可愛いことは、いいことだ!

いぬがみクロ

第一話

 小さな頃の彼は、本当にカッコ良かったの。

 かけっこをすれば、一番速く。
 九九を覚えさせれば、一番早く。

 だから。
 「将来ボクは『しましま』と結婚する!」
 彼がそう言ってくれたときは、天にも昇る気持ちだった。

 なのに――。
 どうして、こうなっちゃったんだろう?




1.
 夕焼けの茜色に染まる校庭に、少女のけたたましい怒声が響き渡る。

 「こらーーーー!しっかり取りなさーい!」
 「いやーん!無理無理無理無理ィ!本職の人のサーブなんて、取れっこないよぉ!」
 キリキリと眉を吊り上げ、ボールを構えるその少女は、今は親の敵を前にしているかのような厳しい表情を浮かべているものの、普段はきっと可愛いと評判に違いない、整った顔だちをしていた。半袖のTシャツから覗く腕、膝までのショートパンツから伸びた足はそれぞれすんなりと長く細く、スタイルも大変素晴らしい。少し胸が大き過ぎるきらいがあるが、それもまたある種のマニアから支持を集めることだろう。

 「いいから、ちゃんとやんなさいよ!」
 耳の下までふんわりと切り揃えた短い髪を揺らしながら、少女はイライラと手にしたボールを地面に何度かつき、目の前の人影を睨みつけた。
 「もう、やーだあー!こんなことしてないで、早く部活行きなよお!キャプテンなんでしょー!」
 少女に対峙している人物は、大変迷惑そうだ。唇を尖らしている彼女は――いや、「彼」、であった。
 天然なのかうねうねとうねるくせっ毛を、色とりどりのヘアピンで留めた前髪。白いシャツに、ボックスプリーツのスカート。ただしその下には、ジャージを履いているが。
 そんな格好をしている割に、眉は太く、目鼻の作りも凛々しい。一六五cmと若干背は低く、細いものの、肩幅もあるし、手足もがっしりしている彼は、外見から判断すれば間違いなく「男性」である。
 しかし、その中身は――。

 「もういいから!ほらっ!」
 焦れた少女がサーブを放つ。優しさからか、だいぶ加減されたそれを、少年は一旦取ろうと構えて、だが――。
 「いやっ!やっぱ怖ぁい!」
 少年はすっと身を翻し、ボールを避けた。白球は地面に落ち、てんてんと虚しく遠くへ転がっていった……。
 「……諒ぉおおおおお!」
 「や、やーん、そんな怖い顔しないでよ、しましまぁ」
 般若のごとき形相で睨みつけてくる少女、島島とうしま 沙穂さほの視線を、戸延とのべ りょうはくねくねと全身を揺らし、受け流した。




 K県立 華笛かてき高等学校の、ある日の放課後のことである。
 校庭の片隅でやり合う沙穂と諒から少し離れたところには、同じクラスの女性徒数人が立ち、くすくすと笑いながら二人を眺めていた。
 幼なじみの沙穂と諒のこの手の諍いは日常茶飯事で、なかなか面白い見世物として人気なのだ。

 「もう!球技大会まで、あとちょっとなんだからね!しっかりやってよ!」
 すっかりキレてしまった沙穂は、横に置いてあったカゴから次から次へとボールを取り出し、諒に向かって投げつけ始めた。
 「痛っ!ちょっとこれ、いつの時代のシゴキ!?
 大体、球技大会なんてどこのクラスもははーん、ふふーんって気楽なもんでしょ!?そんなに燃えてやるもんじゃないじゃん!」
 「そ、それは……!でも、何事も真剣に取り組んだほうが、実になると思うの!それにほら、活躍したらかっこいいし、諒の人気もどかーんと上がるよ!」
 諒の言うとおり、近日中に学内で開催される球技大会は、レクリエーションのようなものだ。本気で取り組む生徒など皆無である。沙穂もその一人だし、要はこれは、諒をシゴく口実だった。幼なじみの彼に少しでも男らしくなって欲しくて、スポーツによる矯正を図ろうとしたのである。
 痛いところを突かれて、沙穂の手は鈍った。

