夢見まくら
第二十八話 憤怒の終劇
◆
「――あ?」
意識が覚醒する。
「……俺は…………あれ……?」
そうだ。
俺の腹に、何かが突き刺さってて……それで……。
「ようやく目が覚めましたか」
そこでようやく、俺は誰かにおぶさられていることに気付いた。
当然ながら顔は確認できない。
体格からして、俺を背負っているのが男性だということしかわからなかった。
「――二条?」
思いつく中で、一番可能性の高そうな人物の名前を呟く。
「いえ、高峰皐月です」
その名を聞いた瞬間、
「っ!? 離せ!」
反射的に身をよじり、俺はそう叫んでいた。
状況が把握できない。
いったい何がどうなって、俺は高峰皐月に背負われているのか。
「……じっとしていてくれませんか海斗さん。今はそれどころじゃないんですよ」
ため息をつきながら、高峰皐月はそう言った。
「何を――」
言っているんだ、と続けようとした俺の声は、
『……どこまでも、キミはワタシの楽しみの邪魔をするのだねェ』
そんな言葉に遮られた。
低い、男の声。
それは、俺が聴いたことのない声だった。
「だれだ?」
俺はその声の主の姿を確認しようと、高峰皐月の背中から顔を上げ、
「――――ッ!?」
ギョッとした。
前田玲子のお腹から、血まみれの化物の身体が突き出ていた。
体は赤紫色。
小さな頭に毛は生えておらず、充血した目が嫌悪感を湧き立たせる。
人間で言う腕のような部分からは、二本の触手が生えていた。
醜悪な顔面は、微妙に歪んでいるように見える。
一方、前田玲子もひどい状態だった。
化物が突き出ている腹部からは出血が続いており、どう見ても致命傷だ。
高峰皐月を見据え、その声に僅かな怒気を含ませる化物だったが、ふと何かに気付いた様子で、
『おや、キミの身体も相当ガタがきているようじゃないか』
「……あいにく、強姦魔にかける情けは持ち合わせていませんから」
高峰皐月は、よくわからないことを言った。
『いやいや、キミ自身の身体のことだよ。皮なんてどうでもいい』
だが、化物には意味が通じたらしい。
“強姦魔”も“皮”も、佐原のことを指す言葉のようだ。
佐原が強姦魔であるなど初耳だが……と、失血のせいかあまり回っていない頭でぼんやり考える。
『どちらにせよ、そんな刃物に頼っている時点で、程度が知れるというものだねェ。高峰皐月』
「…………」
高峰皐月が、俺を地面に下ろす。
そのとき、彼女の右腕が見えた。
「おいアンタ、その腕……」
高峰皐月の右腕は、ひどい状態だった。
何かが刺さったような跡があり、血に染まった肉が抉れ、骨の一部が剥き出しになっている。正直、見ているだけで気分が悪い。
おそらく、もう使い物にはならないだろう。
俺はそこから視線を逸らし、今度は左手のほうを見た。
高峰皐月の左手には、見慣れないナイフが握られていた。
たしか、サバイバルナイフとかいうやつだ。
「自然治癒力促進の魔術と、痛覚麻痺の魔術を使いました。私が生きている間は、それでなんとかなるでしょう」
「……あ」
言われてから気付いた。
燃えると錯覚するほどの痛みを訴えていた腹部の傷から、痛みが消えていることに。
「私よりも、自分の心配をしたらどうです? 海斗さん」
「それはどういう――」
俺の言葉が最後まで発せられることはなかった。
「俺の、小指が……!」
右手の小指。
薬指の隣にあるはずのそれが、いつの間にか根元からなくなってしまっていた。
歪な断面からは、白い骨を囲むように赤い肉が覗いている。
痛みはない。
……痛みはないが、知らない間に自分の身体の一部が欠損していたという事実に、言いようのない恐怖感を覚える。
「死ぬよりはマシでしょう。指の一本ぐらい我慢しなさい」
高峰皐月の反応はあっさりしたものだった。
「……今は、そんなことを言っている場合じゃないんですよ。そこにいるのはヨーゼフ・カレンベルクです」
「え?」
俺は今、かなり間抜けな顔をしているに違いない。
……ヨーゼフ?
