亡国の剣姫
拾壱、奇襲
バカな。
それを眼にした瞬間、ファリアス・ガルムはあまりの衝撃に瞠目した。
ファリアスは単独で桟橋のひとつを監視していた。
六水湖の南方面。"剣魔"が馬を停めた地点の最寄りの橋である。
そこに夜明け頃、一隻の小舟が泊まった。
舟の上には船頭と、ひとりの少女が乗り合わせていた。
あるべき"剣魔"の姿はない。
一瞬、呆然とする。よもや少女が生き延びるわけはなく、"剣魔"がひとりで戻ってくるものと思い込んでいた。
やはり裏切ったのか。
一瞬そう考えたが、様子がおかしい。
少女──黒髪の末姫シオン・ファーライトの手の中には、一振りの剣があった。
黒漆塗りの鉄鞘。全長にして4フィート。丸鍔、六華を思わせる文様を浮かばせた柄巻。
よもや見紛おうはずもない。数知れぬ同胞の人狼を斬り捨てせしめた忌むべき魔剣、"剣魔"の愛刀──"妖剣・月白"そのものである。
ファリアスはそこに染み付いた血のにおいを嗅ぎとる。
若い女と老いた男の鉄さびの臭い。
なんらかの偽装の可能性はあるが──おそらくは間違いあるまい。
彼らは互いを相食む刃とし、斬り結び、そして少女が生き延びたのだ。
そこまで考えてようやく我に返ったとき、やられた、とファリアスは悪態をついた。
シオンはまるで流れる水のような迷いのなさで、停められた黒馬に向かって歩み出している。
『総員連絡! 奴が来たよ! "剣魔"の姿はなし、女がひとりッ!』
人の可聴域をこえた人狼限定の遠方に通ずる連絡手段。"遠吠え"を発した刹那、すぐに応答が返ってくる。
『馬だ! 馬を狙え!!』
『もうやって────くそッ!』
遊撃隊長ディエトリィ・ヴォルフの即応。彼ほどの迅速な判断ができていれば、結果は変わっていたかもしれない。
杖に偽装していた銃を抜き、狙いを付ける。
その時すでに、シオンは黒馬に飛び乗っていた。
初めて乗る馬の背を、そっと撫でる。
それだけで黒馬はちいさくいななき、すぐに大人しく頭を垂れた。
少女を新たな主と認めるかのように。
走り出す。
同時にファリアスは引き金を引いた。
響き渡る銃声──馬の初速を計算した偏差射撃。しかし風に流されたのか、銃弾はあえなく黒馬の後方に流れていった。
『すまない、逃した! 目標、西に向かってるよッ!』
『仕方あるまい。俺とエルド、クライフで西側を押さえる。ファリアスはグレイと合流して追跡。双方から南側に追いこむぞ』
『了解』
西は山岳地帯に地続きの丘陵地帯が広がっている。見晴らしがよく、道もよく整備されている。馬を全力で走らせるにはもってこいの土地だ。
そこにやるわけにはいかない。森林地帯が広がっている南に追い込み、機動力を殺し、確実に仕留める。それが隊長の作戦だろう。
間違いはないと思った。ファリアスはすでに走り出している。
人狼族には馬など無用。それに匹敵するほどの駿足を、彼らは常に発揮することができた。
異端審問官の扮装をした人狼たちが凄まじい速度で六水湖周辺を駆ける。夜明けにあわせて起き出してきた人々は泡を食うが、なにも気にすることはない。むしろ彼らのほうから道を開けてくれる。
先ほど鳴らした銃声のこともある──厄介事には巻き込まれたくないという様子がありありと手に取るようにわかった。
途上、多少無茶をして追いついてきた人狼のグレイと合流する。やはりというべきか、彼は困惑が抜けていない様子だった。
「確かに、ひとりだ。にわかには信じられなかったが」
「あたしが見間違えやしないよ」
「臭いにしてもそうだ。まさか、とは思ったが……」
"剣魔"は死んだ。おそらく、いや、ほぼ間違いなく──目の前を行く少女の手にかかって。
人狼族ならば誰でも備える嗅覚が、そのことを雄弁に知らせてくる。
ただ、脳がどうしても理解を拒んでしまうのだろう。
あんな年端もいかない少女が、人狼族にとって仇敵ともいえよう"剣魔"を、たったひとりで斬り伏せたのかと。
「どうする。撃つか」
「やめときなよ。あれじゃ当たりやしない」
凄まじい駿足でシオンを追いかける人狼ふたり。
にも関わらず、シオンのちいさな背中は少しずつ遠ざかっていた。恐るべきは"剣魔"の黒馬か。
ジムカを殺した当の張本人を助けるように、黒馬は躍動感溢れる疾走を続けていた。
絶え間なく連なる馬蹄の響き。時に柔らかい土を蹴飛ばし、後方に砂礫を跳ねさせる。
これで狙いを定められるわけはない。移動しながらではなおさらだ。足を止めたらあっという間に逃がしてしまうだろう。
「ならば」
「ああ」
今はただ追い続けるほかはない。西方面はすでに制圧されているはず。
その時まさに、"遠吠え"が水平線の彼方からファリアスの耳に届く。
『三時方面の橋を確保! 目標の動きはどうだ!』
『現在、五時方面! 目標は──』
報告しながら、ファリアスは信じがたいものを見る。
丘陵地帯に抜けるには北西に向かう必要がある。そのために、支流の一本にかかった橋を渡らなければならない。
その橋は、すでに遊撃隊長ディエトリィらによって押さえられている。
シオンがそのまま北に向かえば、あえなく引き返すことを余儀なくされるという寸法だった。
しかしシオンは不意に馬首を返し、迷うことなく南進した。
馬での移動には全く向かない森が広がる南方面。包囲した末に追いこむための死地──そこにシオンは自ら進んで飛び込んでいったのだ。
正気の沙汰ではない。ファリアスは戦慄しながらなんとか"遠吠え"で応じる。
『ッ、目標、方向を変えて南に向かったよ! 追うかい!?』
『……わかった。追跡を続けろ。だが深追いはするな。位置を把握しておくだけでいい。森には入るな。そこまでいったならやむを得ん、合流を待て』
