亡国の剣姫
拾肆、ファリアス・ガルム(上)
ぱちぱちと耳元近くで火花が爆ぜる。
火の粉が散る。
聞こえた音に、シオンはふと、違和感を覚えた。
どうして火が消えていないのだろう。
ずっと火を放ったらかして寝ていたのに。あれだけの薪で、ずっと燃え続けられるわけがない。
すわ、火事か。
そう思ったが室温はさして高くもない。
火の手があがる音も、木材が崩れ落ちる音も、壁や床が焼け剥がれる音もない。煙たさもほとんど感じない。
代わりにシオンに触れたのは、ふわふわと柔らかな毛並みの感触だった。
「おや。やっと眼ぇ覚めたかい」
声。
もちろんファルの声ではない。馬は喋ったりはしない。少なくともシオンの知るかぎりは。
半ば夢うつつに浸ったまま、ゆっくりと目を開く。
そしてシオンは、彼女を見た。
「死んだみたいに寝ちまってるからさ。ひょっとして、こりゃあ探し損じゃないかと思ったじゃあないさ」
人の顔ではなさそうだった。
はっきりとしない視界の中、薄ぼんやりと見える顔が目に入る。
ぱちぱちと瞬きするうち、次第に輪郭がはっきりしてくる。
驚いたことに見覚えのある顔だった。
暖炉の火で明るみに晒される灰色の毛並み。
一度見れば忘れようもない狼頭。
けれども個人を見分けるのはひどく難しい。
人狼。
けれどもそれが誰か、シオンにはすぐにわかった。
名前こそわからなかったが──片方の目が、抉られたように潰れてしまっていたから。
隻眼の人狼。潰れた目の周りには、火傷の痕がいかにも生々しく残っている。
────銃剣の暴発による傷痕。
間違いはない。あの時の女人狼だった。
彼女はシオンのすぐそばに座っていた。大腿部の毛並みがシオンの頬を柔らかにくすぐってくる。
焼け爛れた手を覆う包帯が痛々しい。
彼女はその手で木炭を暖炉に放りこみ、火掻き棒で適当に混ぜた。
絶えることなく火が燃え盛る。シオンが眠っている間もずっとそうしていたのだろう。
あたりはすでに真っ暗だった。炎の灯りだけを頼りに、女人狼の顔が照らし出されている。
彼女は敵意を見せることもなく、妙に落ち着いた表情だった──きわめて不可解なことに。
その姿は見るからに手負いだが、屈強な人狼であることには違いない。
シオンの寝こみを遅い、か細い首をひとひねりする程度はさして難しくもないだろう。
──そのまま寝転がって安静にしていると、不意に声。
「なんかさ、こう……言うことはないのかい」
聞きたいことならいくらでもある。
が、なにから聞いたものかはわからなかった。
「つッ……」
上半身を起こそうとすると、刺すような鋭い痛みが肩に走る。
悪くない徴候だった。腕がだめになっていたら、痛みすら覚えることはないのだから。
「あぁ、そうだ。包帯、勝手に替えといたから。悪く思うんじゃないよ」
つられて見てみると、確かに真新しい包帯がシオンの肩に巻かれていた。
赤いものがじっとりと滲んでいるが、出血はかなりましになっている。
つまり、包帯を替えるときは身体を触られていたはずなのに、全く気づかなかったらしい。
どれだけのんきに眠りこけていたのか。シオンは我ながら呆れかえった。
「ありがとう。……名前は」
「最初に聞くことが、そいつかい」
彼女もあきれたようだった。何にあきれられたのかはわからなかった。
「ファリアス。ガルム族のファリアス。ファリアス・ガルム。好きに呼びな……あぁ、あんたの名前は知ってるからいいよ。姫様」
女人狼──ファリアスは冗談めかしていう。
少なくとも人違いされているわけではなさそうだ。よもや間違えようもないだろうけれど。
ならば、なぜ。
シオンは当然、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「どうして、殺さなかったの」
やろうと思えばいつでもできたはずだ。
シオンは新生王国から目の敵にされている。討ち取れば報酬は堅いだろう。
ファリアスに重傷を負わせ、そしてなにより彼女の上官、ディエトリィを殺した張本人。
殺さない理由がない。
だがファリアスは苦笑して──その疑問をすっかり予想していたように──首を振った。
