闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第百二六節/ウルバヌス 中】
昼食会は奇妙な空気の中で進行した。旧難民団と救征軍参加者は、それぞれ長テーブルの両側に分けて座らされたが、会話のベクトルはほとんどカナンのみに集中していた。
難民団側の中央にカナンが座り、その左右にイスラとペトラの席が振り分けられている。さすがに上座に一人で座らされることはなかったものの、余計に両者の温度差を感じる羽目になってしまった。
ゴドフロアやヒルデを筆頭に、熱心に話を乞われるのは悪い気はしない。ただ、彼らがまるでペトラ達を居ないかのように扱っていることが気にかかった。特にイスラに対しては、時折嫌悪の表情を見せる者までいる始末だ。
集団が膨張すれば、思考や意思が多様化してしまうことは必然だ。闇渡りと肩を並べて戦うことに反感を持つ者が現れるのも当然と言えるだろう。
だが、自分達が今からやろうとしていることは、いわば闇渡りのための戦いなのだ。その大目的をはき違えてしまうと、後々必ず禍根を残すだろう。
そのことにはオーディスも気付いているはずだ。
(だったら、何故?)
ただでさえ困難な戦いに、意思統一の出来ていない人間達が挑むなど無謀極まりない。それが分からないオーディスではないだろう。
確かに人材や資産はいくらあっても足りない。彼ら、旧救征軍の協力を仰ぐのは必然だ。
シャティオン家が辺境伯とは言え、オーディス一人では救征軍を維持することなど不可能だ。パルミラの援助は確実に期待できるとしても、集団を管理する人間までは調達出来ない。トップにカナンを据え、それをオーディスやペトラらが補助するとしても、現場を動かす中級指揮官がいないのでは話にならないのだ。
そんなカナンの疑惑を他所にオーディスは静かにグラスを傾けて、久々の高級なワインを愉しんでいる。腹黒さなど微塵も感じさせない涼し気な表情は、相変わらずだ。
(……私を、試している。そういうわけですね)
カナンはそう思った。それ以外に、オーディスがこの場を用意した目的が思いつかないのだ。双方の顔合わせならもっと別の形で出来るだろうし、事前に知らせるということも出来ただろう。互いの内実や感情がある程度把握出来ていれば、こんなにギスギスとした空気にはならなかったはずだ。
逆に言えば、この程度の不和を中和出来ないようでは、到底エマヌエルの後継は務まらない。オーディスはそう言っているのだ。
カナンは覚悟を決めた。
「……皆さんに、話しておかなければならないことがあります」
主菜の皿が下げられ、食後のコーヒーが並べられる中で、カナンは切り出した。それまでと異なるカナンの面持ちに、対面して座っていた貴族達は不意を突かれたようだった。
「これまで、私が歩いてきた旅路のことを話させていただきました。けれども一つだけ……ここに居る、旧難民団の方々の大半にも、お話していなかったことがあります」
カナンがそう言った時、即座に彼女の言わんとしていることを理解したのは、イスラとペトラの二人だけだった。サイモンもオルファも、反対側の席に座っているオーディスでさえも不意を突かれたような表情を浮かべた。
「私達がエルシャを出発した後……アラルト山脈で、エルシャの騎士達に追われた時のことです。私は彼らのうちの一人に捕らえられ、辱めをを受けました」
食卓を囲った者の中から、一斉にざわめきが沸き起こった。貴族も難民も関係なくカナンの顔を覗き込む。機械のように給仕をしていたメイドたちでさえ顔を見合わせたほどだ。継火手が陵辱される……しかも同じ煌都の人間に襲われるなど、絶対にあってはならない。社会の在り方さえも揺るがすような大事件だ。
「……幸いにも、大事には至りませんでいた。私はまだ純潔を保っています。というのも、ここに居るイスラが、寸でのところで私を守ってくれたからです」
「……」
イスラは腕を組んだまま、何も言わないことにした。彼女がこのことを持ち出すのは、よほどの覚悟があってのことだと分かっていたからだ。
この一件は二人にとってさえ半ばタブー化していた。それを自ら破りに掛かったということは、彼女がこの事件に決着をつけようとしている証拠だ。
「私を犯そうとしたその男性は、アラルト山脈で死にました。今はその人に対する感情は何もありません。ただ、事実に対する嫌悪感と恐怖感だけは……こうして話している今も残ったままです」
ヒルデが小さく息を吸い込んだ。見るからに生真面目そうな彼女の顔は真っ青になっていて、髪と同じ茶色の瞳も、言葉を探って揺れ動いていた。
ペトラが心配そうな表情で見上げている。カナンは少しだけ口元を緩めようとしたが、出来なかった。自分で思っていた以上に、緊張しているようだった。
「あの時……冷たい石の床に押し倒された時、私は継火手でも何でもなく、無力な一人の人間に過ぎませんでした。
その人は言っていました。煌都の男性にとって、私の身体は金の卵を産む雌鶏と何も変わらない、と。私達がそういう商品のような見方をされていることには、ずっと前から気付いていました。もちろんそれを嬉しく思ったことなんて一度もありません。