 「活躍するとか、主役になるとか、ボク自身はそういうのはいいんだ。
 それよりも、一人の脇役として、ヒーローのアシストをしたい……。それがボクの生き方なんだ」
 穏やかに微笑んだ諒は、イイ話的な雰囲気を滲ませ、語り出した。
 なんか胡散臭いけど、そんな風に言われたら……。
 沙穂は自分のしていることに、罪悪感を覚え始めた。彼を男らしくするために鍛えようなどと、確かにただのお節介かもしれない。
 「それに『可愛い』は正義よ、しましま!」
 「……!」
 反省しかけたが、しかしウィンクを寄越す諒のその笑顔に、妙に腹が立つ。
 「おっ、これくらいなら取れそう。そーおれ!」
 沙穂の迷いそのままにゆるく向かってくるボールを、諒は額に手で三角形を作る、教科書どおりの受け止めかたをすると、そのまま高く返した。ほぼ反射的に、沙穂がジャンプする。
 「だからって、敵にトス上げてどうすんのよーーーーーー!」
 そのまま渾身のスパイクを、彼女は諒に叩き込んだ。
 「ぎゃああああああああ!」
 時速六十kmをマークする凶暴な攻撃に為す術もなく、諒はそれを腹で受け止め、吹っ飛ばされた。

 「ひどいよ、しましまぁ……。もうちょっと下にズレてたら、ボク、お婿に行けなくなってたよ?この人間凶器め……!」
 諒は地面に四つん這いになったまま、恨めしそうに沙穂を見上げている。
周りで見ていた女子たちからも、非難と援護の声が上がった。
 「しましまぁ、ちょっと可哀想だよー」
 「いいじゃん、諒タンはそのままで。誰も諒タンにかっこ良さとか求めてないし」
 「もう!あんたたちが甘やかすから、諒がどんどん女の子っぽくなっちゃうんじゃん!こんなにキモくなっちゃって……!」
 沙穂がそう抗議すると、女子からはブーイングが返ってくる。
 「えー!あたしらのせいじゃないし!」
 「そうだよ!諒タン、入学したときから、めっちゃキモかったじゃん!」
 「ちょっとあんたら……言いたい放題し過ぎでしょ……!」
 ふらふらと立ち上がった諒は、痛む腹を抑えながら呻いた。
 沙穂は一人、唇を噛む。
 クラスメートたちが言うとおり、確かに諒には高校に入学する前から、そういった……女子的というか、そのような片鱗はあった。可愛いものが好きだったり、女の子とばかり遊びたがったり。彼との会話も、女友達に対するそれと内容は全く変わらなかった。

 ――だが。諒には、行動も言動も男の子だった時期が、絶対にあったはずなのだ。生まれたときから彼の近所に住んでいる沙穂には、そのような記憶が確かにあった。
 具体的に言えば、小学校に通っていたとき、何年生だったかは忘れてしまったが、そのときを境に、諒は今のような不思議な生き物に変化してしまった。
 沙穂はそれ以前の、男の子だった諒に戻って欲しいと、ずっと願っている。
 別に今の彼が嫌いというわけではない。――ただ。諒が「女の子」では困るだけだ。
 沙穂も女の子だから――つまり、女の子同士では恋愛もできないし、結婚もできない。そういうことだ。

 島島 沙穂は戸延 諒に、もうずっと長いこと、片思いしている――。




2.
 二人が通う華笛高校は、偏差値でいうと六十五ほどの、そこそこの進学校である。優秀な学生の自主性に任せるということなのか、だから校風はかなり自由だ。
 例えば、服装。制服も一式あるにはあるのだが、女子はスカート、男子はズボンのみ指定のものであれば良い。――実際は良いわけではないのだろうが、常識を逸したものでなければ、上に何を着ていても注意されるといったことはなかった。それを見越して、諒は堂々とスカートを着用している。下に体育用のジャージを履いているから、ギリギリセーフというのが彼の見解である。そして実際教師たちも、少し変わったこの生徒を不思議そうな目で見るものの、色々めんどくさいと思うのか、特に何も言わなかった。
 この行き過ぎた自由が!教師の事なかれ主義が!諒の歪んだ性癖を助長したのだ!!――などと、沙穂はどこから目線なのかよく分からない怒りを抱きつつ、歯ぎしりするのだった。




