闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第八十七節/崩れゆくもの 上】

「……何だか、カナンさんの元気が無いんです」

 梯子に登って本を収めながらトビアは言った。「ふむ?」書架の間に立ったフィロラオスは本を積み込んだ荷車から一冊ずつトビアに手渡していく。それを正確な場所に仕舞いながら、トビアはここ数日間のカナンの様子を語った。

 相変わらず精力的に難民団の運営を行っているカナンだが、ふとした拍子に顔に陰が掛かる。そんな様子を見せないよう努めて明るく振る舞っているが、身近な人間からすれば彼女の不調は一目瞭然だった。

 トビアもそのことに気付いた一人だ。そして、その理由もはっきりしている。

「イスラさんが出かけっぱなしなせいですよ。カナンさん、きっと寂しがってるんです」

「ほう、あの子に思い人が出来たのかね。それは初耳じゃ」

「カナンさんの片思いみたいですけどね」

「いやはや、それがまず凄いことじゃ。儂がエルシャに居た頃、あの子は恋愛にとんと無頓着じゃった。それどころか軽蔑してさえいた」

「そうなんですか?」

 あのカナンが何かを軽蔑する様子はなかなか想像出来なかった。闇渡りのイスラを守火手に選んだような女性が誰かを見下したりするなんて考えられない。

「ほっほっ、軽蔑というのは時として羨望せんぼうの裏返しであったりするのじゃよ。現に、あの子はユディトの恋心に嫉妬しておったようじゃ。ギデオン……あのような若者は滅多におらん。先を越されたと感じたのじゃろうな。
 そうなると、そのイスラとやらに興味が湧いてくるのう。元々変な子じゃったから、普通の男に興味を持つとは思えんわい」

「……ええ。イスラさんは凄い人です。ちょっと怖いけど、勇敢で、本当はすごく優しい人です」

「憧れているのかね?」

「はい」

 初めてイスラと出会った時のことは、きっと一生忘れられないだろう。灰を浴びながら月明りの中を歩いてくる彼の姿は、トビアの記憶にしっかりと焼き付いている。そのあとに起こった様々なことも含めて、イスラの存在はとても大きなものになっていた。

 だが、そんな風に憧れているからこそ、解せないことがある。

「僕はあの人を尊敬してます。だから……どうしてカナンさんをほったらかしにしてるのか、分からなくて……」

「……」

 フィロラオスは何も言わずにあごひげを撫でた。その時、図書館の入り口の方で鈴のなる音が響いた。閉館の合図だ。

「おや、もうそんな時間か。降りて来なさい。開架の仕事は明日に回して、お茶でもしようかの」

「じゃあ、昨日読みかけてた本を持っていきます」

「うむ。続きの解釈をしてあげよう。場所は……」

 フィロラオスが教えるよりも早くトビアは動き出していた。目的の本がどこに所蔵されているかはちゃんと把握している。

 初めてフィロラオスと出会ってから二週間近くが経っている。その間老博士はトビアから取材を取りつつ、彼の勉強に付き合っていた。

 だが、トビアは正規の教育を受けたわけではない。村の老人たちや父親から文字の読み方や基本的な教養は教えられていたものの、フィロラオスのような知識人と対等にやり取りをする能力などあるはずがない。取材の際も、魔術の歴史や旧時代の出来事などほとんど知らないような状態で、逆にトビアの質問回数の方が多かったほどだ。

 このままでは知りたいことさえ知ることが出来ない。そこでフィロラオスは、もっと基本的なところから詰めていくことにした。

 すなわち、資料の読み方と探し方についてである。

 前者に関しては近道など存在しない。ひたすら文章を追いかけながら、語彙を増やし修辞法に慣れていくしかない。どうしても理解できないところには解説を入れるが、結局はトビア一人きりの戦いになる。時間も数年単位で必要になるだろう。
 だが、後者に関しては比較的短時間で身に付けることが出来る。

 図書館の資料は全て検索性を最優先にして配置されている。その探し方を知るだけでも、資料にたどり着く時間は劇的に短縮されるのだ。
 フィロラオスは司書として働く傍ら、トビアを助手として連れまわすことで図書館の歩き方を覚えさせた。パルミラ図書館の分類方法では、まず医療や歴史、経済といった分野別に棚を振り分け、それから著者の名前の順番に本を並べていく。至極単純な仕組みだが、そもそもトビアのような素人が理解出来なければ意味がない。

