闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三五節/ティヴォリ 中】

 ティヴォリ遺跡の草原に竜《ユラン》と共に降り立った操蛇族達は、地面に蹲ったそれぞれの相棒に水を与えていた。

 遺跡のあちこちには水路があり、使う者が居なくなった今も上流の川から水を引き続けている。そこに水桶を浸し、一杯になれば竜達の目の前まで運んでいく。彼らは長い首を折り曲げ、赤い舌でビシャビシャと音を立てながら渇きを癒す。その合間に、手近な所にある草をむしり取り、歯ですり潰していく。見た目こそ肉食動物のようだが、不思議と竜達は肉を食べようとしない。狩りに使う労力が勿体ないと言うかのように、ただ黙々と草を食《は》み続けていた。

 それでも、操蛇族以外の者から見れば、竜は驚異的な生き物に見えた。鼻先から尾の先端まで、小さい個体でも四ミトラ、大きければ十ミトラ近いものまでいる。翼を広げればさらに大きく見えることだろう。真っ白な腹以外はすべて黒い鱗に覆われており、まるで悪魔が甲冑を着こんでいるかのようだ。ウルバヌスで合流した騎士達はもとより、闇渡り達でさえ遠巻きに見ることしか出来なかった。

 操蛇族の騎手達も、そんな人々の反応に慣れ切っていた。竜が人々から恐れられることが無ければ、彼らはもっと楽に生きていられただろう。だが、世代を超えて共存してきた彼らにとって、竜はもはや家族同然の存在である。見捨てることなど、とても出来ない。

 彼らにとって、エマヌエルが提唱した救征軍の思想は、絶望に覆われた世界に差し込んだただ一つの光条だった。エマヌエルの戦死によって一度は途切れたかと思われたが、新たにそれを受け継ぐカナンという存在が現れたことによって、その輝きは再び取り戻されたのだ。

 とはいえ、思想にすがったところで、他の人間から受ける奇異の視線が減るわけではない。難民たちの中にあって、さらに特異な存在でなければならないということを、彼らは半ば諦めに近い心境で受け止めていた。

 だから、遠巻きに見るだけだった群衆の中から、一人の少年が大して緊張もせずに歩いてくるのが見えた時、誰もが驚き作業の手を止めた。

「すみません、ちょっと触ってみても良いですか?」

 鳶色の髪の少年にそう言われて、騎手達は顔を見合わせた。こんな風に話しかけてくる子供なんて、これまで一人もいなかった。

「坊主、竜《ユラン》が怖くないのかい」

 髭を編み込んだ騎手が覆い被さるように立ち塞がった。我関せずとばかりに草を食んでいる竜達よりも、よほど威圧感がある。

 だが、トビアは少しも怖がらなかった。むしろ、胸の中には懐かしさにも似た気持ちが渦巻いていた。竜の翼が遺跡の埃っぽい空気を吹き飛ばした時、かつて住んでいた村での記憶が一斉に湧き出てきた。
 羊たちの集う高原、苔の生えた石垣、蝋燭のような燈台に、シムルグ達の姿。ウルク軍の攻撃から逃れて地表に降り立った後、トビアは相棒のザバーニアから轡《くつわ》を外していた。彼が生き延びたのか、どこの空を飛んでいるのか、今となっては知りようもない。

 竜《ユラン》と操蛇族の姿は、トビアにとって失われた故郷の再現に思えた。

 彼らもトビアの目に宿った郷愁に気付くと、自然と警戒を解いていた。竜たちはゆっくりと首を伸ばしてトビアの周囲を取り囲む。彼がその内の一頭の頭を撫でると、気持ちよさげに目を細めた。

「こいつは驚いたな……」

 操蛇族の誰かが呟いた。竜は穏やかな性格をしているが、その分排他的で、なかなか人間に心を許さない。孵化した瞬間から育て始めても、今ひとつ隔たりを残したままになってしまう騎手もいる。だが、目の前にいる少年は初めて竜に触れたにも関わらず、あっさりと心の警戒を解かせてしまった。あまつさえ、若い個体のなかには少年の服を甘噛みしているものまでいる。

 竜の口がトビアの服の袖を引っ張ったとき、彼らはトビアが竜を手名付けられた証拠を見せつけられた。そこには複雑な紋様の刺青が掘られており、緑色の染料で染められていた。

「坊主、お前さんひょっとして、あの風読みの生き残りか?」

 年配の騎手が尋ねると、トビアは苦労しながら首を縦に振った。あちこちから竜たちが頭を寄せてきて、まともに歩けなくなっているのだ。

「こいつはたまげた、まさか生き残りに出会えるとは思わなかった」

「皆さんは風読みの一族のことを知ってるんですか?」

「ああ。俺たちの先祖とは、切っても切れない関係だ。旧時代から続く本物の魔術師の末裔。俺たち操蛇族は、そんな大魔術師たちの見習いや、使用人だった人間の集まりなんだよ」

