闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三六節/騒擾と群像 下】

 難民たちの混乱は居留地の中心部から広がっていったが、ペトラがラヴェンナ騎士の主力を無力化したことで収束に向かっていた。

「いやあ、思った以上にあっさり片付いたね……」

 廃墟の上に立ったペトラは、魔導書の表紙を軽く叩いた。

 彼女の足元には、白い鎧を泥まみれにしたラヴェンナ騎士達が蠢いていた。

 何ということは無い、地面に差し込まれた鉄片が道路やその下の土壌を泥に変化させ、騎馬の足回りを奪ったのだ。かといって馬上から下りると、今度は本人たちの鎧の重さで歩けなくなってしまうのだが、焦った騎士達はそこまで考えが回らなかった。

「ラヴェンナ騎士って言っても、素人ばっかりね」

 護衛として矢をつがえていたオルファが呟くが、ペトラは「そうじゃないさ」とたしなめた。

「騎馬兵ってのは、広いところに数を揃えて、そんで一気にぶつける物だからね。こんな狭くてゴチャゴチャ、視界も暗いし見晴らしも悪い場所で小出しに出したって、簡単に抑え込めるさ」

「へぇ……そんな弱点があるなら、騎兵なんて連れてこなきゃよかったのに」

「それが分からないのが、ラヴェンナの坊ちゃん殿下ってことなんだろ。いつだって苦労するのは下々の人間なのさ」

「全くね。カナンは大丈夫だと思う?」

「今は任せるしかない。坊ちゃん殿下はオーディスが丸め込むだろうし、外側はイスラやサイモンが頑張ってる。あたしらは捕虜の武装を奪いながら、混乱を収拾するよ」

 振り返ったペトラはそう命令する。オルファや他の者達もそれに従おうとした。

 だが、それを阻もうとするかのように、彼女達の足元の影が蠢いた。
 最初に気付いたのはペトラ、次いでオルファだった。特にオルファは、以前に大坑窟で全く同じ現象を目にしている。しかし、それを思いだすよりも、衝撃の方が大きかった。

 影が質量を伴って膨れ上がり、大蛇の尾のように振り回される。廃墟の上にいた者達は軒並み払い落とされた。幸い、事前に足元が泥に変えられいたため大事には至らなかったが、今や彼らの立場は泥まみれになってもがいているラヴェンナ騎兵と大して変わらなかった。

「あれは、まさか……」

 髪ごと泥まみれになりながらも、ペトラはそれに構わず頭上を見上げた。ペトラも名無しヶ丘の戦いで目にしたことがある。いや、それ以前にカナンやオルファの口から存在そのものは聞かされていた。

 廃墟の上に、鳥の翼を思わせる服を着た少女が、欠けた月を背にして立っていた。

「ふぅ……ラヴェンナの騎士っていうくらいだから、もっとがんばってくれると思ったのに。やっぱりわたしが働かなきゃいけないんだね」

 嘆息交じりにサラは眼下の光景を見下ろした。わざとらしく肩をすくめ、足元で這いずり回る人間を一緒くたに嘲る。

「ラヴェンナの夜魔憑きかい。話には聞いてたけど、本当に小娘とはね」

 額に張り付いた泥を拭いながらペトラは立ち上がる。同じく泥まみれの魔導書をはたきながら、その中に挟んだ鉄片を引き抜く。

「そういうあなたこそ小女じゃない。っていうか、わたしより背が低いし」

「うるさいよ!」

 廃墟に向けて鉄片を投げつける。突き立つのと同時に描かれた魔法陣が光を放ち、石材を砂の塊に変化させていく。
 だが、サラは軽やかに身体を浮かせると、呼び出した己の影に爪先を乗せた。オルファや他の戦士達が矢を放つが、また違う形の影が彼女の前に立ちふさがり、身を守る。

「とどかないってば、そんなの」

 影の塊が獅子や山羊、あるいは大蛇へと形を変えていく。星空を埋めるように広がっていく異形の影は、難民のみならず泥まみれのラヴェンナ騎兵の恐怖心をも刺激した。

 彼らにしてみれば、本来は王配グィドを護衛するだけの簡単な任務だったはずなのだ。それがいつの間にか戦闘に巻き込まれ、不可思議な術で身動きを封じられた挙句、今度は異形の怪物を従えた少女を目の当たりにしている。いくら訓練を積んでいようと、連続して起こる状況変化に対応出来るほどの胆力は無かった。

 そしてサラにとっても、彼らはすでに用済みの存在だ。ここまで混乱を広げた時点で目的の半分は達成している。こうして自分が出てきたのは、最後のひと押しをするためだ。

 この状況を作るためには、天敵たるカナンを遠くへ追いやっておく必要がある。だから、事前にアブネルを焚きつけることで布石を仕掛けておいたのだ。彼女の姿勢や考え方を踏まえれば、難民の一部であるアブネル派を無碍に殺そうとはしない、彼らが逃げれば自ら説得に赴く……そう動くと確信していた。

「あとは、あの人が帰ってくるまでに、ひと暴れするだけ……」

 ここで収拾不可能なほどに混乱を広げておけば、カナンが戻ってきたところで最早何も出来はしない。散らばった闇渡り達はラヴェンナ領内で問題を噴出させるだろう。

 そんな彼女の思惑はペトラも分かっている。ただ、手段は理解出来ても目的までは分からない。それだけにサラの動きが不気味だったし、何より腹立たしかった。

「何が楽しくって、こんな真似をするんだい。子供の遊びじゃないんだよ!」

「そうだね。わたしだって、遊びでやってるわけじゃないの。だから、今日は本気でいくよ」

 サラを起点に、影の軍勢が滑るように動き出す。まるで山の湧き水のように、広く拡散しながら、染み込むように廃墟の影の中へと潜り込んでいく。ペトラは鉄片を引き抜きいつでも使えるように構えるが、相手の攻め手が分からない以上うかつに使うことは出来ない。