「姫様にゃ忠実な臣下がいてね。武器を持ったままじゃ近づかせてもくれない。無理に押し入ろうとすれば、てこでもあんたを叩き起こしたろうね。大したもんさ」
臣下と聞いて首を傾げる。そして、ちょっと考えて思い至る。
ファルだ。巨体を誇るつぶらな蒼眼の黒馬。
瞬間、小屋の外でファルが低くいななく。シオンに無事を報せるかのようだった。
「第一、そんなつもりはもうありゃしないよ──あんたを相手にするのはあれっきりにしたいね」
ファリアスは軽く肩をすくめる。確かにその手に武器は見当たらない。銃剣も、魔剣も。
とはいえど、武器の有無など根本的には関係ない。
素手で思いきり殴ればシオンは死ぬ。首を締めてもいい。骨を折ってもいい。
重要なのは敵意の有無だ。
そして馬という生き物は、驚くほど、その手のものに敏感であるという。
ファリアスに敵意はない。ファルがそう判断したのならば、彼女の言葉は信頼に足る。
彼女がシオンのそばに寄ることを許されているのは、つまりそういうことなのだろう。
シオンは、頭でそう理解した。
直感の方はといえば、とっくに"彼女は敵ではない"と見切りをつけていた──でなければのんびり寝ていられるはずもない。
敵と味方を瞬時に見分ける洞察力は、シオンが幼いころからの賜物だった。貴人たちに蔑まれて生きてきた甲斐があるというもの。
「水、ほしい」
「ああ」
ひどく、喉が渇いていた。
所望するやいなや、出来合いの木の容器に入った水を差し出される。
煮沸してあるのか、引っかかりがなくて飲みやすい。シオンは上半身だけを起こして一気に容器を傾ける。
「……姫様、あぁた、今ので信じたってのかい」
「うん」
疑う理由がない。
頷くと、ファリアスは二度あきれたようだった。
「あたしが寝首を掻こうと思ってるとか、ちっとは考えたらどうだい」
「その必要は、ない」
「そうかい」
瞬間、ファリアスの左手が少女の顔に飛ぶ。
人狼の凶悪な爪が目に見える。
それはシオンの目の前で、ぴたりと止まった。
本気でやるつもりはなかったとわかる。他愛ない寸止め。
「……あんた」
同時。
否。
ファリアスよりも一寸ばかり疾く。
シオンもまた、一呼吸で"妖剣・月白"を抜き、刃先を首筋に突きつけている。
横臥の姿勢から滑るように膝立ちへ移行、抜剣とともに攻撃に転ずる不意打ち殺し────"居合"の型。
まるで流れる水のようななめらかさ。手負いであることを全く感じさせない人間離れした妙技。
ファリアスの頬を冷や汗が伝っていく────そしてそっと両手をあげた。
「……かなわないねえ。本当」
「今はあまり、動きたくない」
「よく、いうよ」
静かに納刀。
ファリアスもまた、ゆっくりと手を下ろす。
無言。
付かず離れずのまま、ぱちぱちと燃え盛る焚き火を見る。
「それで」
口火を切ったのはシオンだった。
そっと身体を横たえながら、深い蒼色の眼がファリアスを見ている。
「用あり、なんでしょう」
なんの用もなくシオンのもとに現れたとは考えにくい。
ファリアスはバツが悪そうに頭を掻きながら、しかし確かに頷いた。
「……すまないね。試すような真似して。わかってたはずなんだけどね──あんたは、掛け値なしに、"本物"だって」
「なにか、食べるものも欲しい」
「あぁ。なかなかいい鹿が取れてね。待ってな」
唐突なわがままに律儀に付き合ってくれるファリアス。
なかなか面倒見はいいほうらしい。姉御肌というやつだろうか。
彼女は何歳くらいなのだろう。人狼の年齢を見分けるのは幼いシオンには難しすぎた。
小屋のすみっこにいつの間にか置かれていた鹿のほうに向かうファリアスの背を見ながら、シオンは考える。
本物。
なんのことだろう。シオンには心当たりがまるでない。
「本物」
「あぁ」
首をひねっているうちに立派なもも肉が火にかけられる。じゅうじゅう、ばちばちととてもいい音がする。
肉の面倒を見ながら、ぽつぽつとファリアスは語り出す。
「用はある。結論から言わせてもらえば、要するに、あんたには生きててもらいたいのさ。お姫様」
「殺そうとしたのに?」
「殺そうとしたけれども、さ」
串に刺した肉がぐるぐると回る。鹿の脂が滴り落ち、肉の旨味を含んだ煙が全体をコーティングしていく。
