闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二二節/パルミラを後にして 下】

 マスィルの元を訪れてから、気がつくと二時間近く経っていた。彼女に見送られて屋敷の玄関に出た時には、燈台の遮光壁が徐々に閉じつつあるところだった。

(イスラ、どこに行ったんだろ)

 闇渡りが一人で煌都をうろつくのは、大層肩身が狭いだろう。話し込むあまり放置してしまったことに軽い罪悪感を覚えた。

「……一つ謝らないといけない」

 屋敷の門まで来たところで、マスィルは呟くように言った。思考を他所にやっていたカナンは「はい?」と頓狂な声を出して振り返る。

「あの時、私はお前に熾天使級の術を使わせてしまった……術者の寿命を削るという伝承が本当かどうかは分からない。でも、あれだけの術だ、何か影響があったんじゃないか?」

 マスィルの言葉に対して、カナンは可能な限り表情を動かさないよう努めた。

 頭の中では、あの時見た超越的な世界が浮かび上がっていた。

 イスラにさえまだ話していない……それどころか自分自身でさえ疑い半分のこと。それを誰かに話したところで、夢でも見たのではないかと一蹴されそうな気がした。

 イスラなら信じてくれるかもしれない。だが、まだカナン自身の踏ん切りがついていなかったし、そもそもあれ以降自分の中の天火アトルは平穏そのものだ。翼の卵に噛り付いていた禍々しさや、炎で出来た騎馬を叩き落とした時の猛々しさなど、どこにも感じられない。

 それに、自分の天火について考えを巡らせるほどの余裕も無かった。

 だから、カナンは内面を隠すように微笑み「何もありませんでしたよ」と答えた。

「そうか、なら良いんだが……」

 マスィルはほっと表情を緩める。カナンはうっかり微笑を崩しそうになった。

「だが……私が言えた義理ではないが、もうあんな無茶はするな。天火の使い過ぎが負担になることくらい、お前だって知っているだろう。今は大丈夫でも、次に使ったらどんな反動が来るか分からないんだぞ」

「それは約束出来ません」

「どうしてだ!」

 マスィルが声を荒げる。まるでヴィルニクが生きていた時の調子にそっくりだな、と思った。

「必要な時、求められる時があったら、私は迷わずこの力を使います。それが継火手に求められる責務であり、私が選んだ生き方だからです」

「その生き方が、お前から大切なものを奪ったらどうする?」

「まだ分かりません。私の決意が試されるのは、奪われるその時でしょうから。
 だから今は、この生き方が与えてくれたものを大事にしようと思います」

 胸にペンダントの感触を、唇にイスラの味を思い出しながら、カナンは答えた。

 そうか、とマスィルは呟く。

「私はお前みたいにはなれないだろうな。何というか……お前みたいに振る舞ったところで、照れ臭くて仕方無いだろうからな。真顔でいられる気がしない」

「その言い方はひどいですよ……」

「ああ。お前はお前のやりたいようにやれば良いさ。私も私なりに……あいつが求めていたものを目指そうと思う。
 じゃあな、継火手カナン。また会おう」

 マスィルが手を差し出す。

「ええ、またいつか」

 カナンはその手を握り返すと、踵を返して歩き始めた。



◇◇◇



 その男の首は、煌都パルミラを構成する島のなかで最も小さい場所に晒されていた。船具を仕舞う倉庫が立ち並ぶ殺風景な小島で、当然人の通りなどほとんど無い。

 敵将の首を掲げるのならば人通りの多い場所に置くのが通例であり、現にパルミラへ持ち込まれた当初は本島の神殿前に置かれていた。だが、見物人の幾人かが次々と不幸な目に遭ったため、憎しみや嘲笑は気味悪さへと転化した。その首は未だに煌都の人間を呪っているとされたのだ。

 今では誰も、男の首を見に来ようとしない。用事があって小島を訪れた者も、足早に首の前を通り過ぎていく。

 イスラがそこを訪れた時も、あたりはしんと静まりかえっていた。

「よお、ずいぶんとみすぼらしい姿になったじゃねえか」

 返ってくる言葉などあるはずも無いのに、イスラは無意識のうちに語り掛けていた。

 この男はとんでもない悪党だった。この有様は当然の報いだ。自分自身のエゴのために大勢の人間を振り回し、そのことに対して罪悪感を微塵も感じなかった。それどころか、他人を振り回すことに喜びさえ感じていた。

 だから、こうして死んだのは正しい。こんな人間を目指してはならないし、憧れることも許されない。

(でも……)

