うずくまる父の背後に、よく知る顔を見付けた。
仲良しのお友達。――優しい諒くん。
「あ……、さ、沙穂ちゃんが……し、死んじゃう……!」
諒の手には、いつも台所のテーブルの上に置いてある、小さな果物ナイフが握られていた。
「お、おじさん……。沙穂ちゃんを、いじめないで……!」
両目からボロボロと涙を流し、だが諒は毅然と言った。彼は震え、そのはずみで、握っていたナイフから鮮血がぽたりと落ちた。父の血は、畳に染みを作って――。
沙穂が覚えているのは、ここまで。これ以降は、ばっさりと、記憶が抜け落ちてしまっている。
全てを思い出した沙穂は、自らの体を抱き締めた。
――全部、自分のせいだ。
父親の要求に応えられず、怒られたこと。そのせいで、大切な幼なじみの手を、血で汚したこと。
そして、父が家を出て行ったこと――。
忌まわしいあの一件は事故として処理され、諒が罪に問われることはなかった。涼の将来を考えてというより、娘を虐待していたことが公になると、被害者である沙穂の父にとっても、まずいことになるからだろう。
事態を知った沙穂の母は怒り狂い、父とは離婚すると宣言した。だが父は、どうかそれだけは許して欲しいと、土下座までして詫びた。あんなことをしておきながらも、だが彼が家族を愛していることは、事実らしかった。
長い話し合いの結果、それでもすぐには父を許せなかった母は、別居を提案した。父はその申し出を受け入れ、地方の支社へ転勤願いを出し、旅立って行った。
こうして沙穂たち家族は、離れて暮らすことになったのだ。
――もっと自分がうまくやれば、もっと自分が我慢すれば、こんなことにはならなかった。
現実を忘れたくて、幼かった沙穂は記憶を捻じ曲げた。
父のことを「優しいから、大好き」なんて、大嘘だ。本当は彼のことを、世界中の誰よりも恐れている。
父からの電話をいつも取るのは、過去の体験が無意識に染みついており、逆らえないからだ。
そして、沙穂が怖いのは、父だけじゃない。
怒鳴る、殴る、蹴る――男たち。彼女は本当は、世の中の全ての男性が怖いのだ。
当人すら忘れていたというのに。
――「しましまは、ああいう男、好きじゃないでしょ」。
沙穂が西野との交際を断ったその日、諒は確信をもって断言した。
明るく爽やかな、イケメンスポーツマン。実像はともかく、西野は「理想的な彼氏」として人気だった。
だが――西野の性別は、もちろん「男」だ。だがら、諒には分かっていたのだろう。西野が「男」である限り、沙穂は彼のアプローチを受け入れるはずがない、と。
あの悲しい事件のあとも、諒は沙穂の側にずっとい続けた。一部の記憶が抜け落ち、男性を極度に怯えるようになってしまった幼なじみの傍らで、彼は何を思っただろう。
そもそも諒が、あんな格好を――。
スカートを履くようになったのは、いつからだった?
「よし、誰からいく?」
「はい!俺から!処女とやんの、初めてなんだよね!」
「ばぁか。処女とは限らねえじゃん」
「えー?こんなに純情そうなのにー?ああ、でも確かにあの巨乳は、処女の持ちもんとは思えねえなあ」
男たちの勝手な会話が、遠くに聞こえる。
――でも、私がボロボロになっちゃったら、諒は悲しむかなあ。
ぽつんと浮かんだその考えは、湖に生じた波紋のように、沙穂の胸の中に広がっていった。
――そうだ、諒。大好きなあの幼なじみを、悲しませたらいけない。
だって彼は、こんな自分を守ってくれたんだもの。その体を、こんな男たちに汚される?
――殴られても、罵られても、許してはいけないことがあるんじゃないの?
怖がっている場合じゃない。心臓が激しく鳴っている。
勇気を出さなければ。痛みと暴言に耐えられるだけの力を、奮い起こさなければ。
拳を握り締めて、沙穂は立ち上がった。
すると突然、体育館全体を震わせるような、大きな音が鳴り響いた。バンバンと力任せに何かを叩くその音は、時が経つにつれて、ますます激しくなっていく。
入り口だ。誰かが、扉を叩いている。
――諒だ!
沙穂は直感でそう思った。諒は自分がピンチのとき、いつだって駆けつけてくれるのだから。
「おい!待てっ……!」
走り出した沙穂に、西野が手を伸ばす。それをすり抜け、俊足のおかげであっという間に辿り着いた扉の、その鍵を、沙穂は外した。
解錠した途端、勢い良く開け放たれた扉の前に、立っていたのは。
「西野……」
憤怒に取り憑かれた表情をしている、東山だった。
――あれぇー?
予想をあっさり裏切られて、沙穂はばしばしと瞬きした。
東山は扉の脇に立っていた沙穂にちらりと目をやり、無事を確かめると、すぐにまた西野に鋭い視線の焦点を合わせた。
つづく
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