「殺すのは間違いだ、と思ったのさ。道義的にではなく、利害の話でね──今となっちゃ、出来なかった言い訳にもなんないけど」
そもそも殺すことがよくない。
率直にそう思ったが、さすがに口にするのははばかられた。今さらシオンが言えることではない。
つまり、道徳は利害によって逆転することがあるということだ。
殺されるくらいなら殺す。
シオンがそう決意したように。
「……私が生きていたほうが、あなたに得だ、と」
「あたしたちに、さ」
ファリアスという個人に、ではなく、新生王国に────否。
「人狼族、に」
「そ」
表面があらかた焼けたところで、少し火から遠ざけられる。
燻すように中まで焼くのだろう。熟練を感じさせる手つきだった。
「あんたは"魔剣遣い"をすでに三人返り討ちにしている──不本意なことにディエトリィ隊長までもね。これが王国にとって、どういうことか、って話」
「たぶん、大変」
「それどころじゃあないよ。"魔剣遣い"は精鋭中の最精鋭。それを逆賊の小娘ひとりに、三人も討ち取られたとなれば大目玉もいいところ。国の権威はガタ落ち────あんたは今、トラスの野郎の屋台骨を足元から蹴っ飛ばしてるようなもんさ」
言われてみればわからなくもない。もっともらしい話だった。
しかし、その程度で国の威信というものが揺らいだりするだろうか。シオンは首をかしげる。
「いざとなったら、私の身代わりでも立てて処刑すればいい」
身代わりにされる誰かのことを思えば、堪ったものではないが。
しかしファリアスは首をふる。
「やつらも一枚岩じゃないのさ。あんたの公開処刑を企てる急先鋒は宰相バルザック。ところが、その下は富と権力を求める有象無象の輩でいっぱい。ちょっとした瑕疵も騒ぎ立てて、少しでも権勢を削ぎ落とそうとするだろうね。それこそ、偽物ってことを暴露されるなんて失態が起こりかねない」
「本物の私を処刑したって、流言は起きる」
「他にも色々。偽物を処刑したらそれ以上追跡のための戦力を大っぴらにひねり出すのが難しい──結局あんたを野放しにするハメになる。なにより、逆賊ひとり始末できないなんてお粗末さを露呈するのが致命的さね」
「色々あるのね」
「そ。向こうには色んなのがいるってこと。それこそ、あたしみたいなのもね」
ファリアスはうそぶきながら、焼き上がった鹿肉を適当にざくざくと切り分けていく。
外側はこんがりと、内側は薄っすら綺麗な赤色が覗く薄切り肉。
それをなめし皮の皿にどさっと盛って差し出される。
シオンは拳に掌を重ね、祈りを捧げたあと、遮二無二にかぶりついた。
血と肉と脂の味。足りなかったものが満たされる歓喜に震える。
空きっ腹によく染みる。とても良い味だった。
「ディエトリィ隊長は、それでもあえて奴らに取り入って、のし上がっていこうとした。全ては人狼族のために。あたしも、そうするのが最善だと頭では思っていた──納得しちゃいなかったけどね」
「……そう」
その意志に忠実であったならば、彼女とはまた殺し合いになっていただろう。
そしてシオンとファリアスのどちらかが死んだ。
そのはずが今、食事をともにしているのだから不思議なもの。
ファリアスは焼いた肉でなく、ちょっと炙って血を飛ばしただけの肉を齧っていた。
豪快だった。
「あんたが長く生きるほど、あんたが数多の敵を殺すほど、やつらの権威は揺らぐ。あたしたち人狼族は相対的に有利になる」
「私は、生きて逃げられたらいい。いっぱい殺したいわけじゃない」
「あたしもそれで構わない。あんたほどのやつが勿体無いとは思うけどね。無理に強いられるとも思わないよ」
それになにより、とファリアスは骨付きの腿肉を噛みちぎりながらいう。
「実際にやり合って、思ったのさ────あんたは、本物だ。本物の、王足りえるものだ。掛け値無しに、姫様の剣はこの国を亡ぼせる。だからあたしは、あんたに賭けたいと思った」
「今は、このざまだけど」
「治る傷だよ。それまではあたしがなにくれとやるさ。あんたのために銃を取ってもいい。それくらいには、あたしは本気だ」
本物の王。
買いかぶりだと思った。シオンにそんな才覚があるわけがない。
そもそもシオンはろくに教育を受けていない。読み書きと諸々の芸事、そして歴史と神学を少々。
