闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三九節/「僕の英雄」 上】

 この場に居合わせたある者は、後にこの時の出来事を「地獄の門が開いたようだった」と語った。

 神が去ったこの世界ツァラハトにおいて、地獄という言葉もまた固定されていない。人によって想像するものは違うし、そこに行く条件も異なる。

 しかし、夜魔憑きの少女の足元に生じた紋章《シジル》より現れ出た者は、全ての人間に地獄という言葉を想起させるに足るものだった。

 まず、天を貫くかのように何十、何百という黒い腕が、月を掻き抱くかのように立ち上がった。神殿の列柱のように聳え立ったそれは、津波のように即座に崩れ、少女の四肢に絡みついた。

「サラっ!!」

 トビアは右腕の痛みも忘れて、彼女の名前を呼んだ。無数の腕にたかられながら、彼女が振り返る。

「――……」

 瞬く間に彼女は黒い繭の中へと閉じ込められる。次いで、それを中心として大きな一つの塊へと昇華していく。紋章《シジル》からはとめどなく黒い腕が湧き出し、絡みつき、人間の筋繊維に倣うかのように巻き取られていく。

 細い腕の集合体は巨木と見まがうような剛腕に変わり、小さな丘ほどもある脚は黒い鱗で固められた。背中には無数の蛇が蠢き、巨大な尾が生え、獅子を思わせる顔と山羊に似た角が天を突くかのように聳え立っている。紅玉のような眼球がいくつも顔の両脇に埋め込まれ、蚊を思わせる紋様が全身を覆った。

 実体を持たなかった影の軍勢とは異なり、それはいまや完全に、一個の巨大な存在として、ティヴォリ遺跡の中心に屹立している。


 その姿はまさしく、古代の書物に登場する魔神そのものだった。


 魔神は軍旗の縫い留められた槍を地に打ち付け、天を仰ぎ咆哮する。それだけで、居合わせた人間の身体は縮み上がり、斬りかかろうとしていた騎士達も動きを止めた。

 だが、魔神は敵対者の存在を赦そうとはしなかった。竦み上がり、武器を取り落としていようと関係ない。憎悪を滾らせた赤い瞳たちが戦場を睥睨《へいげい》し、蟻のように右往左往する人間へ向かって槍を振り下ろす。轟音と共に地面が爆ぜ、その風圧だけで鎧を着こんだ兵士が押し倒される。間髪入れず、掬い取るように槍が薙ぎ払われ、冗談のように空高く放り上げられた。

 たった二回の動作だけで、何人の人間が肉塊に変わっただろうか。衝撃でグズグズになった肉体が地面に叩き付けられると、皮の水筒が破れたように血と肉片が辺りに飛び散った。

 その様を見て、魔神は嗤い、獅子に似た口角を三日月状に吊り上げた。

 この世のものとも思えぬ哄笑がティヴォリ遺跡を満たした。たった一人の魔神が放っているはずなのに、その響きは無数の軍勢の鬨の声に似ていた。あるいは寂れた歯車の集合体が一斉に軋むように、あるいは火にくべられた虜囚の絶叫のように、人間の聴覚が不快と感じる全ての音が奏でられていた。

 ラヴェンナ兵の戦意を挫くには、それだけでもう十分だった。最早誰一人、魔神へ向かって斬りかかろうとする者はいない。散発的に石弓や弓が放たれるが、手元にある武器で闇雲に攻撃しているに過ぎない。誰一人、この魔神を倒せると思っている者はいなかった。

 それは難民団の面々とて同じだった。実勢経験の浅いギスカールは冷や汗を浮かべ、ヒルデに至っては砕け散ったラヴェンナ兵達を見て気を失っている。勇猛で鳴らしたゴドフロア・ロタールでさえ、攻撃の糸口が全くつかめていなかった。霊札を使い切ったペトラには攻撃手段が無く、オルファやサロム、プフェルといった一兵卒に至っては他のラヴェンナ兵達と同じように凍り付いている。