『了解、したよ』
心の動揺を隠せないファリアス。他の遊撃隊員も同じ思いのようだった
ディエトリィだけは平静を保ち、適確に指揮を下していく。しかし心なしか声が重い。
彼が事態を重く見ているのは明らかだった。
待ち伏せを読まれることは、ありえる。最悪の状況を想定するなら、考えないほうがおかしいといってもいい。
だが、だからといって自ら死地に飛び込める人間がどれだけいるだろうか。それも相手は、まだ年端もいかない小娘に過ぎないというのに。
当の小娘──"剣魔殺し"シオン・ファーライトはなおも堂々と馬を駆っている。
身体のちいささをものともしない武者振りだった。巨大な黒馬を悠然と従え、乗りこなし、今もファリアスとグレイを突き放している。
「クソッタレ、なんて疾さだ」
「気にすんじゃないよ。森に入っちまえばあんな速度じゃ飛ばせない。そっからはあたしらの独壇場ってやつさ」
「だといいがな」
人狼の極めて優秀な身体能力──その真価が発揮されるのはまさしく森の中である。
木々の狭間を器用に駆け抜け、樹から樹へ飛び移るように枝を渡り、地に張り巡らされた木の根を軽々と飛び越えていく。どれも馬では真似できないことばかり。しかもその森の中で複数の人狼が連携すれば、仕留められない獲物など絶無に等しい。
それこそ"剣魔"であろうとも、森の中ならば。戦時は平野に引きずり出されて散々にやられた人狼族からすれば、そのような自負があるのだった。
そんなことは素知らぬように、勢いを落とすことなく、シオンは森の中に飛び込んでいった。
少女の姿がファリアスの視界から遠ざかっていく。森深い茂みに隠れ潜み、やり過ごすつもりなのだろう。
あるいは強引にでも森を突っ切るか。遠回りになるが、西の丘陵地帯に出られないこともない。
「ここから入った、とわかれば十分さね。大人しく待機しておこうじゃないか」
「ああ」
ファリアスとグレイは頷き合い、足を止める。今は見失っているが、大きな問題ではない。
人狼族の優れた視覚、聴覚、嗅覚。その全てを十全に発揮すれば、敵の所在を突き止める程度はわけないことだ。
しかも相手は手負いの小娘。生身では行動範囲が狭く、血の臭いを辿ることも容易い。さらに、森の中では些細な茂みの物音さえ重大な手がかりになりうるのである。
シオンが飛びこんだ森はまさに死地。もはや少女に逃げ場はない。
なればこそ、ふたりの人狼は功を逸らず冷静に留まることができた。たかが子ども、などと勇み足を踏まずに済んだ。
程なくして遊撃隊長を含めた三人と合流する。シオンが森に入ってから四半刻も経っていない。
「もはや偽装はいらない。全力で詰めるぞ」
ディエトリィはそういって、異端審問官の偽装を取り去った。悪趣味な仮面を外し、投げ捨てる。
他の四人もそれに続く。
人狼族。それはいうなれば二本足で立ち、歩む、巨大な狼とでもいうべき種族である。
本来は独特の言語を交わすが、人の言葉を解する知能を持つ。鋭敏な感覚器官は獣の特性に由来するものだろう。
むき出しの狼頭は尋常の狼とさして変わりない。精悍な顔立ち、鋭い牙、黒ずんだ鼻。
目に浮かぶ金色の瞳だけが、唯一特殊な共通点であった。
胴体は灰色の毛並みと強靭な皮膚に覆われ、その下は屈強な筋肉がみっしりと詰まっている。
手足は狼らしからぬ太さを誇っていたが、足首から先はしなやかさを誇示するようにほっそりとしていた。
男四人は軍服に身を包んでいるが、着こなしはいたって雑だった。袖は肘から先がなく、丈も膝から先がない。
そもそも、毛並みが彼らの衣服のようなものなのだから無理もあるまい。
女のファリアスに至っては脚が全く隠れていない。残った布地が尻だけを覆っているような有様だ。
発達した大腿部を持つ彼女にとって、軍服のズボンなど邪魔極まりない代物なのである。
「まだ、さほど遠くには離れていないだろう。行くぞ」
ディエトリィが号令をかけると同時、彼らはよどみなく隊列を組む。
統制の取れた動き。獣というよりは猟犬だろう。銃剣を手に、どこまでも獲物を追い立てるさまは猟兵と呼ぶにふさわしい。
『────了解』
揃って吠え声を上げ、音もなく、五人は足並みを揃えて駆け出した。
森に入ってすぐ、ファリアスはそれに気づいた。
濃密な血のにおい。
それも間違いなく、シオン・ファーライトのものである。
ファリアスはそれを確かに嗅ぎつけた。間違いはない。
臭いを嗅ぎ当てるまでは人狼族ならば誰にでもできる。五人全員がそれに気づいているだろう。
しかしシオンの姿を実際に眼にして、"嗅ぎ分ける"ことができるのはファリアスだけだ。
伝えるべきことを伝えると、五人の進路は違えなく血なまぐさい臭いのするほうに向けられた。
『こっちの鼻に気づいてないのかもしれねえな』
『所詮は子ども、か。剣魔のヤツも、そんなものに負けるとはヤキが回ったな』
『めっきり戦場に出なくなっていたらしいからな。奴も老いと病気には勝てないってことじゃあねえか』
エルド、クライフが余裕そうに声を交わす。
グレイはさすがに警戒を絶やしていない。彼はひとり、樹上からの視界を活かした広域の探索を担当していた。
黒馬を駆る少女の武者振りを眼にした直後のことである。あれを一目見れば、まともな子どもとはとてもでないが思えまい。
『気を抜くな。真偽は定かではないが、ジムカ・ベルスクスが討ち取られたならば一大事。必ずなにか仕出かすぞ。必ずだ』
しんがりを守る遊撃隊長ディエトリィがふたりを諌める。
視界の悪い森の中。茂みや枝葉はかなり濃く、逃げ隠れする場所には事欠かない。