為政者に必要なことは全く知らないといってもいい────叩きこまれた剣技さえ、王には無用の長物だろう。
だが、
「わかった」
シオンは至極あっさりと頷いた。
大した理由ではない。先立つものがもう無いのだ。
六水湖である程度の食糧は仕入れていたが、それは最低限の量でしかない。
療養することを考えればいつか必ず足りなくなる。
手負いのシオンが食糧を調達をするのは、あまり現実的とはいえないだろう。そもそも狩猟に関しては素人なのだ。
それに引き換え、ファリアスはかなり狩りに長けているように見える。
隻眼、隻腕なのに獲物を仕留めている。肉の質も良好。内臓を破ってしまったという様子もない。
「私は、生きる。あなたは私を助ける。それだけか」
「話が早いね。構いやしないよ。無理をいってるのはあたしのほうだ──でも、いいのかい」
「なにが」
シオンは咀嚼していたものをこくんと飲み込み、問う。
断る理由は特にない。払えるものがないのが申し訳ないくらいだった。
「少しは疑いなよ。あんたのことだ、誰も彼もに甘やかされて育ったわけじゃなかろうに」
「それは、こだわり?」
「……いや、正直、予想外だったのさ。ちょいと待ってな」
そういってファリアスは骨付き肉をすっかり平らげると、小屋の外に出ていった。
馬のいななき。ファリアスの吠え声。
なにやら一悶着あったらしい。面倒なので放っておくことにした。
無心に血肉を取りこみながらシオンは待つ。
程なくしてファリアスが戻ってくる。ちょっと疲れた表情をしていた──が、目的は達したらしい。
外でちょっと不満そうにファルが鳴く。
そしてファリアスの手には、一本の鉄筒があった。
銃剣。通常のものより一回りも大きな外装が細身の銃身を補強している。
魔剣────"撃剣・カノン"。
それをファリアスは床に置き、シオンのほうに滑らせた。
「それ」
「あぁ。隊長のもんだったが、あたしが回収した」
そして回収したものを、ファリアスはシオンに差し出している。
「人狼族の至宝。数多ある銃火器の"原型"ともされる魔剣──"撃剣・カノン"。あたしなりの忠誠の証だ。持っといてくれ」
「いらない」
「ふぁっ!?」
ファリアスが素っ頓狂な声をあげてのけぞる。
「重いし、かさばる。持ってて。狩りにも要るはず」
「……や、それだとあたしも面目っつーのが。あたしの得物はちゃんと別にあるしさ」
ファリアスの銃剣はシオンの手によって半壊したが、倒れた仲間から回収したのだろう。
「使って。そのほうが便利だし、必要になることもきっとある」
「……今ある弾を使い切ったら、考えさせてもらうよ」
彼らの銃剣は後装式だ。使用する弾薬は紙製薬莢が一般的になっている。
人狼たちは派手にぶっ放していたが、そんなに安いものではない。略奪しないかぎり補給は難しいだろう。
一方、"撃剣・カノン"に補給の心配は一切ない。金属製の薬莢が無限に生成されるからだ。
「忠誠は、行動で示して。本当に私でよいのなら」
盛られたぶんを食べ切り、皿を置く。
さらに盛られそうになったので丁重に辞した。シオンはあまり食が太くない。なればこそ、少女の身体はひどくか細い。
重傷を負った身ではなおさらだった。
「了解。バルザックのやつよりは、ずっとずっとましさ」
「給金は出ないけれど」
「それでもだよ」
他愛ない言葉を交わしながら、シオンは羽織に包まって暖を取る。
お腹がくちくなったところで急に眠気が押し寄せてくる。身体が痛むせいか、ひどく疲れていた。うとうとと身体が船を漕いでいる。
「なんなら、見張りに出てようかい」
それを見かねたファリアスが申し出るが、シオンはふるふると首を振った。
おもむろに身体を横たえ、頭をファリアスの大腿部のうえに乗せる。
狼頭がにわかにぎょっとする。
暖かい感覚が心地よかった。シオンはちいさく笑みをほころばせながら瞼を閉じる。
そ、とシオンの頭に人狼の大きな手が触れる。
「…………まだ、子どもじゃないかい」
今さらのようなつぶやきを零す──その子どもに銃口を向け、今はシオンに賭けているファリアスが言っては世話もない。
その一晩中、暖炉の火が絶えることはなかった。
火の粉が散る。
