亡国の剣姫

きー子

弐拾壱、国境線上の駆け引き

 新生ファーライト王国・華陵帝国の二国間に横たわる国境線地帯。
 そこでは今なお両国の緊張状態が続いていた。
 兵営地には数知れぬほどの天幕が張られ、兵站の補給を担う輸送馬車がしばしば往来する。
 部隊の規模はおおよそ一〇〇〇程度。大隊規模といったところだろう。
 十分な戦力として数えることはできるだろうが、正面決戦を戦うには全く心もとない。
 しかし問題はない。
 そもそも彼らはお互いに、一発の銃弾すら放ってはいないからだ。
 両国の軍は相互に監視を行い、緊張状態を維持し続けている。
 それは戦争状態であるからではない。交戦する気など元よりない。
 今の均衡を維持するために──戦争状態に突入しないために、彼らはお互いに布陣を続けていた。
 国境線に今日も異常はなし。
 陽が傾くころには夜営の準備が始められ、あちこちで煙が上がり始める。
 大過なく一日の勤めを終えようとしている大隊を、今日、招かれざる客人が訪ねていた。
「部隊を退かせるつもりはない、と仰るのですな」
 盾の紋章が掲げられた指揮官用の天幕の中で、三人の男が向かい合っていた。
 天幕はひどく手狭であった。しるしとなる紋章のほかは、兵用の天幕と少しも変わったところがない。
「再三申し上げているように、我々は寡兵でこの状況を維持せねばなりません。現在、国境線付近の安定化とは程遠い状況にある。この陣地からさえも垣間見ることができるように、帝国軍は今も我々の喉元に剣を突きつけているのです。この状況で我々が部隊を退けば、彼らは飢えた獣のように我々の喉元に喰らいつくが必至でありましょう」
 客人に応じたのは天幕の奥側に座した男だった。
 まだ若い。年の頃は三〇にも満たないだろう。
 緑色の旧王国の軍服のうえに鮮烈な白のサーコートをまとい、緋色のマントを羽織っている。
 ともすれば道化じみた服装だが、彼にはその格好がよく似合っていた。麾下の兵たちを鼓舞するには申し分ない。
 耳の上で短く切られた白金プラチナブロンドの髪。柔和な顔立ち。そして反面、鷹のように鋭い目付きの碧眼──
 端的に言って美男子であった。
 胸元には最前線での活躍と栄誉を示す銀翼の勲章が最小限、控えめながら誇らしげに輝いている。
 階級章は大佐。
 彼こそは、一〇〇〇人の命を引き受けるこの大隊の指揮官であった。
「前回も確かに伝えたように、新王陛下はなにより王都の平定を望んでおられるのだ! 国の中心たる王都が無事に治められることこそ国家安寧の要諦、ゆえにすぐにも兵を王都に退き、国境線の防衛については辺境軍に後を引き継げとの仰せである!」
 対する客人は指揮官の男に食ってかかる。
 今にも噛みつかんばかりの勢いである。
 もっとも彼は敵ではない。少なくとも敵国のものではない。
 王都ファルクスから派遣されてきた特別使節──といえば聞こえはいいが、要は単なる伝令だ。
「辺境軍は現在、我々の任務を引き継ぐことができる状況にない。まだ王都でのクーデター騒ぎが尾を引いているようで、周辺の治安が完全には回復していないのです。復興と賊の討伐に手一杯で、とても帝国軍に対応できるとは思われない。実際に首長とは会談の場を持たせていただきましたが、私と彼の意見はこの点で一致をみました。だからこそ我々はこの地に留まり、辺境都市には我々の兵站を担って頂いているのです」
 指揮官の男はにこりともせず、涼しい顔で特使に向かって言う。
 感情の色はうかがえないが、王位転覆からなる一連の騒ぎに好意的でないのは明らかだ。
 新王トラスの"王位奪還"を堂々とクーデターと称したのがその証拠。さらにはそれこそが問題の原因であると放言する始末である。
「なッ……そ、そのような勝手な真似が許されるとお思いかッ!」
 特使はにわかに声を荒げる。
 無理もない。彼は前回の訪問時に"帰還せねば本国からの補給を断つ"と宣言し、意気揚々と王都に戻っていったのだ。
 兵站線が保たれなければ兵は戦えない。戦えないどころか餓えて死ぬ。
 どれほど無能な指揮官であろうと、そんな事態を許すものはいないだろう。
 これで指揮官の男も部隊を退くはず。彼はそのように確信していたのだ。
