亡国の剣姫

きー子

伍、奇剣・毒操手(上)

 シオンの周囲に、七つの死体が転がっていた。
 彼女はあっという間に新手の四人を切り捨てたが、続く追撃の気配はない。
 それでも周囲への警戒を絶やさず、刃にこびりついた血と肉と脂を拭き取る。
 結局、彼らの目的や意図はわからなかった。
 猪突猛進に攻めかかってはきたものの連携はあまりに稚拙。シオンが撹乱してやるまでもなく簡単に討ち取ることができた。
 無残な骸を晒した兵たちを一瞥する。埋めてやろうかと一瞬思うが、すぐにその考えを否定する。そんな余裕はどこにもありはしない。
 時間稼ぎのためかもしれない。そう考えれば、相手の思惑に乗ってやる理由は全くなかった。
 意味不明ではあったが、余計な時間と体力を食ってしまったのは確か。空を見上げれば、すっかり日が沈み始めているのが見える。
 ────急がなければ。
 念のため短剣を手にしたまま、シオンはこの場を後にする。
 まさにその瞬間であった。
 背後におびただしく感じられる悪寒。まるで粘着質に絡みつくような視線。怖気が走るような悪意の塊。
 それを直感するやいなや、聞こえた風切り音にあわせて刃を払い抜く。
 シオンの刃は見事、飛んできたなにかを左右ふたつに両断した。
「……は」
 シオンの優れた動体視力は、それがなにかを適切に見切っていた。
 首だ。男の生首。憤怒と憎悪、無念そうな死顔を浮かべた生首がシオン目掛けて投擲されたのである。
 悪趣味極まりない所業。
 シオンはそれが飛んできたほうに向き直る。おそらく尋常のものではあるまい。
 でなければ、こちらをわざわざ警戒させるような真似をするわけがなかった。
「────ほぉう」
 ひどく癇に障る声を耳に聞く。
 続けざまに二度、ひゅんと鋭い音がした。
 生首の投擲。それも今度は二個である。当然ひとつとして同じものはない。
 シオンはそれらを見もせずにかわした。後ろのほうで地面に叩きつけられた生首が果実のように弾ける。
 相当な力と勢いをもって投げられたらしい。たかが生首とはいえ直撃すれば無事では済まなかったろう。
「くくっ。それなりに真面目に狙ったつもりなんですがねえ。いやはや、流石」
 がさがさと茂みを掻き分けて姿をあらわすひとりの男。ざらざらとした耳障りな笑い声を響かせ、彼はシオンに相対する。
 少女は咄嗟に一歩退いた。一定の距離を保ち、様子をうかがう。警戒心をあらわにする。
 そうしなければならない、と思わせるものが男にはあった。
 とにかくいやな感じがする。理屈では言い表しようのない嫌悪感。人を人とも思わない目付きが、シオンの小柄な身体を射抜いている。
「──誰」
 まともな答えは期待していない。断じて友好的な相手ではないだろう。
 灰色の総後ろ髪、蛇のような目付き、黒の長剣を佩いた痩男。年の頃は三〇かそこら。その身は王国制式の軍服に包まれていたが、呆れるほどに似合っていない。
 シオンがすべき判断はふたつにひとつ。
 戦うか、逃げるか。
 正しい判断を下すための時間稼ぎ。あやまてば死。生け捕りにされようとも結局は同じこと──あるいは死ぬよりつらい目にあうだろう。
 透徹としたシオンの蒼い眼が男を見る。
 男は平然として、少女にうやうやしく頭を下げた。
「これは、これは。失礼いたしました────シオン・ファーライト様。国許からお迎えにあがりました。私、グラーク・メルクリウスと申します」
 あからさまに敵対的であるにも関わらず、その挨拶は慇懃無礼なまでに馬鹿丁寧。
 ふざけているとしか思えなかった。シオンはこびりついた血を払いながらグラークを見る。
 顔をあげたグラークと目が合う。細い瞳孔を浮かべた緑色の目。まるで蛇のような眼が、シオンの身体に絡みつく。
「なんとしてでも姫様をお連れせよと仰せ付かっておりましてねえ。手足を叩き斬ってでも、生きて寄越せと」
 グラークの口元が、下半分の月のような笑みを浮かべる。
 いとも愉しげにそう語る男のことが、シオンにはまるでわからなかった。
「……そう」
 目を伏せ、ちいさく後ずさる。
 周囲には刻一刻と暗闇が落ちている。逃げる側には有利な状況といえる。
 だが、安易には動けなかった。グラークもまた密かに動き、少しずつシオンとの距離を詰めている。
 周囲に散乱している兵たちをはるかに上回る実力者であることは間違いない。
 ────出方を探る。