臭いを辿ることができる人狼であろうとも、奇襲を仕掛けられたら厄介なことになる。
了解、と渋々気を引き締めるエルドとクライフ。切り替えはいたって早い。茂みをかき分け、ほとんど足音を立てず、五人は森の中を進んでいく。
やがて、視界の先にあるものを目にした。
一本の木に、大きな馬がロープで繋ぎ止められていた。
確かに少女が乗っていた馬だった。その黒い毛並みと巨体は見間違えるほうが難しいだろう。
その背に少女は乗っていない。だが臭いは近い。森の奥深くで邪魔になると、置いていったのだろう。
しかしそうはいっても、手負いのシオンにとっては貴重な脚のはず。普通、そうすぐに割り切れるものではない。
「……つくづく、恐ろしいねえ」
ファリアスはぽつりとつぶやく──血は争えない、ということか。
ルクス・ファーライト。かつての王が人狼族との戦いで見せつけた武威と勇猛は、脈々と受け継がれているらしい。
あいにく、男児には引き継がれなかったようだが。
『どうします』
樹の枝を渡りながらついてくるグレイが問う。
普通に考えれば撃つべきだ。敵の強力な移動手段。前もって潰しておくにこしたことはない。
しかし射殺すれば面倒なことになる──銃声がこちらの場所を知らしめてしまう。できればそれは避けたかった。
『確実を期す。接敵するぞ』
隊長がそういえば一も二もなく行動に移す。接近しながら銃の先端部に刃を着剣。
あれほどの大きさを誇る馬である。二、三人がかりで刺殺するのが得策だろう。
黒馬に近づくほど、血の臭いも近づいてくる。目標が近くに潜んでいる証か。
あちこちに臭いが散っている。血を点々と残しているのかもしれない。
程なくして黒馬に迫る遊撃部隊。その瞬間、彼らはある異様なものを眼にしていた。
どうしてこんなものに気づかなかったのか、と思ってしまうようなもの。馬体が影になって隠されていたのだ。
ファリアスは思わず息を呑む。下手に押し隠そうとすれば、恐怖に呑まれてしまいそうだったから。
「……なんだい、こりゃあ」
樹の幹に、べったりと赤いものがこびりついている。
まだ渇ききっていない、新鮮な血だ。鉄錆の臭いを発する──手のかたちの血痕。
それが、一見して手と分からないほどに重ねて糊塗されているのだった。
『誤魔化しのつもりかよ』
『くだらん。馬をやるぞ』
言いながらも、クライフは念のため先に周囲を警戒する。
そして目を見開いた。
血判は一本の木だけではない。いくつもの木に、無作為なまでに、数知れぬほどの血塗られた手形が、くっきりと刻みこまれていた。
『おおお……』
グレイがものも言えないように呻く。
『くそったれ。隊長、こいつは、狂ってるぜ。森の精霊に誓ってだ』
『かもしれん』
ディエトリィは重々しく頷く。
もっとも、だからどうするわけでもない。粛々と警戒ランクを高め、注意を強化するだけだ。
推し量るべきは敵の危険度であり、狂っているかどうかは問題ではない。
『いいからやるぞ! 脚さえ潰しちまえば、逃げ道はないんだ……!』
人狼のひとり、クライフが改めて黒馬に向き直る。
首筋に剣先を向け、銃剣を振り上げた。
一突きで突き殺す。クライフは手に力を込め、そのまま一気に刃を振り落とす──
『さがれクライフ!!』
まさにその瞬間、ディエトリィは森の奥に一迅の光を見た。
瞬いた銀の光は一瞬のこと。
ひゅん、と鋭く風が鳴いた。
点と点を一直線に結ぶように、それは大気を切り裂きながら飛来する。
「え?」
突然のことにクライフの身体が硬直する。
刹那、飛刀の切っ先がクライフの瞼を突き破り、水晶体を破壊する。
すんでのところで攻撃に気づいたおかげか、切っ先が脳に到達することはなかった。
『────ガアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!』
人の耳には理解しがたい絶叫が森の中に響き渡る。
銃剣を取り落とし、ずたずたになった眼窩を押さえながら一匹の人狼はもんどり打つ。
クライフは辛うじて生き延びた。だがその代償に、死をも絶する地獄の痛みを味わうはめになった。
『野郎ッッ』
『足並みを乱すなエルド!! 死ぬぞ!!』
矢のように飛び出しかけたエルドをディエトリィが制する。
少女はすでに身をひるがえし、どこかに隠れてしまっていた。血をあちこちに残しているとなれば、探索は容易ではないだろう。
グレイは口惜しげに歯を食いしばる。だが、木陰に潜んでいた少女の姿までは確認しようもない。
超遠距離からの飛刀術。それも狭い木々の合間を鮮やかに抜け、見事に眼窩を射抜いてみせたその所業。
まさに神業としか言いようがない。
少女の身でありながら人智を逸脱したシオンの業前に、ファリアスはふるえた。
敵であるにも関わらず──否、敵であるからこそ、胸中での賞賛を禁じえなかった。
彼女はトラスのように惰弱な王族ではない。陰謀屋の宰相に屈するようなたまでもない。
誇り高き人狼族を力で征した王の再来。あるいはそれ以上か。
この時ファリアスの胸中を満たしたものは、不謹慎にも歓喜であった。
本物だ。この敵は、本物だ。
本物の、王の後継に値するものだ。
ファリアスは足元を転がるクライフに銃剣を突きつけ、振り下ろす。
切っ先は喉奥深くに潜り込んだ。
「ガッ、アガッ……」
苦悶の声をあげたあと、動かなくなるクライフ。
「な、なにを」
「見りゃわかんでしょう。介錯さ。もう助かりゃしなかった。邪魔になるだけだ。死なせてやったほうがいい」
剣先を引き抜きながら、ファリアスは淡々という。
『……間違った判断ではない。だが、一言いってからにしろ』
『了解』
