可愛いことは、いいことだ!

いぬがみクロ

第三話

 ――うわー、うわー、うわー……。
 夢の中を漂っているようで、足元が覚束ない。ふらふらと頼りなく歩きながら、沙穂は熱くなった頬を押さえた。

 「おーい!しましまー!」
 聞き慣れた声に顔を上げると、体育館と昇降口を繋ぐ通路の向こうから、多英と諒が走ってくるのが見えた。
 すぐ近くまで辿り着くと、多英は沙穂の両肩に手を置き、擦るようにして、親友の無事を確かめた。その傍らでぼうっと突っ立っている諒は、まるっきりひとごとのように、女子二人のやり取りを眺めている。
 「大丈夫!?何かひどいことされなかった!?心配してたんだよ!」
 「あ、う、うん。別に何も……」
 「ほらあ、だから言ったじゃん。ヒガシと一緒なら、逆に安全なくらいだってば」
 呆れたように会話に割り込んできた諒を、多英はキッと睨みつけた。
 「あんな見るからに悪そうな奴、信用できるわけないでしょ!しましまに何かあったらどーすんのよ!?」
「いや、だからさあ。外見はアレだけど、ヒガシはすごく優しい男なんだって」
 諒は曖昧に笑いながら、怒り心頭に発したのか、食ってかかってくる多英を宥めた。ひとまず親友を落ち着かせようと、沙穂も口を挟んだ。
 「多英ちゃん、本当に平気だから。別に何もされなかったよ」
 東山は確かに見た目は怖いが、中身はごくごく普通だった。むしろ、話しやすいほうかもしれない。どちらにしろ、今まで抱いていた印象とは全く違う青年だった。
 「本当に?」
 多英は半信半疑だ。
 「うん。意外といい人かもしれない」
 「でしょ?」
 沙穂が自分と、そして東山の肩を持ってくれたことで、諒の目は輝き出した。
 「ヒガシって、面白い奴なんだよ。多英ちゃんも今度話しかけてみるといいよ!あいつ女の子苦手だから、きっと面白い反応が返ってくると思う!」
 友人のことを楽しそうに語る諒を見て、沙穂は次第にモヤモヤしてきた。
諒が友情を感じているらしい東山は、だが男には違いない。自分の目の前で、沙穂が別の男に連れて行かれたのに、諒はなんとも思わなかったのだろうか。逆の立場だったら、沙穂はきっと心配するか嫉妬で、じっとしていられなかったろうに。

 「おーい、諒。ジャンプ、お前の番だぞ!早く読めよ!」
 「あ、はーい!『暗殺教室』どうなったかなあ~!」
 二階の教室の窓から同級生の声が降ってくると、諒は沙穂たちに背中を向けた。走り出す直前、沙穂は思い切って彼を呼び止めた。
 言おうか言うまいか、迷っていたけれど――反応が知りたい。
 「あの!私、西野くんに告白された!」
 「西野?」
 いきなり別の男子の、しかも女子の間では有名なイケメンの名が出てきたことで、多英は驚きに目を見開いた。
 「……………」
 諒はぴたりと動きを止めて、振り返った。
 ――何を言ってくれるんだろう。怒ってくれるだろうか、焼きもちをやい てくれるだろうか。「断れ」とか、「ボクのほうが好きだ」とか、そんなことを言ってくれるだろうか。
 期待に膨らんだ胸は、だがすぐにしぼんでしまった。
 「ふーん、そうなんだ」
 ただ、それだけ。諒は興味なさそうにつぶやくと、あっさり走り去ってしまった。

