闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百四五節/歴史の火種】

 この世界ツァラハトが永遠の夜に覆われてから、今の時代に至るまでの正確な長さは分かっていない。

 その原因は、世界の激変に対応出来なかった魔導帝国の崩壊と、それに伴う文明の断絶に起因する。

 闇に覆われた世界。大燈台ジグラートを戴く煌都の建造。それを守護する継火手達と、天火をまつる祭司達の台頭。新たな勢力が力を持つ一方、追放された闇渡り達は各所で猛烈な抵抗運動を開始した。


 そうして社会が再編されるまでの大混乱期に、膨大な量の血が流された。


 現在、世界ツァラハトの全人口は、およそ一千万人程度とされている。十の煌都が管轄する領域内に、それぞれ百万人の人間が分散して生活しているということだ。もっとも、これはあくまで都市部の人数に限るため、政治から締め出されている闇渡り達の総人口は全く分からない。

 しかし、神の刑罰が発動される以前、全世界の人口はこの二百倍に達したという記録が残されている。

 つまり、混乱期において、実に十九億九千万人という途方もない数の人間が姿を消したのだ。

 もちろんこの数字の中には、闇渡りとして都市を追放された者達も含まれている。煌都の全ての管区から離れ、辺境のさらに果てまで逃れた者達もいたことから、実際には先の全員が息絶えたわけではない。


 だが、そんな状況下で文明を紡ぎ続けることなど不可能だ。


 永劫の夜という極限状態に慣れていなかった人々は、まず自分達が生き残ることを最優先とした。中には命がけで書物を守り、それを後世に託した者も存在する。しかし、彼らがそうして戦った期間がどれほどだったのか、正確に言い表せる者は誰もいない。

 もちろん、自分達がどれくらいの時間を生きているのか記録していた者は多数存在する。しかし、その記録の内容は必ずしも一致しない。夜という環境に感覚を狂わされたうえ、常に死の恐怖と隣り合わせの状態で、正確な記録を残し続けるのは大変な困難となる。

 記録の途中、ある者は抹殺され、ある者はそれを捨て、またある者は絶望のうちに投げ出してしまった。

 時間でさえこの有様なのだから、混乱期に世界の歴史を記述出来た者は、本当に極僅かしか存在しない。だが、単純な時間経過を連ねる暦と異なり、歴史の記述は非常に繊細な作業である。それを正確に描き出すことの難しさは、暦の比ではない。

 全世界を覆った混乱が、十の煌都を中心に収束した後。人々は改めて、歴史の記述という大問題に直面し、結果……混乱期の記録を、諦めた。

 不可能だったのだ。

 死者の数は天文学的な域に迫り、かつての主要な人物の行方さえ満足に分からない。混乱期に書き記されたわずかな記録も整合性や信憑性の保証が出来ない。あまりに色々なものが欠け過ぎている。苦し紛れに書かれた年表や列伝は、到底資料と呼べないほどお粗末なものだった。

 混乱期以降、世界中では大規模な戦争はついぞ起こらなかった。互いに資源や資産を貪り合うよりも、協調して現状を維持することが最善とされた。それは当然の判断であろう。もはや人類は、滅亡してもおかしくない瀬戸際にまで追い込まれたのだから。

 しかし、戦争ほど社会を流動させるものは無い。流動しない社会のなかでは、毎日同じ生活が繰り返され、従って同じ歴史のみが紡がれていく。多少の出来事は起これど、世界全体を激震させるような大事件は起こらなかった。

 そして人々は、「それで良し」とした。

 継火手達は世代を重ねながら燈台を守り続け、人類社会に遺された唯一の文明の灯を絶やさなかった。そして、その支配体制が揺るぐことも絶対にありえない。彼女達を中心とした既存の権威を否定したところで、人びとはその代わりとなるものをどこにも求められないのだから。だから、人々はその加護の下で変わらない毎日を生き続ける。

