闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二二節/パルミラを後にして 中】

 パルミラ市内に設けられた、煌都ウルクの公館。その一室で、サラはネルグリッサルと向かい合っていた。

 サラの影が蠢き、その中から剣の残骸が押し出される。人面を模した不気味な彫像、髪の束で織られた柄。

 ネルグリッサルはウドゥグの剣の柄を手に取り確かめると、無感動な声で「ご苦労だった」とねぎらいの言葉を掛けた。

「あまり褒められた気がしないわ」

「性分だ。ともかく、君はしっかりと任務を果たしてくれた」

 人を褒める時はもっと良い顔をしなさい、とサラは思ったが、ネルグリッサルはこういう男だ。ベイベルに付き従うために心を殺した官僚に、何を言ったところで通じない。

「わたしはかまわないわ。でも、今はそっちの方が大変なんじゃないの?」

「ああ。ウルクと闇渡り達の間に何らかの取引があったのではないかと、矢の催促だ。まあ、私や公館の職員の仕事が増える程度のこと。こうして君が証拠を回収してくれた以上、彼らに出来ることは何も無い」

「そう」

 サラは枕の敷かれた長椅子に飛び込むと、パタパタと脚を揺らした。ここしばらくは野宿や硬いベッドばかりだったため、この柔らかい感触はこたえられない。元々は闇渡りとして生まれ育った彼女だが、それだけに寝台やクッションにはこだわりがあった。

 嫌な仕事だった。むさくるしい闇渡りの中に居るのは苦痛だったし、風呂はおろか水浴びさえ満足に出来なかった。身体を拭くのがやっとで、体臭は香水で誤魔化していた。普通の少女よりも大人びているサラは、その分身なりに対しての自意識も大きかった。

 だが、しばらく休みたいという希望は、ネルグリッサルの言葉によって無情に砕かれた。

「すまないが、ウルクから新しい指令が来ている」

「……また?」

「生きている限り、仕事に終わりなど無い。我々は、特にそうだろう?」

「あなたって、きっとベイベルに会わなくても退屈な人だったでしょうね」

「パルミラを混乱させることには成功した。通商の要地であるパルミラの麻痺は、隣接するニヌアとラヴェンナのみならず、全ての煌都に影響を及ぼしている」

 サラの皮肉などどこ吹く風で、ネルグリッサルは淡々と説明を続ける。サラがむくれた顔をしてもお構いなしだ。

「次の目標はラヴェンナだ。継火手カナンは、難民共を辺獄に連れ込もうとしている。当然ラヴェンナからの支援が必要になるだろうし、ラヴェンナはラヴェンナで、問題を全煌都で共有しようと動くだろう」

「……あの偽善者のやりそうなことね」

 サラはカナンが嫌いだった。面と向かい合ったのは一度だけだが、ちょっと話をしただけで「こいつとは仲良く出来ない」と確信した。

 生まれた時から全ての人間に祝福されてきた彼女に、本当に虐げられてきた人間の気持ちなど分かるはずがない。にも関わらず、さも弱者の味方の如く振る舞う彼女がサラは嫌いだった。上っ面だけの言葉を並べ立てるだけの、頭でっかちな半端者に過ぎないのではないかと思ってきた。

 だが、あのベイベルが、そんな中途半端な人間に敗れるはずがない。ましてや心の内側を看破されたなど到底信じられなかった。

(もしかすると……あの人がベイベルを理解できたのは……)

 サラは一つの可能性を思い浮かべた。

 もしカナンの内面が、自分の考えている通りだとすれば、彼女の行いは正真正銘の偽善というほかない。そんな人間にほいほい乗せられる大衆の気が知れない。

「……こんどは、ラヴェンナを引っ掻き回せば良いのね?」

「そういうことだ。我々も政治的な面から援助する。それにラヴェンナとしても、無用な出費は避けたいところだろう。あそこはパルミラよりも遥かに武断的な気風が蔓延している土地だ。例えば……我々が継火手カナンを抹殺したとして、後に残された闇渡りを処分することに何の躊躇も持たないだろう」