 「……………………………………」
 ――本当に自分の一人相撲なのだ。
 沙穂はがっかりと肩を落とした。
 「しましま……」
 気遣わしげに、多英が話しかけてくる。
 「西野くんに告白されたって、本当?すごいじゃん!でも、そうだよね。しましま可愛いし、モテるの当たり前だよ」
 「べ、別に全然モテないよ……」
 気を抜くと泣いてしまいそうだから、必死に我慢して、沙穂は弱々しく笑った。
 「そんなことないよ!しましまのこと、いいなって思ってる男子、いっぱいいるよ!でもさ、諒が……。あんなのでも、あいつ、男だもんね。しましまと仲がいいから、男子たち、みんな遠慮しちゃうんだよ」
 「――諒にとって私は、ただの幼なじみなのにね」
 そう、ただの幼なじみ。自分の言葉が胸にのしかかってきて、苦しくなる。
 ――分かっていたはずなのに、何を期待していたのだろう?
 「あのさ、しましま。諒のことはちょっと置いといて、他の男の子と付き合ってみるっていうのはどう?ほら、ちょうど西野くんに告られたんだし。軽い気持ちでさあ」
 沙穂はしばらく黙って、多英のアドバイスについて考えてみた。
 「……ごめん、やめとく。やっぱり私、諒が好きだもん。諒じゃないと……。
 それなのに、他の男の子と付き合うなんて、相手に失礼だよ……」
 「もう、真面目だなあ、しましまは。色んな男、試してみればいいのに」
 「ちょっと!多英ちゃん、小悪魔過ぎだから!」
 おどけて、沙穂は無理に笑顔を作る。むしろ多英のほうが泣きそうな顔になって、親友の背中をぽんぽんと優しく撫でた。
 それからしばらくして、チャイムが鳴った。




 どうして、こうなっちゃったんだろう。

 「将来、ボクは『しましま』と結婚する!」
 諒は確かに、そう言ってくれたはずなのに。




4.
 沙穂の所属するバレーボール部は、本日定休日だ。
 放課後、帰ろうと教室を出たところで、諒が追い駆けてきた。
 「しましま、今日おうちに行ってもいい?『ガラスの仮面』の続き、読みたい!」
 何ごともなかったように、諒は朗らかに話しかけてくる。そう、彼にとってあれは――沙穂が別の男子から告白されたとかどうとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。
 お互いの温度差に、沙穂は切なくなってきたが、下手に反応して事を荒げるのも嫌だった。ますます自分が惨めになるだろうから――。
 「……いいよ」
 引きつった顔で、沙穂は頷いた。




 「おじゃましまーす」
 返事が返ってこないところを見ると、島島家は今無人のようだ。母親がいるはずだったが、買い物にでも出ているのだろう。諒はさっさと靴を脱ぐと、沙穂の先に立って、二階にある彼女の部屋を目指した。

 「あれー?漫画の位置、変えた?いつものところにないね」
 部屋に着いた途端、床に荷物を置くと、諒は早速本棚へ向かい、目的の漫画を探し始めた。
 「ああ、うん。ちょっといらない本、整理したんだ。どこに置いたっけかな……。えーと」
 沙穂がキョロキョロとあちこちを見渡すと、諒も真似するともなく辺りに目をやり――そして、彼女より先に、あるものを見付けたようだ。
 「あっ、あった!」
 「ん?」
 部屋の隅に置かれたベッドの上に、きちんと畳まれた洗濯物の、小さな山ができている。その頂上にちんまりと鎮座している布きれ。諒はそれをひょいとつまみ上げた。
 「やん、可愛い!」
 諒が手にしたのは、女性用下着。――いわゆるパンツである。手の平ほどしかない小ささなのに、非常識なほど伸びるそれを、諒は両手で広げてうっとりと見入った。
 「!!!!」
 沙穂は取り上げようと腕を伸ばすが、諒はひらりと身をかわした。
 「いーなぁ、女の子のパンツって可愛くて!ねえねえ、一枚くれない?」
 諒はどうやら興奮しているようだが……その意味合いは、性的なものではないように見受けられる。――嫌な予感がした。
 「くれないって……。そんなもの、何に使うの……?」
 怒りと動揺を押し殺して、恐る恐る沙穂が尋ねると、諒は嬉々として即答した。
 「ボクが履くのに決まってるじゃない!」
 ――怒りが頂点に達すると、人は無表情になるらしい。沙穂は能面のような顔をして、今度こそ素早く、諒の手から自分の下着を奪い返した。
 「通販でも買えるよ!」
 「あっ、その手があったぁー。しましまったら、頭いー!」
 「………………」
 頭の中で、何かが切れる音がした。
 自分勝手な期待を押し付けている。何をどうしようと、諒の自由なのに。
 分かっているが、でも、一言言ってやらないと、収まりそうにない。

