闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百十五節/夜を征く者共のさだめ 下】

 サウルの身体から鮮血が噴き出した。それまでに浴びた様々な傷口から止め処なく血が流れ出て、全身をくまなく赤く染め上げていく。

 数歩後ずさった後、サウルは崩れかけの聖像の台座にもたれ掛かり、そのまま座り込んだ。流血が床を浸していく。それまで身体を満たしていた熱が急速に失われ、手や足の先端から死が這い上がってくる。

 色を失い、暗くなっていく視界は、サウルにとって見慣れた夜の風景と大差無かった。現に自分は、夜の世界の中で常に死と隣り合わせで生きてきたのだから。だから死ぬことは怖くない。元居た所に戻るだけだから。

 だが、死が闇と同じであるならば、生はその正反対の場所にある。そこに、自分の欲しかったものがあった。

 明星ルシフェルを携えたイスラが歩み寄ってくる。今となっては悔しさも無かったが、ただ、一つ気になったことがあった。

「……良く防げたな。どうやったんだ?」

 歩み寄るイスラに対してサウルは問いかけた。イスラは無言で左腕の袖をまくり上げ、そこに巻き付けてあった鋼線と折れた刀身を払い落とした。見慣れた形状の刃には、サウルが最後に殺した男の血がこびりついている。

「あんたが戦場に捨てていった糸と、ウドゥグの剣の切っ先だ。有効に使わせてもらったよ」

「なるほど、俺を追いかけている時から、この機会をうかがっていたってわけか」

「……」

 明星の切れ味は確かに凄まじい。だが、伐剣、鋼線、さらにウドゥグの剣の残骸と幾重にも重ね合わせれば受け止めることも可能となる。サウルの技術は卓越しているが、さすがに片手だけの力ではこの盾を破る威力は出せないだろうという計算もあった。

 イスラは最初からこの瞬間を狙っていた。それまではどれだけ劣勢に立たされようと構わない、最後に逆転出来れば良いという作戦だったのだ。

「言い残すことはあるか」

 明星ルシフェルを首筋に添えながらイスラは訊ねた。
 サウルは口元に笑みを浮かべる。

「ずいぶん優しいんだな。どうにも、外から見ただけじゃ良く分からない性格ってわけだ」

「言うなら早くしろ。どうせ、もう長くないだろ」

 サウルは顔をあげて、少し考えた。
 光と失血で乱れた視界のなかで、サウルは改めてまじまじとイスラの顔を眺めた。歳の割に肝の据わった面持ちをしている。もっと歳を重ねた闇渡りでも、彼のような意志の強さを瞳に宿している者はほんの一握りもいない。

「……分かっちゃいたんだがなあ」

「何をだよ」

「お前が裏切るってこと……いや、最初っから味方ですらないことなんてな。お前の向こうっ気の強い面を見ていたら、ちょっと見る目があれば分かるさ」

「負け惜しみのつもりか?」

「違うな。むしろ裏切ってくれたおかげで面白くなった。期待通りだったぜ。そうならなきゃ……がっかりしてただろうな」

 血に塗れた腕を見下ろしながら、サウルは己の心情を探ってみた。今言ったことが本音なのかどうか考えて、やはり嘘などではないと結論付けた。

 追い詰められ、何も考えないままひたすら戦場を駆け抜けるのは楽しかった。魔剣の正体を見破られて法術を撃ち込まれた時も怖いとは少しも思わなかった。あの守火手の最期には感じ入るものがあったし、至高の剣を片手に若い一匹狼と殺し合いをするのは最高に刺激的だった。

 人生の中で、これほど濃い時間はいままで無かった。

「あんたは王様になりたかったんじゃないのか」

 意外そうな顔でイスラが言う。「たぶん違うな」とサウルは答えた。

「そこんところは、俺自身良く分からねえんだよ。ただ、何かになってみようって思ったのは、生まれて初めてだった。なれるかどうかなんて、どうでも良いのさ。大切なのは結果じゃない、過程なんだよ」

「ふざけた話だ。あんたの曖昧な過程のために、一体どれだけの人間が振り回された?」

「知るかよ。俺には好き勝手するだけの実力があった。他の奴らには無かった。それだけのことだろ? 振り回されたくないのなら、地面に踏ん張っておくだけの力が要るんだよ」

 今さら言わせるな、とサウルは思った。力が全てというのは闇渡りの常識だ。そこに異議を申し立てるのは心構えが足りないか、あるいは根の部分が甘いのか、どちらかだろう。

 強さこそ正義。闇渡りとして生きるのならば、決して忘れてはならない教訓だ。自然や悪意の中で生き抜こうとするなら、甘ったるい理想論や倫理観など邪魔にしかならない。
 だから、サウルは自分のことを正しいと思っていた。自分が行ってきたことの一つ一つを全面的に肯定している。