「そう。まあ、わたしはやれと言われたことをやるだけよ。あとのことは知らない」

 サラはソファから起き上がると、踊りのような軽やかな足取りで部屋から出ていこうとする。

「少し待ちたまえ」

「なに? はやくお風呂に入りたいんだけど」

「ベイベル様のことだ」

「……」

 サラは立ち止まり振り返った。

「ベイベルは、どうしてるの?」

「相変わらず大坑窟の闇の中を彷徨っておられる。宮殿はとうに廃墟になってしまったし、今のあの方にとっては、四方を夜魔に囲まれている方が安らげるのだろう」

「……そんなはずは、ないわよ」

 あの戦いの後、己の黒炎を制御出来なくなったベイベルは、大坑窟の闇に安息を求めるようになった。暴走する天火は燈台程度では吸収しきれず、それを放出する対象を常に求め続けていた。無限に夜魔が湧き出る瘴土はうってつけと言えるだろう。

 無論、それはベイベル自身にとって望まざることだ。怪物の仮面の裏に脆い人性を隠している彼女は、人一倍孤独を恐れている。

 だからこそ、唯一心を許したサラだけは、自らの炎で焼くまいと遠ざけた。

 その繊細さや脆さをもっと簡単に表現出来たなら、こんなことにはならなかっただろう。だが、そんな器用な生き方が出来たなら苦労はしない、とサラは思った。

「いまのあの人は、一人ぼっちなのね」

「仕方が無かろう。一体誰が、あの方の隣に立てるというのかね?」

 サラはその問いかけには答えなかった。とりあえず全てを忘れるために、サラは浴室に向かった。



◇◇◇



 パルミラを去る日は刻一刻と迫っているが、カナンには、出発前にどうしても会わなければならない人がいた。

 パルミラの中でも富裕層が住まう住宅街に、カナンはイスラを伴って訪れていた。手には花束を持っている。服装も、いつもの格好を避けて、祭司らしい質素な白い法衣を着ていた。

 イスラがカナンの守火手であることはパルミラ中に知れ渡っているが、それでも奇異な組み合わせに写っていたようだ。ましてや富裕層の住まいとなると、闇渡りを見る目は一層厳しくなる。

 そんな視線には構わず、イスラはカナンに尋ねた。

「どうしても行くのか?」

「はい」

「行ってどうするつもりだ」

「どうしましょうね。でも、行かないって選択肢はありませんよ」

「殴られるかもしれないな」

「その時は私が受けます」

 二人は石垣に囲まれた邸宅の前で足を止めた。内側には果樹や花が植えられている。重厚な樫の木の扉を叩くと、清潔な服に身を包んだ執事が姿を現した。

「継火手のカナンと申します。マスィルさんのお見舞いに来ました」

 カナンが名乗るまでもなく、執事は「どうぞお入り下さい」と促した。

 だがイスラに対しては同様ではなかった。

「お連れの方は、どうかお待ち下さい。別室へご案内致します」

 二人はさっと視線を交わした。イスラは首を横に振った。

「いや、遠慮しておく。俺は別に行く所があるから、また迎えに来るよ」

「ええ、そうしましょう」

 イスラが石垣に姿を消すのを見送ってから、カナンは執事のあとについて屋敷の中に踏み入った。

 長い廊下を通る間、何度か召使い達とすれ違った。立ち止まり深々と頭を下げられるたびに、カナンは軽い会釈を返して進み続ける。やがて、屋敷のなかで最も奥まったところにある部屋へとたどりついた。

 執事が扉を叩く。主人の返事が聞こえてから、カナンは部屋の中へ通された。

 そこは、ティグリス河の川面に張り出したテラスのような部屋だった。窓ガラスが半円に並べられているのは、どこか船の船尾桜を思わせる。あまり大きな部屋ではなく、家具も最低限の物だけが揃えられていた。

 継火手マスィルは、窓際に置かれた小さな椅子にぽつねんと腰かけていた。頬杖を突き、窓の外に顔を向けているが、カナンが入って来たのを見ると流石に少し驚いたようだった。