 「いい加減にしてよ、諒!言っとくけど、女の子の格好、全然似合ってないからね!あんた、みんなに何て言われてるか知ってんの!?妖怪とか化け物とか、言われ放題なんだよ!」
 いや、「化け物」は、他ならぬ沙穂の感想なのだが……。
 それに対して諒は、特に傷ついた様子もなく、いつもの調子で言い返した。
 「別に人から可愛いとか言われなくてもいいもん。自分がしたいから、してるんだもーん。ファッションて、そういうものでしょ?」
 なんなのだ、このメンタルの強さは。ああいえばこう言う。まったく、口では敵わない。
 沙穂はうぐぐと悔しそうに呻いた。ますます頭に血が昇る。
 「減らず口ばっかり叩いて、もう!西野くんやお父さんをお手本に、男らしくなればいいのに!」
 途端、ぴくりと諒の片方の眉が上がった。
 「……そういえば、西野から告白されたって言ってたね。どうせ断ったんでしょ?そんな、付き合う気もない男の真似をボクにさせて、どうする気?」
 急にトーンの変わった声色に気を取られながらも、沙穂は訝しげに、自分よりもニcmほど低い位置にある諒の目を見下ろした。
 「なんで、私が西野くんの告白を断ったって、知ってるの?」
 確かにそのとおり、西野に告白されたその場で、沙穂は丁重に断りを入れた。
 どこかで見ていたのか?――そんなわけはない。西野たちと会っていた直後、諒は体育館の裏とは逆の方向から、多英と一緒に迎えに来てくれたのだから。
 もしかして諒は、沙穂が自分を好きなことを――この幼なじみ以外の男など眼中にないことを、勘づいているのだろうか。
 だが、沙穂の疑惑とは違う答えを、彼は口にした。
 「そりゃ、分かるよ。しましまは、ああいう男、好きじゃないでしょ。ボクも嫌いだけど」
 批判や悪口というような響きはなく、ただ事実を淡々と述べているだけ。そんな口調だった。
 「そ、そんなことないよ!西野くん、かっこいいじゃない!ああいう人が彼氏なら、きっと楽しいだろうなって思うよ!」
 「…………………」
 沙穂の反論など耳に入れず、諒は自らの癖が強く太い髪をいじった。
 「――それにボク、しましまのお父さん、苦手だ」
 「!」
 西野のことはともかく、大好きな父親について否定的なことを言われて、沙穂は悲しくなった。
 「……お、お父さんのことは、なんで苦手なの?娘の私が言うのもなんだけど、男らしい人だと思うんだけど……」
 一度は逸らした目を再び沙穂に合わせて、諒は無言で彼女を見詰めている。
 いつもの自分の部屋と、いつもの諒。ここにいることは珍しくない彼が、なんだか妙に浮いて見える。知らない人をうっかり、招き入れてしまったかのようで、居心地が悪かった。
 「さっきから、男らしい男らしいって言うけど。しましまには、本当の男らしさって何か、分かってるの?」
 「わ、分かってると、思うけど……」
 ついそう答えたが、「男らしさ」。そんなこと、考えたこともない。
 ただ諒には、普通の男の子のように振舞って欲しいと、それだけを思っていた。
 ズボンを履いて、男言葉を使って、それから、それから……それから?
 思い付かない。男性の特徴なんて、こんなものだったろうか。
 頭の中がしんと冷えていく。
 ――だとしたら、私が諒に望むものって、随分底が浅いような……。
 沙穂の戸惑いが分かるのか、問いを突きつけた諒は、唇の端を上げて笑っている。そんな意地の悪い表情は、初めて見た。
 諒は沙穂の両手首を左右それぞれの手で掴むと、下から覗き込むようにして顔を近付けてきた。
 唇にあたたかい何かがぶつかって、離れていく。キスされたのだと気付いた頃には、目の前に諒の顔があった。
 「こういう、強引なのが男らしさ?」
 掴まれた両手首を背中側へ押しやられ、そのまま下へ強く引かれる。バランスを崩して、沙穂は後ろ向きに倒れた。
 ベッドに背中を付けて、天井を見上げる。その視線を遮るように、諒が覆い被さってきた。
 「りょ……!」
 身をよじって逃げようとするが、手を掴まれたままで、それも叶わない。
 男性としては小柄なはずの諒は、だが岩のように重たく硬く沙穂の上に留まっていて、びくともしなかった。
 「離して、りょ……」
 「こうやって力づくで蹂躙するのが、男らしさなのかなあ?」
 くすくすと笑いながら、諒は沙穂に口づけた。先ほどのような触れるだけのものではなく、唇を割った舌が絡んでくる。背筋から頭へと、ぞくぞくと何かが駆け抜けていった。
 「うっ、く……う……!」
 抵抗の言葉を飲み込まれていくうちに、何も分からなくなっていく。酸欠気味で、目の前がクラクラしてきた。
 沙穂の体から力が抜けたのを見計らって、諒は彼女の豊かな胸に触れた。
 「あっ……!そんなの、だめ……!」
 「柔らかい……」
 最初は大きさを確かめるかのように遠慮がちだった手つきが、徐々に強く、荒々しくなっていく。諒の手はブラウスのボタンを外して前を開くと、背中側にあったホックを外し、ブラジャーのカップを持ち上げた。こぼれ出た大きな乳房を前に、彼はごくりと喉を鳴らした。
 「やだってば……!恥ずかしい、よ……」
 自分が何をされているのか直視できなくて、沙穂はいつの間にか自由になっていた手で、自らの顔を覆った。
 「すごい、綺麗……。沙穂……」
 興奮に掠れた声が、呼ばれた名が、耳に心地良い。
 どうにかなってしまいそう。――どうにかして欲しい。
 でも、何がなんだか分からない。どうしていきなり、こんなことになったのか。