 しかしそんな中にあっても、オーディス・シャティオンは戦意を失っていなかった。

 気絶させた王配グィドを兵士に押し付け下がらせると、聖女の遺剣、月桂樹《アウレア・ラウルス》を抜き放ち、その刀身に口づけした。

「シャティオン卿、どうなさるおつもりですか!」

 部下にそう問われると、オーディスは普段と変わらない口調で「しばし足止めをする」と告げた。

「あれは人間の手に余るものだ。しかし、カナン様とクリシャが戻るまでの時間稼ぎくらいはして見せるさ」

 そう言うなり、彼は制止の声も聴かず駆け出していた。

「月桂樹《アウレア・ラウルス》……今度こそ、私に勝利を与えてくれ」

 突進してくる無謀な騎士に気付いた魔神が、振り返りざまに槍を地面へと叩き付けた。しかし、それが地面を穿った時には既に、オーディスは魔神の足首を斬り割き反対側へと駆け抜けている。次は――当然、尾を振り回して轢き殺そうとするだろうが、その程度は織り込み済みだった。

 オーディスは旋回しようとする尾の上に飛び乗ると、その付け根めがけて月桂樹を撃ち込んだ。魔神が怒りの咆哮をあげ、背中から生え出た無数の蛇が一斉に降りかかった。

 即座に足場を蹴り攻撃から逃れる。しかし、黒い蛇たちは独自の意思を持っているかのようにオーディスを追尾した。

「笑止!」

 だが、彼はその悉くを全て叩き落として見せた。縦横無尽に月桂樹を操り、長剣の反応が間に合わないところでは腰に差した短剣を抜いて二刀へと切り替える。もしここが闘技場の中であったなら、その洗練され尽くした技術は観客の大喝采を招いたことだろう。

 のみならず、月桂樹を地面に突き立てたと思いきや、抜き放った二本の短剣を投擲し、魔神の目のいくつかを潰すことさえやって見せる。

 魔神がよろめいた。左腕で顔を抑え、悲痛ささえ感じさせるような声を漏らす。

 だが、それが大した損傷でないことは、当のオーディス自身が気付いていた。

(決定打にはならん、か……!)

 夜魔を倒す常道としては、天火で焼く、粉々に砕く、頭部を完全に破壊する……という三つの方法がある。だが、この魔神相手では、前者以外の選択肢など選びようもないだろう。

 現に、魔神はオーディスの連撃に臆するどころか、損傷とさえ思っていない。せいぜい痛がる振りをしているだけだ。その証拠に、口元は相変わらず禍々しく歪んでいる。


 だが、その薄ら笑いを黙らせるだけの一撃が、真横から叩き付けられた。


 圧縮された空気の弾丸が魔神の横っ面を張り飛ばし、よろめいた巨体が石柱や石垣を巻き込みながら転倒する。轟音が響き、舞い上がった砂埃が月夜を覆い隠した。

 その濁った大気を、魔力を帯びた風が吹き払う。

「サラは、返してもらうよ!」

 トビアは力の入らなくなった右腕を左手で支え、再度風の砲弾を放つべく詠唱を開始した。魔神が瓦礫を吹き飛ばしながら立ち上がるが、その時には既に、第二撃の準備は整っている。

 今度は顔の正面に、風砲が直撃した。魔神が偽りでない、本当の悲鳴を上げる。

 背後の蛇の群れが長さを伸ばし、接近出来ない本体に代わってトビアを狙う。彼一人ではとても対処することの出来ない攻撃だ。

 だが、トビアの前に滑り込んだオーディスが、何なく蛇の群れを薙ぎ払った。詠唱が終わると同時に身を引き、槍を振ろうとした魔神を再び風砲が直撃する。

 魔神の動きが止まった。遠距離ではトビアの風砲が生き、それを止めようと蛇を使役すればオーディスに叩き切られる。

「っ、これなら……!」

 トビアは更に詠唱を重ねる。このまま動きを止め続けることが出来れば、カナンの帰還まで時を稼ぐことが出来る。彼女達が戻ってくれば、いくら夜魔の力が圧倒的であろうと、何の問題にもならない。