「父上、母上が今に待っておられますからねえ。さあ、その危ないものを捨てておしまいなさい。それとも……くくっ、どうなさいますか」
 グラークは愉悦をにじませてほくそ笑む。シオンが剣を捨てることなど微塵も望んでいないことがよくわかる。
 幼き剣士を、若き才能を──そして高貴な血を、自らの手で摘み取ることが楽しくて仕方がないと言わんばかりの目付き。
 シオンは軽く土を踏みしめる。固めた足場を確かめる。
 そして飛び退るように跳ねた────同時に手にしていた短剣を投射する。
 手首のひねりをきかせて刃を投げ放つ飛刀術。短剣は狙い違わず空を切る。刃先が男の胸を目掛け飛ぶ。
「くくッ」
 グラークは笑い、剣を払い抜いた。
 短剣をたやすく弾き飛ばして前進。そのまま一気に懐に詰めかかってくるグラーク。
 振り放たれた白刃をシオンはすんでのところで避ける。
 少女の身体に傷こそないが、フードの端が斬り飛ばされていた。隠されていた艶やかな黒髪、そして幼くも端正な顔立ちがあらわになる。
「くくッ、その顔、その髪。やはりシオン様に間違いはありませんねえ」
 確かめるための一閃、にしてはあまりに鋭すぎた。こちらに心得がなかったら今の一撃で首が飛んでいてもおかしくはない。
 つまりシオンの腕前を知っているということ。すでに種が割れてしまっていたのか、あるいは。
 飛び退くとともに代えの短剣を抜き払いながら、シオンはグラークを睨めつけた。
「……まさか」
「おやおや、何に気づかれましたかねえッ!」
 にやりと笑いながらグラークは剣を振るう。薙ぎ払い一閃。
 疾い。が、見きれぬほどではない。
 連続して二閃、三閃。それらを掻い潜るように躱しながらシオンは決する。
 逃げられる相手ではない。背を向けた瞬間、後ろから斬り捨てられるイメージが浮かんで仕方がない。
 なれば、討ち取るのみ。
ッ────」
「くくッ」
 か細い息とともにシオンは短剣を突き出す。
 まさにその瞬間を狙い澄ましたかのように、グラークは刃を打ち据えた。
 かん、と甲高い金属音を響かせて刃が落ちる。少女の手から剣が零れる。
 シオンはぴくりと頬を震わせる──しかし動揺をあらわさない。
 ちいさな手に残る痺れをひた隠しにして、迫るグラークの返す剣を紙一重で避けた。
「ほぉう」
 ひゅん、と刃が空を切る。
 瞬間、シオンは次の短剣を抜いた。痺れのない左手に握りしめる。三本目。これが最後の短剣である。
 これを失った時、敗北は必定。勝利を得るその時まで、この剣を手放すわけにはいかなかった。
「……ッ」
 それにしても、と。シオンは歯噛みしながら思考する。
 先ほどのグラークの受け方。あれは完全にシオンの剣を見切り、あらかじめ読んでいたとしか思えない対応だった。
 でなければ刃を落とすなどという小器用な真似ができようものか。普通は手首ごと落とすことを狙う。だからこそ、シオンもそうはならないように距離と間合いを保っていた。
 それをあっさりとやってのけた目の前の男は、相当な手練であることは間違いない。
 そしてそれ以上に、まるで────少女の剣を、眼にしたことがあるかのような。
「ねえ」
「なんです。降伏するというのならば、お受けするつもりは全くありませんが」
「こいつらは、おまえの部下か」
 答えを求めているわけではなかった。ただの確認だ。
 転がっている死体を一瞥もせずシオンは問う。怒涛の勢いで押し寄せて、なんの意味もなく死んだようにしか見えなかった兵たち。
 それがもし、シオンの考える通りだったとするならば。
「ええ。その通りです。この後しっかり弔ってやらなければなりませんねえ。彼らは、彼らの勤めを立派に果たしてくださったのですから────私が貴女の剣を目にするために、よく働いてくださいましたとも」
 くく、とグラークは愉快げに笑う。
 嗚呼、とシオンは息を吐いた。
 どうしようもないくらいに予想通りの言葉だったから。
 シオンが彼らを斬り捨てたのも、いわば目の前の男にまんまと踊らされた結果。貴重な情報でもある自らの剣を晒させられた、というわけだ。
 人を人とも思わない男。その印象はなんら間違いではなかったらしい。自らの部下さえこのように扱うのだから、シオンに対してはいかばかりのものか。
「ですが、くくッ、どうやらあなたは……想像以上、否、目にした以上のものをお持ちのようで。私も、本気でいかねばなりませんねえ」
 それを聞いたシオンは、すぅっと目を鋭く細める。全身の気を張り詰めさせる。