「許されるか、許されないか、の問題では無いのです、特使殿。我々にはそうすることができるという選択肢があり、そうしなければならない理由があったのです。であれば、我々はそうするしかない。第一、怪我人や帰国を希望するものなどは優先的に国許に戻すようにつとめております。なにか、我々のやり方に不満があるのでしょうか?」
 実際には辺境軍の実力が不足しているという事実はない。
 辺境都市は兵站を代替してでも兵を温存することを望み、大隊は前線に残留することを望んだ。
 単なる利害の一致で両者は繋がりあった。それだけのことだ。
 しかしもちろん、そのことを特使が知るはずもない。
「不満などという話ではない! 我が国の最高権力である新王陛下の勅命に背く、その一点において大いに問題があるのだ! 貴官の言動、行動方針は全く不敬であると言わざるをえない! すぐにも改めるつもりが無いのならば、本国に報告し、その問題と責任を正式に問わせて頂くことになりましょうな!」
 平然としている指揮官の男にますます怒りをつのらせる特使。
 そしてもうひとりの男が、隣から彼らふたりを眺めていた。
 神経質そうな目をした眼鏡の男。銀色の髪を湛え、冷たい目を特使に向けている。
 彼は指揮官の男の副官であり、部隊の参謀をも自認する。
 交渉を取りまとめたのは指揮官の手柄だが、辺境都市と手を結ぶのは彼が提案したことである。
「結構です。では、新王陛下の命に背いており、敬意に欠けていると考えられたのならばそれは否定いたしませんが、実際的な問題は無い、ということで構いませんな。我々は国境線の維持を目的とした部隊であり、これを遂行できる限りは問題ないと私個人は考えます。そして政治的な問題のために、問題解決力を失うようなことがあってはならないとも。────それでは、今日はもう遅い。ここで休んでいかれるのがよろしいでしょう。ラウル兵長、アレックス上等兵、特使殿を案内さし上げてください。くれぐれも丁重になさることを忘れないように」
 指揮官の男が淡々と告げると、特使はもはや言葉もなく激昂した。
 そして暴れる暇もなく、天幕の外で待機していた憲兵に身柄を拘束された。
 ふたりの憲兵に両脇を掴まれ、まるで囚人のように連れ去られていく。後はしっかりと、丁重に扱われることだろう。
 憲兵たちは指揮官の男に敬礼することを忘れなかった。彼に対する強い敬意がうかがえる様子であった。
 特使の男がいなくなると、指揮官の男はちいさくため息をつく。
「やれやれ。厄介なものだな」
 間に合わせの椅子に深く腰を下ろし、天井を仰ぎ見る。
 そしてかたわらの副官に軽く眼をやった。
「実際、問題がないと考えて良いのだな。これで私が討伐対象にでもなったらお笑い種だぞ──ただでやられるつもりはないが」
「問題ありません。政権は王都の動乱に気を取られ、早期での解決も難しく、討伐隊を編成できる状態ではないようです。複数の情報筋によれば、兵数のみならず市民でのサボタージュが蔓延していて、兵站を維持するのは極めて難しいとのこと。兵站線の距離を考えればなおさら困難です」
「わかった。信じよう」
 現状の維持を決定した指揮官と副官は、今後の見通しを確かめ、ちいさく頷きあった。
 元を辿れば彼らは、前王ルクス・ファーライトの政権時代、華陵帝国の不審な動向に応じて国境線地帯に送られた軍団の一部であった。
 軍団は現在、その大部分が新生王国の撤退命令に応じ、国許へと帰還している──彼らが市民運動の発展に一役買ったのはまさに皮肉と言わざるをえまい。
 その一方、撤退命令を決して良しとしないものもいた。
 新王トラスの王権を容認しないもの。華陵帝国がこの機に乗じる可能性を恐れるもの。前王ルクスに篤く忠誠を誓ったもの。あるいは、今度の動向を注視しようとするもの。
 時間が経つにつれて撤退を選ぶものは増えていった。兵站の問題が続出したのだ。
 戦場に留まることを強いられる兵の不満もあった。少なくない数の兵が短期間の訓練のみで徴兵された市民であり、士気は決して高いとはいえなかった。
 一隊また一隊と去り、そしてとうとう国境線地帯に残る部隊はひとつになった。