聞き間違いかと思った。
だが、高峰皐月は、たしかにそう言ったように聴こえた。
「お前が、ヨーゼフなのか?」
すぐそこにいる、化物に向かってそう問いかける。
俺の記憶が確かなら、皐月から聞いた話では、ヨーゼフは四十代くらいの男だったはずだ。
間違っても、こんな化物みたいな姿ではないだろう。
俺のその質問に、そいつは顔を顰めて、
『……無礼だねェ。目上の人間は敬うべきだと、お母さんやお父さんから教わらなかったのかね?』
「ええ、あれはヨーゼフ・カレンベルクに間違いありません」
化物――ヨーゼフの言葉を無視し、高峰皐月が俺の質問に簡潔に答えた。
「皐月の意識を食い尽くして、あの身体を完全に支配下に置いているようですね」
「……おい、ちょっと待てよ」
俺はそのとき、初めて気付いた。
さっきから、そのことを考えないようにしていた、自分自身に。
皐月。
そうだ。
皐月は。
「皐月は、どうなったんだ?」
考えていたことが、無意識的に口に出た。
あの醜悪な化物がヨーゼフなのだとしたら、皐月はどこに行ったというのか。
「今のアレは、前橋皐月ではありません。ヨーゼフ・カレンベルクです」
高峰皐月は、さらっとそう言ってのけた。
あまりにもあっさりと。
まるでそれが、取るに足りない事だ、とでも言うかのように。
「どういう、ことだ?」
「言葉通りの意味ですよ」
高峰皐月は、心底つまらなさそうな表情で言う。
「どうやら、ヨーゼフには自身が創りだした魔獣を支配する力があるようです。つまり、今の私と同じような状態にあるわけですね」
高峰皐月の言葉を聞いて、俺は思い出す。
『端的に言えば、今の佐原太陽は――』
佐原が今、どうなっているのかを。
「………………皐月は」
聞きたくない。
聞きたくないが、聞かなければならない。
「もう、皐月の精神は崩壊してしまっているでしょうね」
「――――――――」
頭の中が、真っ白になった。
「あなたは動けるようになり次第、ここから離脱してください」
「…………ぇ?」
「今のあなたは、無理矢理私の話を聞ける状態になっているだけです。あなたがすぐに手術しないと危険な状態であることに変わりはありません」
高峰皐月が何か言っている。
「……聞いてますか?」
「痛っ!」
高峰皐月が、ナイフの柄で俺の頭を小突いた。
「いきなり何しやがる!」
「聴こえていないのかと思いまして。いいですか? あなたは動けるようになり次第、ここから離脱してください」
「は? でも――」
皐月が。
そんな言葉が喉から出かかって、思い出した。
皐月は。
皐月は、もう。
「……何にせよ、ヨーゼフが生きている限り、あの化物の身体はヨーゼフの支配下にあります」
俺の心情を知ってか知らずか、高峰皐月が俺に語りかける。
「理解しなさい。兼家海斗」
高峰皐月は告げた。
「あなたが皐月と共に生きていくことなんて、もう絶対に不可能なんですよ」
「……ふざけんな」
皐月の心が、もう壊れてしまっているのだとしても。
皐月と共に生きていくことが、もうできないのだとしても。
「だからって、はいそうですか、なんて言えるかよ――!」
俺は今、何のために立ち上がろうとしているのか。
そんなものは決まっている。
……諦めたくないのだ。
皐月のことを、諦めたくないのだ。
「――あ?」
立ち上がろうとして、気付く。
力が、入らない。
「な――」
身体が、動かない。
動かそうとしている感覚はあるのに、足がそれを拒否していた。
この身体に、もうそんな力は残っていない、とでもいうのか。
「……クソ…………っ」
そんな俺を見て、高峰皐月は目を細める。
「ちくしょう……ちくしょう…………ッ」
それは、痛ましいものを見る目だった。
俺は。
……俺は、無力だ。
『お話は終わったかね?』
先ほどからこちらを静観していたヨーゼフが、高峰皐月に尋ねる。
「――――――――――」
高峰皐月は答えなかった。
代わりにその口から洩れたのは、何かの言葉。
そして次の瞬間、それは現れた。
水の触手。
そう形容するのがふさわしいモノが、高峰皐月の足もとから伸び出ていた。
「――――」
何本もの触手は、うねりながらヨーゼフに迫る。
その姿は、獲物を狙う蛇のようだ。
『――おいで、ワタシのミューズ』
ヨーゼフがそう言うと、それは突然現れた。
黒い布を身に纏った、金髪の女性。