 だが、驚かされたのはカナンも同じだった。ローブを着て椅子に座ったマスィルの印象は、名無しヶ丘で戦っていた時の猛々しい姿からは想像も出来ないほど華奢だった。

 リボンで髪を束ねていないため、波打つ赤い髪は流れるままになっている。肩幅の小ささや、潤んだ緑色の瞳が一層浮き立っていた。

 そのあまりに弱々しい姿に、カナンは声を掛けることが出来なくなった。涙を浮かべているわけでもなく、絶望に沈んだような目をしているわけでもない。それでも、彼女の中から大切な何かが欠けてしまったという事実だけはひしひしと伝わってきた。

 カナンのそんな様子を見て取ったマスィルは、表情を変えずに言った。

「座れよ、茶でも持ってこさせる」

 マスィルに促されるまま、カナンは引き出された椅子に腰を下ろした。執事が彼女の手から花を受け取り、部屋を出ていく。

 二人きりになった。

 川の水が跳ねる音が聞こえてくる。カナンは何を言って良いか分からなかったし、自分がどんな顔をしているかも把握していなかった。六千人の闇渡りの前で話すことは出来ても、立った一人の女性の前で話すことの方が遥かに難しかった。

 だが、考えた末に出た言葉は一つだけだった。

「ごめんなさい」

 カナンは頭を下げた。マスィルはカナンの後頭部をじっと見つめ、それからぽつりと口を開いた。

「それは、何に対して謝っているんだ?」

「……私はあの時、貴女が感情を吐き出す機会を奪いました。その埋め合わせに来た、つもりです」

 名無しヶ丘の戦いの最終局面で、自分はマスィルから復讐の機会を奪い取った。それはカナン自身の正義に基づいて行ったことだが、それをマスィルが納得する義理は無い。

「つまり、私にぶん殴られに来たってわけか」

「そう受け取っていただいて構いません」

 カナンは顔を上げ、真正面からマスィルを見据えた。拳が飛んできても避けないつもりだった。

「今の私は、六千人の闇渡りの代表、彼らの顔そのものです。私は彼らの代理人として、貴女の怒りを受け止めるつもりです」

「…………」

 マスィルは、しばらく何も言わずにじっとカナンの顔を見据えたままだった。そして「そうか」とぽつりと呟いてから、おもむろにカナンの頬を張り飛ばした。

 バチン、と乾いた音が響く。だがそれだけだった。マスィルは拳を握ろうともしなければ、足蹴にしようともしなかった。あからさまな怒りを浮かべることもなく、冷静な表情で「あんまり思い上がるな」と言った。

「マ、マスィルさん……?」

「黙れ、良く聞け。私を馬鹿にしているのか?」

「そんなつもりは……!」

「いいや、馬鹿にしている。私がこの期に及んで納得していないと思っていたのか?
 あの時お前が私を止めたのは正しかった。間違っていたのは私の方だ。ヴィルニクが生きていたら……それこそ殴ってでも私を止めただろう」

 今度はカナンの方が黙り込む番だった。戦場でのマスィルの取り乱し具合から、落ち込んでいるものとばかり思い込んでいたが、それはカナンの勝手な想像に過ぎなかった。彼女の妙な気遣いなど無くとも、マスィルは自分を律せるだけの強さを備えていた。それを推し量れなかった自分の未熟さをカナンは恥じた。

 マスィルはフンと鼻息を鳴らすと、椅子の上に片膝を立ててその上で頬杖をついた。

「……まあ、あの時の私を見ていたら、侮られても仕方が無いとは思う。本当に……どうかしていたよ」

「……」

 マスィルは窓の外を眺め呟くように術回する。カナンは下手に声を掛けることが出来なかった。
 重苦しい沈黙が部屋を包んだ時、まるで測ったかのように扉が叩かれ、執事が茶の乗った盆を運んできた。