 歴史とは、人類社会の流動の記録である。

 ならば、流動しない社会の記録は、最早歴史とは言えないだろう。

 ツァラハトの歴史は終わったのだ。



◇◇◇



「……と、そう思われてきました」

 がたがたと揺れる馬車の中で、壮年の男が向かい側に座った少女に語り掛けた。少女は手帳の上に羽ペンを走らせながら、熱心に彼の語りに聞き入っている。

「コレット。歴史家の仕事とは何か分かりますか?」

 男は右目に掛けたモノクルを軽く持ち上げた。柔和な雰囲気と相まって、いかにも学者肌といった印象を与える仕草だった。一方、分厚い眼鏡をかけたコレットは、それをずりおとしながら慌てて手帳をめくりなおしていた。

「え、えっと……歴史家の仕事は、これまでに起きた出来事を記述し、検証することにある……です」

「それは私の板書の丸写しだね。自分の言葉で言わないといけないよ」

「は、はいっ、すみませんっ」

 コレットが首を動かすたびに、ぐらついた眼鏡が上下に揺れた。それに構わず、男は揺られながら講義を続ける。

「そう……歴史家の仕事は、まず第一に記録の収集と検証です。混乱期の後、人類は一時的に歴史というものを見失ってしまった。けれど、それは本来あってはならないことなんだ。歴史とは、人類という種そのものが依って立つ、土台のようなものだからね。
 神は我々人間と動物を一緒に想像したが、両者を分け隔てるために、いくつもの賜物を人間に授けた。歴史という概念は、そのなかの一つなのさ。それを見失うことは、神から与えらえた賜物を喪うことに等しい」

 彼が言い終わるのを見計らったかのように、馬車が動きを止めた。御者が車の壁を叩き、「先生、見えました」と声を掛けた。

「……もう着いたのですか?」

 コレットがいささか不安げに訪ねる。

「彼らがティヴォリを出発して二週間近く経っています。ラヴェンナの近くまで来ていたとしても、何もおかしくはありません。さあコレット、降りますよ」

 そう言うなり、男は馬車の扉をあけて地面に降り立ち、スタスタと歩いて行ってしまった。「先生!」とコレットも慌てて後を追いかける。

 石畳の敷かれた街道には、等間隔で天火を宿した小さな灯火が置かれている。ラヴェンナに近いだけあって道幅も広く、頻繁に他の馬車も通り過ぎていく。だが、その御者台に乗った人々も、一様に街道の外に気を取られているようだった。

 また、周囲の村や町から出てきた人々が、仲間や家族を連れ立って道を歩いている。彼らの行き先は一致しており、それはコレット達が目指している場所でもあった。

「先程の板書の件ですが、歴史家の仕事は一つではありません」

 だんだんと増える人混みにも構わず、男は口調を変えずに講義を続ける。コレットは後ろにくっついていくので精いっぱいだったが、何とか彼の話に耳を傾けていた。

「歴史とはこれまでに起きたこと、そしてその帰結として、現在進行形で起きていることの二つを指します。そして歴史家の仕事とは、そうした過去と現在の出来事を記述し、検証することで、不確定な過去、現在、そして未来に輪郭をあたえることにある。
 だとすれば、現在に起きていることを詳細に見ることもまた、歴史家の仕事の一つなのですよ」

「こ、ここに来ることも、仕事の内ですか……!?」

 息も絶え絶えになりながら、コレットが聞き返す。男は「無論」と軽く返した。

「歴史家を名乗る者にとって、ここほど面白い場所はありませんよ、コレット。終わったと思われていた歴史が再び動き出すところを目の当たりに出来るのです。これは大変幸せなことですよ」

 少しずつ増えていく人波に呑まれないよう、男は弟子の手を引いて街道の外、丘の上に進路を向けた。

 そこにはいくつもの篝火があつまり、蠢く人々の気配が満ち溢れている。しかし、頂上だけは妙にがらんとしていた。まるで主を迎える玉座のように。

「さて、それでは歴史の火種……継火手カナンを見物するとしましょうか」

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