顔はフードに覆われていて確認できない。
だが、その肌は半透明だ。
それはつまり、その女性が人間ではない何かであるということを如実に示していた。
「…………」
実体が無くとも感じる、邪悪なる気配。
「…………」
それ――ミューズは、高峰皐月とヨーゼフの間に割って入るように高峰皐月の前に立ちはだかる。
高峰皐月が放った水の触手は、ミューズの前で静止していた。
それはまるで、そこから先に進めない、とでもいうかのような様子で。
「……触媒無しとはいえ、まだそれを召喚するほどの余力があったのですか」
高峰皐月は苦虫を噛み潰したような表情でヨーゼフを睨みつける。
『奏でなさい。高峰皐月』
ミューズが、ヨーゼフの右腕を包み込んだ。
ヨーゼフが叫ぶ。
『――黒衣を纏いしミューズの旋律ェ!!』
ヨーゼフがその言葉を発した瞬間、二つの変化が起こった。
「――な!?」
一つ目は、ヨーゼフの、前田玲子の右腕が弾け飛んだことだ。
「供物……!」
高峰皐月が何か言ったようだが、聞き取れなかった。
二つ目は、
「――――――――――」
それは、あの女性――ミューズから発せられていた。
唄だ。
唄が、聴こえる。
美しい声だった。
だが、どうしてだろうか。
「――――あ」
尋常でないほどの倦怠感が身体を包む。
憤怒。悲哀。憎悪。歓喜。焦燥。
自分の中で、ありとあらゆる感情がごちゃまぜになっているのを感じる。
――これは、聴いてはいけないものだ。
「……あ…………が……っ」
高峰皐月が地面に崩れ落ちるのが見えた。
『ふむ。あっけないねェ』
いつの間にか、唄は止んでいた。
ミューズの姿もない。
『魂を侵す唄だ。もはや、正常な思考などできまい』
ヨーゼフが笑う。
それは、自身の勝利を確信しているような笑みだった。
「――――ふっ」
しかし、俺には見えた。
ヨーゼフだけではなく、高峰皐月も笑っているのが。
『――――!』
ヨーゼフは何かに気付いたように、身体を伏せようとする。
……だが、遅い。
『――――――ッ!?』
爆音が響いた。
「――――は?」
ヨーゼフの身体が爆発した。
無茶苦茶だった。
高峰皐月は、一体どんな魔術を使ったのだろうか。
嫌な臭いと共に、ヨーゼフの身体が地面に転がった。
『く――ッ』
化物の身体も転がっている。
その四肢は今の爆発によってほとんど無くなってしまっていたが、胴体は健在だった。
……いや、よく見ると、胴体にも先ほど高峰皐月が手にしていたサバイバルナイフが突き刺さっている。
仕組みは全くわからないが、先ほどの爆発と、何か関係があるのかもしれない。
そこから血は出ているものの、それが致命傷とはなっていないようだ。
『残念だが、魔獣の本体は致命傷を避けている。キミの――』
そこまで言って、ヨーゼフの顔が、みるみる険しいものに変わっていく。
『――――貴様。何をした?』
「魔力、封印の……術式です。これであなたはもう、私に抵抗できない」
『馬鹿な。その身体に、それほどの素質があったというのかね……』
「――ぁ」
高峰皐月の身体が、今度こそ崩れ落ちる。
「――ッ!?」
佐原の口から、高峰皐月の本体が這い出てきていた。
その異様な光景から、思わず目を背ける。
「………………」
高峰皐月の口からは、夥しい量の血が溢れていた。
『魔力が尽きたか。さすがのキミでも、もう限界のようだねェ』
「……………………」
高峰皐月は答えない。
『とはいえ、魔力が封じられ、四肢を失った胴体だけではワタシも動くに動けない……痛み分け、か』
「……………………」
高峰皐月は動かない。
『喜びなさい。ワタシの目的は達成されなかった。キミたちの勝利だ』
「……………………」
高峰皐月は――
『……もう、聴こえていないか』
高峰皐月は、死んだ。
「ぐ――――ぁ」
それと同時に、地獄の痛みが、再び俺を襲っていた。
高峰皐月が死んだことで、痛覚麻痺の術式が効力を失ったせいだろう。
腹部が熱い。
頭がボーっとする。
何も、考えられない。
そのまま、意識を手放しそうになって――
『――兼家海斗』
「…………あ?」
――そのとき、ヨーゼフが俺に話しかけてきた。
意味がわからなかった。
今更になって、こいつが俺と話すことなどないだろう。
『――キミが、皐月が死んだことを聞いたのは、二年ほど前だったねェ』