「それと、アイザック大佐。耳に入れておきたい情報がひとつあります」
「ふむ」
 ぴくりと肩を震わせる大隊の指揮官──アイザック。
「聞かせてもらおう。それと、おまえの判断もだ。良い報告か、悪い報告か。どうだ」
 アイザックは副官の男を重用していた。彼は武勇と軍略に長ける指揮官だが、情報畑には疎い。
 そのことを自分で理解しているため、使えるものはなんでも使う。
 そのための努力をアイザックは惜しまなかった。
 彼は麾下の隊員の名前を完全に覚えている。
 名前だけではない。家族構成、生まれ年、郷里、境遇、その他何から何まで彼は余すところなく把握していた。
 ゆえにこそ、部隊の士気は極めて高い。指揮官への信頼も篤く、その実力は数字以上のものがある。
「例の叛逆者に対する指名手配はすでにご存知でしたね」
「ああ。無論だ」
 叛逆者。シオン・ファーライト。前王の末姫にして平民の妾の娘。
 それを聞いたとき、アイザックの胸中はひどく複雑なものだった。
 彼の心境はどちらかといえば前王寄りだ。が、ルクスの行いは決して褒められたものばかりではない。
 その"褒められたものではない行い"のひとつこそ、平民と契を結び、"混ざりもの"の子をなしたことにある。
 否。アイザックにしてみればそれは大した問題ではない。彼は生まれながらの貴族だが、真に愛した女とであれば子をなそうと一向に構わないと思っている。
 だが、現実にはそうは思わない貴族のほうが圧倒的に多い。それが問題なのだ。
「私たちには関係を及ぼさないだろう、と判断したはずだが。情勢が変わったということか」
「可能性の段階です。しかし、そう低くもない可能性です。あまり芳しくはない知らせ、と言えるでしょう」
「呆れた話だな。娘ひとりも捕まえられない体たらくとは、それでよくルクス陛下を打倒できたものだ。よほど汚い手を使ったか」
 ほとんど虐殺というべき王族の処刑。
 叛逆者をいまだに野放しにしている能力的欠如。
 王権の正当性の不在。
 そういった数多の問題が積み重なった結果、アイザックは新生ファーライト王国への恭順を拒否した。
 大隊の大半は彼の判断に従ってくれている。
 今となっては新生王国側の統治能力すらも危ぶまれる始末である。民衆の支持を手放したのは何より痛い。決定的な事態が起こるのもそう遠くないのではないか──
 アイザックはそのように時代の潮流を見据えていた。
 シオン・ファーライトがいまだに生きていることは、その判断を裏付けていると言えなくもない。
「指名手配までの経緯を洗いました。不正規戦力を動員したものの、新生王国はシオン・ファーライトの捕縛に失敗。少なくない戦力を失っています。また、その中には数名の"魔剣遣い"が含まれています。確かなものでは────」
 グラーク・メルクリウス。
 ジムカ・ベルスクス。
 ディエトリィ・ヴォルフ。
 その三人は正式に死亡、ないし行方不明であると確認が取れている。
 アイザックもこれにはさすがに瞠目した。
「……驚いたな。グラークはともかくディエトリィは歴戦の猛者。ジムカ老までも……」
 いずれもアイザックがよく知った名前である。
 中でもジムカ・ベルスクスは特別だ。アイザックは老境に至った彼に対し、崇敬に近いものを抱いていた。
 近年は戦場で見られることもめっきり減ったが、人狼族との会戦では全盛期を思わせるほどの奮戦を見せつけた。それはまさに、アイザックをして"剣魔"の名の意味を思い知らされるほどの戦いぶりであったのだ。
 そのジムカが死んだ。まだ年端もいかない、逆賊の末姫の手によって。
「前線にまで情報が届かないよう、諜報部隊による工作が行われていたようです。申し開きの次第もありません。今回は幸い、指名手配の知らせにあわせて情報が得られました」
「……情報の確実性は、どうだ」
「実際に交戦したディエトリィ殿の配下からの情報です。まず、間違いはありません。聞くところによれば、ジムカ殿の魔剣を用いていたとも」
 魔剣、というだけならば尾ひれのついたうわさ話とも考えられる。
 しかし幼い姫君は、"黒地に鈴蘭の陣羽織"を身につけていたという。
 間違いなく、ジムカ・ベルスクスが重用していた逸品である。間違いはない。