常軌を逸したやり取りに、エルドは震える。
ファリアスと同じ理由からではないだろう。戦慄か、恐れか、怒りか。
どれともつかない複雑な感情が、金色の瞳の奥で綯い交ぜになっているようだった。
『どうかしてるぜ』
『その通りだ。そのうえで、やるのだ』
ディエトリィはタフな男だ。動揺を隠せないエルドとグレイをまとめ、目標を新たにする。
捕獲などと悠長なことは言わない。殺害を最優先にすること。
黒馬はあえてこのまま放置することになった。シオンもできれば手放したくはないだろう──そのことを利用して、囮に使うのである。
黒馬の周囲を基点にして警戒線を張る。少女は手負いであるのだから、持久戦に持ちこまれるのは望ましくないはず。
必ずや、相手から打って出るはずだ。
問題は、それがいつであるか。そしてどこからやってくるか。
本来は問題にもならないはずだった。人狼族の能力をもってすれば、少女の居所を探り当てるくらいは容易いこと。
襲撃を迎え撃つ程度は造作も無い──はずだった。
『どうだい』
『異常無し』
『遠ざかっているような──やっぱり、逃げやがったか!』
『待て』
しばらく索敵を続けても気配はなし。強烈な血生臭さはあちこちにあるが、そこから特定するのが難しい。
濃厚な血の臭いがするかと思えば、べったりと血がこびりついた包帯が落ちている有様。
だが、だからといって安易に逃げ出したと判断するべきではなかった。
逃げたと思わせておいて反撃に転ずる。まさに奇襲の王道だ。そこを突かれて彼らはクライフを失った。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
────してやられたね。
ファリアスはこの状況そのものに歯噛みする。
本来、守りに入るべきではないのだ。ディエトリィもそのことは承知しているだろう。だが、ここで攻めに打って出るにはリスクが大きすぎる。
つい先程までは自分たちが狩猟者の立場だったはずが、いつの間にか狩られるほうに回らされている。
笑えない話だった。
自嘲げに口角を吊り上げながら、ファリアスは静かに耳を澄ます。
瞬間────かさかさ、と。
遠いところで響く、ともすれば聞き逃してしまいそうなちいさな音を耳にする。
風に吹かれる葉擦れの音か。しかしそれにしては不規則で、ファリアスの勘に引っかかる。
灰色の毛並みに包まれたしなやかな手に、空からふわりと葉っぱが舞い落ちてきた。
『上────』
『ッ、アアアアアアアアアッ!?』
ファリアスが警戒を真上に向けたのと、絶叫が聞こえたのは全くの同時だった。
空から降りそそぐ血の雨。
遅れて人間大のモノがどさりと落ちてきて、地面に叩きつけられる。
グレイだった。毛皮に覆われた首筋に、短剣が深く食いこんでいる。
グレイの身体はびくびくと震えたあと、そのまま動かなくなった。
ファリアスは咄嗟に目を向け、刃が刺さっている角度を見て取った。
短剣は地面と水平に突き刺さっている。
すなわち、少女がどこから短剣を投擲したかといえば────
『上から来るよッ!!』
ファリアスがいうよりも早くディエトリィは一歩退いた。状況の理解だけで、次にすべきことを察したのだろう。
エルドも今度は遅れることなく反応した。
だが、手遅れだった。
がっ。
がっ。
がっ。
何度か樹の幹を蹴り飛ばす音がして、落下の衝撃を分散しながら少女は降下速度をあげていく。
しゃりん。
煌めく刃が鞘から滑り、鮮やかな半円を描くとともにエルドの身体をするりと抜けた。
『────ア、ガッ』
ぽっかりと口を開けながら、エルドの身体が静止する。
瞬間、屈強な人狼の体躯が頭からふたつに断ち割られた。
むごたらしく血飛沫を吹き上げ、屍肉がどさりと地に落ちる。
物言わぬ骸と化した人狼を背にして少女は接地。高所から飛び降りたとは思われないほど穏やかに降り立ち、少女はぐるりと視線をめぐらせた。
『────今』
容赦なく部下を殺められてもなお、ディエトリィは淡々と宣言した。
言われるまでもなくファリアスは銃口を向ける。
狙いを付けるまで半秒とかからず引き金を絞る。
ど、と大気を揺らす銃声がにわかに連鎖した。
完璧なタイミングでの十字砲火。
少女はそれを、さらりと避けた。
ただ一歩、下がっただけ。エルドの死体を押し退け、樹の幹に背を付ける。
それだけで銃火は無効化された。
いかなる銃弾も当たらなければ意味はない。
確かにそうだ。が、それはいうほど簡単なことではない。
銃弾は矢よりも早く飛ぶのである。人の反射で避けれる域にはない。
あらかじめ読み切っていなければ避けられるはずもない──それをいともたやすく少女はやってのけた。
嗚呼、とファリアスは慨嘆する。その最中にも装弾の手は止めない。
────そうでなければ、それでこそという奇妙な昂揚が、ファリアスの胸中を満たしていく。
恐怖感などはない──あるとすれば、畏怖。あるいは畏敬。
どちらも年端もいかない少女に向けるにはふさわしくないものだろう。しかし"剣魔"を打倒した剣客となれば話は全く別である。
『退けファリアス。こいつはお前のやれる相手ではない』
『バカいうんじゃないよ。やらせな。こんな相手、二度とありゃしない』
ディエトリィの言葉はおそらく事実だろう。
少女は手負いにも関わらず、堂々たる立ち姿で刀を構える。
"妖剣・月白"。名立たる人狼族の戦士を屠った忌まわしき魔剣が、美しくも儚い輝きを帯びてきらめく。
艶めく黒髪を軽く払い、人狼ふたりを見るともなく見て、少女──シオン・ファーライトは言い放つ。
ただ一言、
「────斬る」
と。
それを眼にした瞬間、ファリアス・ガルムはあまりの衝撃に瞠目した。