 それで一旦空気が入れ替わり、マスィルは手ずから二人分の茶を注いだ。「砂糖、いるか?」「一つだけいただきます」

「ここしばらく、ずっとあいつのことを思い出していた。あいつがいつも、私にどうしろって言っていたのか……何を望んでいたのか」

 することも無かったしな、と言い添えながら、マスィルは砂糖を落とした紅い液体をかき回した。
 カナンはそっと受け皿を受け取った。

「そのことに私は昔からずっと気付いていた。分かっていたんだよ。あいつは継火手マスィルに忠誠を誓ってくれた。それは、私が誰にも恥じることのないような継火手として振る舞うことだったんだ」

 カナンは口を開かずにマスィルの言葉に耳を傾けることにした。今、彼女の前で自分の言葉を差し挟むことに、意味など何も無い。

「……でも、私はそうしようとしなかった。早い話が、甘えていたんだな。私がどれだけずっこけても、あいつが後ろから引っ張って立たせてくれるって思ってたんだ。あいつも……ずっと、そうやって支え続けてくれた。
 もう闇渡りに対する恨みは無い。恨んでもあいつは帰って来ない。ただ……私が、一人で立てるのか、やっていけるかどうか……それだけが怖いんだ」

 これから先、自分は守火手の死という過去を背負って生きていかなければならない。それは同時に、死んだ守火手に恥じない生き方をしていくということだ。それを裏切ってしまったら、ヴィルニクの死は全くの無意味になってしまう。

 これから一人で行く道は、二人で歩いてきた道などより遥かに辛く険しいものになる。

 マスィルがその道をすでに選んでいることは、カナンにも分かった。それ以外に選ぶべき道など映らなかったのだろう。
 ただ、そこに足を踏み入れることを恐れているのだ。

 そして、その背中を押す権利などカナンには無い。そんなことをすればもう一度頬を打たれるだろう。第一歩を踏めるのは、マスィルの決意と意思だけだ。
 だから今はただ聴いて、その逡巡と恐れに一緒に思いを馳せれば良い。

「お前は怖くないのか?」

「私ですか」

「あの時、お前は私に説教したな。正しい継火手として振舞えって。あれは確かに正しかった、でもお前はそれをずっと貫き続けることが出来るのか?」

「……私の守火手は、逃げても構わないって言ってくれました。
 でも、私自身がそれを許せないんです。継火手としての正義を失ったら、私は蒼い炎を吐く怪物になり下がります。その方がずっと怖いですよ」

 カナンは液体に映った自分の顔を見ながら言った。だが、緊張した表情は、マスィルの「お前は馬鹿真面目だ」という言葉によって崩されてしまった。

「ば、馬鹿は酷いですよ。私はちゃんと……」

「いいや、馬鹿だ。頭に物を詰め込み過ぎて一杯になる類の、な」

 そう言われると、返す言葉も無かった。

「お前は本当に真面目だよ。それに、自分の真面目さを他人に押し付けようとしない。名無しヶ丘のことは、本当に例外だったんだろうな。
 でも、その分自分のなかに溜め込んでいるんじゃないのか?」

「……それは、まあ。時々自覚しますけど……」

「だろ? だったら、日ごろからもっと緩く考えたら良いんだ。寄りかかれる他人がいるなら寄りかかれば良い、甘えられる奴がいるなら甘えたら良い。その方が、我慢して潰れるより何倍も賢いさ」

 そう言い切ると、マスィルは音を立てて紅茶を飲み干した。



◇◇◇



 その後も、二人はしばらくの間とりとめのない会話を続けた。マスィルの竹を割ったような話し方を聴いていると、確かに自分は理屈っぽいな、とカナンは思わざるを得なかった。

 そしていつの間にか、殴られるつもりが諭され、話を聴くつもりが聴かれる側に回っていたことに気付いた。

 マスィルが気付かなかったわけがない。むしろ彼女が積極的に会話を回し、カナンを乗せていた節さえある。どうしてそんな風に話を進めたのか確認することは出来なかったが、カナンはマスィルなりに自分を気遣ってくれているのだと思った。

 それくらい、自分は危なっかしく見られているのだと思うと、さっきとは別の意味で恥じ入るしかなかった。

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