 バレーボール部の練習を終えて外に出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。
 時刻は六時半。このくらいの時間なら、ついこの間まではまだ夕日が待っていてくれたのに。

 「ちょっと涼しくなってきたねー。今度、新しいバッグ買いたいんだよね。しましま、一緒に選んでよ」
 「うん!行こう行こう」
横を歩くのは、同じバレー部で主将、副主将という間柄であり、親友でもある、溝呂木みぞろぎ 多英たえだ。
 多英は沙穂よりも更に短い男性のような髪型をしているが、それが良く似合っている。背も高く、中性的な雰囲気の彼女は、いわゆる「かっこいい」女の子だ。
 二人で多愛のない雑談をしているうちに、話題が今日の放課後のことに移った。
 「それにしても、しましまもよくやるねー。諒タンたら、筋金入りのオネエじゃん。あれはもう矯正不可能だと思うけど……」
 沙穂は、多英にだけは自分の気持ちを打ち明けてあったから、この親友は折りに触れ、忌憚のない意見を聞かせてくれる。
 「そんなことないよ!『三つ子の魂百までも』って言うじゃない!昔はちゃんと男の子だったんだから、そのうちきっと……!」
 「でも成長するにつれ、本当の自分に気付くってこともあるじゃん?もし諒タンが本当に女の子になりたいって思っていたら……。それでもしましまは、諒タンに男の子に戻れって言うの?」
 「………………………」
 沙穂は答えられず、薄暗闇に染まった道に目を落として歩いた。多英は言い過ぎたと感じたのか、それ以上は突っ込まず、そのあと二人は部活の話をして帰った。

 多英と別れてしばらく行くと、通り道の途中にあったコンビニから、小柄な少年が飛び出してきた。
諒だ。
 「しましまー!今、帰り?お疲れさま!」
 お菓子が入った小さなレジ袋を片手に、諒はニコニコと笑っている。
 さすがにスカートは履いていないが、甘いピンク色のパーカーに、髪を飾るヘアピンはそのままだ。
 そんな彼の姿を見て、沙穂の胸には様々な想いが湧き上がってきた。
 こんなに好きなのに、「女の子」を続ける彼への怒り。失望。――でもそれは、こちらの気持ちの押し付けに過ぎなくて。
 本当は、放っておいてあげたほうがいいのかもしれない。
 ――分かっているのだけれど。