 明らかに目の前の男──グラークのなにかが変わった、ということがわかる。気配とでもいうべきなにかが一変する。
 先ほどの打ち合いですら遊んでいたという事実に、さしものシオンも戦慄を禁じえなかった。
「さあ、いきますよ────"奇剣・毒操手"」
 グラークがその銘を詠じた刹那。
 手にした長剣が部位ごとに分かたれ、それぞれを繋ぎ合わせる頑強な斬鋼線が露出する。
 蛇腹剣。その剣身にはいくつも小さな空洞があり、そこから蒸気をあげるように煙のような気体が噴出した。
 あれでは強度を保てるはずがない。まともに役に立つはずがない。そんな冷静な視座を直感の警告が凌駕する──ただちに逃げろとシオンの全思考が警鐘を鳴らし始める。 
 今さら、逃げられはしない。グラークの瞳孔が蛇めいて細められる。しかと獲物に狙いを定めている。
「……魔剣」
 シオンが知らぬはずもない。直々に剣術の薫陶を授けた父王こそ、まさに"魔剣遣い"のひとりだったのだから。
 自分を捕らえるために、"魔剣遣い"まで引っ張り出してこようとは。シオンは姿勢を低くして、短剣を腰溜めに構える。いつでも迎え撃てるように、待ち構える。
 一方、察しの良いことだといわんばかりに肩をすくめるグラーク。
 その手が剣を宙にかかげる。切り離された剣先が空に踊る。
「"魔剣遣い"が一、"毒操手"グラーク・メルクリウス。とくとその身に我が刃──味わっていただきましょうねえッ!」
 くく、と口端から零れるような笑みを浮かべた瞬間。
 大気を巻きこむようにうなりをあげ、螺旋を描き──蛇腹剣がシオンのもとに殺到した。


 彼我の距離はおよそ五歩。
 遠くもなく近くもない。適切に保たれていたその間合いが、踏み込みもなしに埋め尽くされる。
 ────じゃららららッッ!
 鋼の掠れる耳障りな音とともに刃が走る。剣先がシオンの顔面へと向かい来る。
 まるで空を駆け走る蛇のよう。蛇が羽撃はばたけばこうもなろうか──否、それよりずっと疾いに違いない。
「ッ!」
 その速度と射程に目を剥くシオン。紙一重で横に避ける。鋭い刃がちいさな顔のすぐ横を駆け抜けていく。
 死なないように、などという遠慮とはまるで無縁の一閃だった。
 しかも攻勢はまだ続く。
「くくッ」
 躱したはずの刃が、くるりと取って返してシオンのほうを向いた。
 蛇腹剣の特性。それは手首のひねりやかえしによって、かなり自在に刃の軌道を操作できるということである。
 刃を躱すに無駄な動きなど必要ない。極端な話、死ななければよいのである。必然、シオンの回避行動も最低限の"歩"で躱すことができるように最適化されている。小柄かつ歩幅もちいさいシオンは、尋常の剣客よりも無駄を切り詰める必要性が大きかった。
 ────だが、グラーク・メルクリウスを相手取るにはそれがかえって仇となる。
「糞ッ」
 はしたない言葉を吐きながらシオンは咄嗟に身を低くする。刃が頭上を抜けていく。
 それでも宙を蛇行する刃はなおも矛先を違えない。たわんだ鋼線がピンと張り詰めた瞬間、一気に刃が振り落とされる。
「どこまで続きますかねェェッ!」
 シオンは土に膝を突いたまま、落ちる刃を仰ぎ見る。
 迷えば死。そこに思考を挟むような暇はない。
 手首のひねりだけで地を向いていた刃の握りを返す。頑健な鋼鉄の刃が天を仰いだ。
 暗闇の中に閃く残光。シオンの矮躯が跳ねるは同時──蛇腹剣の横っ腹を短剣の刃が弾き飛ばした。
 腰の捻りをきかせた一撃。十分な膂力がともなったそれは、グラークの魔剣を捌いて返すに十分に足る。
「────ィッ!」
 この時を待っていたと、シオンは呼息。
 地に足がつくとともに駆け出し、お互いの距離を一気に詰める。
 この相手、いくら距離を保っていてもシオンには百害あって一利なし。ぐずぐずしていればグラークに勝機を与えるようなもの。
 おまけに、角度と距離を選ばない変幻自在の剣筋とあっては読みも困難と言わざるをえない。どれだけ男の剣を見て取ろうと、次なる未知の剣閃がシオンを襲うことだろう。
 飛び退いたところから、一歩踏み込む。
 眼にしたグラークはまるで煙に巻かれているかのようだった。蛇腹剣の口から噴き出す気体が、グラークを中心にして渦を巻く。
 その姿にわずかな違和感を覚える。だが、もはや止まれない。
 構わず、シオンはそのまま彼我の距離を埋めていく。
 五歩、四歩、三歩、
 ────じゃららららッ!