煌都の中では、私は一人の人間として生きていくことは出来ない。アラルト山脈の瘴土の中で、私はそのことを深く思い知らされました」
コーヒーを一口含みながら、カナンはそれとなく居並ぶ人々の表情を見渡してみた。皆、彼女に対してどのように声をかければ良いか分からないといった風で、腫物を触るかのような腰の引け方がある。ゴドフロアやヒルデは態度を変えなかったが、それ以外の者の中には、明らかに当惑している姿も見られた。
こういう反応は予想出来た。被害者というものは、存在が明かるみに出ても持て余されるものだ。同情だけかけて、いつの間にか風化し消えていってしまう。本当はその者の痛みが消えうせることなど無いのだが、あたかも何も無かったかのように黙殺されてしまう。そういうことは、煌都の中でも当たり前のように起きていることだし、太陽が世界から失われる前も起こっていたことだろう。
だが、カナンは黙する被害者などではないし、そうなりたいとも思っていなかった。
「私は、煌都の価値観のなかでは生きていくことが出来なかった人間です。他の継火手と同じように、鳥籠の中の鳥のような生き方をしても、決して幸福にはなれない。
そして、私がエデンを求めるのと同じように、この世界にはエデンを必要としている人が大勢いる。今、私が率いている人々は、そのほんの一部に過ぎません。
エマヌエル・ゴートは私に切っ掛けをくれました。同じ考え方をして、同じ場所を目指している人がいることは、何よりも大きな原動力でした」
カナンの脳裏に、三年前エマヌエルの見せた笑顔が浮かび上がった。自分の理解者……初めて、自分と同じ考え方をする人に出会うことが出来た。その経験が、エルシャで孤立していたカナンの支えとなってくれた。
師であるギデオンも、姉であるユディトも、自分よりもずっと上手く煌都という環境に溶け込んでいた。それが出来ないのは、自分がどこかおかしいからではないかと思ったこともある。そんな孤立感を癒してくれたのがエマヌエルの存在だった。
だからこそ、彼女が死んだと聞かされた時、エデンを目指したいという気持ちは一層強くなった。そんな思いが最初にあるのは間違いない。
だが……。
「ですが、今の私は、旅に出た頃の私とは全くの別人です。
闇渡りのイスラに助けられつつ、彼がいわれの無い迫害に遭うところを何度も目にしました。山間の村で見捨てられた老人たちと出会い、煌都ウルクの地下で圧制に苦しむ人々を助けたいと思いました。パルミラの戦いで、片割れを失った女性の怒りを受け止めたこともあります。そして、力のある者に振り回されて、行き場を失ってしまった人々の庇護を引き受けました。
私がエデンを求めるのは、私一人のためなんかじゃありません。今の世界の枠組みの中では生きていけない人々のために、私はそこへ向かいたいのです」
後半は、ほとんどまくしたてるかのように言い切ってしまった。日ごろから穏やかな話し方を意識するようにしているカナンだが、今だけはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
だが、言いたいこと、言うべきことを言ったという手ごたえは確かにあった。
今の自分は、旅に出たばかりの頃の頭でっかちなだけの少女ではない。様々なものを見聞きし、体験し、乗り越えてきた。自分の理想は、自分が経験してきた現実に相対するように組みあがっている。
それが伝わっていなければ……ただの「エマヌエルの真似事」と思われたままなら、これから先、絶対に破綻を迎えるだろう。
踏み込み過ぎかもしれない。そう思いながらも、カナンはさらに一言付け加えた。
「私はエマヌエルに感謝しています。けれども、私が行おうとしていることは、彼女がやろうとしたことと異なっています。どうかそれを覚え、もう一度よく考えてみてください。そのうえでご助力が頂けるなら、私にとっては無上の喜びです」
カナンがそう締めくくった時、湯気を立てているカップは一つも残っていなかった。
冷めてしまったコーヒー同様、ラヴェンナ貴族たちの感情まで冷え切っていないか。それについては、カナンとしても祈るほか無かった。
難民団側の中央にカナンが座り、その左右にイスラとペトラの席が振り分けられている。さすがに上座に一人で座らされることはなかったものの、余計に両者の温度差を感じる羽目になってしまった。
ゴドフロアやヒルデを筆頭に、熱心に話を乞われるのは悪い気はしない。ただ、彼らがまるでペトラ達を居ないかのように扱っていることが気にかかった。特にイスラに対しては、時折嫌悪の表情を見せる者までいる始末だ。
集団が膨張すれば、思考や意思が多様化してしまうことは必然だ。闇渡りと肩を並べて戦うことに反感を持つ者が現れるのも当然と言えるだろう。
だが、自分達が今からやろうとしていることは、いわば闇渡りのための戦いなのだ。その大目的をはき違えてしまうと、後々必ず禍根を残すだろう。
そのことにはオーディスも気付いているはずだ。
(だったら、何故?)