 だが、そこから一歩進むと専門的な技術が必要になってくる。例えば目録の作成などがそうだ。一冊の本の題名や著者名、出版者、出版年、大きさや価格といった詳細な情報が記載され、検索の手がかりになるよう編集される。その書き方にも細かいルールがいくつも存在するのだが、フィロラオスはそれをトビアに作らせることで検索の仕方を教え込んだ。

 持前の素直さからか、トビアの呑み込みはすこぶる早かった。カナンのように「一を聴いて十を知る」というような飛躍は無かったものの、「一を聴いて忘れない」実直さはフィロラオスに気に入られ、トビアもまた新しい技術を身に着けていくことに喜びを感じていた。

 それでも、これがサラを救う力になるとは、まだ思えなかった。


◇◇◇


 目当ての本を見つけたトビアが館長室の扉を開くと、煙とコーヒーの匂いが溢れてきた。先に戻っていたフィロラオスは椅子に深く腰掛けパイプを吹かしている。図書館の本は鍵付きの戸棚に入れてあるので、遠慮なく煙草が吸えるのだ。

「お待たせしました」

「うむ、お座りなさい。ミルクは?」

「いただきます」

 トビアはカップのふちのギリギリまでミルクを注いだ。まだ黒いコーヒーを飲めるほど大人ではない。
 だがコーヒーの匂いは好きだ。フィロラオスの煙草の煙も気にならない。そういった匂いが無く、斜光の中に埃が漂っていないと、この部屋はずいぶん味気なくなってしまうだろう。

 トビアに限らず、好奇心旺盛な少年ならフィロラオスの部屋はきっと気に入るはずだ。山積みされた古書の谷間に置かれた細やかな調度品は、トビアの興味を呼び起こすものばかりだ。色も模様もばらばらの石が標本として飾られていたり、宝石の嵌められた銀細工の燭台が置かれていたり、はたまた複雑な装飾のつけられた天体望遠鏡が窓の外に向けられている。薬品棚は用事のある時以外は閉じられているが、実験器具はいつでも使えるよう、埃だらけの部屋の中で唯一ぴかぴかのまま置かれている。

 そのなかでも一際目を引くのが、金の歯車と支柱を組み合わせて作られた不思議な機械だ。台座の上に歯車を数段重ね、それぞれの段から一本の長い支柱が飛び出ている。柱の長さは各々違っていて、途中で九十度真上を向くように曲げられている。そしてその頂には、ルビー、サファイヤといった宝石を丸く加工した玉が据えられていた。
 そして、回転する柱の中心……歯車の塔の頂上には、眩く照り返す純金の球体が置かれている。それが何を意味するのかトビアには分からないが、緻密で神秘的な機械にはどうしてか心惹かれるものがあった。

「それが気になるかね?」

 トビアがハッと顔を上げると、フィロラオスが微笑ましげに彼を眺めていた。観念したトビアは「気になります」と正直に答えた。

「一体何の機械なんですか?」

「ほっほっ、まことにすまんが、教えることは出来んのじゃ」

 椅子からずり落ちそうになった。
 気になるか、と焦らしておいて教えられないなど、意地悪にもほどがある。

「いやはや、意地悪がしたいわけではないのじゃ。だが、それは『禁忌の思考』に抵触する品じゃからのう」

「禁忌の思考……?」

「煌都の祭司たちによって定められた、研究してはならない学問のことじゃ。曰く、今の世界のことわりに亀裂を入れるような思考であるから、決して深く考えてはならない」

「それなら、これを持ってることがバレたら……」

「なあに、心配はいらんよ。禁忌の思考について書かれた経典は、今ではほとんど顧みられることが無い。何をして禁忌の思考とするか、当事者である祭司たちですらろくに把握しておらんのだ。
 それに、その機械からは一番大切な歯車を抜いておる。動かぬ以上、それが意味を持つことは決して無い」

「それじゃあ教えてくれても良いじゃないですか」

「ほっほっ、それは君が大人になってから調べることじゃ。今は興味だけ覚えておきなさい……さて、それでは授業を始めるとするかの」

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