 イスラは、自分とその首とが、とても近しいものに思えた。

 その男の最期に立ち会った時、嫌が応にも自分との類似点を意識せずにはいられなかった。

 たった一人で戦いの夜の中を生き延び、もがきながら前に進み続けた……もし自分がカナンと出会わなかったなら、いつかこの男のように目標を求めて暴走していたかもしれない。


 そういう意味では、この男は、あり得るかもしれない自分自身だ。


 いつか自分も、何かの手違いでこうなるかもしれない。

(冗談じゃない)

 イスラはかぶりを振った。

 こうならないために、自分はカナンと行く道を選んだのだ。一つの目標に向かってひたむきに駆ける人間の姿を見ていたい。そうすることによっていつか自分のなかにも、目指したいと思う何か、成し遂げたいと思う何かが芽生えるかもしれない。

 目下、一番それに近いものがあるとするならば、それこそカナンと共にいることだ。


 闇渡りの自分が、継火手の彼女と共に旅をすること。そのことにはきっと、とても大きな意味があるはずだ。


 もう血の呪いに惑わされたりはしない。どれほど白い目で見られようと、彼女の傍らに立ち続ける。
 それが、今の自分が成すべきこと……成したいと思うことだ。

(結局、それが確認したかっただけなんだな)

 イスラは自分のなかでそう結論づけた。自分一人で考えるのは苦手だし、かといって打ち明けられる相手もいない。

 ここに来たのも、仮初の対話相手が欲しかったからに過ぎない。

 イスラは踵を返そうとした。黒い外套が川から吹き寄せてくる風にまくられた時、布のはためく音の中に声のようなものが混じっているような気がした。

「まあ、試してみろよ」

「そのつもりだ」

 イスラが立ち去ると、小島は再び静寂に包まれた。



◇◇◇



 パルミラを縦断するように移動したイスラだが、帰り道は思った以上に大変だった。闇渡りが一人で街の中枢を歩いているというので、衛兵が何度もやってきては質問攻めに遭ったのだ。許可証があるため何とかなったが、おかげで行きの数倍の時間が掛かってしまった。

 もっとも、早く戻ったところでカナンとは合流出来なかったのだから、うまく時間の都合がついた形だ。そう思わないとやっていられない。

「だいぶ長く話してたんだな」

「ええ、いろいろと……話せてよかったです」

「そうか。元気だったんだな?」

「思っていた以上は、ね。でも、まだ辛い時期だと思います」

「……そりゃそうだろうな」

 マスィルとヴィルニク、自分達以外の継火手と守火手。彼らが今回の事件のなかで迎えた顛末に思いを馳せると、どうしても「自分達はどうなるだろう?」と自問せずにはいられなかった。


 もし、旅のなかで相棒を失ってしまったら?


 二人はパルミラの人混みに負けないよう、肩を寄せて道を歩いた。夕飯時が近いということもあって、パルミラの中央通りは人で溢れかえっている。家庭を支えている逞しい主婦たちが、文字通り争うように夕食の食材を買い求め、商人たちもそれに劣らない熱量で品物を売りさばく。こんな人のるつぼのなかでは、ぴったりとくっついていないとすぐに押し流されてしまう。

「なあ、カナン」

「はい?」

「手をつなごう」

 流されないために、とイスラは言い添えた。言ったはいいものの、今度は少しだけ怖くなった。こんな大勢の人間がいるところで彼女に触れて良いのか、そんな自問が頭の片隅から聞こえてくる。

 それでもイスラは左手を伸ばし、カナンの右手に触れた。カナンは何も言わず、にこりと笑うと、その手を固く握り返した。

「……さあ。帰ったら、ご飯を食べて、それから最後の準備に取り掛かりましょうか」

「明日には出られるように、ってか?」

「ええ。パルミラともお別れです」

「根を詰めすぎるなよ、これからが大変なんだからな」

「分かっています。イスラこそ、あんまり無茶ばかりしないでくださいね」

「そりゃ無理だ」

「またぁ……この聞かん坊っ」

 カナンが軽く体当たりする。肩に彼女の頭がぶつかった時、イスラの鼻元に微かに香水の匂いが漂ってきた。それが、今の距離の近さを示しているかのようだった。

 この街で色んなことがあり、様々な人間と出会ってきた。その巡り合わせを乗り越えて、イスラは、自分が確かに前に進めたのだと確信した。

 血の呪いを踏み倒して、今はその向こう側にいる。その薄い壁はなかなか破れなかったが、今は確かに線を跨いだ後なのだ。

 繋いだ手を離さないよう、イスラは力を込めてしっかと握り締めた。

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