ファリアスは単独で桟橋のひとつを監視していた。
六水湖の南方面。"剣魔"が馬を停めた地点の最寄りの橋である。
そこに夜明け頃、一隻の小舟が泊まった。
舟の上には船頭と、ひとりの少女が乗り合わせていた。
あるべき"剣魔"の姿はない。
一瞬、呆然とする。よもや少女が生き延びるわけはなく、"剣魔"がひとりで戻ってくるものと思い込んでいた。
やはり裏切ったのか。
一瞬そう考えたが、様子がおかしい。
少女──黒髪の末姫シオン・ファーライトの手の中には、一振りの剣があった。
黒漆塗りの鉄鞘。全長にして4フィート。丸鍔、六華を思わせる文様を浮かばせた柄巻。
よもや見紛おうはずもない。数知れぬ同胞の人狼を斬り捨てせしめた忌むべき魔剣、"剣魔"の愛刀──"妖剣・月白"そのものである。
ファリアスはそこに染み付いた血のにおいを嗅ぎとる。
若い女と老いた男の鉄さびの臭い。
なんらかの偽装の可能性はあるが──おそらくは間違いあるまい。
彼らは互いを相食む刃とし、斬り結び、そして少女が生き延びたのだ。
そこまで考えてようやく我に返ったとき、やられた、とファリアスは悪態をついた。
シオンはまるで流れる水のような迷いのなさで、停められた黒馬に向かって歩み出している。
『総員連絡! 奴が来たよ! "剣魔"の姿はなし、女がひとりッ!』
人の可聴域をこえた人狼限定の遠方に通ずる連絡手段。"遠吠え"を発した刹那、すぐに応答が返ってくる。
『馬だ! 馬を狙え!!』
『もうやって────くそッ!』
遊撃隊長ディエトリィ・ヴォルフの即応。彼ほどの迅速な判断ができていれば、結果は変わっていたかもしれない。
杖に偽装していた銃を抜き、狙いを付ける。
その時すでに、シオンは黒馬に飛び乗っていた。
初めて乗る馬の背を、そっと撫でる。
それだけで黒馬はちいさくいななき、すぐに大人しく頭を垂れた。
少女を新たな主と認めるかのように。
走り出す。
同時にファリアスは引き金を引いた。
響き渡る銃声──馬の初速を計算した偏差射撃。しかし風に流されたのか、銃弾はあえなく黒馬の後方に流れていった。
『すまない、逃した! 目標、西に向かってるよッ!』
『仕方あるまい。俺とエルド、クライフで西側を押さえる。ファリアスはグレイと合流して追跡。双方から南側に追いこむぞ』
『了解』
西は山岳地帯に地続きの丘陵地帯が広がっている。見晴らしがよく、道もよく整備されている。馬を全力で走らせるにはもってこいの土地だ。
そこにやるわけにはいかない。森林地帯が広がっている南に追い込み、機動力を殺し、確実に仕留める。それが隊長の作戦だろう。
間違いはないと思った。ファリアスはすでに走り出している。
人狼族には馬など無用。それに匹敵するほどの駿足を、彼らは常に発揮することができた。
異端審問官の扮装をした人狼たちが凄まじい速度で六水湖周辺を駆ける。夜明けにあわせて起き出してきた人々は泡を食うが、なにも気にすることはない。むしろ彼らのほうから道を開けてくれる。
先ほど鳴らした銃声のこともある──厄介事には巻き込まれたくないという様子がありありと手に取るようにわかった。
途上、多少無茶をして追いついてきた人狼のグレイと合流する。やはりというべきか、彼は困惑が抜けていない様子だった。
「確かに、ひとりだ。にわかには信じられなかったが」
「あたしが見間違えやしないよ」
「臭いにしてもそうだ。まさか、とは思ったが……」
"剣魔"は死んだ。おそらく、いや、ほぼ間違いなく──目の前を行く少女の手にかかって。
人狼族ならば誰でも備える嗅覚が、そのことを雄弁に知らせてくる。
ただ、脳がどうしても理解を拒んでしまうのだろう。
あんな年端もいかない少女が、人狼族にとって仇敵ともいえよう"剣魔"を、たったひとりで斬り伏せたのかと。
「どうする。撃つか」
「やめときなよ。あれじゃ当たりやしない」
凄まじい駿足でシオンを追いかける人狼ふたり。
にも関わらず、シオンのちいさな背中は少しずつ遠ざかっていた。恐るべきは"剣魔"の黒馬か。
ジムカを殺した当の張本人を助けるように、黒馬は躍動感溢れる疾走を続けていた。
絶え間なく連なる馬蹄の響き。時に柔らかい土を蹴飛ばし、後方に砂礫を跳ねさせる。
これで狙いを定められるわけはない。移動しながらではなおさらだ。足を止めたらあっという間に逃がしてしまうだろう。
「ならば」
「ああ」
今はただ追い続けるほかはない。西方面はすでに制圧されているはず。
その時まさに、"遠吠え"が水平線の彼方からファリアスの耳に届く。
『三時方面の橋を確保! 目標の動きはどうだ!』
『現在、五時方面! 目標は──』
報告しながら、ファリアスは信じがたいものを見る。
丘陵地帯に抜けるには北西に向かう必要がある。そのために、支流の一本にかかった橋を渡らなければならない。
その橋は、すでに遊撃隊長ディエトリィらによって押さえられている。
シオンがそのまま北に向かえば、あえなく引き返すことを余儀なくされるという寸法だった。
しかしシオンは不意に馬首を返し、迷うことなく南進した。
馬での移動には全く向かない森が広がる南方面。包囲した末に追いこむための死地──そこにシオンは自ら進んで飛び込んでいったのだ。
正気の沙汰ではない。ファリアスは戦慄しながらなんとか"遠吠え"で応じる。
『ッ、目標、方向を変えて南に向かったよ! 追うかい!?』
『……わかった。追跡を続けろ。だが深追いはするな。位置を把握しておくだけでいい。森には入るな。そこまでいったならやむを得ん、合流を待て』
『了解、したよ』
