闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百十七節/奇跡 下】

 カナンがふと顔を上げると、遥か天高くに白い薔薇のようなものが見えた。

 それは純白の光を放ちながら緩やかに回転しているようだった。

(私は……ここは、どこ?)

 そう自問すると同時に、カナンは自分が宙に浮いていることに気付いた。否、地面そのものが存在しない。上下左右の区別が無い、広大な暗闇のなかを浮遊している。強いて言うなら、あの白い薔薇のようなもののある方向が天井なのだろう。

 マスィルと法術を撃ち合っている最中、金色の門が現れて自分を呑み込んだ……そこまでは覚えている。そして気が付くとこの場所へと連れ込まれていた。

 服も、杖も、剣も、何も身に着けていない。生まれたままの姿だ。唯一背中から伸びた炎の翼だけが身体を覆っている。
 だが羞恥心は感じなかった。そんなものを意識しようにも、ここには生物の気配が全く無い。触覚を刺激されたわけでもないのに、全身が氷漬けになったかのような寒々しさを覚えた。

「なんて寂しい場所……」

 よく目を凝らすと暗闇の中にも光が瞬いている。だが、その一つ一つは砂粒のように小さく、想像も出来ないほど遠くにある。膨大な距離が、到達することの不可能性を証明しているかのようだ。

 これほどまでに孤独と無力とを感じさせる場所があるなど、カナンにとっては思いもよらないことだった。


 この場所に比べれば、人間の世界ツァラハトのなんと温かなことだろう。


 不和や不幸が満ちた不完全な世界だが、喜びや幸福を感じることもある。醜いものがある一方で、美しいと思うものが見つかる。
 だが他者が存在しないこの場所には、そうしたものの生じる余地が無い。あるのは、絶対的な孤独のみだ。

 帰りたい、と思った。だが出口が見つからない。

 もしかすると、自分は死んでしまったのかもしれない。カナンはふとそう思った。右腕は法術の炎で無惨に焼け爛れている。幸い痛みは感じなかったが、それが一層、自分は法術を受けて死んだのだという確信を抱かせた。

 だが、それなら全身くまなく焼かれているはずだ。腕だけが焼かれた時点でここに連れて来られた、そう考える方が道理が通る。

「私はまだ生きてる……なら、ここも現実ということなの?」

 問いかけなど何の意味も無いと分かっていたが、カナンは呟かずにはいられなかった。言葉はすぐに虚空へと吸い込まれていく。

 再び沈黙に包まれるのかと思ったその時、カナンは遥か彼方から何かが響いてくるのを聞いた。

 それは、間違いなくあの白い薔薇のようなものから聞こえてくる。カナンが見上げていると、それは徐々に花弁を開かせて広がっていく。新雪のように白い光が降り注ぎ、冷たい暗闇を塗り潰していく。

 やがて、カナンの目にも薔薇の正体がはっきりと見えてきた。

 花弁と思われていたものは、膨大な――無限と思えるほどの、光の粒の集まりだった。大きさはいずれも不均一で、林檎程度に見えるものもあれば、山のように大きなもの、あるいはそれ以上のものも散見される。
 だが形はいずれも同じで、やや楕円に寄った球形をしている。卵のようにも見えるし、星のようにも見える。その表面は翼で隠されていて、中に何があるのか見ることは出来ない。また、翼には不可思議な文字が刻まれていて、ひとりでに白金のような光を発している。

 カナンの耳に届いたのは、その文字から発される歌だった。

 翼の卵は、それぞれ異なる声で厳かな歌声を響かせる。若い女の声もあれば、年老いた男の声も聞こえる。言葉の意味は分からないが、邪悪な文言でないことは、その清らかな旋律から察せられた。

 無数の声が響き渡っているというのに、不思議と騒々しいとは思わなかった。むしろ、実を委ねていつまでも聴いていたいという欲求にかられる。自分がどこの誰で、それまで何をしていたのか忘れてしまうほどに、それは美しい響きだった。

 カナンはふと、家の書庫で見た、一冊の本の挿絵を思い出した。
 雲の上まで突き出た崖の上に、一組の男女が並び立ち、天を見上げている。彼らが見上げる先には、無数の天使たちが幾重にも輪を描いて飛翔している。

 その中心には光り輝く何かがある。だが、それが何であるかは、明確には描かれていない。

 翼の卵たちが舞うこの空間も、遥か高みに何があるのか見通すことは出来ない。人間が見ようと思っても、決して手の届かない何かがそこにはあるのだろう。

 自分は踏み込んではならない場所に来てしまったのだ、と思った。さっきとは違う理由で、一刻も早くここを出なければ、と思った。

 蒼炎の翼が動いたのは、その時だった。カナンの背中から伸びた翼が窮屈そうに羽ばたこうとする。
 理性が働くよりも先に、カナンは危機感を抱いた。大坑窟での戦いが脳裏をよぎり、暴走、という単語が不意に浮かんだ。