聞こえた音に、シオンはふと、違和感を覚えた。
どうして火が消えていないのだろう。
ずっと火を放ったらかして寝ていたのに。あれだけの薪で、ずっと燃え続けられるわけがない。
すわ、火事か。
そう思ったが室温はさして高くもない。
火の手があがる音も、木材が崩れ落ちる音も、壁や床が焼け剥がれる音もない。煙たさもほとんど感じない。
代わりにシオンに触れたのは、ふわふわと柔らかな毛並みの感触だった。
「おや。やっと眼ぇ覚めたかい」
声。
もちろんファルの声ではない。馬は喋ったりはしない。少なくともシオンの知るかぎりは。
半ば夢うつつに浸ったまま、ゆっくりと目を開く。
そしてシオンは、彼女を見た。
「死んだみたいに寝ちまってるからさ。ひょっとして、こりゃあ探し損じゃないかと思ったじゃあないさ」
人の顔ではなさそうだった。
はっきりとしない視界の中、薄ぼんやりと見える顔が目に入る。
ぱちぱちと瞬きするうち、次第に輪郭がはっきりしてくる。
驚いたことに見覚えのある顔だった。
暖炉の火で明るみに晒される灰色の毛並み。
一度見れば忘れようもない狼頭。
けれども個人を見分けるのはひどく難しい。
人狼。
けれどもそれが誰か、シオンにはすぐにわかった。
名前こそわからなかったが──片方の目が、抉られたように潰れてしまっていたから。
隻眼の人狼。潰れた目の周りには、火傷の痕がいかにも生々しく残っている。
────銃剣の暴発による傷痕。
間違いはない。あの時の女人狼だった。
彼女はシオンのすぐそばに座っていた。大腿部の毛並みがシオンの頬を柔らかにくすぐってくる。
焼け爛れた手を覆う包帯が痛々しい。
彼女はその手で木炭を暖炉に放りこみ、火掻き棒で適当に混ぜた。
絶えることなく火が燃え盛る。シオンが眠っている間もずっとそうしていたのだろう。
あたりはすでに真っ暗だった。炎の灯りだけを頼りに、女人狼の顔が照らし出されている。
彼女は敵意を見せることもなく、妙に落ち着いた表情だった──きわめて不可解なことに。
その姿は見るからに手負いだが、屈強な人狼であることには違いない。
シオンの寝こみを遅い、か細い首をひとひねりする程度はさして難しくもないだろう。
──そのまま寝転がって安静にしていると、不意に声。
「なんかさ、こう……言うことはないのかい」
聞きたいことならいくらでもある。
が、なにから聞いたものかはわからなかった。
「つッ……」
上半身を起こそうとすると、刺すような鋭い痛みが肩に走る。
悪くない徴候だった。腕がだめになっていたら、痛みすら覚えることはないのだから。
「あぁ、そうだ。包帯、勝手に替えといたから。悪く思うんじゃないよ」
つられて見てみると、確かに真新しい包帯がシオンの肩に巻かれていた。
赤いものがじっとりと滲んでいるが、出血はかなりましになっている。
つまり、包帯を替えるときは身体を触られていたはずなのに、全く気づかなかったらしい。
どれだけのんきに眠りこけていたのか。シオンは我ながら呆れかえった。
「ありがとう。……名前は」
「最初に聞くことが、そいつかい」
彼女もあきれたようだった。何にあきれられたのかはわからなかった。
「ファリアス。ガルム族のファリアス。ファリアス・ガルム。好きに呼びな……あぁ、あんたの名前は知ってるからいいよ。姫様」
女人狼──ファリアスは冗談めかしていう。
少なくとも人違いされているわけではなさそうだ。よもや間違えようもないだろうけれど。
ならば、なぜ。
シオンは当然、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「どうして、殺さなかったの」
やろうと思えばいつでもできたはずだ。
シオンは新生王国から目の敵にされている。討ち取れば報酬は堅いだろう。
ファリアスに重傷を負わせ、そしてなにより彼女の上官、ディエトリィを殺した張本人。
殺さない理由がない。
だがファリアスは苦笑して──その疑問をすっかり予想していたように──首を振った。
「姫様にゃ忠実な臣下がいてね。武器を持ったままじゃ近づかせてもくれない。無理に押し入ろうとすれば、てこでもあんたを叩き起こしたろうね。大したもんさ」