「そうか。……わかった。信じよう」
 頷き、アイザックは信じがたい情報を受け入れた。
 新生ファーライト王国に現存する魔剣は六本。
 現在、ルクスのものであった魔剣には担い手がいないため、"魔剣遣い"は実質的に五人しかいない。
 その半数以上を、新生王国はシオンに刈り取られたのだ。
 残るひとりには期待できない。素性すら定かではなく、宰相の子飼いという噂が立っているからだ。
「現状、国境線地帯での目撃された例はありません。ですが最後の観測地──六水湖ろくすいこから順調に進んでいれば、今頃は山を越えていてもおかしくは無いでしょう」
 そして今のところ、シオン・ファーライトが捕らえられたという報もない。
 しかるに、とアイザックは素早く決断を下す。
「わかった。ローテーションを組み、周辺の警戒を徹底させるとしよう。万が一に備えるべきだ」
「賢明な判断かと思われます。すぐに手配しましょう。処遇はどのようになさるつもりですか?」
 アイザックはシオン・ファーライトを敵性と判断していた。
 というより、シオンの立場からすれば、国境線地帯に陣取る大隊は邪魔なことこの上ないだろう。
 敵視されるのも当然だ。
「亡命を許すという選択肢はない。可能な限りは生きて捕らえる。やむを得ねば殺害する。必要であるかぎりは、だ」
「本国との交渉材料にもなります。もっとも、捕縛は恐らく難しいのではないかと考えますが」
「だろうな。死にたがりの狂犬でなければ良いが」
 具体的な方策はないが、少なくとも華陵帝国に向かわせるべきではない。
 彼女から帝国に接触する意図は無いのかもしれない。
 だが、逆もそうとは限らない。帝国の方からシオンを利用しようとする働きかけは必ずあるはずだ。
 その時、今は膠着状態にある前線がどう動くことやら。
 シオン・ファーライトの扱いは、アイザックの大隊にとっても決して無関係な話ではないのだ。
「加えて申し上げますが、大佐自身の命こそ警戒すべきです。護衛を固めるべきかと。我らは士気を保っておりますが、万が一にも大佐が没した場合、総崩れになる危険があります」
 単身での暗殺。
 非常識だが、決してありえない話ではない。
 大隊と真っ向からぶつかり合うよりはよほど現実味がある選択肢である。
 だが、アイザックは首を横に振った。
「それよりは事前警戒に人手を割くべきだ。情報の重要さというものは、私もおまえのおかげで理解できたつもりだ」
 そう言われると、副官もそれ以上は口を挟めなかった。
 実際、副官の提案はいささか非合理的である。暗殺は確かに恐ろしいが、低すぎるリスクを考慮に入れるべきではない。
「それに、私にはこれがある」
 と、アイザックは腰に帯びた剣の柄頭を軽く押さえた。
 全長にして4フィートほど。幅広の刃とは裏腹に、白金を基調にした柄や拵えは繊細なつくりであった。
 儀礼的な装飾が各所に施され、白銀の剣身は神聖な気配すら漂わせる。
 軍刀というよりは、儀礼刀といったほうが相応しかろう。
 その"魔剣"の力を、副官の男はよく知っている。
 彼だけではない。大隊全員が、アイザックの持つ力を知っている。
 シオン・ファーライトを除けば、残る最後のひとりの"魔剣遣い"。
「"結束剣・グランガオン"。これがある限り、そう安々と死にはせんさ」
 アイザックは副官の男を安心させるように微笑んでみせる。
 魔剣兵混成大隊。
 それがアイザック率いる、旧王国にて唯一"魔剣兵"が正式編成された部隊の名であった。


「まずは、行く。逃げられることを確実にする。話はそれから」
 目が覚めるなり、シオンはファリアスにそう言った。
「構いやしないよ。この際、あたしも付き合えるところまで付き合うさ」
 ファリアスは頷いて、もはやなにも言わなかった。
 ファルは静かに嘶いた。黒馬はどこまでもシオンに従うことだろう。
 それまでだった。
 ふたりと一頭は夜明け頃、国境線に向けて出発した。 
 八槍岳はっそうだけを下り、水の流れを辿ったあと、辺境都市を囲う巨大な水路──自然の水堀から離れるように歩を進める。
 そして国境線に通ずる平野部を目にすれば、そこはすでに国境線地帯である。
