闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【断章/グィドの回想】

 僕は勉強をまじめにやってこなかったけど、この世界ツァラハトが宇宙の中心にあるという常識くらいは知っている。

 そんな常識と同じくらい、エマの存在は大きなものだった。生前の彼女はまさしく、ラヴェンナの生ける太陽だった。

 ラヴァル家はラヴェンナの上位を占める由緒ある家系だ。だから、ぼんくらと陰口を叩かれる僕だって、大手を振ってバシリカ城に登城出来る……まあ、大抵は兄上に引っ付いていたんだけど。

 僕があちこちから馬鹿だと言われているのは知っている。まあ、子供の頃からずっとそうだから、今更気になんてならない。実際、兄は出来の良い人だから、比べられちゃ敵わない。

 一応言っておくけど、僕だけが特別出来が悪いってわけじゃない。言い訳じゃなくてさ。

 ラヴェンナの貴族制度ってのは、元々こうなるのが宿命だったんだ。こんなに長く平和な時代が続くなんて思われなかったから、本来なら長子の予備として機能するはずだった第二子、第三子が、その機能を果たさないまま大量に量産された。

 当然、昔は産児制限を設けることも検討されたけど、そうしたらシオンの血も受け継がれないから、新しい継火手も生まれてこない。

 煌都にとって最悪なのは、継火手が居なくなること。それに比べたら、役立たずのぼんくら貴族が増える方が、まだ救いがある。僕だって一応はシオンの血を宿しているから、まあ、種馬にはなれたってわけだ。

 以前の僕は、まさかエマが命を落とすなんて思いもしなかった。だから、城で宴会があるたびに入り浸っては、痛飲を繰り返したものさ。

 僕ら第二子、第三子の集まりが馬鹿騒ぎを許されたのは、ひとえにエマの存在あればこそだ。もし、僕の兄のように頭の固い人ばかりだったら、城下の安酒場くらいしか行き場が無かっただろう。

 彼女は誰にも分け隔てなく優しかった。いくらか義務感もあったかもしれないけど、エマは誰のことも見下さなかった。本当の善人ってのは、彼女みたいな人を指すのだろう。

 エマは、僕らに行き場が無いことを分かっていた。だから城で宴会がある時は、先んじて雰囲気を組み上げて、僕らに居心地の悪さを感じさせなかった。

 彼女の周りには、僕の兄も含めて何人もの取り巻きが集まっていた。そんな人達から見たら、僕らは相当邪魔だったに違いない。でも、エマはそこからふらっと離れて、僕達に話しかけてくれた。


 僕らが、あの少し眠たげに見える瞳に、どれほど救われたことだろう。


 ある時は、僕らの馬鹿騒ぎに便乗して、燈台の遮光壁が上がるまで飲み明かしたこともあった。べらべらに酔った友達が、勢いで身の上話をしても、根気強くいつまでも聴いていたくれた。そいつが泣き出すほど感極まっても、面倒臭そうな表情なんて少しも見せなかった。

 当然、彼女は僕にだって良くしてくれた。公衆の面前で兄から罵倒された時も、やんわりと間に入って、両方に禍根を残さないよう納めてくれた。


 今思うと、エマヌエルという女性ひとは、誰かと接する時にいつも最適の対応が出来る人だった。僕には僕の、兄には兄の、それぞれ合う形で対応を変えていたと思う。


 それは二律背反という意味ではなくて、単に形が違うだけだ。彼女の本意は、いつだって善意であったに違いない。

 その証拠に、彼女はどんな対応の仕方をしていても、決して誰かを見下すことは無かった。でもそれは、同時に誰かを特別扱いしなかったということでもある。彼女は誰にだって平等に接したけど、誰かひとりを余計に持ち上げるようなことはしなかった。

 ただ一人、オーディス・シャティオンを覗いては。

 オーディスは謎の多い男だ。辺境伯の一角であるシャティオン家は、それまで跡取りになる人間が一人もいなかった。でもいつの間にか、どこからか現れたあの男が、その位置についていた。

 まあ、それで大体の事情は察せる。貴族の中ではありふれた話だ。彼の身分が正式に発表されたことはないけど、彼が決して綺麗な生まれでないことは周知の事実だ。現に彼の容姿には、シャティオン家の正妻の色が少しも含まれていない。

 それでも、血を引いていることに違いはない。そのうえ彼は、他のどんな貴族も追いつけないくらいの能力を持っていた。剣にせよ、兵法にせよ、政治にせよ、あるいは社交にせよ、何だってそつなくこなしてしまう。僕らは陰口を言うのが精いっぱいで、それ以上の悪口は言えなかった。


