闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第八十七節/崩れゆくもの 下】
「……『夜魔学』の中で、著者のミランドラは夜魔と魔法との相関について語っておる。一七七頁の五行目から読んでみなさい」
老博士はパイプの煙をふかしながら促した。トビアは開いた本に視線を落とし、たどたどしい口調で指定された箇所を読み上げていく。
「えっと……夜魔とはこの世において不自然な存在であり、ひ、非、自然的な環境である瘴土においてのみ発生する。ヒシゼン、すなわちこの世界の本来性より外れたこと……事柄、であり、何故このような異常が発生するのか説明することは出来ない。
だが、本来性からの逸脱という一点に関しては、瘴土と魔法は互いにきょ、キョウツウコウを備えている。瘴土が非自然的なものであるのと同様に、魔法もまた非自然的であったからである」
ところどころ噛みながらも、トビアは細い一行一行を丁寧に追いかけていく。フィロラオス曰く、早く読む必要は無い。何も考えずに十冊の本をめくるのと、考えながら一冊の本を読み進めるのでは、得られる知識の深度は全く異なるからだ。
その教えの甲斐あってか、トビアの音読も少しずつこなれたものになりつつあった。
「非自然的なもの、すなわちこの世の真理にそぐわないものが悪しきものであることは論を待たない。事実、旧世界の秩序は魔法の発達によって乱れ、絶対的な真理の体現たる神によって否認されたのである。
ところで、読者諸氏の中には、天火の正当性について反論する人がいるかもしれない。確かに天火の力は人知を超えたものであり、一見すると不自然なものに見える。
しかし、天火は神から授けられたものであり、神とはすなわち自然の制定者である。その神が、天火を我々に与えたのであれば、天火とは世界にとって自然なものと言えるであろう」
「そこまで」
フィロラオスの合図で、トビアは一旦音読を止めた。
老博士はコーヒーを一口飲みながら、眼鏡の位置をかけなおす。
「ミランドラ曰く、夜魔と魔法の相関関係とは、互いにこの世ならざるもの……不可思議なもの、どうしてあるのか分からないもの、といった形で定義されておる。自然なものを善、非自然的なものを悪とみなす考え方は自然正当説といって、現在でも根強いものじゃ。
例えば、闇渡りに対する差別が良い例じゃな。自然正当説によれば、人間は本来光とともになければならない。ところが闇渡りたちは光を浴びず、闇の中で生き抜く方法を身に着けた。これは人間本来の生き方と相反する。故に彼らは悪である……といった具合じゃな」
「でも、それなら煌都の人たちだって同じ……いや、今の世界の在り方自体が、不自然なものじゃないんですか?」
すかさずトビアが反論すると、フィロラオスは相好を崩して髭を撫でた。
「良い指摘じゃ。じゃが、その矛盾についてミランドラはしっかりと反論しておる。
天火は神に由来する力であり、神が絶対の真理であるなら、天火もまた真理に属するものという論理じゃ」
「……かなり無理がありませんか?」
「そうじゃな。だがこの論理の巧妙なところは、誰も神の真理を証明出来ないという点にあるのじゃ。神は無限であり無謬。となると逆に、神は真理ではない、と論理立てることも出来ない。反論、反証を論理的に成立させることは不可能なのじゃ。そういった命題を立てた瞬間、論理の無間回廊に閉じ込められてしまう。
このように、証明不可能な命題はいくつかある。例えば、我々は死後にどこに行くのか、この世界はどうやって出来上がったのか、そも全ての始まり以前には何があったのか……こうした証明不可能な問題に導入されるのが、神という概念じゃ。いわば論理学における代数と言っても良いの」
「…………」
「……ちと難し過ぎたかの?」
「……はい」
はっきり言ってちんぷんかんぷんだった。
「ほっほっ、まあ無理もないわい。これは現役の継火手が取り組むような問題じゃからのう。
まあ、早い話、我々には解明不可能な物事が多々ある。その問題の解決は、全て神に任せてしまおう……こういうことじゃ」
「それなら理解出来ます。でも、それじゃあ何の解決にもならないじゃないですか」
「そう思うかね?」
フィロラオスは眼鏡越しにじっとトビアの瞳を見据えた。咎め立てるような口調でも、もちろん怒った口調でもないが、その一言には静かな重みが備わっていた。
「では君に問うが、トビア君、君は不老不死かね?」
「えっ?」
「どうだね」
「それは……違います」
「結構。では、君はこの世で最も大きな数字を数えたことがあるかね?」
「ありません」
「そうであろう。儂も数えたことはない。もちろん不老不死でもない。それらに到達することは、儂も君も、他のどの人達にも不可能じゃろう。彼らが人間である限りはの。
そういった人智を超えた事柄について、我々は無力じゃ。そして、それを乗り越えようとするのは不遜なこととは思わんかね?」
「不遜、ですか……」
「この世には、人の力ではどうにもならない現実が多々ある。それに目を向けなければ人生は退屈じゃろう。かといって、無理やり乗り越えようとすれば必ず破滅する。ではどうするのか?