臣下と聞いて首を傾げる。そして、ちょっと考えて思い至る。
ファルだ。巨体を誇るつぶらな蒼眼の黒馬。
瞬間、小屋の外でファルが低くいななく。シオンに無事を報せるかのようだった。
「第一、そんなつもりはもうありゃしないよ──あんたを相手にするのはあれっきりにしたいね」
ファリアスは軽く肩をすくめる。確かにその手に武器は見当たらない。銃剣も、魔剣も。
とはいえど、武器の有無など根本的には関係ない。
素手で思いきり殴ればシオンは死ぬ。首を締めてもいい。骨を折ってもいい。
重要なのは敵意の有無だ。
そして馬という生き物は、驚くほど、その手のものに敏感であるという。
ファリアスに敵意はない。ファルがそう判断したのならば、彼女の言葉は信頼に足る。
彼女がシオンのそばに寄ることを許されているのは、つまりそういうことなのだろう。
シオンは、頭でそう理解した。
直感の方はといえば、とっくに"彼女は敵ではない"と見切りをつけていた──でなければのんびり寝ていられるはずもない。
敵と味方を瞬時に見分ける洞察力は、シオンが幼いころからの賜物だった。貴人たちに蔑まれて生きてきた甲斐があるというもの。
「水、ほしい」
「ああ」
ひどく、喉が渇いていた。
所望するやいなや、出来合いの木の容器に入った水を差し出される。
煮沸してあるのか、引っかかりがなくて飲みやすい。シオンは上半身だけを起こして一気に容器を傾ける。
「……姫様、あぁた、今ので信じたってのかい」
「うん」
疑う理由がない。
頷くと、ファリアスは二度あきれたようだった。
「あたしが寝首を掻こうと思ってるとか、ちっとは考えたらどうだい」
「その必要は、ない」
「そうかい」
瞬間、ファリアスの左手が少女の顔に飛ぶ。
人狼の凶悪な爪が目に見える。
それはシオンの目の前で、ぴたりと止まった。
本気でやるつもりはなかったとわかる。他愛ない寸止め。
「……あんた」
同時。
否。
ファリアスよりも一寸ばかり疾く。
シオンもまた、一呼吸で"妖剣・月白"を抜き、刃先を首筋に突きつけている。
横臥の姿勢から滑るように膝立ちへ移行、抜剣とともに攻撃に転ずる不意打ち殺し────"居合"の型。
まるで流れる水のようななめらかさ。手負いであることを全く感じさせない人間離れした妙技。
ファリアスの頬を冷や汗が伝っていく────そしてそっと両手をあげた。
「……かなわないねえ。本当」
「今はあまり、動きたくない」
「よく、いうよ」
静かに納刀。
ファリアスもまた、ゆっくりと手を下ろす。
無言。
付かず離れずのまま、ぱちぱちと燃え盛る焚き火を見る。
「それで」
口火を切ったのはシオンだった。
そっと身体を横たえながら、深い蒼色の眼がファリアスを見ている。
「用あり、なんでしょう」
なんの用もなくシオンのもとに現れたとは考えにくい。
ファリアスはバツが悪そうに頭を掻きながら、しかし確かに頷いた。
「……すまないね。試すような真似して。わかってたはずなんだけどね──あんたは、掛け値なしに、"本物"だって」
「なにか、食べるものも欲しい」
「あぁ。なかなかいい鹿が取れてね。待ってな」
唐突なわがままに律儀に付き合ってくれるファリアス。
なかなか面倒見はいいほうらしい。姉御肌というやつだろうか。
彼女は何歳くらいなのだろう。人狼の年齢を見分けるのは幼いシオンには難しすぎた。
小屋のすみっこにいつの間にか置かれていた鹿のほうに向かうファリアスの背を見ながら、シオンは考える。
本物。
なんのことだろう。シオンには心当たりがまるでない。
「本物」
「あぁ」
首をひねっているうちに立派なもも肉が火にかけられる。じゅうじゅう、ばちばちととてもいい音がする。
肉の面倒を見ながら、ぽつぽつとファリアスは語り出す。
「用はある。結論から言わせてもらえば、要するに、あんたには生きててもらいたいのさ。お姫様」
「殺そうとしたのに?」
「殺そうとしたけれども、さ」
串に刺した肉がぐるぐると回る。鹿の脂が滴り落ち、肉の旨味を含んだ煙が全体をコーティングしていく。
「殺すのは間違いだ、と思ったのさ。道義的にではなく、利害の話でね──今となっちゃ、出来なかった言い訳にもなんないけど」