ただでさえ困難な戦いに、意思統一の出来ていない人間達が挑むなど無謀極まりない。それが分からないオーディスではないだろう。
確かに人材や資産はいくらあっても足りない。彼ら、旧救征軍の協力を仰ぐのは必然だ。
シャティオン家が辺境伯とは言え、オーディス一人では救征軍を維持することなど不可能だ。パルミラの援助は確実に期待できるとしても、集団を管理する人間までは調達出来ない。トップにカナンを据え、それをオーディスやペトラらが補助するとしても、現場を動かす中級指揮官がいないのでは話にならないのだ。
そんなカナンの疑惑を他所にオーディスは静かにグラスを傾けて、久々の高級なワインを愉しんでいる。腹黒さなど微塵も感じさせない涼し気な表情は、相変わらずだ。
(……私を、試している。そういうわけですね)
カナンはそう思った。それ以外に、オーディスがこの場を用意した目的が思いつかないのだ。双方の顔合わせならもっと別の形で出来るだろうし、事前に知らせるということも出来ただろう。互いの内実や感情がある程度把握出来ていれば、こんなにギスギスとした空気にはならなかったはずだ。
逆に言えば、この程度の不和を中和出来ないようでは、到底エマヌエルの後継は務まらない。オーディスはそう言っているのだ。
カナンは覚悟を決めた。
「……皆さんに、話しておかなければならないことがあります」
主菜の皿が下げられ、食後のコーヒーが並べられる中で、カナンは切り出した。それまでと異なるカナンの面持ちに、対面して座っていた貴族達は不意を突かれたようだった。
「これまで、私が歩いてきた旅路のことを話させていただきました。けれども一つだけ……ここに居る、旧難民団の方々の大半にも、お話していなかったことがあります」
カナンがそう言った時、即座に彼女の言わんとしていることを理解したのは、イスラとペトラの二人だけだった。サイモンもオルファも、反対側の席に座っているオーディスでさえも不意を突かれたような表情を浮かべた。
「私達がエルシャを出発した後……アラルト山脈で、エルシャの騎士達に追われた時のことです。私は彼らのうちの一人に捕らえられ、辱めをを受けました」
食卓を囲った者の中から、一斉にざわめきが沸き起こった。貴族も難民も関係なくカナンの顔を覗き込む。機械のように給仕をしていたメイドたちでさえ顔を見合わせたほどだ。継火手が陵辱される……しかも同じ煌都の人間に襲われるなど、絶対にあってはならない。社会の在り方さえも揺るがすような大事件だ。
「……幸いにも、大事には至りませんでいた。私はまだ純潔を保っています。というのも、ここに居るイスラが、寸でのところで私を守ってくれたからです」
「……」
イスラは腕を組んだまま、何も言わないことにした。彼女がこのことを持ち出すのは、よほどの覚悟があってのことだと分かっていたからだ。
この一件は二人にとってさえ半ばタブー化していた。それを自ら破りに掛かったということは、彼女がこの事件に決着をつけようとしている証拠だ。
「私を犯そうとしたその男性は、アラルト山脈で死にました。今はその人に対する感情は何もありません。ただ、事実に対する嫌悪感と恐怖感だけは……こうして話している今も残ったままです」
ヒルデが小さく息を吸い込んだ。見るからに生真面目そうな彼女の顔は真っ青になっていて、髪と同じ茶色の瞳も、言葉を探って揺れ動いていた。
ペトラが心配そうな表情で見上げている。カナンは少しだけ口元を緩めようとしたが、出来なかった。自分で思っていた以上に、緊張しているようだった。
「あの時……冷たい石の床に押し倒された時、私は継火手でも何でもなく、無力な一人の人間に過ぎませんでした。
その人は言っていました。煌都の男性にとって、私の身体は金の卵を産む雌鶏と何も変わらない、と。私達がそういう商品のような見方をされていることには、ずっと前から気付いていました。もちろんそれを嬉しく思ったことなんて一度もありません。