 辺境都市からも、その近辺の街道沿いからも大きく離れた森林部に、シオンらは潜伏した。
 国境線地帯とはいえど、国境線からはさして近くもない。
 当然だ。不用意に近づきすぎれば、あっという間に辺境の部隊に発見される。
 それはあまり望ましい展開とはいえない。
「それにしても──」
「うん」
 宿営は森の中で行い、偵察時には森を抜けた先にある小高い丘から身を乗り出す。
 そんなことを続けてすでに二日。
 ファリアスは夜明け前の薄闇をものともせず、"撃剣・カノン"の照準器を睨みつけ。
 シオンはファルに跨ったまま、丘の下を目で見るともなく見渡している。
 どれだけ目を凝らしても目ぼしいものはなにひとつ見当たらないが──
 見つけても嬉しくないものは、すでにいやというほど観測されていた。
「ずいぶん、監視の目が厳しいねえ。ちょっと普通じゃないよ、これは」
「夜なのに」
「そう。夜なのに、だよ」
 シオンの目ではなにも見えない。
 だが、ファリアスの目にはよく見える。
 暗闇の向こう側にうかがえる数多の影。灯火を片手に兵営地の周囲をくまなく警戒する偵察隊が、引っ切り無しに天幕を出入りしているのだった。
 見張り番は昼夜も問わず入れ替わり、人の目が絶える瞬間は全くない。
 最小単位でも必ず二人一組ツーマンセルが徹底されている。
 そして驚くべきことには、士気が極めて高いのだ。
 前王ルクス・ファーライトの時代に遣わされた国境線地帯の軍団。
 結果的にクーデターの引き金を引いた彼らには、すでに撤退命令が出されている。そのはずだった。
 にも関わらず、国境線地帯には軍が駐留していた。旧王国の軍服を身に着けているため、辺境軍というわけでもない。
 出兵から数えれば、すでに短くない期間が過ぎていた。
 よくも、士気を保っていられるもの。シオンは思わず感心する。
「私を、探してるのかな」
 吹き抜ける初夏の風。
 黒地に鈴蘭の羽織がはためくのを押さえながら、シオンは言う。
「ありえない話じゃあないさね。まず情報は筒抜けだろうさ──ここまで来てるって確証はないだろうけども」
 ファリアスは静かに目を凝らし、いかに警備が厳重であるかを確認する。
 照準に敵を捉えてはいるが、撃ちはしない。距離が遠すぎるうえに、音で潜伏地帯が露呈しないとも限らない。
「なんたって奴ら、国境線の外側より内側のほうが厳重なくらいだ。相当、あんたを高く買ってるみたいだよ」
「確かに、高くは売れるみたいだけど」
 勝手に値札をつけられているシオンにしてみればあまりいい気分ではない。
 憮然として瞳を細めながら、少女は考えをめぐらせる。
 正直いって、国境線地帯に軍が残っているのは予想外だったのだ。
「どうして、ここに軍が残ってるんだろう」
 不意にぽつりと呟く。
 ファリアスは照準から目を離し、怪訝そうにシオンを見た。
「そりゃあ、敵がいるからじゃないかい。帝国軍も規模は縮小したみたいだけど、まだ完全に撤退しちゃいないって話さ」
「普段、国境線の防衛は辺境軍の仕事だと思う」
 任務、というよりは実態としてそうならざるを得ないというべきか。
 本国の軍が派遣されていないときも、辺境軍や辺境の領主は、常に侵略の危機に晒される国境線地帯を護り続けてきた。
 だからこそ彼らには、内地の貴族よりも大きな権限や発言権が与えられる。
 指揮下にある兵数も多いため、実効支配できる領土面積も他の領主とは段違いだ。
 そんな彼らの力があれば、少数の帝国軍程度は簡単に跳ね返せるだろう。
 本国からの撤退任務が出ているとすれば、大隊はなおさら任務を引き継がざるをえないはず。
 だというのに、あの部隊はいまだに国境線地帯に根を下ろしている。
 考えれば考えるほどに奇妙だった。
 シオンが率直にそのことを告げると、ファリアスは興味深そうに目を細めた。
「前王の遺志を守っているのかもしれないねえ。いわばあたしの同類ってやつさ」
 牙を剥き、ふざけたように言う。
「都合のいい話」
 シオンはそっけなく言い、肩をすくめる。
 ファリアスにしても別に忠誠を誓っていたわけではない。ルクスならばまだ我慢できた、という程度の話である。