 二歩まで縮まったその瞬間、シオンは不快な刃鳴りを耳にする。
 音は背後から。複雑にうねり、伸びきった刃が、グラークの手元に舞い戻ろうとしている。
 だが、シオンのほうが一歩疾い。
 刃渡り1フィート。少女の握る短剣の刃は、グラークの身に十全に届く。
 間合いの内側。無防備なグラーク目掛け、振り放つ短剣の斬り上げ一閃────
「────くくッ」
 陰湿な、愉悦のにじむ笑い声。
 そしてあと一寸で刃が届くというとき、シオンの脇腹に、激痛が走った。
 劇的な痛みと熱を感じる刹那、咄嗟に飛び退いていたのは僥倖といえたろう。
 シオンのか細い腰に、鋭利な短剣が突き刺さっていた。
「が……ふッ」
 シオンは考えるまでもなく理解する。脇腹を滾々と伝い落ちていく血流が、現実を否応もなく知らしめる。
 魔剣すらも罠。いわば恰好の囮として、シオンを至近距離に引きつけた。そこを隠し持っていた刃で一突きする。
 文句なく仕留められたことだろう。最後に残したシオンの警戒心が働いていなければ、刃は少女の臓腑に達していた。
 幸い、短剣は少女の肉身を貫いただけ。
 血流はとめどなく零れ落ちるが、何分かは持つだろう。全力で動いたとしても、おそらく、何分かは持つ。
「おや、おや」
 ────じゃららららッ。
 連なる不快な金属音。魔剣をその手に収めながらグラークは瞳を細める。
 今ので終わらせられなかったか、と。男は心底不思議そうに、"奇剣・毒操手"の刃先を揺らす。
 蛇腹剣のあちこちにある噴出口は、今も絶えず煙のような気体を吐き出している。
「なかなか頑張りますねえ。無駄なことですが」
「…………ッ、は」
 脇腹に突き立てられた刃を引き抜き、投げ捨てる。
 流れ落ちる血が不快だった。衣服を手っ取り早く縛り、柳腰をきつく締め付ける。
 シオンは深く息を吸い、吐く。
 そして違和感を覚える。なぜグラークはこちらが落ち着くような時間を与えるのか。なぜ、こちらの隙を見逃すのか。
 痛みを必死に噛み殺しながら流血に喘ぐシオン。絶体絶命と言わざるをえないこの状況、グラークにとってはこれ以上ない好機だろう。どうして一気呵成に攻めてこないのか。
 甚振るのを愉しんでいるのか。目の前の男の性格を鑑みればいかにもありそうな話だった。
 だが。
「……ッ」
 シオンはすぅと瞳を細め、完全に呼吸を止めた。
 色の薄い唇も、すらりと鼻梁の通った鼻も閉ざしてしまう。外界の一切を取り入れまいとする。
 平常時のシオンが息を止めておけるのは十分かそこら。今はどれだけ頑張っても一分が限界だろう。
 つまり、残り時間は一分。
 意味があるかはわからない。ひょっとしたら単なる自滅に終わるかもしれない。
 しかし少なくとも、グラークはその時はじめて、いかにも不愉快げに笑みを歪めた。
「────勘のいいガキは、嫌いですねえ」
 途端、"奇剣・毒操手"の噴出口から怒涛の勢いで気体が噴き出す。先ほどまでとは明らかに量も濃度も段違いである。
 もはや隠ぺいする気が無くなったのだろう。まるで煙幕のごとく、大量のガスが撒き散らされていく。
 おそらくは、毒性の煙。幻覚性か、麻痺毒か。種類は全く定かではない。それら全てと考えておくべきだろう。"魔剣"の力とは得てしてそういうものだ。
 いずれにせよ人体に有害ななにか。剣腕を鈍らせるものをまき散らしているに違いないと、シオンは読んだ。そして魔剣の担い手であるグラークに限ってはその影響下に無いのだとも。
「────、」
 グラークに答える口はもはや閉ざしてしまった。できれば目も閉じてしまいたいが、今それを塞ぐわけにはいかない。
 目の前の男を斬り捨てるまで、双眸には健在でいて貰わなければならなかった。
 とん、とシオンは一歩退く。
 さながら煙幕のように渦を巻く毒ガス。視界が邪魔されるのも相まって、先ほどは隠し武器の存在を見抜くことができなかった。