「……だったら、何だよ」
半ば、投げやりに答える。
『――二年。二年だ』
ヨーゼフの声は不快だった。
『二年もあれば、人間は忘れるものだ』
脳に直接、言葉が入ってくるような感覚。
『二年もあれば、人間は新しい環境に慣れるものだ』
脳に、精神に、心に、魂に、ヨーゼフの言葉が刷り込まれていく。
『どんなに強い思いを胸に抱いていたとしても、それは風化するものなのだよ』
呪いのように。
『――忘れていたんじゃあ、ないのかね?』
「――――――ッ!?」
その言葉は、俺を動揺させるのに、十分な威力を持っていた。
『サツキのことを、片時も忘れていなかったと言い切れるのかね?』
「…………なん、だと?」
そんなことはない。
俺は、皐月のことが……。
『頭の片隅に埋もれていた幼なじみの少女への想いを、自分の都合がいいように改ざんしたわけではないと、言い切れるのかね?』
「そんな、ことは……」
ない。
ない。はずだ。
「――――――」
何故、俺は、はっきりとヨーゼフの言葉を否定できないのか。
『……その程度なのだよ。キミのサツキへの想いというのは』
呆れたように、ヨーゼフが息を吐いた。
……これは、ヨーゼフの悪あがきだ。
負け犬の遠吠えに過ぎない。
そう自分に言い聞かせても、ダメだった。
『吹けば飛ぶような、脆弱なものでしかない』
何で、俺はヨーゼフの言葉を否定できないのか。
「――――――」
そんなのは、決まっている。
――こいつの言っていること全てを否定することが、できないからではないのか。
「――――――っ」
『あはははは』
ヨーゼフは笑う。
それは、自然な笑みだった。
あたたかな笑みだった。
楽しいことがあったから、笑う。
嬉しいことがあったから、笑う。
そういった種類の笑みだった。
「黙れよ……」
俺は、その場で立ち上がる。
身体が悲鳴をあげていたが、関係ない。
そのまま、ヨーゼフのもとへ歩き出した。
『あはははははははははははははははは』
ヨーゼフは笑う。
俺を見て、俺を笑う。
それが許容できなくて。
「黙れぇ!!」
俺は、ヨーゼフを思いっきり蹴った。
何とも言えない柔らかな肉の感触が、つま先に返ってくる。
『あはははははははは』
ヨーゼフは嗤う。
彼の笑いは、いつの間にか、嘲笑に変わっていた。
「お前のせいで……お前のせいで、皐月はぁあああああああ!!」
ヨーゼフを蹴る足は止まらない。
『あははははははははははははは』
止まらない。嘲笑が。
止まらない。憫笑が。
『あははははははははははははははははは』
「黙れって言ってんだろうがあああああああ!!」
ヨーゼフを蹴る。
蹴る。
今の俺を突き動かしているものは、間違いなく、憤怒だった。
ヨーゼフへの憤怒。
……そして、自身への、憤怒。
自分から、皐月への想いを疑ってしまったことへの、憤怒。
「あああああああああああああああああ!!」
『あはははははははははははははははははは』
ただ、蹴る。
ひたすら蹴る。
化物を。
汚らわしい肉塊を。
蹴って、蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って、蹴った。
「ああああああああああああああああああああッ!!!!」
ヨーゼフを、蹴り続けた。
◇
どれぐらい、そうしていただろうか。
「…………ぁ」
俺は、ようやく止まった。
「……はぁ…………はぁ…………はぁ……」
ヨーゼフの笑い声も、既に止んでいた。
雨は、いまだに降り続いている。
これだけやれば、ヨーゼフも死んでいるはずだ。
……疲れた。
これから、どうしようか。
ああ、そういえば腹に穴が開いてたんだった。
病院に行かなければならない。
様々な事柄が俺の頭の中を駆け巡り――
「――かい……と」
肉塊が、俺の名前を呼んだ気がした。
「――――――――――――――――は?」
背筋が凍った。
意味が、わからない。
意味がわからない。
意味が――
「よ……っ……た」
「ひっ!?」
千切れた醜悪な触手が、俺の足を撫でた。
慈しむように。
その手つきは、愛おしいものに、大切なものに触れるときの、まさにそれだった。
「…………は?」
俺は、それを嫌だとは思わなかった。
そんな自分の心情が理解できない。
……理解、したくなかった。
この違和感の正体を。