 そもそも、前王陛下の遺志など────シオンにもわかりはしなかった。
「ま、冗談はここまでさね。あの数と警戒態勢じゃ突破するのは難しい。大回りするにしても相当広く陣を敷いてるし、下手すると隣領主の網にかかる。正直、厄介だよ」
 ファリアスは"撃剣・カノン"をゆっくりと下ろす。
 夜が明け、空が白み始めていた。この時ばかりは目を凝らしていても仕方がない。
「……雨を待つ。期待できそうにないなら、無理矢理でも前に抜ける」
 対してシオンは端的に言う。
 雨天時の銃ほど当てにならないものはない。軍の戦闘能力は半分以下に低下する。
 視界が劣悪化するのもシオンにはきわめて好都合だ。
 前方を突破できる勝算はそれほど低くないだろう。
 しかし敵軍は間違いなく、シオンらの存在を念頭に置いて動いている。
 時間をかけているうちに周到な対策を取られると厄介だった。
「天運との戦いになるかもしれないねぇ────」
 と、その時。
 ファリアスは急に耳をぴくぴくと震わせ、顔を上げた。
 鋭い金眼が地平線の向こう側に何かを見る。
 すわ、朝駆けか。
 数頭の馬が土埃をあげ、シオンのほうに向かって一直線に駆けていた。
 逃げも隠れもしない、とはこのことだろう。
 朝焼けに照らしだされるように、数人の騎兵がシオンの目にも見えてくる。
「妙だね」
 ファリアスがつぶやく。
「武器も持っちゃいないよ」
「気をつけて」
 油断を誘う罠でないとも限らない。
 シオンは微動だにせず彼らを待った。
 逃げるべきかとも考えたが、敵はこちらの位置を把握している。
 いざとなれば、始末してから場所を変えるほうが得策だろう。
 果たして、彼らはシオンと幾ばくかの距離を置いて止まった。
 先頭に立つ銀髪の男が大声を張り上げ、シオンに向かって語りかける。
「現在、"叛逆者"として指名手配を受けているシオン・ファーライト殿とお見受けする! 相違ありませんか!!」
 シオンは片手をあげて肯定を示す。
 男は続けた。
「私は王国に属する魔剣兵混成大隊指揮官附副官、アルスル中尉と言う! このままで構いませんので、少々話をする時間を頂けませぬか!」
 シオンは呆気にとられた。
 指名手配犯を相手にしたそれとは思われないほど、穏便な提案である。
 シオンは思わずファリアスと顔を見合わせる。
 ふたりして、解せない、という表情を浮かべる始末である。
 ともあれ、話は聞くことにした。シオンはファルに跨ったまま、男の言葉に耳を傾ける。
 いわく彼は指揮官の命令によって、シオンの元に馳せ参じたとのこと。指揮官──アイザック大佐には彼女を迎え、交渉の席を設ける用意があるという。
 ますます、解せなかった。
「なぜ?」
 と、シオンが声を張ったのも無理からぬことであろう。
「アイザック大佐は貴公の指名手配に対し、疑義を呈しておられる。少なくとも死刑に処されるような罪は全くない、という見解であります」
 それに対し、シオンが得られた答えはあくまでも限定的なもの。
 当然、本音は別のところにあるだろう。
 兵から犠牲が出る前に捕らえたい、ということだろうか。
 しかし、それで本陣に迎え入れるのはいささか本末転倒のように思える。
「いいよ。行こう──ただし、私ひとりじゃない。それと、かなうなら陣地の外であることが望ましい」
「構わない。大佐殿は、可能な限り貴公の指定された通りの場所に出向くとの仰せです。陣から遠く離れるわけにはいかないが、これも軍責務上のこととご理解を願いたい」
「わかった」
 シオンは静かながらもよく通る声を張り、アルスル中尉に応じた。
 場所には陣地の入り口を指定。陣地の中で四方を囲まれるようなことがなければそれでいい。
 少女を出迎えに来た騎兵隊は率先して背を向け、ゆっくりと陣に向かって歩き出す。
「いいのかい。シオン」
「天運を待つよりは、ましな賭けだと思う」
 見上げた空は、いやになるくらいまばゆい晴天の朝焼け。
「……違いないねぇ」
 ファリアスもファルに跨って手綱を取り、騎兵隊の後について歩み出した。

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