 だが、起こったことは彼女の想像を超えていた。


 雷に裂かれた木のように、炎の翼がほつれていく。蛇のように細くなった天火の流れが、カナンの意思とは無関係に拡散し、周囲に浮かぶ翼の卵へ手当たり次第に襲い掛かる。

「ま、待って!」

 カナンは制止しようとする。だが、彼女の天火は攻撃をやめない。

 蒼炎の表面に浮かんだ唇が大きく裂け、卵に齧り付く。生々しい音とともに表面が抉られ、声を発していた文字が色を失う。潰された卵は千々に砕け、墨のように黒ずんでいく。

 卵を喰らった蒼炎の翼が、急速に勢いを蘇らせていく。同時にカナンは、自分の中で弱まっていた天火が再び強まるのを感じた。

 だが、カナンの心には不安と恐怖ばかりが広がる。

 こんなおぞましい光景を、自分の天火が創り出している……生まれた時から、ずっと自分に備わっていた力が、かくも恐ろしい性質を持っているとは思わなかった。

 自分の力が今、何か取り返しのつかないことをしているのだと思った。

 力は危険なものであり、だからこそ継火手は、それを正しく扱わなければならない。

 だが、その力が最初から邪悪なものだったとしたら?

「やめて……もうやめて!」

 やってはならないことをしている、今すぐに止めなければならない……だが、炎の翼は失った勢いを取り戻すべく、卵を喰らい続ける。

 卵が潰されるたびに、墨のように黒い塵が生み出される。

 右腕の傷跡が、蒼い炎に包まれた。ぼろぼろになっていた皮膚が、何事もなかったかのように再生していく。



 彼女ベイベルがそうであったように。



「やめろ!!」

 止めることは叶わなかった。

 叫ぶのと同時に、カナンは引き戻されていた。

 すぐ目の前に炎の騎馬の姿がある。槍は確かにカナンの右腕を炙っているが、傷をつけることは出来ない。右腕を覆う蒼炎の手甲がそれを跳ね返している。

 天火の騎兵がたじろぐ。その真上から、完全に勢いを取り戻した熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブが振り下ろされ、虫のように叩き潰した。
 さらに、翼の表面から無数の羽が浮き出し、夜空に向かって一斉に放たれる。空中を跳ね回っていた座天使の騎兵スローンズ・キャバリィが次々と射落とされ、回避した個体も巨大な翼に捕らわれ打ち消される。

 術がカナンの命令を聞き入れ消失した時には、騎兵は一騎も残っていなかった。

 だが、それを喜ぶ余裕などカナンには無かった。二転三転する状況についていけず、困惑して立ち竦む。

 マスィルが怒声を上げながら斬り掛かってこなければ、ずっとそのままだったかもしれない。

「お前ええええええッ!!」

「……っ!」

 振り下ろされた戦斧の柄に、同じく杖の柄を当てて受け止める。もうほとんど力は込められていない。否、込めることが出来ないほど消耗しているのだ。
 それでも、マスィルの憎悪はとどまるところを知らない。身体が動く限り戦うと決意していた。

 そうでなければ、己の天火で焼かれたベルニケが浮かばれない。

 復讐しなければ、ヴィルニクの死を受け入れられない。

 戦わなければ、空っぽになりそうで怖かった。

「退け! 殺させろ! 私に、そいつらを……!」

「させません!!」

 だが、カナンも一歩も退かない。胸の中は様々な疑問や疑念で揺れ動いているが、ただ一つ確かなことは、ここでマスィルを止めなければならないということだった。

「どうしてだ! 私に復讐するなと言うのか!?」

「そう、です……!」

「受け入れろって!? あいつが死んだこと、殺されたことを! あいつらがやったのに!!」

「それでも駄目です!!」

「じゃあどうしろって言うんだッ!!」

「我慢してくださいッ!!」

 カナンは戦斧を押し返した。マスィルはよろよろと後ずさる。「なんだよそれ」と尋ねる声はか細く、震えていた。

「なんで‥…駄目なんだよ…‥」

 マスィルの緑の瞳に涙が浮かぶ。戦斧を握る腕が力なく垂れ下がった。

「それは、あの人が守火手として死んでいったからです。なら、貴女は継火手として生きなければならない。恥じる所なく、高潔に……」

 躊躇いとともにカナンは言った。

「その力を持つ限り」

 カナンは自分の右腕を見下ろした。爛れたはずの皮膚は、完全に元に戻っている。だが、その事象が正しいものであるのか、もうカナンには分からなかった。

「……まるで呪いじゃないか。天火なんて持っていなければ……」

 マスィルは呟く。
 継火手として生まれなければ、守火手を選ぶ宿命など無ければ、ヴィルニクも死なずに済んだかもしれない。

「…………ああ、でも。継火手に生まれなかったら……あいつと出会うことも無かったのか」

 斧が地面に落ちる。マスィルはその場に座り込み、両手を覆った。指の隙間から、嗚咽とともに涙が零れ落ちた。

 カナンは無言のまま、うずくまるマスィルの身体に腕を伸ばした。彼女も泣きたい気分だった。たぶんここに居るみんなが同じ気持ちだろうな、と思った。

 戦場に、涙以外に残る物など、何も無いのだ。



◇◇◇



 マスィルが止まるのと時を同じくして、闇渡りの軍勢は都軍に対し全面降伏を申し出た。ラエド将軍は即座にこれを容れ、ここに名無しヶ丘の戦いは終結した。

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