理解してしまったら、俺は壊れてしまう。
そんな、確信があった。
肉塊は、もっと上まで触手を伸ばそうとするものの、先ほどの爆発によって千切れたそれは俺の足より上には届かない。
それが何故か、ひどく悲しく思えた。
「――ぁ」
足を撫でる触手から、力が抜けていく。
俺はそれを、ただただ呆然と眺めていた。
「……だいすき」
そして、その肉塊は動かなくなった。
「――あ?」
意識が覚醒する。
「……俺は…………あれ……?」
そうだ。
俺の腹に、何かが突き刺さってて……それで……。
「ようやく目が覚めましたか」
そこでようやく、俺は誰かにおぶさられていることに気付いた。
当然ながら顔は確認できない。
体格からして、俺を背負っているのが男性だということしかわからなかった。
「――二条?」
思いつく中で、一番可能性の高そうな人物の名前を呟く。
「いえ、高峰皐月です」
その名を聞いた瞬間、
「っ!? 離せ!」
反射的に身をよじり、俺はそう叫んでいた。
状況が把握できない。
いったい何がどうなって、俺は高峰皐月に背負われているのか。
「……じっとしていてくれませんか海斗さん。今はそれどころじゃないんですよ」
ため息をつきながら、高峰皐月はそう言った。
「何を――」
言っているんだ、と続けようとした俺の声は、
『……どこまでも、キミはワタシの楽しみの邪魔をするのだねェ』
そんな言葉に遮られた。
低い、男の声。
それは、俺が聴いたことのない声だった。
「だれだ?」
俺はその声の主の姿を確認しようと、高峰皐月の背中から顔を上げ、
「――――ッ!?」
ギョッとした。
前田玲子のお腹から、血まみれの化物の身体が突き出ていた。
体は赤紫色。
小さな頭に毛は生えておらず、充血した目が嫌悪感を湧き立たせる。
人間で言う腕のような部分からは、二本の触手が生えていた。
醜悪な顔面は、微妙に歪んでいるように見える。
一方、前田玲子もひどい状態だった。
化物が突き出ている腹部からは出血が続いており、どう見ても致命傷だ。
高峰皐月を見据え、その声に僅かな怒気を含ませる化物だったが、ふと何かに気付いた様子で、
『おや、キミの身体も相当ガタがきているようじゃないか』
「……あいにく、強姦魔にかける情けは持ち合わせていませんから」
高峰皐月は、よくわからないことを言った。
『いやいや、キミ自身の身体のことだよ。皮なんてどうでもいい』
だが、化物には意味が通じたらしい。
“強姦魔”も“皮”も、佐原のことを指す言葉のようだ。
佐原が強姦魔であるなど初耳だが……と、失血のせいかあまり回っていない頭でぼんやり考える。
『どちらにせよ、そんな刃物に頼っている時点で、程度が知れるというものだねェ。高峰皐月』
「…………」
高峰皐月が、俺を地面に下ろす。
そのとき、彼女の右腕が見えた。
「おいアンタ、その腕……」
高峰皐月の右腕は、ひどい状態だった。
何かが刺さったような跡があり、血に染まった肉が抉れ、骨の一部が剥き出しになっている。正直、見ているだけで気分が悪い。
おそらく、もう使い物にはならないだろう。
俺はそこから視線を逸らし、今度は左手のほうを見た。
高峰皐月の左手には、見慣れないナイフが握られていた。
たしか、サバイバルナイフとかいうやつだ。
「自然治癒力促進の魔術と、痛覚麻痺の魔術を使いました。私が生きている間は、それでなんとかなるでしょう」
「……あ」
言われてから気付いた。
燃えると錯覚するほどの痛みを訴えていた腹部の傷から、痛みが消えていることに。
「私よりも、自分の心配をしたらどうです? 海斗さん」
「それはどういう――」
俺の言葉が最後まで発せられることはなかった。
「俺の、小指が……!」
右手の小指。
薬指の隣にあるはずのそれが、いつの間にか根元からなくなってしまっていた。
歪な断面からは、白い骨を囲むように赤い肉が覗いている。
痛みはない。
……痛みはないが、知らない間に自分の身体の一部が欠損していたという事実に、言いようのない恐怖感を覚える。
「死ぬよりはマシでしょう。指の一本ぐらい我慢しなさい」
高峰皐月の反応はあっさりしたものだった。
「……今は、そんなことを言っている場合じゃないんですよ。そこにいるのはヨーゼフ・カレンベルクです」
「え?」
俺は今、かなり間抜けな顔をしているに違いない。
……ヨーゼフ?