 二人の家は隣同士で、ここから十五分ほど歩いた住宅街の中にある。
 諒は買ってきたばかりの菓子の封を切ると、沙穂の手の平いっぱいにわけてくれた。ぷにぷにと柔らかい、レモン味のグミだった。
 「ねえ、諒。諒はさ、男の子に戻る気はないの?」
 「……えー?いいじゃん。一度しかない人生なんだよ?好きなように生きなきゃさあ」
 「でも……!せっかく男の子に産まれたんだから、男らしくしたほうがいいよ!諒のお父さんやお母さんだって、きっとそう思ってるよ!」
 「いや、うちのオカンは喜んでるよ。女の子が欲しかったんだって。そもそも服を買ってきてくれるのは、オカンだしぃ。親父は、まあ複雑そうだけど、好きにすればって言ってくれてるよ」
 「ええー……」
 「それにさあ、男らしいとか、女らしいとかって何?それってもう死語じゃない?
 そういった仕分け方こそが、性差別の源です!ボクは性別なんて、そんな小さなものでくくられたくないの!
 そう!ボクは男である前に、一人の人間なのです!!!!」
 演説のような口上は、すらすらと淀みなく終わった。恐らく彼は、何度も同じことを説明しているのだろう、それくらい慣れた口調だった。
 頭の硬い人間がこの奇妙な少年を見れば、きっと一言物申したくなる。そのたびに諒は、先ほどの主張を繰り返しているのだろう。
 それはそれで大変そうだ。そしてそんな思いをしてまで、諒は今の諒であり続けることを選んでいる……。
 「うう……」
 ――彼を何とかしたいという気持ちが、ますます自分のエゴに感じられる。
 第一、差別だとか、人間のありかたとか、そんなデッカイものを持ち出されては反論できない。
 沙穂はもらったグミを頬張った。口の中に広がるレモンの甘酸っぱさが、心に染みた。
 冷静に考えれば、諒の主張は間違っていない。それはよく分かる。
 ――だとしたら、諦めるしかないのかなあ……。
 トボトボと肩を落として歩くその手を、不意に引かれた。
 「え?」
 諒に引き寄せられて怯んだその脇を、フラフラと覚束ない足取りの中年男性が通り過ぎていく。あのまま進んでいたら、ぶつかるところだっただろう。
 「あ、ありがとう」
 「えへ。どういたしまして」
 それから数歩進んだところで、背後から耳を塞ぎたくなるような呻き声が聞こえた。思わず振り返ると、先ほどの男が路上で吐いている……。顔も赤かったし、すれ違うとき、アルコールの匂いがツンと鼻をついた。どうせ飲み過ぎたのだろう。
 沙穂は顔をしかめて、前を向き直した。
 「……酔っぱらいはヤダ。嫌い」
 そうつぶやくと、諒に預けていた手が、ぎゅっと握られた。思わず硬直して、彼を見上げる。諒は黙って沙穂の手を持ち上げると、指先にそっと口づけた。

 「……!」
 喉が張りついてしまったかのように、沙穂は声を発することができなかった。
 彼の唇が触れた指が、燃えるように熱い。心臓が大きく鳴り過ぎて、耳の内側が痛いほどだった。

 「さ、かーえろ!お腹減った!今日ボクんち、カレーなんだー」
 無邪気にそう言って、諒は歩き出した。――手はまだ、繋いだままだ。
 「あ、あの、諒……!さっきのは……!」
 「ん?ダメだった?」
 しどろもどろようやく尋ねたのに、諒はなんてことはないとばかりに聞き返してくる。
 「ダメだよ!いや、ダメじゃないけど!そういうのは……あの……」
 結局きちんと諭すこともできず、沙穂は諒に引きずられるようにして家まで帰った。




 自分の部屋に戻ってくると、まずは制服のジャケットをハンガーに掛ける。それから、沙穂は勢い良くベッドに飛び込んだ。

 「ああ、もう!」
 諒に振り回されてばかりで悔しい。
 しかしまあ昔からの力関係を思えば、当然かもしれない。あの幼なじみは、昔から何事においても秀でた子供だった。沙穂は彼には敵わないと、今でも思っている。
 頭も良いし、運動神経もいい。性格も温和だ。少しお調子者だが、自ら道化を演じて、周囲の雰囲気を良くする優しさもあった。
 ――やっぱり、好きだなあ。
 改めてそう思うと、先ほどの口づけによる恥ずかしさと興奮で、どうにもじっとしていられない。枕に顔を突っ込んでじたばた暴れていると、階下から母の呼ぶ声がした。

 「沙穂ー!お父さんから、電話!」
 「あ、はーい」
 沙穂はささっと髪を整えた。電話なのだから姿が見えないのは分かっているのだが、この辺が乙女心だろうか。

 父はもう十二年ほど単身赴任をしており、ここから遠く離れた北の地に住んでいる。
そのおかげなのかどうか、高校生の女子といえば一般的に父親が鬱陶しく思えてくる年頃だというが、沙穂にはそういったところがなかった。むしろ、優しい父が、彼女は大好きだ。
  ――お父さんの百分の一でいいから、諒も見習えばいいのに。
  今度帰ってきたら、諒を教育してもらおうかなあ。
  冗談でそんなことを思いながら、沙穂は机の上の子機を取った。


つづく

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