心の動揺を隠せないファリアス。他の遊撃隊員も同じ思いのようだった
ディエトリィだけは平静を保ち、適確に指揮を下していく。しかし心なしか声が重い。
彼が事態を重く見ているのは明らかだった。
待ち伏せを読まれることは、ありえる。最悪の状況を想定するなら、考えないほうがおかしいといってもいい。
だが、だからといって自ら死地に飛び込める人間がどれだけいるだろうか。それも相手は、まだ年端もいかない小娘に過ぎないというのに。
当の小娘──"剣魔殺し"シオン・ファーライトはなおも堂々と馬を駆っている。
身体のちいささをものともしない武者振りだった。巨大な黒馬を悠然と従え、乗りこなし、今もファリアスとグレイを突き放している。
「クソッタレ、なんて疾さだ」
「気にすんじゃないよ。森に入っちまえばあんな速度じゃ飛ばせない。そっからはあたしらの独壇場ってやつさ」
「だといいがな」
人狼の極めて優秀な身体能力──その真価が発揮されるのはまさしく森の中である。
木々の狭間を器用に駆け抜け、樹から樹へ飛び移るように枝を渡り、地に張り巡らされた木の根を軽々と飛び越えていく。どれも馬では真似できないことばかり。しかもその森の中で複数の人狼が連携すれば、仕留められない獲物など絶無に等しい。
それこそ"剣魔"であろうとも、森の中ならば。戦時は平野に引きずり出されて散々にやられた人狼族からすれば、そのような自負があるのだった。
そんなことは素知らぬように、勢いを落とすことなく、シオンは森の中に飛び込んでいった。
少女の姿がファリアスの視界から遠ざかっていく。森深い茂みに隠れ潜み、やり過ごすつもりなのだろう。
あるいは強引にでも森を突っ切るか。遠回りになるが、西の丘陵地帯に出られないこともない。
「ここから入った、とわかれば十分さね。大人しく待機しておこうじゃないか」
「ああ」
ファリアスとグレイは頷き合い、足を止める。今は見失っているが、大きな問題ではない。
人狼族の優れた視覚、聴覚、嗅覚。その全てを十全に発揮すれば、敵の所在を突き止める程度はわけないことだ。
しかも相手は手負いの小娘。生身では行動範囲が狭く、血の臭いを辿ることも容易い。さらに、森の中では些細な茂みの物音さえ重大な手がかりになりうるのである。
シオンが飛びこんだ森はまさに死地。もはや少女に逃げ場はない。
なればこそ、ふたりの人狼は功を逸らず冷静に留まることができた。たかが子ども、などと勇み足を踏まずに済んだ。
程なくして遊撃隊長を含めた三人と合流する。シオンが森に入ってから四半刻も経っていない。
「もはや偽装はいらない。全力で詰めるぞ」
ディエトリィはそういって、異端審問官の偽装を取り去った。悪趣味な仮面を外し、投げ捨てる。
他の四人もそれに続く。
人狼族。それはいうなれば二本足で立ち、歩む、巨大な狼とでもいうべき種族である。
本来は独特の言語を交わすが、人の言葉を解する知能を持つ。鋭敏な感覚器官は獣の特性に由来するものだろう。
むき出しの狼頭は尋常の狼とさして変わりない。精悍な顔立ち、鋭い牙、黒ずんだ鼻。
目に浮かぶ金色の瞳だけが、唯一特殊な共通点であった。
胴体は灰色の毛並みと強靭な皮膚に覆われ、その下は屈強な筋肉がみっしりと詰まっている。
手足は狼らしからぬ太さを誇っていたが、足首から先はしなやかさを誇示するようにほっそりとしていた。
男四人は軍服に身を包んでいるが、着こなしはいたって雑だった。袖は肘から先がなく、丈も膝から先がない。
そもそも、毛並みが彼らの衣服のようなものなのだから無理もあるまい。
女のファリアスに至っては脚が全く隠れていない。残った布地が尻だけを覆っているような有様だ。
発達した大腿部を持つ彼女にとって、軍服のズボンなど邪魔極まりない代物なのである。
「まだ、さほど遠くには離れていないだろう。行くぞ」
ディエトリィが号令をかけると同時、彼らはよどみなく隊列を組む。
統制の取れた動き。獣というよりは猟犬だろう。銃剣を手に、どこまでも獲物を追い立てるさまは猟兵と呼ぶにふさわしい。
『────了解』
揃って吠え声を上げ、音もなく、五人は足並みを揃えて駆け出した。
森に入ってすぐ、ファリアスはそれに気づいた。
濃密な血のにおい。
それも間違いなく、シオン・ファーライトのものである。
ファリアスはそれを確かに嗅ぎつけた。間違いはない。
臭いを嗅ぎ当てるまでは人狼族ならば誰にでもできる。五人全員がそれに気づいているだろう。
しかしシオンの姿を実際に眼にして、"嗅ぎ分ける"ことができるのはファリアスだけだ。
伝えるべきことを伝えると、五人の進路は違えなく血なまぐさい臭いのするほうに向けられた。
『こっちの鼻に気づいてないのかもしれねえな』
『所詮は子ども、か。剣魔のヤツも、そんなものに負けるとはヤキが回ったな』
『めっきり戦場に出なくなっていたらしいからな。奴も老いと病気には勝てないってことじゃあねえか』
エルド、クライフが余裕そうに声を交わす。
グレイはさすがに警戒を絶やしていない。彼はひとり、樹上からの視界を活かした広域の探索を担当していた。
黒馬を駆る少女の武者振りを眼にした直後のことである。あれを一目見れば、まともな子どもとはとてもでないが思えまい。
『気を抜くな。真偽は定かではないが、ジムカ・ベルスクスが討ち取られたならば一大事。必ずなにか仕出かすぞ。必ずだ』
しんがりを守る遊撃隊長ディエトリィがふたりを諌める。
視界の悪い森の中。茂みや枝葉はかなり濃く、逃げ隠れする場所には事欠かない。
臭いを辿ることができる人狼であろうとも、奇襲を仕掛けられたら厄介なことになる。