 それでも。
 諒になら何をされてもいいし、ずっと彼にこうして欲しかった。――いやらしい女の子だと、軽蔑されるかもしれないが。

 「沙穂、沙穂……。俺の、だよね……?沙穂……」
 片手で自分の体重を支えながら、諒はもう片方の手で、沙穂の裸の胸を揉みしだいた。硬くなった頂点をつまみ上げながら、深く口づけ、舌を絡め合う。沙穂の太ももには、諒の硬く熱い何かが当たっていた。
 「諒……。ねえ、どうしたの……?」
 「え……?」
 「キャラ、違うよぉ……?」
 諒の愛撫に酔いながら、沙穂はつい気になっていたことを尋ねた。
 その瞬間、諒は雷に打たれたように硬直し、動かなくなった。
 「……諒?」
 有に三十秒はそのままの姿勢で、諒は固まり続けた。そして――。
 「~~~~~うああああああああああ!!!!!」
 ――島島家全体を震わせるような雄叫びを上げた。
 「えっ、な、なに!?」
 「……はぁ……」
 ため息をひとつ吐くと、諒はのろのろと沙穂の上から撤退していった。ベッドの縁に腰掛け、もう一度息を吐き出す彼のその背中には、例えようのない哀愁が漂っている……。
 「りょ、諒……?」
 沙穂の呼びかけからしばらくして、ゼンマイの切れかけた機械人形のようにぎくしゃくと振り向くと、諒はいかにも無理して作ったという風な笑顔を浮かべた。
 「ごめんねえ、しましま。ボク、ちょっと今日、変だったね。本当にスミマセンでした。お願いだから、忘れてね」
 一方的に詫びて立ち上がると、床に放っておいたカバンを肩にかけ、諒は部屋から出て行ってしまった。

 「…………え」
 今度は沙穂が動けなくなる番だ。
 階段を下りて、玄関を閉める。それらの音で彼が本当に帰ってしまったことを知り、沙穂はようやく我に返った。
 「な、なに……?なんだったの……?」
 乱れた服をそのままに、沙穂は呆然と自問自答する。
 当然、答えなど出ようはずもなかった。


つづく

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