答えは一つ、迂回することじゃ」
「迂回?」
「左様。
我々は最も大きな数字を数えたことが無く、それを計算することも出来ない。だから代数というものを発明した。
人間の命は有限。ならば、その有限の命をいかに豊かにするか。哲学はそのためにある。
そして、夜魔憑きの少女から夜魔が引き剥がせないとしたら?」
「ッ!」
「夜魔はこの世ならざるものじゃ。人間の力では根絶出来ぬかもしれん。その時君はどうする? どのような迂回路があると思う?」
「……僕には、まだ分かりません。どうしたら良いかなんて……」
あまりに難しい問いだった。それと同時にトビアは、これまでそれ以外の方法など考えたこともなかったことに気付かされた。
ずっと、サラに憑いた夜魔を倒せば良いと考えてきた。あの夜魔にとどめをさすことが出来れば、サラを呪われた運命から解放出来るかもしれない、と。
だが、フィロラオスの言う通り、それは不遜な考え方だ。
この世には人間の力ではどうにも出来ない事柄が確かに存在する。夜魔というのも、あるいはそれに属するものなのかもしれない。
それでも、諦める気にはなれなかった。
「先生、僕はどうしたら良いんですか?」
「学ぶことじゃ。道は一つではないということを忘れず、常に新しい道を探し続ける。そのためには、君の内面の引き出しを少しでも多くしておかなければならん」
「……はい」
トビアは老博士の言葉を何度も頭のなかで繰り返した。そうしないと、焦りに流されてすぐに忘れてしまいそうだった。そんな性急さも、自分がまだまだ未熟なせいなのだろうな、と思う。
ふと、気になったことがあった。
手元の本に視線を戻す前に、トビアはフィロラオスに一つ質問をした。
「今の先生には、何か壁がありますか?」
問われたフィロラオスは、少し困ったような表情を作った。そして、少し恥ずかし気に「老いじゃよ」と答えた。
「こればかりはどうにもならんでな。年々身体は固くなっていくし、物忘れも多くなってきおった。それを受け入れるのは、なかなかに難しいよ」
「……先生でもあるんですね、そういうこと」
「誰にだってあるとも。きっと、君が憧れている闇渡りの戦士にも、そういう壁があるのではないかな」
「イスラさんの壁、か……」
「ちと話が逸れ過ぎたの。では、続きを読んでいきなさい」
◇◇◇
いくつか問題や懸案事項はあっても、難民団とカナンの日々は穏やかに過ぎていった。天火から離れたこの集団のなかで、各人が自分の向き合うべき問題と向き合い、あるいは日々の糧を得るために働いた。
それは、元来彼らが望んでいたことだ。多少不便とはいえ、大坑窟の生活では決して得ることの出来ない平穏がそこにはあった。そして、それをもたらしてくれたカナンという女性に対して、彼らは感謝と信望の念を抱き続けた。
だが、この小さな集団が移動したことによって、夜に閉ざされた世界に波紋が広がっていた。その影響はあらゆるところで少しずつ世界を揺り動かし、歴史の歯車の錆びを落としつつある。
そして、パルミラ辺境の村で一人の継火手が殺害されるに至り、ついに世界の秩序にほころびが生じた。
かくして歯車は回り始めたのである。
老博士はパイプの煙をふかしながら促した。トビアは開いた本に視線を落とし、たどたどしい口調で指定された箇所を読み上げていく。
「えっと……夜魔とはこの世において不自然な存在であり、ひ、非、自然的な環境である瘴土においてのみ発生する。ヒシゼン、すなわちこの世界の本来性より外れたこと……事柄、であり、何故このような異常が発生するのか説明することは出来ない。
だが、本来性からの逸脱という一点に関しては、瘴土と魔法は互いにきょ、キョウツウコウを備えている。瘴土が非自然的なものであるのと同様に、魔法もまた非自然的であったからである」
ところどころ噛みながらも、トビアは細い一行一行を丁寧に追いかけていく。フィロラオス曰く、早く読む必要は無い。何も考えずに十冊の本をめくるのと、考えながら一冊の本を読み進めるのでは、得られる知識の深度は全く異なるからだ。
その教えの甲斐あってか、トビアの音読も少しずつこなれたものになりつつあった。
「非自然的なもの、すなわちこの世の真理にそぐわないものが悪しきものであることは論を待たない。事実、旧世界の秩序は魔法の発達によって乱れ、絶対的な真理の体現たる神によって否認されたのである。