了解、と渋々気を引き締めるエルドとクライフ。切り替えはいたって早い。茂みをかき分け、ほとんど足音を立てず、五人は森の中を進んでいく。
やがて、視界の先にあるものを目にした。
一本の木に、大きな馬がロープで繋ぎ止められていた。
確かに少女が乗っていた馬だった。その黒い毛並みと巨体は見間違えるほうが難しいだろう。
その背に少女は乗っていない。だが臭いは近い。森の奥深くで邪魔になると、置いていったのだろう。
しかしそうはいっても、手負いのシオンにとっては貴重な脚のはず。普通、そうすぐに割り切れるものではない。
「……つくづく、恐ろしいねえ」
ファリアスはぽつりとつぶやく──血は争えない、ということか。
ルクス・ファーライト。かつての王が人狼族との戦いで見せつけた武威と勇猛は、脈々と受け継がれているらしい。
あいにく、男児には引き継がれなかったようだが。
『どうします』
樹の枝を渡りながらついてくるグレイが問う。
普通に考えれば撃つべきだ。敵の強力な移動手段。前もって潰しておくにこしたことはない。
しかし射殺すれば面倒なことになる──銃声がこちらの場所を知らしめてしまう。できればそれは避けたかった。
『確実を期す。接敵するぞ』
隊長がそういえば一も二もなく行動に移す。接近しながら銃の先端部に刃を着剣。
あれほどの大きさを誇る馬である。二、三人がかりで刺殺するのが得策だろう。
黒馬に近づくほど、血の臭いも近づいてくる。目標が近くに潜んでいる証か。
あちこちに臭いが散っている。血を点々と残しているのかもしれない。
程なくして黒馬に迫る遊撃部隊。その瞬間、彼らはある異様なものを眼にしていた。
どうしてこんなものに気づかなかったのか、と思ってしまうようなもの。馬体が影になって隠されていたのだ。
ファリアスは思わず息を呑む。下手に押し隠そうとすれば、恐怖に呑まれてしまいそうだったから。
「……なんだい、こりゃあ」
樹の幹に、べったりと赤いものがこびりついている。
まだ渇ききっていない、新鮮な血だ。鉄錆の臭いを発する──手のかたちの血痕。
それが、一見して手と分からないほどに重ねて糊塗されているのだった。
『誤魔化しのつもりかよ』
『くだらん。馬をやるぞ』
言いながらも、クライフは念のため先に周囲を警戒する。
そして目を見開いた。
血判は一本の木だけではない。いくつもの木に、無作為なまでに、数知れぬほどの血塗られた手形が、くっきりと刻みこまれていた。
『おおお……』
グレイがものも言えないように呻く。
『くそったれ。隊長、こいつは、狂ってるぜ。森の精霊に誓ってだ』
『かもしれん』
ディエトリィは重々しく頷く。
もっとも、だからどうするわけでもない。粛々と警戒ランクを高め、注意を強化するだけだ。
推し量るべきは敵の危険度であり、狂っているかどうかは問題ではない。
『いいからやるぞ! 脚さえ潰しちまえば、逃げ道はないんだ……!』
人狼のひとり、クライフが改めて黒馬に向き直る。
首筋に剣先を向け、銃剣を振り上げた。
一突きで突き殺す。クライフは手に力を込め、そのまま一気に刃を振り落とす──
『さがれクライフ!!』
まさにその瞬間、ディエトリィは森の奥に一迅の光を見た。
瞬いた銀の光は一瞬のこと。
ひゅん、と鋭く風が鳴いた。
点と点を一直線に結ぶように、それは大気を切り裂きながら飛来する。
「え?」
突然のことにクライフの身体が硬直する。
刹那、飛刀の切っ先がクライフの瞼を突き破り、水晶体を破壊する。
すんでのところで攻撃に気づいたおかげか、切っ先が脳に到達することはなかった。
『────ガアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!』
人の耳には理解しがたい絶叫が森の中に響き渡る。
銃剣を取り落とし、ずたずたになった眼窩を押さえながら一匹の人狼はもんどり打つ。
クライフは辛うじて生き延びた。だがその代償に、死をも絶する地獄の痛みを味わうはめになった。
『野郎ッッ』
『足並みを乱すなエルド!! 死ぬぞ!!』
矢のように飛び出しかけたエルドをディエトリィが制する。
少女はすでに身をひるがえし、どこかに隠れてしまっていた。血をあちこちに残しているとなれば、探索は容易ではないだろう。
グレイは口惜しげに歯を食いしばる。だが、木陰に潜んでいた少女の姿までは確認しようもない。
超遠距離からの飛刀術。それも狭い木々の合間を鮮やかに抜け、見事に眼窩を射抜いてみせたその所業。
まさに神業としか言いようがない。
少女の身でありながら人智を逸脱したシオンの業前に、ファリアスはふるえた。
敵であるにも関わらず──否、敵であるからこそ、胸中での賞賛を禁じえなかった。
彼女はトラスのように惰弱な王族ではない。陰謀屋の宰相に屈するようなたまでもない。
誇り高き人狼族を力で征した王の再来。あるいはそれ以上か。
この時ファリアスの胸中を満たしたものは、不謹慎にも歓喜であった。
本物だ。この敵は、本物だ。
本物の、王の後継に値するものだ。
ファリアスは足元を転がるクライフに銃剣を突きつけ、振り下ろす。
切っ先は喉奥深くに潜り込んだ。
「ガッ、アガッ……」
苦悶の声をあげたあと、動かなくなるクライフ。
「な、なにを」
「見りゃわかんでしょう。介錯さ。もう助かりゃしなかった。邪魔になるだけだ。死なせてやったほうがいい」
剣先を引き抜きながら、ファリアスは淡々という。
『……間違った判断ではない。だが、一言いってからにしろ』
『了解』
常軌を逸したやり取りに、エルドは震える。
ファリアスと同じ理由からではないだろう。戦慄か、恐れか、怒りか。