 絶対に同じ失敗はしない。できはしない。もはやシオンに後はない。
「なかなかの手練、少し捻ってやれば実力の差というものを理解すると思っていたのですがねえ。そうも頭が悪いのならば、仕方ないですねえ」
 忌々しげに言い捨て、グラーク・メルクリウスは剣気を放つ。
 剣気。殺意をも感じられる刺すような威圧感。実際に刃を幾度も振るわれるかのような重圧がシオンを撃つ。
 それはいうなれば剣の結界。"毒操手"グラークの剣は距離も角度も選ばない。なればこそ、剣気が打ち据える領域もきわめて広範に渡った。
 森の中がざわめく。鳥がどこか遠くに飛び立つ。獣が遠吠えをあげ、我先にと逃げ去っていく。
 息詰まるような感触を味わうシオン。出足を挫かれるようないやな予感をひしひしと覚える。
「死ぬか死なないか──くくッ、運がよければ死なない程度に、いたぶって差し上げましょうねえッッ!」
 それでも踏み出すほかはない。自ら斬りこむしか、シオンにはない。グラークからすれば、わざわざ危険を犯さずとも勝手に倒れる相手なのだから。
 とん、と土を蹴る力はいっそ軽い。
 小柄な女身が瞬く間に疾駆。引き絞られた矢が解き放たれたように、シオンは再び間合いを埋める。
"放たれた矢アローヘッド"の型──父王より幾度ともなく修練を授かった、先の先を取る最速の剣。
「ほぉう」
 と、グラークはにわかに嘆息する。目を瞠る。だが、捉え切れぬほどではない。
 シオンの疾駆にあわせて鋼線がピンと張り詰める。魔剣が飛ぶ。
 ────じゃららららッ!
「────唖々唖あぁァッ!!」
 死を報せる警鐘が頭の中に鳴り響いた瞬間、残った空気を全てぶちまける勢いで息を吐いた。
 疾駆するシオンの身体に"ぐるり"と捻りが加えられる────蛇腹剣とすれ違うようにして致命傷を回避。
 接地したその時すでに、シオンの矮躯はグラークの目の前にある。
 しかしそれは、
「くくッ」
 ────グラークの読みの範疇でしかない。
 少女の脚が地に着くのを待たずして、グラークは刃先を天に掲げた。
 鋼線がたわみ、地と水平に伸びきっていた刃が引き上げられる。
 上空に引き上げられた刃が均衡を失い、狙い違わず落ちていく──さながらギロチンの刃めいて。
 斬り下ろしながら、グラークは隠し切れない愉悦の笑みを浮かべている。
 ゆえにこそ、次の一手は、完全にグラークの理解の外にあった。
「────、は」
 とん、とシオンは一歩飛び退る。
 元いた場所を蛇腹剣の刃が通り過ぎる。そこにはもはや何もない。
 落胆。そして当惑の表情を隠し切れないグラーク。ここで攻め切れなければシオンは敗れる。退けば貴重な時間を浪費するだけ。
「臆しましたかねェッ!!」
 グラークはシオンを嘲笑いながら手首を返す。地をえぐり抜いた刃を跳ね上げる。土を這う蛇のように、砂礫をまき散らしながら刃はまっすぐシオンの痩身を狙い澄ました。
 そのはずだった。
 シオンが視線を返した刹那────グラークは、驚愕に瞳を見開いていた。
「なッ……」
 一歩飛び退ったはずのシオン・ファーライトが、いつの間にか、グラーク・メルクリウスの目の前にいる。
 そうとしかいえない現象を目の当たりにして、グラークの魔剣を繰る手がわずかに狂う。
 距離は至近。十全に刃が届く距離。
 すれ違いざまにシオンの脇を駆け抜けた蛇腹剣は、もはや戻ってくるには至らない。
 周囲に止めどなく撒き散らされた毒煙は、それでもシオンの息の根を止めるには至らない。
 シオンは構えもせずに一言、詠じた。
 右の腰から逆の肩にかけて斬り上げる、その一閃の名は。
「"秘剣"────」

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