煌都の中では、私は一人の人間として生きていくことは出来ない。アラルト山脈の瘴土の中で、私はそのことを深く思い知らされました」
コーヒーを一口含みながら、カナンはそれとなく居並ぶ人々の表情を見渡してみた。皆、彼女に対してどのように声をかければ良いか分からないといった風で、腫物を触るかのような腰の引け方がある。ゴドフロアやヒルデは態度を変えなかったが、それ以外の者の中には、明らかに当惑している姿も見られた。
こういう反応は予想出来た。被害者というものは、存在が明かるみに出ても持て余されるものだ。同情だけかけて、いつの間にか風化し消えていってしまう。本当はその者の痛みが消えうせることなど無いのだが、あたかも何も無かったかのように黙殺されてしまう。そういうことは、煌都の中でも当たり前のように起きていることだし、太陽が世界から失われる前も起こっていたことだろう。
だが、カナンは黙する被害者などではないし、そうなりたいとも思っていなかった。
「私は、煌都の価値観のなかでは生きていくことが出来なかった人間です。他の継火手と同じように、鳥籠の中の鳥のような生き方をしても、決して幸福にはなれない。
そして、私がエデンを求めるのと同じように、この世界にはエデンを必要としている人が大勢いる。今、私が率いている人々は、そのほんの一部に過ぎません。
エマヌエル・ゴートは私に切っ掛けをくれました。同じ考え方をして、同じ場所を目指している人がいることは、何よりも大きな原動力でした」
カナンの脳裏に、三年前エマヌエルの見せた笑顔が浮かび上がった。自分の理解者……初めて、自分と同じ考え方をする人に出会うことが出来た。その経験が、エルシャで孤立していたカナンの支えとなってくれた。
師であるギデオンも、姉であるユディトも、自分よりもずっと上手く煌都という環境に溶け込んでいた。それが出来ないのは、自分がどこかおかしいからではないかと思ったこともある。そんな孤立感を癒してくれたのがエマヌエルの存在だった。
だからこそ、彼女が死んだと聞かされた時、エデンを目指したいという気持ちは一層強くなった。そんな思いが最初にあるのは間違いない。
だが……。
「ですが、今の私は、旅に出た頃の私とは全くの別人です。
闇渡りのイスラに助けられつつ、彼がいわれの無い迫害に遭うところを何度も目にしました。山間の村で見捨てられた老人たちと出会い、煌都ウルクの地下で圧制に苦しむ人々を助けたいと思いました。パルミラの戦いで、片割れを失った女性の怒りを受け止めたこともあります。そして、力のある者に振り回されて、行き場を失ってしまった人々の庇護を引き受けました。
私がエデンを求めるのは、私一人のためなんかじゃありません。今の世界の枠組みの中では生きていけない人々のために、私はそこへ向かいたいのです」
後半は、ほとんどまくしたてるかのように言い切ってしまった。日ごろから穏やかな話し方を意識するようにしているカナンだが、今だけはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
だが、言いたいこと、言うべきことを言ったという手ごたえは確かにあった。
今の自分は、旅に出たばかりの頃の頭でっかちなだけの少女ではない。様々なものを見聞きし、体験し、乗り越えてきた。自分の理想は、自分が経験してきた現実に相対するように組みあがっている。
それが伝わっていなければ……ただの「エマヌエルの真似事」と思われたままなら、これから先、絶対に破綻を迎えるだろう。
踏み込み過ぎかもしれない。そう思いながらも、カナンはさらに一言付け加えた。
「私はエマヌエルに感謝しています。けれども、私が行おうとしていることは、彼女がやろうとしたことと異なっています。どうかそれを覚え、もう一度よく考えてみてください。そのうえでご助力が頂けるなら、私にとっては無上の喜びです」
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