闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百五十節/挑戦者 中】

 難民団の足取りは遅い。疲れやすい老人たちや、歩幅の小さな子供たちを従えているのだから当然と言うべきだろう。

 だが、それに加えて、カナンが行く先々の町や村で足を止めていたからだ。かつてリダの町や風読みの里でそうしたように、どんな小さな燈台にも天火をくべることをおこたらなかった。

 それだけならすぐに済むだろうが、カナンはあえて、集落の中で病み疲れている人々を訪ねて回った。天火をもって病人を癒し、老人の苦しみを和らげることを、カナンは厭わなかった。

 カナンの中心にあるのは善意に他ならないが、こうした行いが自分の、ひいては難民団の印象を良くすることも勘定に入れてある。辺獄に入る前に、闇渡り達に平和な暮らし方を覚えて欲しいという願いもあった。こうしてゆっくりと移動するだけなら、彼らも合間を縫って経済活動が出来るからだ。

 難民への印象はともかく、カナンの姿や立ち居振る舞いは、強く都市生活者の心に焼き付けられた。本来は決して手の届かない存在である継火手が、平民たる自分たちを訪問してくれるだけでも有難いことだ。そのうえ天火の祝福を受けられるとあっては、人気が出るのも必然だろう。

 カナンの人柄と行為は、普段は決して城壁の外に出ようとしない人々の足を、夜の領域へと向けさせた。ほんのわずかな距離とは言え、都市で生きる人々にとっては大冒険だ。闇渡りたちの中に入っていくことも恐ろしい。

 しかしカナンと、彼女の語る言葉に対する興味と好奇心は、恐怖感を上回った。なかには、カナンの姿にかつてのエマヌエル・ゴートの影を見た者もいた。

 そうして集まってきた人々や、闇渡りたちに向けて、カナンは説法をする。神から求められていることと、自分たちが目指すべきものについて。

 その説法は人々を驚かせ、困惑させた。議論を呼び起こし、その渦中から賛同者が現れてくる。

 だが、現れるのは当然、賛同者だけではなかった。



◇◇◇



「……あるところに、鍛治師の師弟がいました。

 親方は朝から晩まで弟子に技術を伝え、弟子も鍛治の技を熱心に覚えようとしていました。

 弟子が一人前の職人になった後、親方は炉の火を分け与えて言いました。お前に教えた技は、この世の全ての人々を幸せにするために使いなさい。決して、人を傷つけるために使ってはならない、と。

 教えに従った弟子は、離れた所に開いた店で、人々のために道具を作り続けました。腕前の良かった弟子は瞬く間に名前を挙げて、名のある貴族や、大商人からも注文を受けるようになりました。

 ですが、いつからか、弟子が作るものは包丁や鎌、鍬や鋤から、剣や槍に変わるようになりました。その方が実入りが良かったからです。

 弟子は店を大きくし、大勢の人夫を雇い、彼の炉は地獄の炎のように朝も夜も燃え盛りました。

 やがて、弟子の噂が親方の元へ聞こえてくると、彼はとても悲しみ、後悔しました。そこで、出かけて行って、弟子の店に入ると、人夫達を押しのけて炉に水をまいてしまいました。光が無くなり、鍛冶屋の中が真っ暗になると、人夫たちは皆逃げ散りました。

 ですが、落ち込む弟子を見た親方は、彼のために小さな種火をつけてやりました。そして言います。私は自分の店に戻るが、いつでもお前の噂は耳に届く。お前が人のために生きる鍛冶師に立ち戻ったなら、いつか祝福してあげよう、と……」

 語り終えたカナンは、静かに息を吐いた。そして、自分の言葉が聴衆たちの間に染みわたっていくのを見守った。

 こうした形の話し方を選んだのは、その方が民衆には伝わりやすいと考えたからだ。哲学的な内容を固い言葉で表現されても、何が何やら分からない。ましてや、継火手の説法に慣れていない闇渡りからすれば、なおさらだ。