聞き間違いかと思った。
だが、高峰皐月は、たしかにそう言ったように聴こえた。
「お前が、ヨーゼフなのか?」
すぐそこにいる、化物に向かってそう問いかける。
俺の記憶が確かなら、皐月から聞いた話では、ヨーゼフは四十代くらいの男だったはずだ。
間違っても、こんな化物みたいな姿ではないだろう。
俺のその質問に、そいつは顔を顰めて、
『……無礼だねェ。目上の人間は敬うべきだと、お母さんやお父さんから教わらなかったのかね?』
「ええ、あれはヨーゼフ・カレンベルクに間違いありません」
化物――ヨーゼフの言葉を無視し、高峰皐月が俺の質問に簡潔に答えた。
「皐月の意識を食い尽くして、あの身体を完全に支配下に置いているようですね」
「……おい、ちょっと待てよ」
俺はそのとき、初めて気付いた。
さっきから、そのことを考えないようにしていた、自分自身に。
皐月。
そうだ。
皐月は。
「皐月は、どうなったんだ?」
考えていたことが、無意識的に口に出た。
あの醜悪な化物がヨーゼフなのだとしたら、皐月はどこに行ったというのか。
「今のアレは、前橋皐月ではありません。ヨーゼフ・カレンベルクです」
高峰皐月は、さらっとそう言ってのけた。
あまりにもあっさりと。
まるでそれが、取るに足りない事だ、とでも言うかのように。
「どういう、ことだ?」
「言葉通りの意味ですよ」
高峰皐月は、心底つまらなさそうな表情で言う。
「どうやら、ヨーゼフには自身が創りだした魔獣を支配する力があるようです。つまり、今の私と同じような状態にあるわけですね」
高峰皐月の言葉を聞いて、俺は思い出す。
『端的に言えば、今の佐原太陽は――』
佐原が今、どうなっているのかを。
「………………皐月は」
聞きたくない。
聞きたくないが、聞かなければならない。
「もう、皐月の精神は崩壊してしまっているでしょうね」
「――――――――」
頭の中が、真っ白になった。
「あなたは動けるようになり次第、ここから離脱してください」
「…………ぇ?」
「今のあなたは、無理矢理私の話を聞ける状態になっているだけです。あなたがすぐに手術しないと危険な状態であることに変わりはありません」
高峰皐月が何か言っている。
「……聞いてますか?」
「痛っ!」
高峰皐月が、ナイフの柄で俺の頭を小突いた。
「いきなり何しやがる!」
「聴こえていないのかと思いまして。いいですか? あなたは動けるようになり次第、ここから離脱してください」
「は? でも――」
皐月が。
そんな言葉が喉から出かかって、思い出した。
皐月は。
皐月は、もう。
「……何にせよ、ヨーゼフが生きている限り、あの化物の身体はヨーゼフの支配下にあります」
俺の心情を知ってか知らずか、高峰皐月が俺に語りかける。
「理解しなさい。兼家海斗」
高峰皐月は告げた。
「あなたが皐月と共に生きていくことなんて、もう絶対に不可能なんですよ」
「……ふざけんな」
皐月の心が、もう壊れてしまっているのだとしても。
皐月と共に生きていくことが、もうできないのだとしても。
「だからって、はいそうですか、なんて言えるかよ――!」
俺は今、何のために立ち上がろうとしているのか。
そんなものは決まっている。
……諦めたくないのだ。
皐月のことを、諦めたくないのだ。
「――あ?」
立ち上がろうとして、気付く。
力が、入らない。
「な――」
身体が、動かない。
動かそうとしている感覚はあるのに、足がそれを拒否していた。
この身体に、もうそんな力は残っていない、とでもいうのか。
「……クソ…………っ」
そんな俺を見て、高峰皐月は目を細める。
「ちくしょう……ちくしょう…………ッ」
それは、痛ましいものを見る目だった。
俺は。
……俺は、無力だ。
『お話は終わったかね?』
先ほどからこちらを静観していたヨーゼフが、高峰皐月に尋ねる。
「――――――――――」
高峰皐月は答えなかった。
代わりにその口から洩れたのは、何かの言葉。
そして次の瞬間、それは現れた。
水の触手。
そう形容するのがふさわしいモノが、高峰皐月の足もとから伸び出ていた。
「――――」
何本もの触手は、うねりながらヨーゼフに迫る。
その姿は、獲物を狙う蛇のようだ。
『――おいで、ワタシのミューズ』
ヨーゼフがそう言うと、それは突然現れた。
黒い布を身に纏った、金髪の女性。
顔はフードに覆われていて確認できない。
だが、その肌は半透明だ。
それはつまり、その女性が人間ではない何かであるということを如実に示していた。