「そんなことが……」

 道理で、彼らの姿に郷愁を感じたわけだ。出所が同じなら、懐かしさを覚えるのも無理からぬことだろう。
 それにしても、大魔術師とは大きく出たな、と思った。パルミラでの修行でいくらか強くなれたとはいえ、トビアは自分がそんな器だとは微塵も思っていないし、恐らくさして才能も無いだろう。父親に聞いた話では、世界が閉じられる以前、風読み達は気象そのものを操る力を持っていたという。雲を生み出し、雷を捻じり、果ては大気の組成そのものにさえ干渉する術を誇った。

 そんな力は、もうこの世には存在しない。

(そしてたぶん、無くなった方が良かったんだ)

 サラやカナンの姿を間近で見ると、そう思わずにはいられなかった。かつての輝かしい技の数々は、確かに多くの人々を幸福にしたかもしれない。だが、世の中がそう単純ではないことを、トビアは旅を通して学んできたのだ。

 トビアが竜と戯れているのを見て、闇渡りの子供たちも恐る恐るといった様子で竜に近付いてきた。さすがに彼の時のようにくつろいだ様子は見せなかったものの、トビアが小さな女の子の手を引いて背中に乗せてやった時も、竜は鼻息一つ鳴らさなかった。

「トビア兄ちゃん、ぐらぐらして怖い」

「慣れたら大丈夫だよ。みんな大人しいから、心配しないで……そうだ、これをあげたら良いよ」

 トビアは懐から木の実を取り出すと、女の子に向かって放り投げた。ところが、空中に浮かんだそれを、横から伸びてきた首がぱくりと呑み込んでしまった。それどころか、「もっとよこせ」と言わんばかりにトビアの服を小突いてくる。子供たちの間に笑い声が広がった。つられて、操蛇族の騎手たちも表情を緩める。

 そうして空気がなごむと、ティヴォリの草原を覆っていた緊迫感は少しずつ薄れていった。遠巻きに見ていた闇渡り達も、肩から力を抜いていた。
 いくら世代間の繋がりが希薄と言っても、子供が笑っている様子を見て不快に思う者は少ない。子供が安心していられるということは、それだけ争いが遠いということなのだ。

 それだけに、一度やわらいだ空気が再び固まると、最初よりもさらにほぐすのが難しくなる。

 ティヴォリ遺跡に蹄の音が響き渡る。草原の上に転がされていたトビアが起き上がったときには、遺跡の入り口を封鎖するように百騎近い騎兵が槍の穂先を揃えていた。
 旗手の携えた軍旗には、白地に金の刺繍で織り込まれた羊の紋章が浮かんでいる。彼らが名乗りを上げるまでも無く、操蛇族の者達は気付いていた。

「ラヴェンナ女王の親衛隊……俺たちを追ってきたのか」

 王族たるゴート家を表す紋章を掲げられるのは、ラヴェンナにおいて女王本人とその代理人のみである。そして女王が政務などで煌都を離れられない都合上、領内で自由に親衛隊を動かせる人物は一人しかいないのだ。

 騒ぎを受けて天幕を飛び出してきたカナンが、騎兵達の前に進み出る。オーディスやペトラ、クリシャもそれに従った。

 騎兵達の隊列が割れて、一人の男が進み出てくる。傍らには数人の従者が付き従い、旗手が羊の紋章の旗を携えていた。カナンもオーディスも、親衛隊の旗を見た時にもしやと思ったが、馬上にいる人物を見て確信した。

 相手が何か言うよりも先に、カナンは軽く膝を曲げて会釈した。

「お初にお目にかかります。ラヴェンナ王配、グィド・ラヴァル・ゴート殿下」

 騎上の相手は横柄に片手を振りながら、「やあやあ」と声を掛けた。

「こちらこそ、馬上から失礼した。名乗るよりも先に名前を言われてはやり辛いね」

 答礼にせよ、口調にせよ、どこか軽々しさが漂っている。以前にオーディスから聞いていた通りの人柄のようだ。無論、悪い方向の。

 だとすれば、ここから先は思っていたよりも拙いことになるかもしれない。

 カナンはグィドと話しながら、左手の人差し指で密かに真後ろを指さした。その指示を見たイスラは、誰にも気づかれないよう明星《ルシフェル》を吊るしたまま静かにその場を離れ、群衆の中に身を隠した。

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