 でも、そんな彼にエマヌエルは惹かれた。


 賭けても良いけど、オーディス・シャティオンがただの優等生だったなら、エマは絶対に惹かれたりしなかっただろう。彼ほどではないにせよ、優秀な貴族の子弟ならいくらでもいるからだ。エマの恋愛観が能力に左右されるなら、とっくの昔に別の家の子弟と婚約していたに違いない。

 オーディス・シャティオンは、表面的には理想的な貴族そのものだ。でも、その裏側には、僕らのあずかり知らない何かがある。エマはきっと、その「何か」のために、彼を愛したのだろう。

 …………と、今ならしたり顔で言えるんだけど、当時の僕らはオーディスを妬んで、歯軋りするばかりだった。そんなことしたって仕方ないのにさ。

 彼が舞踏会に現れると、隅によって恨みの籠った視線を向けたものだ。ワルツが始まって、広間の中心で彼に手を取られている時のエマの表情は、他の人といるときと明らかに違っていた。

 当時は僕も分不相応な片思いをしていたから、やっぱり悔しかった。頭の中じゃあ、僕みたいな地位も能力も不足している人間が恋煩いをするなんて、馬鹿なことだと分かってたんだけどね。

 ある舞踏会の夜(まあいつも夜なんだけど)、僕は胸の中の燻りを誤魔化すようにひたすら飲んだ。飲んで、飲んで飲みまくった挙句気持ち悪くなって、病人みたくふらつきながら外に出た。

 バシリカ城の中にある、広大な森の中をぶらぶらと彷徨った。どこかの木の根元で我慢していた吐き気を解放すると、少しだけ身体が軽くなった。それでも到底戻る気にはなれなかった。自分の吐いた汚物に砂をかけていると、ますます惨めな気分になった。


 そんな時だ。そよ風の中、きこきこと木の擦れる音が聞こえてきた。


 酔いのせいで感傷的になってただけかもしれないけど、やけに物悲しい音だと思った。気が付くと僕は、その音のする方へふらふらと歩きだしていた。

 森が開けて、小さな湖が広がっていた。もちろん人工の湖だ。かつてバシリカ城が本物の要塞だった頃の名残りでもある。今は優美な木々と草花に覆われていて、軍馬の給水場の面影は消え去っている。


 一本の木の枝から、ブランコが吊るされていた。そこに腰かけた少女が、独りぼっちでブランコを漕いでいた。


 もちろん、見覚えのある顔だった。いくらエマがラヴェンナの代表格と言っても、他の者が隠れているわけにはいかない。儀式や行事の折り、時々見かけることはあった。


 ラヴェンナ第二王女、マリオン・ゴート。


 姉とは正反対の吊り上がった瞳、短く切りそろえた髪、小柄な体躯……あの頃のマリオンは十五歳、今よりずっと幼かった。脚を動かすたびに、小さな銀色の靴が光ったのを憶えている。

 それまでも、挨拶くらいは交わしたことがある。といっても、ほんの一瞬のことだ。彼女は僕のことなんて憶えていなかっただろう。

 だから、木の影にぼうっと突っ立ってた僕を見つけると、脚の動きを止めてじっと僕に視線を向けてきた。まるで、忍びこんだ鼠を見るような目だな、と思った。

 実際の所、それは僕の考えすぎだった。一応、マリオンは僕を人間として認識してくれたらしい。「こんなところで、どうしたの」と、とりあえずの質問を投げかけてきた。

「い、いやあ、はは……音がしたもので、気になったのです。まさかマリオン殿下がおられるとは露知らず……」

 赤ら顔のまま、不似合いな謙譲語で喋る僕の姿は、ずいぶん惨めだったに違いない。マリオンは金白色の瞳を細めて、ますます無関心そうに「ふうん」と言った。

「ま、私がどこにいるかなんて、どうでも良いことよね」

 そういって、マリオンは小さく鼻を鳴らした。僕は何て言えば良いのか分からず、もじもじと手を動かすことしか出来なかった。

 マリオンのことは、当然僕だって知っていた。彼女の立場も、評価も、何もかも。エマの近くにいたら誰だって分かることさ。

 つまるところ、彼女も僕らと同じような存在だ。影で「馬鹿のマリオン」と言われているのは知っている。……いや、酔いの勢いに任せて、僕自身もそう言ったことがある。彼女のことを何も知らないにも関わらず、しかも、自分のことを棚にあげて……。

