闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百九節/それぞれの思惑 下】

 目の前に広がる丘に無数の篝火が瞬いている。風に乗って太鼓の音や号令の声が聞こえてくる。

 櫓の上にどっかりと座りこんだサウルは、腕の中にウドゥグの剣を抱きながら、これから起きる戦いに思いを馳せていた。

(この戦いは、俺が呼び覚したものだ)

 自然と笑みが浮かぶ。

 ただ一人の闇渡りとして生き抜き、身を立て、王となり、そして煌都の軍隊を引きずり出して決戦に臨もうとしている。

 たった一人の力で、それを成し遂げた。数百年に渡る歪んだ安寧に一石を投じ、盤石と思われていた秩序に蹴りを入れることが出来た。


 一体、他の誰に、このようなことが出来るだろう?


 戦いの時は刻一刻と迫ってきている。サウルは心底充実したような気分を味わっていた。ただの闇渡りとして、屑のように地べたをはいずるだけの生など考えただけで怖気が走る。
 やはり、闇渡りの男は戦ってこそ価値を得られる。戦いとは生そのものであり、略奪とは生の証明なのだ。


 だから戦う。だから奪う。どちらも欠かすことの出来ない、闇渡りの絶対条件だ。


 そして、それが唯一の自己表現の方法であるならば、他者が涙を流すのは仕方のないことだ。何せ他人のことなど考えてはいられないのだから。

「引きずり込んでやる……お前らも、俺の世界に……」

 サウルは敵の軍勢に向けて手を伸ばした。あるいは、その向こう側にある煌都に対して。
 ウドゥグの剣と闇渡りの力を基盤として、この敵を打ち倒す。その後は一直線にパルミラまで進軍し、大燈台を手中に収めてパルミラ管区全域を支配する。あの煌々と輝ける天火アトルも自分のものだ。
 その頃には軍勢も相当の数に膨れ上がっているだろう。他の煌都……街道の先にあるニヌアとラヴェンナの両方を同時に攻めるのも悪くない。

 戦火は新たな難民を生み、難民は闇渡りとなって己の軍隊に合流する。自分の軍勢以外に、闇渡りを受け入れてくれる場所などこの世界には存在しない。


 そうなれば、なんと面白い世界になることだろう。戦争は連鎖反応を起こし、誰にも止められない危険な歯車が回り始める。夢のような世界だ。


「頭、準備が出来たぞ」

 背後から声を掛けられ、サウルは我に返った。アブネルはいつも通り無表情のままだが、サウルと同じように、これから起きる戦いの予感に少なからず興奮しているようだった。

「そうかい。それじゃあ、手筈通り初めてくれ」

「分かった」

「頼むぜ。お前らの奇襲が成功しなきゃ、ここまで準備した意味が無い」

「当然だ。……ところで頭、例の新入りだが、俺の部隊に編入するぞ」

「ギデオンか? 別に構わねえが……お前、さてはまだ疑ってるな?」

「やはり信用出来ん。俺の監視下に置いて前線まで連れていく。奴が本当に戦いたがっているなら、それはそれで役に立つだろう」

「それもそうだな。まあ、好きにしろよ」

 アブネルが坑道に戻った後も、サウルは同じ場所に陣取ったまま戦場を見下ろしていた。ただし先ほどとは異なり、頭の中にはあの若い闇渡りの姿が浮かんでいた。

「闇渡りのギデオン、か……」

 懐かしいな、と思った。あの向こう見ずな振る舞いや、抜き身の剣のように鋭い雰囲気は、昔の自分によく似ている。王の夢を見るよりもずっと前のことだ。今のギデオンと同じくらいの歳の頃、生への執着と力への渇望を漲らせ、夜の中を駆け抜けていた。
 あの若い闇渡りを気に入ったのも、そうして昔の自分に重ね合わせているからなのかもしれない。

「もし、そうなら……」

 サウルは、一瞬頭に浮かんだ己の考えに苦笑し、かぶりを振った。



◇◇◇



 アブネルの号令の下、闇渡りの兵士の半数は坑道の内部に集結させられた。その中には当然、ギデオンことイスラの姿もあった。

「待ちに待った時が来た! 安寧の上に胡坐をかいてきた、煌都の豚共を皆殺しにするぞ!!」

 細長い橋の上に集められた闇渡り達は天火の輝きの下で各々の武器を掲げた。アブネルは戦意を掻き立てるために口汚く煌都を罵り、それにあてられた男達は顔を怒張させながら伐剣を天火に向けて突き出し、地団駄を踏む。