 だが、力の必要性を信じる一方で、それが全てではないとも思っている。

「……ただ……確かに、力があれば良いわけじゃない。それは、俺が本当に欲しい物じゃなかったんだ」

「……本当に、欲しい物?」

 知らず知らずのうちに、イスラはサウルの言葉を反芻していた。その言葉と共にカナンの姿が脳裏をよぎる。自分の中にある欲望を自覚するたびに、背徳感や恥じらいが胸を焦がした。

「俺は……誰よりも強かった。だが、強さだけでは満たされなかった。力は何かを成し遂げるためにあるものだ。
 ……ああ、そうか。それに気付いちまったから、飽き足らなくなったんだな」

 四十を過ぎて少し経った頃、燈台とそこに戴かれた天火アトルを強く渇望するようになった。やがてそれは「王になる」という夢に化けた。だが今にして思うと、王という目標などどうでも良かったのだ。



 ただ一つの目標に向かって突き進むこと。これまで積み上げた全ての力を出し切って、何かに挑んでみるということ。そうして何かをしている時だけ、自分は自分でいられるのだと。



「さっき目を焼かれて気付いた。俺は光が欲しかったんだ。どんな光だって良い、それに手を伸ばしている間だけ、俺は他の連中とは違う存在でいられるんだ」

「……光があったところで、あんたが薄汚い闇渡りであることに変わりはないだろ」

「ハッ、薄汚い闇渡りで何が悪い? 手前テメエがどれだけ薄汚くたって、綺麗なものに手を伸ばす権利は、誰にだってあるんだ。それだけは間違いない。絶対に、絶対にだ!
 手段は何だって良い、どんな過程を踏んだって良い。持ってるものを全部吐き出して突っ走ってみるんだ。邪魔する連中を薙ぎ倒すのは最高に楽しいぜ」

 サウルは口元から血を滴らせながら身を乗り出した。明星ルシフェルが首筋に触れるのも構わず、左腕でイスラの腕を握り締める。
 イスラは何も出来なかった。目の前の男が発散する最後の生気にあてられていた。そしてそれ以上に、彼が血を吐きながら語る言葉が、心臓よりも深い場所に掛けられた呪いを叩き壊そうとしているのを感じていた。

 どうしてこの男が闇渡り達をまとめることが出来たのか、ようやく分かった気がした。政治や軍事の才覚以前に、この男には他人を駆り立てる覇気があったのだ。
 その覇気の正体とは、闇渡りの血の呪いを破らんとする意志に他ならない。生まれた時から罪人の子孫という負い目を背負わされ、無意識のうちに卑屈になっていく魂に、サウルは抗おうとしたのだ。

 ただ、その抵抗の仕方は、自他ともに大量の血を流させるものだった。

 だが、その善悪を問うことなど、サウルにとって何の意味も無い。故に彼は悪人であり、革命家には決してなれないのだ。

「それを手にした瞬間、燃えて消えたって構わない。生きているって実感出来たなら、それだけで上等だ。そうは思わないか?」

 野心に燃えた双眸がイスラを睨みつける。煮えたぎる激情を湛えた目だった。

 言いたいことはたくさんあるが、時間も余裕も、あるいは語彙も無い。だが、自分にとどめを刺した若い闇渡りをどうにかして扇動してみたい、サウルはそう思った。

 どうしてここまでするのだろう。自問してみるが、答えは分かっていた。たった一人で自分を追いかけてきた彼の姿が、昔の己と似ていたからだ。渦巻く悪意の中で己を研ぎ澄ましてきた青春に、彼の姿を重ねて見ていた。

 この若い闇渡りがどんな生涯を送るのかは分からないが、ひょっとしたら自分と同じように王になろうとするかもしれない。英雄になるか、大悪党になるか。少なくとも退屈な生涯を送りはしないだろう。だって、自分と似ているのだから。

 ならば、そんな男の胸に自分の言葉を刻み込めたのならば、犬死ににはならないはずだ。

 サウルはごく短い言葉を残した。



「お前も、闇渡りのさだめに抗ってみないか?」



 ふと気づいた時には、王になろうとした男は事切れていた。

「負けた癖に……勝ち逃げ気取りかよ」

 ずるり、と力を失った腕が地面に落ちた。イスラは明星ルシフェルの切っ先を首筋から離した。

 生きているのは自分で、死んだのはあいつ。そう思ってみても、どうしても、最後の最後に負けたというような気がした。

 何故なら、胸を締め付けていた何かが、少しだけ緩んだような気がしたから。

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