どれともつかない複雑な感情が、金色の瞳の奥で綯い交ぜになっているようだった。
『どうかしてるぜ』
『その通りだ。そのうえで、やるのだ』
ディエトリィはタフな男だ。動揺を隠せないエルドとグレイをまとめ、目標を新たにする。
捕獲などと悠長なことは言わない。殺害を最優先にすること。
黒馬はあえてこのまま放置することになった。シオンもできれば手放したくはないだろう──そのことを利用して、囮に使うのである。
黒馬の周囲を基点にして警戒線を張る。少女は手負いであるのだから、持久戦に持ちこまれるのは望ましくないはず。
必ずや、相手から打って出るはずだ。
問題は、それがいつであるか。そしてどこからやってくるか。
本来は問題にもならないはずだった。人狼族の能力をもってすれば、少女の居所を探り当てるくらいは容易いこと。
襲撃を迎え撃つ程度は造作も無い──はずだった。
『どうだい』
『異常無し』
『遠ざかっているような──やっぱり、逃げやがったか!』
『待て』
しばらく索敵を続けても気配はなし。強烈な血生臭さはあちこちにあるが、そこから特定するのが難しい。
濃厚な血の臭いがするかと思えば、べったりと血がこびりついた包帯が落ちている有様。
だが、だからといって安易に逃げ出したと判断するべきではなかった。
逃げたと思わせておいて反撃に転ずる。まさに奇襲の王道だ。そこを突かれて彼らはクライフを失った。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
────してやられたね。
ファリアスはこの状況そのものに歯噛みする。
本来、守りに入るべきではないのだ。ディエトリィもそのことは承知しているだろう。だが、ここで攻めに打って出るにはリスクが大きすぎる。
つい先程までは自分たちが狩猟者の立場だったはずが、いつの間にか狩られるほうに回らされている。
笑えない話だった。
自嘲げに口角を吊り上げながら、ファリアスは静かに耳を澄ます。
瞬間────かさかさ、と。
遠いところで響く、ともすれば聞き逃してしまいそうなちいさな音を耳にする。
風に吹かれる葉擦れの音か。しかしそれにしては不規則で、ファリアスの勘に引っかかる。
灰色の毛並みに包まれたしなやかな手に、空からふわりと葉っぱが舞い落ちてきた。
『上────』
『ッ、アアアアアアアアアッ!?』
ファリアスが警戒を真上に向けたのと、絶叫が聞こえたのは全くの同時だった。
空から降りそそぐ血の雨。
遅れて人間大のモノがどさりと落ちてきて、地面に叩きつけられる。
グレイだった。毛皮に覆われた首筋に、短剣が深く食いこんでいる。
グレイの身体はびくびくと震えたあと、そのまま動かなくなった。
ファリアスは咄嗟に目を向け、刃が刺さっている角度を見て取った。
短剣は地面と水平に突き刺さっている。
すなわち、少女がどこから短剣を投擲したかといえば────
『上から来るよッ!!』
ファリアスがいうよりも早くディエトリィは一歩退いた。状況の理解だけで、次にすべきことを察したのだろう。
エルドも今度は遅れることなく反応した。
だが、手遅れだった。
がっ。
がっ。
がっ。
何度か樹の幹を蹴り飛ばす音がして、落下の衝撃を分散しながら少女は降下速度をあげていく。
しゃりん。
煌めく刃が鞘から滑り、鮮やかな半円を描くとともにエルドの身体をするりと抜けた。
『────ア、ガッ』
ぽっかりと口を開けながら、エルドの身体が静止する。
瞬間、屈強な人狼の体躯が頭からふたつに断ち割られた。
むごたらしく血飛沫を吹き上げ、屍肉がどさりと地に落ちる。
物言わぬ骸と化した人狼を背にして少女は接地。高所から飛び降りたとは思われないほど穏やかに降り立ち、少女はぐるりと視線をめぐらせた。
『────今』
容赦なく部下を殺められてもなお、ディエトリィは淡々と宣言した。
言われるまでもなくファリアスは銃口を向ける。
狙いを付けるまで半秒とかからず引き金を絞る。
ど、と大気を揺らす銃声がにわかに連鎖した。
完璧なタイミングでの十字砲火。
少女はそれを、さらりと避けた。
ただ一歩、下がっただけ。エルドの死体を押し退け、樹の幹に背を付ける。
それだけで銃火は無効化された。
いかなる銃弾も当たらなければ意味はない。
確かにそうだ。が、それはいうほど簡単なことではない。
銃弾は矢よりも早く飛ぶのである。人の反射で避けれる域にはない。
あらかじめ読み切っていなければ避けられるはずもない──それをいともたやすく少女はやってのけた。
嗚呼、とファリアスは慨嘆する。その最中にも装弾の手は止めない。
────そうでなければ、それでこそという奇妙な昂揚が、ファリアスの胸中を満たしていく。
恐怖感などはない──あるとすれば、畏怖。あるいは畏敬。
どちらも年端もいかない少女に向けるにはふさわしくないものだろう。しかし"剣魔"を打倒した剣客となれば話は全く別である。
『退けファリアス。こいつはお前のやれる相手ではない』
『バカいうんじゃないよ。やらせな。こんな相手、二度とありゃしない』
ディエトリィの言葉はおそらく事実だろう。
少女は手負いにも関わらず、堂々たる立ち姿で刀を構える。
"妖剣・月白"。名立たる人狼族の戦士を屠った忌まわしき魔剣が、美しくも儚い輝きを帯びてきらめく。
艶めく黒髪を軽く払い、人狼ふたりを見るともなく見て、少女──シオン・ファーライトは言い放つ。
ただ一言、
「────斬る」
と。
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