「…………」
実体が無くとも感じる、邪悪なる気配。
「…………」
それ――ミューズは、高峰皐月とヨーゼフの間に割って入るように高峰皐月の前に立ちはだかる。
高峰皐月が放った水の触手は、ミューズの前で静止していた。
それはまるで、そこから先に進めない、とでもいうかのような様子で。
「……触媒無しとはいえ、まだそれを召喚するほどの余力があったのですか」
高峰皐月は苦虫を噛み潰したような表情でヨーゼフを睨みつける。
『奏でなさい。高峰皐月』
ミューズが、ヨーゼフの右腕を包み込んだ。
ヨーゼフが叫ぶ。
『――黒衣を纏いしミューズの旋律ェ!!』
ヨーゼフがその言葉を発した瞬間、二つの変化が起こった。
「――な!?」
一つ目は、ヨーゼフの、前田玲子の右腕が弾け飛んだことだ。
「供物……!」
高峰皐月が何か言ったようだが、聞き取れなかった。
二つ目は、
「――――――――――」
それは、あの女性――ミューズから発せられていた。
唄だ。
唄が、聴こえる。
美しい声だった。
だが、どうしてだろうか。
「――――あ」
尋常でないほどの倦怠感が身体を包む。
憤怒。悲哀。憎悪。歓喜。焦燥。
自分の中で、ありとあらゆる感情がごちゃまぜになっているのを感じる。
――これは、聴いてはいけないものだ。
「……あ…………が……っ」
高峰皐月が地面に崩れ落ちるのが見えた。
『ふむ。あっけないねェ』
いつの間にか、唄は止んでいた。
ミューズの姿もない。
『魂を侵す唄だ。もはや、正常な思考などできまい』
ヨーゼフが笑う。
それは、自身の勝利を確信しているような笑みだった。
「――――ふっ」
しかし、俺には見えた。
ヨーゼフだけではなく、高峰皐月も笑っているのが。
『――――!』
ヨーゼフは何かに気付いたように、身体を伏せようとする。
……だが、遅い。
『――――――ッ!?』
爆音が響いた。
「――――は?」
ヨーゼフの身体が爆発した。
無茶苦茶だった。
高峰皐月は、一体どんな魔術を使ったのだろうか。
嫌な臭いと共に、ヨーゼフの身体が地面に転がった。
『く――ッ』
化物の身体も転がっている。
その四肢は今の爆発によってほとんど無くなってしまっていたが、胴体は健在だった。
……いや、よく見ると、胴体にも先ほど高峰皐月が手にしていたサバイバルナイフが突き刺さっている。
仕組みは全くわからないが、先ほどの爆発と、何か関係があるのかもしれない。
そこから血は出ているものの、それが致命傷とはなっていないようだ。
『残念だが、魔獣の本体は致命傷を避けている。キミの――』
そこまで言って、ヨーゼフの顔が、みるみる険しいものに変わっていく。
『――――貴様。何をした?』
「魔力、封印の……術式です。これであなたはもう、私に抵抗できない」
『馬鹿な。その身体に、それほどの素質があったというのかね……』
「――ぁ」
高峰皐月の身体が、今度こそ崩れ落ちる。
「――ッ!?」
佐原の口から、高峰皐月の本体が這い出てきていた。
その異様な光景から、思わず目を背ける。
「………………」
高峰皐月の口からは、夥しい量の血が溢れていた。
『魔力が尽きたか。さすがのキミでも、もう限界のようだねェ』
「……………………」
高峰皐月は答えない。
『とはいえ、魔力が封じられ、四肢を失った胴体だけではワタシも動くに動けない……痛み分け、か』
「……………………」
高峰皐月は動かない。
『喜びなさい。ワタシの目的は達成されなかった。キミたちの勝利だ』
「……………………」
高峰皐月は――
『……もう、聴こえていないか』
高峰皐月は、死んだ。
「ぐ――――ぁ」
それと同時に、地獄の痛みが、再び俺を襲っていた。
高峰皐月が死んだことで、痛覚麻痺の術式が効力を失ったせいだろう。
腹部が熱い。
頭がボーっとする。
何も、考えられない。
そのまま、意識を手放しそうになって――
『――兼家海斗』
「…………あ?」
――そのとき、ヨーゼフが俺に話しかけてきた。
意味がわからなかった。
今更になって、こいつが俺と話すことなどないだろう。
『――キミが、皐月が死んだことを聞いたのは、二年ほど前だったねェ』
「……だったら、何だよ」
半ば、投げやりに答える。
『――二年。二年だ』
ヨーゼフの声は不快だった。
『二年もあれば、人間は忘れるものだ』
脳に直接、言葉が入ってくるような感覚。
『二年もあれば、人間は新しい環境に慣れるものだ』
脳に、精神に、心に、魂に、ヨーゼフの言葉が刷り込まれていく。