「矢だ! 牽制して少しでも動きを止めるんだよ!」

 そう命じるが、サラの動きの方が早かった。

 弓を携えていた兵士が悲鳴を上げる。見ると、建物の死角から伸びた黒い槍が、彼の肩に突き立てられていた。
 他の場所でも、同時多発的に同じ攻撃が仕掛けられる。しかも、ペトラの傘下だけでなくラヴェンナ騎兵にまで無差別に襲い掛かっていた。身構えていた者はまだしも、戦意を挫かれたラヴェンナ兵達は我先に泥沼から這い出て逃げ出していく。

「逃がさないよ。ちょっとは血を流しておかないとね」

 サラが片手を振り上げる。分散していた影が集まったかと思うと、巨大な獅子の身体を形作り、逃げ惑うラヴェンナ兵の上に飛び掛かった。

「っ、止めな!」

 咄嗟にゴーレムを召喚して阻止しようとするが、獅子と岩人形とでは速度に差があり過ぎる。到底追いつくことは出来ない。

 獅子がその前足でラヴェンナ兵を薙ぎ払う。逃げ遅れた数名の兵士は、鎧を着ているにも関わらずボールのように吹き飛ばされ、沼の中へ逆戻りする嵌めになった。

「オルファ、お前は逃げる連中の手助けをするんだ!」

「分かった……でも、ペトラはどうするの!?」

「やれるだけやる!」

 ペトラは足元の泥に向かって複数の鉄片を投げつける。「これなら一石二鳥!」ゴーレム精製の術を使い、ばらまいた鉄片の数だけ人形の兵士を作り上げる。だが、岩から作った一体目とは違い、今度のゴーレムは全て泥で出来ていた。素材となったのは、彼女らの足回りさえ邪魔していた泥沼である。

「掛かれぇ!」

 ラヴェンナ兵を追い回していた影の獅子に向けて、全ての泥人形を突入させる。その様子を見ていたサラは、他人事のように「器用ね」と呟いた。

 獅子の背後から、数体の泥人形が張り付いた。ペトラは即座にそれらを泥に戻すとともに、新たに鉄片を投げつけた。

「我、真理を探る者也。土塊つちくれよ、大地の牙となり噛み砕け!」

 詠唱と同時に、突き立った鉄片が輝きを放つ。そして、獅子の身体にまとわりついていた泥は、先端を牙のように尖らせた槍へと姿を変え、黒い体躯を地面に縫い付けた。

 作り物にも関わらず、本物の獅子のような咆哮が響き渡った。ティヴォリ遺跡全体をくまなく覆うほどの音量だった。

「これで足止めはしたよ。あとはお前だけだ!」

 残った鉄片を全て引き抜き、サラを見上げる。だが、彼女は全く焦っていなかった。

「本当にそう思う?」

「あん?」

「わからないかな……影は、泥や岩なんかより、ずっと自由なんだよ」

 ペトラがハッと気が付いた時には、すでに影法師の獅子は影も形も無く、彼女の作り上げた岩のオブジェだけが残っていた。
 そして、建物の陰から、大蛇を象った影法師が襲い掛かってくる。

「いつの間に!?」

 ゴーレムを呼び出すが、その股下を潜り抜けて影の大蛇はペトラに襲い掛かる。ちょうど、岩堀族一人分はありそうな大口を開けて。

 もし、新たな乱入者が現れなければ、ペトラは呑み込まれていたかもしれない。

「ふんっ!!」

 真横から飛び込んできた大きな人影が、無骨な鉄の塊を大蛇の頭に振り下ろした。メイスは蛇の影法師のみならず地面まで砕き、鈍い音が響き渡った。

「ゴドフロアの爺さん!」

「これこれ、まだ爺さんと呼ばれるほど歳は喰っておらんよ」

 メイスの柄に片手をかけ、もう片方の手で伸ばした髭をつまみながらゴドフロアは苦笑した。

「どのような形の夜魔であっても、頭を潰せば動きは止まる。辺獄の夜魔と同じ法則であるな」

 夜魔憑きという超常現象を前にしても、ゴドフロアは至って冷静だった。元々長い軍歴があるだけでなく、辺獄での戦闘経験を積んだことで、夜魔の捌き方は十分に心得ている。

「新手……また面倒くさそうなのがきた」

 サラは呟きつつ影を再集結させようとする。だが、視界の隅が瞬いたことで、その作業を中断せざるを得なくなった。

 彼女が飛び退った直後、眩く輝く火球が元居た位置を通り過ぎていった。

「ヒルデ様、外れました」

「み、見れば分かります! ギスカールは、ロタール卿の援護に行ってください!」

 地面に片膝をついたヒルデは慎重に狙いを定めようとするが、それよりも先にサラの攻撃が飛んできた。「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げるが、避けようとする動きは皆無だった。ギスカールが割り込み、剣で影の槍を切り払う。「やはり、お供することにします」「そうしてください……」

「……あいつら頼りない」

「そう言いなさるな。ヒルデ嬢にとっては初めての実戦、ああもなろう」

「まあ、夜魔憑き相手に継火手がいるってだけで、だいぶ有利だからね……さあ、どうするんだい!?」

 影の上に立ったサラに向けて、ペトラは声を張り上げる。

 サラは、誰にも聞こえないほど小さな溜息をついた。

「いろいろ……ごちゃごちゃ出てきて……本当に面倒くさい……」

 その苛立ちを表すかのように、彼女の足元の影が揺らめいた。

 ぐつぐつと、ぐらぐらと。まるで、煮えたぎる地獄の窯のように。

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