 カナンの物語は、聴衆の間で狙い通りの効果を表したようだった。深くうなずく者もいるし、喉を鳴らして唸っている者もいる。特に子供たちは、カナンの言葉を解釈しようと、互いに話し合っている。

これまでも、小さな子供ほど素直に話を聴いてくれた。彼らに自分の言葉が伝わったと感じると、カナンは強いやりがいを覚えるのだった。

 もちろん素直でない人間はそこかしこにいる。カナンの説話から、何とか上げ足を取ろうとしたり、粗を探そうとする者もいた。

 コレットも、あまり素直にカナンの言葉を受け取ろうとは思わなかった。本来は少しも我の強い性格ではないのに、カナンの思想となると、鵜呑みにするのを避けようとする。

 ここ数日で彼女や周囲の人間の人となりはおおよそ把握出来た。彼女が根っからのお人好しであることも重々承知している。ラヴェンナの住人の間で、密かに「聖女の再来」と囁かれていることも頷ける話だ。

 だが、人柄と思想は全く別の問題だ。むしろ、彼女の思想がもたらす危険性……煌都の分裂の可能性を思うと、とても手放しに賛美することは出来ない。

「手を変え品を変え、って感じだな。毎度毎度よくやるよ」

 そして、本来なら一番熱心にカナンを応援しなければならないはずのイスラは、彼女の隣でジャム詰めドーナッツスフガニヤを頬張っていた。

 スフガニヤは、果物のジャムを生地で包んで揚げる菓子だ。まず蜂蜜を大量に消費するジャムを使っている時点で高価だが、そのうえかなり手間をかけて作るため、闇渡りは滅多に食べることが出来ない。

 ある部族が襲撃された際、スフガニヤを作れる職人がひたすら菓子を作って差し出した。襲撃者たちは滅多に食べることの出来ない高級品を心行くまで堪能し、引き揚げていった……そんな逸話があるほどだ。

(もっと応援してあげたら良いのに)

 コレットは呆れ半分にそう思った。イスラはカナンのために色々と尽くしてあげているが、こと思想のこととなると、非常に淡泊になる。時々「本当に尊敬してるのかな……?」と自分の言葉を疑いたくなる。

 そんな彼らがいるのは、聴衆の群れの隅も隅。二人の心境や態度が、そのまま距離になって表れた形だ。

 だが、一歩離れているからこそ、全体の動きも目に入りやすい。

 話を終えて、腰かけ代わりに使っていた岩からカナンが立ち上がろうとしたその時、カナンの前に数人の女性が姿を進み出た。

 近寄って見なくとも、彼女たちが継火手であることは一目瞭然だった。白を基調とした祭司服、権杖、日に焼けた肌と、一通りの特徴を揃えている。

 そのうち、先頭に立っていた継火手が、恭しくカナンの前で腰を折った。

「継火手カナン、たいへん素晴らしいお話でした。我ら一同、貴女の見識に驚嘆しております」

 継火手らしい、張りと明瞭さを併せ持った声だった。それを聞いた聴衆の中からざわめきが起こる。やはり、継火手は自分たち一般人とは違うのだ、と感心する。

 だが、一部の人間は、その声音に含まれている揶揄や嘲笑を正確に読み取っていた。

 無論、真正面からぶつけられたカナンが、一番それを強く感じていた。が、カナンは相好を崩し「ありがとうございます」と返す。

 継火手の娘はひとしきりカナンを褒めそやすと、うってかわって低い声で「ところで」と繋げた。

「貴女のご高説は大変立派なものでした。ですが……聞くところによると、貴女は管理している難民の女たちに、娼婦として働くことを許しているとか。聖なる天火を宿した継火手としては、あまりに不適切な判断ではありませんか?」

 質問を聞いた瞬間、コレットは「来た!」と思った。

 彼女たちは丁寧な言葉こそ使っているものの、本音ではカナンの足元を掬おうとしている。保守派が革新派の言動に眉を顰めるのは当然のこと、こうして挑戦者が現れるのはごく自然な流れだ。