 だが、オーディスはトビアほど楽観的でもなければ、焦ってもいなかった。今までの育ちの中で否応なく鍛え上げられた観察眼は、魔神の次の動作を見逃さなかった。

「何だ?」

 最初に気付いたのは、魔神の口腔内で微かに赤い光が宿ったことだった。僅かな証拠は論理や思考の段階を飛び越えて、一気に彼の危機感覚を刺激した。

「空に踊る者達、風の眷属よ。契約に従い、我が元に……」

「いかん!」

 オーディスは剣を投げ捨てると、外套で包むようにトビアを庇った。詠唱を中断させられたトビアは混乱する。

 直後、魔神の口腔から紅蓮の炎が迸った。法術のように意図的に制御されたものではなく、単に火焔を垂れ流しているだけだが、普通の人間にとっては脅威以外の何物でもない。

 吐き出された火焔は、即座にトビアの集めていた空気に引火した。爆発が起こり、トビアはオーディスに抱えられたまま吹き飛ばされ、各々地面や壁に叩き付けられた。しかし、そうして吹き飛ばされただけまだマシと言うべきだろう。直撃していれば、今頃消し炭になっていただろうから。

 だが、状況が良くなったわけではない。むしろ、戦局は最悪の方向に傾いている。

「っ、君は逃げろ!」

 オーディスがトビアを突き飛ばす。直後、振り下ろされた槍が地面を砕き、その風圧で二人は再び吹き飛ばされた。

 トビアは右肩を強かに打ち付けた。脱臼の痛みがぶり返し、涙で視界が滲む。オーディスがどこにいるのか分からない。目の前には巨大な魔神が立ちふさがり、散々手こずらせてくれた虫けらを叩き潰そうと槍を振りかぶっている。

(ここまで……ここまで来たのに……!?)

 トビアは無意識のうちに、まだ動く左腕を魔神――否、その中に取り込まれたサラへと伸ばしていた。

 今まで、彼女を助けたい一心で旅を続けてきた。様々な人と出会い、様々なことを学んできた。その終局がこれだなどと思いたくない。

 だが、現実として自分は力尽きかけている。カナンが戻ってくるより先に、あの槍が振り下ろされる方が早いだろう。

「でも……!」

 それでもまだ、諦められない。諦めるわけにはいかない。



 ――だって、サラはあの時、確かに……!



 痛みに支配された身体に、再び力を込めて立ち上がろうとする。だが、魔神はそんなトビアを嘲笑った。火焔の漏れ出る口を歪ませ、無数の紅玉のような瞳が爛々と不気味に輝く。せめて目を瞑らずにいたかったが、恐怖は否応なくトビアの身体を蝕み、震えさせる。

 城の主柱よりも長大な槍が天を突き、軍旗がはためいた、その瞬間。

 トビアの真横を、金色《こんじき》の刃を携えた黒い影が、疾風のように駆け抜けていった。

 梟の爪ヤンシュフを魔神の鼻先に引っ掛け、その牽引力と脚力を恃みにほぼ垂直に、一瞬で、逆上がりさながらに魔神の身体を駆けあがる。

 右手に携えた明星《ルシフェル》から、刀身に封じられていた蒼炎が噴き出した。それは無形の刃と化し、彼《・》が通った軌道そのままに魔神の肉体を斬り割いた。

 今までとは比べものにならないほどの大音声が響き渡った。それだけで遺跡のいくつかが倒壊したほどだ。間近で聞いていたトビアも咄嗟に耳を抑えたほどだが、苦痛は感じなかった。それどころではなかった。

 二十ミトラほどの上空から、一つの人影がトビアの眼前へ着地した。激痛に悶える魔神が手あたり次第に遺跡を破壊し、その風圧が彼の黒い外套を強くはためかせた。手入れに無頓着な黒い髪が揺れ、片手で頭をぼりぼりと掻く。


「イスラ……さん……」


 闇渡りのイスラは首だけ振り向くと、少しだけ唇を吊り上げ、ぶっきらぼうに「おう」と答えた。

 その瞳は頭上の月と、そして手にした剣と良く似た金色だが、あの時よりも幾分強い光を宿しているように、トビアには思えた。

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