闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百五十節/挑戦者 下】

 挑戦者たちは、次々とカナンに質問を投げかけた。そのどれもが、カナンと難民団の関係に関する揺さぶりだった。だが、カナンに対して勝利を収めたものは一人もいなかった。

 この場合の勝利とは、民衆に自分の主張の正しさを認めさせることだ。支持の声が多ければ多い程、勝利したという実感は得やすくなる。

 だが、カナンは躱した。ひたすらのらりくらりと議論をやり過ごし、時には逆に質問をぶつけて動きを止め、痛いところを突かれたら自身に批判の矛先を向ける。しかし、最後に発言するのはカナンで、相手は彼女の結びをひっくり返すような言葉を出せないまま、沈黙せざるを得なくなった。


「つまらねぇ」


 そんなカナンの立ち回りに対して、イスラはぶすっとした表情のまま呟いた。彼としては、もっと派手な言い争いになるものとばかり思っていたからだ。その方が観戦のし甲斐があるというものだ。

 ところがカナンときたら、ひたすら逃げの一手を打つばかりで、まともにやりあおうとしない。正面から丸め込んだり、徹底的に論破しようともしなかった。

「もっとこう、なあ? ド派手な喧嘩をやりゃあ良いのに……」

「そんなわけにはいきませんよ。あの人たちを刺激し過ぎたら、ラヴェンナとの交渉で不利になるかもしれませんから」

 コレットは、カナンの言動をそう読み取っていた。今の状態からすると、迂闊に煌都と抗争したくないというのが本音のはずだ。だから自分を悪者と宣言して、話を丸く収めようとしている。

 そんなことは、挑戦してきた継火手たちも分かっていることだ。元よりカナンの立場は非常に弱いものである。

 ただ、カナンがいくら悪者と自称したところで、そうだと思う民衆は皆無だった。だから、継火手たちが思い描いていたような結果は到底得られない。

 続ければ続けるだけ、不毛というものだ。

(……でも、それならもっと他に方法があるはずなのに。まるで、わざわざ論争に付き合ってるみたい……)

 コレットの感じた違和感は、継火手の娘たちも共通して抱いていた。カナンのあまりに超然とした態度は、自尊心の強い継火手たちにとって到底鼻持ちならないものだった。

 ある継火手が、それまでとは少し口調を変えて、カナンに問いかけた。
 

「……継火手カナン。貴女は、自分の行なっている統治に対して、誇りを持っていないのですか?」


 いかなる為政者とて、自分が行なっている政治には何らかの自負心を抱くものだ。

 政治ほど人間に誇りと自尊心を与える仕事は無い。社会を操作し人間を導くことは、それによって得られる実利以上に、人間の精神を満足させる。

 カナンに挑んだ継火手たちも、皆何らかの形で、政治に関与している。別に悪人というわけではないので、日々の仕事は誠実にこなしているし、だからこそ自分の職務に対して大きな誇りを持っている。

 だから、もし自分たちが同じように批判の嵐にさらされたなら、到底我慢は出来ないだろう。

 全く怒らず、感情を剥き出しにしないカナンは、いっそ不気味ですらあった。

 カナンは即答した。


「ええ。誇るつもりなど少しもありません」


 カナンの返答はブレない。そもそも、自分を娼婦よりも低い者と答えた彼女が、この期に及んで考えを変えることなどあり得ない。

 返答の内容は、ある程度予測出来ることだった。だが、継火手たちのカナンに対する感情は、一層捉えどころのないものに変わった。

 そして、こう考える。


「継火手カナン、貴女は……誇るべき何物も無いと言いますが……では、貴女にとって政治とは何なのですか?」


 それは、単純であるが故に複雑な問いだった。貶めようという意図も含まれていない、純粋な問いかけ。カナンという異質な人間の正体を見極めるための問いだった。

 カナンは、またもや即答した。


「政治とは必要悪である、と私は考えています」


 衝撃的な回答だった。同時に、カナン以外の継火手たちにとって、存在意義を脅かしかねない威力を持った言葉だった。

「……どうして、そう思われるのですか? 」

 一人が声を震えさせつつ問いかける。その震えには、怒りや苛立ちと共に、得体の知れないものに対する怯えが含まれている。

 そんな彼女たちに対して、カナンは逆に問いを投げ返した。


「逆におたずねしますが、貴女方は……自身の生まれや、地位、権力というものについて考えたことはありますか?」


「……と、いうと?」


 継火手の娘たちは、カナンの質問の意味が良く分からなかった。何故、政治とは悪であるという文脈から、自分たちに対する反問が提起されるのか。


「そんなこと……別に、考えるようなことではないと思いますが」

「ええ。私たちはシオンの血を受け継ぐ選民、それ以外になにかあると?」


 彼女たちは顔を見合わせながら、カナンの不思議な質問に答えた。こんな分かり切った話は、問題ですらないと思った。


 だが、カナンは密かに溜息をついていた。


 溜息の理由は、きっと自分によく似た人間にしか分からないだろうな、とカナンは思った。

エマやベイベル彼女たちのような人でなければ……)