 そして、この質問はカナンにとって最も痛烈な批判となるはずだ。

 この質問には、二つの落とし穴がある。

 一つは、もしカナンが娼婦の仕事を肯定するならば、祭司として、また指導者としての資質を弾劾する切っ掛けが得られる。

 逆に、娼婦の仕事を否定したならば、カナンはこの場で娼婦たち、ひいては難民たちの支持を損なうことになる。

 早速痛い所を突かれたな、とコレットは思った。イスラは隣で「面白くなってきやがった!」と喜んでいる。

 他の聴衆たちにしてもそうだ。闇渡りたちも、都市の平民たちも、いずれもカナンがどう答えるのか耳をそばだてている。カナンの答え次第で、彼女が本当はどちら側・・・・に属する人間なのかが分かるからだ。

 カナンは、即座に斬り返した。

「娼婦は、決して望ましい仕事ではありません」

 そら見ろ、と挑戦者が得意げな顔を浮かべる。聴衆の一部がざわついた。だが、それが大きくなる前に、カナンは第二の矢を放つ。

「ですが、もっと悪い仕事をしている者が世の中にはいます」

 カナンの返し方は、誰にとっても予想外だった。もちろん、一番動揺したのは、挑発した継火手本人だ。避けようのない強烈な一撃を見舞ったつもりだったが、返ってきたのは布を殴ったかのような手ごたえの無さだった。彼女はやや狼狽しつつも「それは誰ですか」と尋ねた。

 カナンは答えた。


「私ですよ」


「……は?」


 挑戦者は、素っ頓狂な声を漏らした。唖然茫然とはこのことだ。先ほどの予想外の返しもそうだったが、カナン相手の応酬では「当たった」という明確な手ごたえが得られない。突けば突くほど、藪蛇が飛び出してくる。

「な、何故そうお考えになるのです……?」

 取り繕いつつ、何とか彼女は返した。ひょっとしたら何も考えていないだけではないのか、と思った。

 そうでなければ、「自分が娼婦よりも悪い」などという言説は出てこないはずだ。

 だが、カナンの考えは、彼女の想定の上を行っていた。


「正確には、指導者である私、と言うべきですね。
 彼女たちが娼婦として働くのは、堕落しているからではありません。それ以外に選べる道が無かったからです。そして、政治指導者の役割は、そうした人々に選択肢を与えることにあります。
 私は娼婦を無くす制度など思いつくことが出来ませんでした。彼女らを、働かせずに養うことも出来ません。よって、娼婦以上に批判されるべきなのは、私自身です」


 カナンの答えは大胆極まるものだった。ほとんど負けを認めたようにすら聞こえてしまう。現に、聴衆のいくらかは、このカナンの言葉で勝敗を決めてしまっていた。

 だが、一部の者……そのうちの一人であるコレットは、カナンが返答のなかに隠したいくつかの罠に気付いていた。

 もともと、挑戦者の継火手は、カナンの継火手としての資質を批判、弾劾する目的で論争を仕掛けた。

 だが、それはあくまで、カナンが反撃し、失敗した場合にのみ意味を持つ。初めから受け身を取られたのでは、どんなに強い言葉を使ったとて暖簾に腕押しだ。カナンは「私が悪い」の一言で、全て逃げ切ってしまう。

 弾劾を避け、それでいて難民たちからの支持を失わないための、絶妙な一手だった。

 しかも、カナンはご丁寧に「指導者である私」と言っている。カナンの論理は、「私」の主語を入れ替えさえすれば、指導者とされる人々を皆批判することが出来るものだ。

 それこそ、挑戦した継火手本人でさえ、例外ではない。

 挑戦者の娘は、それ以上カナンに口出しが出来なくなった。いくら押し込んだところで、のらりくらりと逃げられるのは目に見えている。そして、追いかければ追いかけるほど、危険な藪蛇が次々と仕掛けられることになる。

 カナンの結論に対して二の句を継げないまま、間というには長すぎる時間が経過していた。

「どいて! 次は私よ」

 最初の娘が押しのけられ、次の挑戦者がカナンの前に立った。

「闇渡りのイスラと蒼炎の御子」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く