「奴らの骨を砕き、奪える物は全て奪い取れ! 奴らの軍旗をへし折り、伐剣の切っ先に首を掲げろ!!」

 むせ返るような汗の臭いがイスラの嗅覚を飽和させ、壁に反響した音が鼓膜を麻痺させた。無数の影が坑道の壁に投射され、さながら動く壁画の如く乱舞する。

(どいつもこいつも、なんて顔してやがる)

 形の上では他の闇渡りと同じことをしつつも、イスラは妙に冷え冷えとした気持ちでいた。

 隣で武器を振り回している男を見ると、まるで悪鬼のように醜い顔をしていた。その男の隣の者も、さらにその隣の者も。言葉にならない雄たけびを上げながら、檻に入れられた飢狼のように解き放たれる時を待っている。

「流血の大河の果てに、俺たちの王国は建つのだ! 王に栄光を!」

 黒々とした感情の奔流が寄り集まり、地の底で渦巻いている。坑道の中に満ち満ちた負の気が、明確な形となって見えるようだった。

 これほどまでに闇渡り達の悪意を滾らせた原因は何なのだろう。

 戦いへの渇望や奪うことの喜びだろうか? それとも恐怖や罪悪感の裏返しなのか。そうした個人的な感情よりも、もっと根源的なもの……数百年にわたる迫害と追放の歴史が原因なのか。

 あるいは、新しい世界への希望か。

(そんなものは認められない)

 この悪意の向かう先に、望ましい世界があるとは思えなかった。

 世界や社会がどうなろうと、自分はそれとは何の関わりも無い。少なくともイスラはそう思っている。
 だが、それらが滅茶苦茶になってしまえば、自分に関わりのある人々は必ず不幸になる。


 もっとはっきり言えば、カナンが悲しむ。
 それだけで、戦う理由としては十分だ。


 イスラは伐剣の鞘に手を伸ばした。演説するアブネルの視線を意識しつつ、動き出そうとしたその時、外套を誰かに掴まれた。

 振り返ると、闇渡りのザッカスが怯えた表情でイスラを見上げていた。小柄なザッカスは、他の闇渡り達にもみくちゃにされながらも何とかイスラにしがみついてきた。

「何だよ気持ち悪い。男に引っ付かれても嬉しかねぇよ」

「す、すまねえギデオン、け、けどな……俺は、駄目だ。戦場なんかに行ったら、俺なんかあっと言う間にこ、殺されちまう……!」

 さながら流木にすがる溺者のようにザッカスは必死で掴みかかってきた。その表情の必死さはとても演技とは思えない。脂汗を浮かべ、蒼白になった顔で震えていた。

「……お前も闇渡りだろ。そんなので、どうやって今までやってきたんだよ」

「どいつもこいつもお前みたいに強いわけじゃないんだ! 俺なんて、奪うより奪われる側さ! なっ、頼む! せめて一緒に居させてくれ!」

「……」

 無様なほどにうろたえるザッカスに他の闇渡り達は冷笑を浴びせかけた。ある者は直接ザッカスの背中を蹴り飛ばし、転がされた彼はそのまま頭を両腕で抱え込んだ。

「死にたくねぇ、死にたくねぇんだよ……!!」

 ザッカスの怯えをよそに状況は動き始めていた。坑道の抜け道に続く扉が開かれ、先頭に立った者から我先に走り去っていく。雄叫びや足音が反響し、地鳴りとなって坑道を揺らした。

 黒い外套の波に溺れそうになったザッカスを、イスラは引っ張り上げた。

「……そんな顔で見るな。あんた、俺より歳上なのに、みっともないぞ」

「すまねえ……情けないってことは、分かってるんだ。けどな……」

「ああ。それで良いさ。
 いいか、今から俺がすることを邪魔するなよ。俺が動いたら、お前は坑道と反対側に向かって逃げろ。その後は……どこかに隠れてやり過ごせ。それで、こんな所からは早く出て行くんだ」

 ザッカスは呆然とイスラを見上げる。その顔に平手打ちを喰らわせたから、イスラは伐剣を抜き立ち上がった。

「行け!」

「お前はどうするんだ、ギデオン!?」

 イスラは伐剣を肩に担ぎながら、唇を吊り上げた。

「逃げた先で蒼い天火アトルを見かけたら、そこに向かって走れ。イスラに会ったって言えば、それで通じるからさ」

 その言葉を最後にイスラは踵を返し、天井から吊り下げられた天火を睨みつけた。そして、真下に広がる暗闇に目をやる。そこからは腐臭に似た不愉快な臭気が立ち上っている。どろりとした闇の奥に、何かが無数に蠢いているような気がした。

「さて、おっ始めるか!」

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