 三年前にエマヌエルと初めて出会った時。数か月前、大坑窟でベイベルと相対した時。

 前者は正義のために己の力を使うと決意し、後者は悪のために己の力を使った。

 全く相反する力の使い方をした二人の継火手は、しかし、根本的には同じ質問を突き付けられた存在だった。その問いかけに対して、各々異なった答えを出したに過ぎない。

 エマヌエルがベイベルになっていた可能性はあるし、ベイベルがエマヌエルになっていた可能性も当然ありうる。

 そして、カナンはベイベルの誘いを拒絶し、エマヌエルと同じ道を行くと決めた。


「……私が、政治を悪だと断ずるのは、それが支配構造を生み出すものだからです」


 カナンの答えは、やはり継火手の娘たちには響かなかった。皆、不思議そうな表情を浮かべている。自分たちと同じ継火手であるはずなのに、何故そのようなことに気を遣うのだろう、と。


「支配することの、何が悪なのですか? 私たちの支配があればこそ、民衆は平和に暮らすことが出来るのですよ? ここに集まった皆様も、そうお考えではありませんか?」


 継火手たちの呼びかけに対して、集まった聴衆は何も答えなかった。反論の声をあげようとする者は誰一人いない。

 だが、カナンだけは違った。


「この中から、支配されることに異を唱える声が上がらないこと……それこそが、政治の生み出した悪そのものです。
 彼らが発するべき声を持たないのは、我々継火手や祭司、あるいは貴族が政治を独占してきたからに他なりません。政治の独占とはすなわち権力の独占、そして権力を独占すれば、次はそれを動かさないために階級の固定化が図られます。
 ……私たちは、その固定化された権力と階級の申し子。政《まつりごと》は義務であると同時に、我々の負債です。決して誇りを満たすような特権ではありません」


 カナンという人間の根幹にあるのは、まさしく自らの特権に対する嫌悪感に他ならない。その嫌悪を抱き得たのは、彼女自身の精神構造もあるだろうが、何より他の継火手が持たない蒼い天火を持っていたからだ。

 特異な継火手の中でも、更に特異な人間。それがカナンという娘だ。

 だから、自分の在り方が継火手たちから支持を受けないことも、重々承知していた。


「しかし、だからこそ我々は安定した社会を維持することが出来るのです。不慣れな人間に政治を任せれば、煌都の運営は成り立たないのでは?」


 想定通りの、月並みな回答だった。同時にそれは、煌都の支配者たちにとっての一般論でもある。


「人間は、最初からすべてを完璧に行える生き物ではありません。間違いや失敗を繰り返して、少しずつ成熟していくものです。
 それは、人間が作る政治体制も同じ。どれほど困難があったとしても、民衆の手によって運営される政治こそが、もっとも腐敗から遠いものだと考えています。
 我々が目指すべき世界には、世襲制による政治の独占は、きっと存在しない」


 カナンは高らかに、自信を込めて言い放った。

 それは、彼女がこうあってほしいと願う理想の一端だ。階級制と世襲制によって毒された政治を正すには、痛みを伴ったとしても、民衆に政治を委ねるほかないと思う。

 そんな世界ならば、自分も悩みや後ろめたさを抱かず生きていける。自分自身の能力を誇ることも出来るだろう。

 だが、理想を想う一方で、カナンの記憶に刻まれた声が呪詛を吐く。


『大衆は弱く、故に愚かである。弱いから己の考えを持てず、胸を張って発言することも出来ぬ。しかしこれが十、二十と寄り集まると途端に凶暴になる。その上愚かで理性が無いから、白を黒と信じることもあるし、一に一を足して三と答えもする。
 故に真理や正義を説いても意味が無い。彼奴らの卑屈な魂には決して届かぬ。どれほど賢く気高い者であっても、いつかはその愚鈍さ、阿呆ぶり、高慢に耐えられなくなるのだ』


(……それも、確かに正しいのかもしれない)

 カナン自身ですら、そう思う時がある。彼女《・・》の声が耳に焼き付いているからだろうか。

 ましてや、ラヴェンナの継火手たちからすれば、カナンの理想はあまりに突拍子の無いものに思えた。

 継火手の一人が、勝ち誇った顔で言う。


「なら、今すぐ貴女の意見に賛同する民衆を連れてきてください。
 我々の支配を受けずに生きていきたいと思う人間が、果たしているでしょうか」

 
 そう言って振り返った継火手の顔を、誰もみようとはしなかった。白羽の矢を立てられたくないとばかりに顔を背ける。

 継火手という絶対的な権力者に対して、大衆はどこまでも無力だった。この丘には一万人に届こうかというほどの人々が集まっているというのに、誰一人として声をあげようとしない。沈黙が辺り一面を覆い、カナンの言葉は虚しさを増していく。


「御覧なさい、継火手カナン。これが大衆の答えです」


「……」


 カナンは答えない。黙ったままだ。

 黙ったまま、待ち続けていた。


「所詮、大衆は我々継火手に導かれて生きていくのが最上の道なのです! 我らこそ、この世界の正義に……!」


「少し、いいか」


 熱の入った独演を破ったのは、継火手の清廉な声とは正反対の、重々しい声だった。

 誰もが声の主に視線を向ける。左腕に大きな籠を抱えた禿頭の闇渡りが、火傷痕に覆われた右腕を高く掲げていた。

 人々の反応は様々だった。言葉を区切られた継火手たちは当然憎々し気な表情を浮かべるし、都市からやってきた見物人たちも闇渡りの容貌に恐れ戦く。仲間である闇渡りたちも、普段の彼《・》の姿を知るためか、少し遠巻きに様子を見ていた。

 ただ一人、カナンだけは違った。継火手たちの視線が外れるのと同時に、肩で大きく息を吐いた。

「待った甲斐が、ありました……」

 自分は賭けに勝ったのだ、とカナンは確信した。

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