『どんなに強い思いを胸に抱いていたとしても、それは風化するものなのだよ』
呪いのように。
『――忘れていたんじゃあ、ないのかね?』
「――――――ッ!?」
その言葉は、俺を動揺させるのに、十分な威力を持っていた。
『サツキのことを、片時も忘れていなかったと言い切れるのかね?』
「…………なん、だと?」
そんなことはない。
俺は、皐月のことが……。
『頭の片隅に埋もれていた幼なじみの少女への想いを、自分の都合がいいように改ざんしたわけではないと、言い切れるのかね?』
「そんな、ことは……」
ない。
ない。はずだ。
「――――――」
何故、俺は、はっきりとヨーゼフの言葉を否定できないのか。
『……その程度なのだよ。キミのサツキへの想いというのは』
呆れたように、ヨーゼフが息を吐いた。
……これは、ヨーゼフの悪あがきだ。
負け犬の遠吠えに過ぎない。
そう自分に言い聞かせても、ダメだった。
『吹けば飛ぶような、脆弱なものでしかない』
何で、俺はヨーゼフの言葉を否定できないのか。
「――――――」
そんなのは、決まっている。
――こいつの言っていること全てを否定することが、できないからではないのか。
「――――――っ」
『あはははは』
ヨーゼフは笑う。
それは、自然な笑みだった。
あたたかな笑みだった。
楽しいことがあったから、笑う。
嬉しいことがあったから、笑う。
そういった種類の笑みだった。
「黙れよ……」
俺は、その場で立ち上がる。
身体が悲鳴をあげていたが、関係ない。
そのまま、ヨーゼフのもとへ歩き出した。
『あはははははははははははははははは』
ヨーゼフは笑う。
俺を見て、俺を笑う。
それが許容できなくて。
「黙れぇ!!」
俺は、ヨーゼフを思いっきり蹴った。
何とも言えない柔らかな肉の感触が、つま先に返ってくる。
『あはははははははは』
ヨーゼフは嗤う。
彼の笑いは、いつの間にか、嘲笑に変わっていた。
「お前のせいで……お前のせいで、皐月はぁあああああああ!!」
ヨーゼフを蹴る足は止まらない。
『あははははははははははははは』
止まらない。嘲笑が。
止まらない。憫笑が。
『あははははははははははははははははは』
「黙れって言ってんだろうがあああああああ!!」
ヨーゼフを蹴る。
蹴る。
今の俺を突き動かしているものは、間違いなく、憤怒だった。
ヨーゼフへの憤怒。
……そして、自身への、憤怒。
自分から、皐月への想いを疑ってしまったことへの、憤怒。
「あああああああああああああああああ!!」
『あはははははははははははははははははは』
ただ、蹴る。
ひたすら蹴る。
化物を。
汚らわしい肉塊を。
蹴って、蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って、蹴った。
「ああああああああああああああああああああッ!!!!」
ヨーゼフを、蹴り続けた。
◇
どれぐらい、そうしていただろうか。
「…………ぁ」
俺は、ようやく止まった。
「……はぁ…………はぁ…………はぁ……」
ヨーゼフの笑い声も、既に止んでいた。
雨は、いまだに降り続いている。
これだけやれば、ヨーゼフも死んでいるはずだ。
……疲れた。
これから、どうしようか。
ああ、そういえば腹に穴が開いてたんだった。
病院に行かなければならない。
様々な事柄が俺の頭の中を駆け巡り――
「――かい……と」
肉塊が、俺の名前を呼んだ気がした。
「――――――――――――――――は?」
背筋が凍った。
意味が、わからない。
意味がわからない。
意味が――
「よ……っ……た」
「ひっ!?」
千切れた醜悪な触手が、俺の足を撫でた。
慈しむように。
その手つきは、愛おしいものに、大切なものに触れるときの、まさにそれだった。
「…………は?」
俺は、それを嫌だとは思わなかった。
そんな自分の心情が理解できない。
……理解、したくなかった。
この違和感の正体を。
理解してしまったら、俺は壊れてしまう。
そんな、確信があった。
肉塊は、もっと上まで触手を伸ばそうとするものの、先ほどの爆発によって千切れたそれは俺の足より上には届かない。
それが何故か、ひどく悲しく思えた。
「――ぁ」
足を撫でる触手から、力が抜けていく。
俺はそれを、ただただ呆然と眺めていた。
「……だいすき」
そして、その肉塊は動かなくなった。
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