そもそも殺すことがよくない。
率直にそう思ったが、さすがに口にするのははばかられた。今さらシオンが言えることではない。
つまり、道徳は利害によって逆転することがあるということだ。
殺されるくらいなら殺す。
シオンがそう決意したように。
「……私が生きていたほうが、あなたに得だ、と」
「あたしたちに、さ」
ファリアスという個人に、ではなく、新生王国に────否。
「人狼族、に」
「そ」
表面があらかた焼けたところで、少し火から遠ざけられる。
燻すように中まで焼くのだろう。熟練を感じさせる手つきだった。
「あんたは"魔剣遣い"をすでに三人返り討ちにしている──不本意なことにディエトリィ隊長までもね。これが王国にとって、どういうことか、って話」
「たぶん、大変」
「それどころじゃあないよ。"魔剣遣い"は精鋭中の最精鋭。それを逆賊の小娘ひとりに、三人も討ち取られたとなれば大目玉もいいところ。国の権威はガタ落ち────あんたは今、トラスの野郎の屋台骨を足元から蹴っ飛ばしてるようなもんさ」
言われてみればわからなくもない。もっともらしい話だった。
しかし、その程度で国の威信というものが揺らいだりするだろうか。シオンは首をかしげる。
「いざとなったら、私の身代わりでも立てて処刑すればいい」
身代わりにされる誰かのことを思えば、堪ったものではないが。
しかしファリアスは首をふる。
「やつらも一枚岩じゃないのさ。あんたの公開処刑を企てる急先鋒は宰相バルザック。ところが、その下は富と権力を求める有象無象の輩でいっぱい。ちょっとした瑕疵も騒ぎ立てて、少しでも権勢を削ぎ落とそうとするだろうね。それこそ、偽物ってことを暴露されるなんて失態が起こりかねない」
「本物の私を処刑したって、流言は起きる」
「他にも色々。偽物を処刑したらそれ以上追跡のための戦力を大っぴらにひねり出すのが難しい──結局あんたを野放しにするハメになる。なにより、逆賊ひとり始末できないなんてお粗末さを露呈するのが致命的さね」
「色々あるのね」
「そ。向こうには色んなのがいるってこと。それこそ、あたしみたいなのもね」
ファリアスはうそぶきながら、焼き上がった鹿肉を適当にざくざくと切り分けていく。
外側はこんがりと、内側は薄っすら綺麗な赤色が覗く薄切り肉。
それをなめし皮の皿にどさっと盛って差し出される。
シオンは拳に掌を重ね、祈りを捧げたあと、遮二無二にかぶりついた。
血と肉と脂の味。足りなかったものが満たされる歓喜に震える。
空きっ腹によく染みる。とても良い味だった。
「ディエトリィ隊長は、それでもあえて奴らに取り入って、のし上がっていこうとした。全ては人狼族のために。あたしも、そうするのが最善だと頭では思っていた──納得しちゃいなかったけどね」
「……そう」
その意志に忠実であったならば、彼女とはまた殺し合いになっていただろう。
そしてシオンとファリアスのどちらかが死んだ。
そのはずが今、食事をともにしているのだから不思議なもの。
ファリアスは焼いた肉でなく、ちょっと炙って血を飛ばしただけの肉を齧っていた。
豪快だった。
「あんたが長く生きるほど、あんたが数多の敵を殺すほど、やつらの権威は揺らぐ。あたしたち人狼族は相対的に有利になる」
「私は、生きて逃げられたらいい。いっぱい殺したいわけじゃない」
「あたしもそれで構わない。あんたほどのやつが勿体無いとは思うけどね。無理に強いられるとも思わないよ」
それになにより、とファリアスは骨付きの腿肉を噛みちぎりながらいう。
「実際にやり合って、思ったのさ────あんたは、本物だ。本物の、王足りえるものだ。掛け値無しに、姫様の剣はこの国を亡ぼせる。だからあたしは、あんたに賭けたいと思った」
「今は、このざまだけど」
「治る傷だよ。それまではあたしがなにくれとやるさ。あんたのために銃を取ってもいい。それくらいには、あたしは本気だ」
本物の王。
買いかぶりだと思った。シオンにそんな才覚があるわけがない。
そもそもシオンはろくに教育を受けていない。読み書きと諸々の芸事、そして歴史と神学を少々。
為政者に必要なことは全く知らないといってもいい────叩きこまれた剣技さえ、王には無用の長物だろう。