 この時でさえ、僕はひどく居たたまれない気持ちになった。実際に本人がこんなことを言っているのを聞くと、何と言えば良いのか分からなくなってしまう。

 でも、僕の言葉なんてマリオンにとってはどうでも良かったのだろう。

「そんな所に突っ立ってるくらいなら、ブランコを漕いで」

「え……?」

「足が疲れたわ。自分で漕ぐのが面倒くさいの。あなたがやって」

 そう言って、マリオンはパタパタと脚を揺らした。

 何が何やら分からないけど、王女の命令とあっては仕方が無い。彼女にとっては、その辺にいた男を召使の代わりに使ったというところだろう。

 でも、このことが僕の運命を変えるなんて……木の枝から垂れた二本の縄が、文字通り運命の糸だったなんて、手にかけたばかりの僕は気が付かなかった。

 ブランコを揺らしながら、僕達は何気ない会話をつづけた。ほとんどマリオンが一方的に喋っているだけだった。僕と彼女は対等ではなかったけど、それで良かった。

 マリオンは喋り続けた。熱を込めるでもなく、淡々と、つまらなそうに。教師の話が面白くないとか、新しいドレスの生地が気に入らなかったとか、エルシャから来た双子がムカついたとか、そういう他愛の無い話題ばかりだった。

 でも、どんな話になっても、必ずそこにはエマヌエルの影があった。

「お姉さまは、私の持ってない物を全部持ってるわ。そのうちラヴェンナの王冠も……オーディスだってお姉さまのものよ。
 でも、それで良いの。私は今のままで良い。黙ってても、お菓子もドレスも宝石も、何だって貰えるんだから」

 もっと強く漕いで、とマリオンが言った。僕は使い慣れていない腕の筋肉を目いっぱい使って、縄を揺らした。鏡のような湖面に、ドレスをたなびかせたマリオンの姿が映る。

「あ」

 マリオンが声を漏らした。小さな右足から靴が脱げて、水面に波紋が広がった。

 僕は無意識のうちに、湖の中へと踏み込んでいた。冷たい水がブーツの中へと入り込んでくる。僕自身、なんでこんなことをしているのだろうと思った。酒に酔っていた時以上に、熱に浮かされているようだった。

 銀色の靴は簡単に見つかった。僕はそれを持ってマリオンの足元に戻ると、跪いて彼女の脚をとった。

「殿下、濡れておりますが……」

「いいわ、ブランコにも飽きたし。ね? こんな風に、みんな私の欲しいものを持ってきてくれるのよ」

「それは、貴女がラヴェンナの王女であらせられるからです」

「ええ、そうよ。私は王女……役立たずの、馬鹿のマリオン。だから、誰の邪魔もしちゃいけないの」

 去っていくマリオンの足音は、まるで鳥が踊っているかのように軽やかだった。小さな銀色の靴が煌く。僕もぼちぼち、自分の感情に気付き始めていた。

 それは、エマに対する感情が文字通りの憧れに過ぎないという気付きでもあった。

 それと同じくらい、僕はオーディスにも憧れていた。いや、今も……と言うべきかもしれない。

 でも、僕が本当に好きなのは、マリオンただ一人だけだ。彼女は、僕とずっと近い所にいると、その時気付いたから。



◇◇◇

 

 僕は馬鹿のグィドのまま、マリオンは馬鹿のマリオンのままでいられると、本気で思っていた。だって、それ以外の運命があるなんて、想像の余地も無いからだ。僕ら貴族は、ある程度型に嵌まった生き方しか出来ない。

 だから、エマが辺獄の奥深くで亡くなるなんて思いもしなかった。従軍した兄が亡くなって、僕が家長になることも想定外だった。僕はひたすら戸惑うしかなかった。家中の人間が右往左往したものだ。

 そしてまさか、そのまま女王の婿……王配になるだなんて、思いもしなかった。

 嬉しいと言えば嬉しかった。今だってそうだ。でも、結局僕の感情は一方通行に過ぎない。

 マリオンが本当に望んでいたのは、女王の地位なんかじゃない。本当に欲しかった男性《ひと》も、僕なんかじゃない。


 ……そんなこと、一切合切承知の上だ。


 それでも僕は、マリオン達を守らなくちゃいけない。こんな僕が……偶然の積み重ねではあるけれど、どうにかして持つことの出来た家族なんだから。

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