だが、
「わかった」
シオンは至極あっさりと頷いた。
大した理由ではない。先立つものがもう無いのだ。
六水湖である程度の食糧は仕入れていたが、それは最低限の量でしかない。
療養することを考えればいつか必ず足りなくなる。
手負いのシオンが食糧を調達をするのは、あまり現実的とはいえないだろう。そもそも狩猟に関しては素人なのだ。
それに引き換え、ファリアスはかなり狩りに長けているように見える。
隻眼、隻腕なのに獲物を仕留めている。肉の質も良好。内臓を破ってしまったという様子もない。
「私は、生きる。あなたは私を助ける。それだけか」
「話が早いね。構いやしないよ。無理をいってるのはあたしのほうだ──でも、いいのかい」
「なにが」
シオンは咀嚼していたものをこくんと飲み込み、問う。
断る理由は特にない。払えるものがないのが申し訳ないくらいだった。
「少しは疑いなよ。あんたのことだ、誰も彼もに甘やかされて育ったわけじゃなかろうに」
「それは、こだわり?」
「……いや、正直、予想外だったのさ。ちょいと待ってな」
そういってファリアスは骨付き肉をすっかり平らげると、小屋の外に出ていった。
馬のいななき。ファリアスの吠え声。
なにやら一悶着あったらしい。面倒なので放っておくことにした。
無心に血肉を取りこみながらシオンは待つ。
程なくしてファリアスが戻ってくる。ちょっと疲れた表情をしていた──が、目的は達したらしい。
外でちょっと不満そうにファルが鳴く。
そしてファリアスの手には、一本の鉄筒があった。
銃剣。通常のものより一回りも大きな外装が細身の銃身を補強している。
魔剣────"撃剣・カノン"。
それをファリアスは床に置き、シオンのほうに滑らせた。
「それ」
「あぁ。隊長のもんだったが、あたしが回収した」
そして回収したものを、ファリアスはシオンに差し出している。
「人狼族の至宝。数多ある銃火器の"原型"ともされる魔剣──"撃剣・カノン"。あたしなりの忠誠の証だ。持っといてくれ」
「いらない」
「ふぁっ!?」
ファリアスが素っ頓狂な声をあげてのけぞる。
「重いし、かさばる。持ってて。狩りにも要るはず」
「……や、それだとあたしも面目っつーのが。あたしの得物はちゃんと別にあるしさ」
ファリアスの銃剣はシオンの手によって半壊したが、倒れた仲間から回収したのだろう。
「使って。そのほうが便利だし、必要になることもきっとある」
「……今ある弾を使い切ったら、考えさせてもらうよ」
彼らの銃剣は後装式だ。使用する弾薬は紙製薬莢が一般的になっている。
人狼たちは派手にぶっ放していたが、そんなに安いものではない。略奪しないかぎり補給は難しいだろう。
一方、"撃剣・カノン"に補給の心配は一切ない。金属製の薬莢が無限に生成されるからだ。
「忠誠は、行動で示して。本当に私でよいのなら」
盛られたぶんを食べ切り、皿を置く。
さらに盛られそうになったので丁重に辞した。シオンはあまり食が太くない。なればこそ、少女の身体はひどくか細い。
重傷を負った身ではなおさらだった。
「了解。バルザックのやつよりは、ずっとずっとましさ」
「給金は出ないけれど」
「それでもだよ」
他愛ない言葉を交わしながら、シオンは羽織に包まって暖を取る。
お腹がくちくなったところで急に眠気が押し寄せてくる。身体が痛むせいか、ひどく疲れていた。うとうとと身体が船を漕いでいる。
「なんなら、見張りに出てようかい」
それを見かねたファリアスが申し出るが、シオンはふるふると首を振った。
おもむろに身体を横たえ、頭をファリアスの大腿部のうえに乗せる。
狼頭がにわかにぎょっとする。
暖かい感覚が心地よかった。シオンはちいさく笑みをほころばせながら瞼を閉じる。
そ、とシオンの頭に人狼の大きな手が触れる。
「…………まだ、子どもじゃないかい」
今さらのようなつぶやきを零す──その子どもに銃口を向け、今はシオンに賭けているファリアスが言っては世話もない。
その一晩中、暖炉の火が絶えることはなかった。
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