ところで、読者諸氏の中には、天火の正当性について反論する人がいるかもしれない。確かに天火の力は人知を超えたものであり、一見すると不自然なものに見える。
しかし、天火は神から授けられたものであり、神とはすなわち自然の制定者である。その神が、天火を我々に与えたのであれば、天火とは世界にとって自然なものと言えるであろう」
「そこまで」
フィロラオスの合図で、トビアは一旦音読を止めた。
老博士はコーヒーを一口飲みながら、眼鏡の位置をかけなおす。
「ミランドラ曰く、夜魔と魔法の相関関係とは、互いにこの世ならざるもの……不可思議なもの、どうしてあるのか分からないもの、といった形で定義されておる。自然なものを善、非自然的なものを悪とみなす考え方は自然正当説といって、現在でも根強いものじゃ。
例えば、闇渡りに対する差別が良い例じゃな。自然正当説によれば、人間は本来光とともになければならない。ところが闇渡りたちは光を浴びず、闇の中で生き抜く方法を身に着けた。これは人間本来の生き方と相反する。故に彼らは悪である……といった具合じゃな」
「でも、それなら煌都の人たちだって同じ……いや、今の世界の在り方自体が、不自然なものじゃないんですか?」
すかさずトビアが反論すると、フィロラオスは相好を崩して髭を撫でた。
「良い指摘じゃ。じゃが、その矛盾についてミランドラはしっかりと反論しておる。
天火は神に由来する力であり、神が絶対の真理であるなら、天火もまた真理に属するものという論理じゃ」
「……かなり無理がありませんか?」
「そうじゃな。だがこの論理の巧妙なところは、誰も神の真理を証明出来ないという点にあるのじゃ。神は無限であり無謬。となると逆に、神は真理ではない、と論理立てることも出来ない。反論、反証を論理的に成立させることは不可能なのじゃ。そういった命題を立てた瞬間、論理の無間回廊に閉じ込められてしまう。
このように、証明不可能な命題はいくつかある。例えば、我々は死後にどこに行くのか、この世界はどうやって出来上がったのか、そも全ての始まり以前には何があったのか……こうした証明不可能な問題に導入されるのが、神という概念じゃ。いわば論理学における代数と言っても良いの」
「…………」
「……ちと難し過ぎたかの?」
「……はい」
はっきり言ってちんぷんかんぷんだった。
「ほっほっ、まあ無理もないわい。これは現役の継火手が取り組むような問題じゃからのう。
まあ、早い話、我々には解明不可能な物事が多々ある。その問題の解決は、全て神に任せてしまおう……こういうことじゃ」
「それなら理解出来ます。でも、それじゃあ何の解決にもならないじゃないですか」
「そう思うかね?」
フィロラオスは眼鏡越しにじっとトビアの瞳を見据えた。咎め立てるような口調でも、もちろん怒った口調でもないが、その一言には静かな重みが備わっていた。
「では君に問うが、トビア君、君は不老不死かね?」
「えっ?」
「どうだね」
「それは……違います」
「結構。では、君はこの世で最も大きな数字を数えたことがあるかね?」
「ありません」
「そうであろう。儂も数えたことはない。もちろん不老不死でもない。それらに到達することは、儂も君も、他のどの人達にも不可能じゃろう。彼らが人間である限りはの。
そういった人智を超えた事柄について、我々は無力じゃ。そして、それを乗り越えようとするのは不遜なこととは思わんかね?」
「不遜、ですか……」
「この世には、人の力ではどうにもならない現実が多々ある。それに目を向けなければ人生は退屈じゃろう。かといって、無理やり乗り越えようとすれば必ず破滅する。ではどうするのか?
答えは一つ、迂回することじゃ」
「迂回?」
「左様。
我々は最も大きな数字を数えたことが無く、それを計算することも出来ない。だから代数というものを発明した。
人間の命は有限。ならば、その有限の命をいかに豊かにするか。哲学はそのためにある。
そして、夜魔憑きの少女から夜魔が引き剥がせないとしたら?」
「ッ!」
「夜魔はこの世ならざるものじゃ。人間の力では根絶出来ぬかもしれん。その時君はどうする? どのような迂回路があると思う?」
「……僕には、まだ分かりません。どうしたら良いかなんて……」
あまりに難しい問いだった。それと同時にトビアは、これまでそれ以外の方法など考えたこともなかったことに気付かされた。
ずっと、サラに憑いた夜魔を倒せば良いと考えてきた。あの夜魔にとどめをさすことが出来れば、サラを呪われた運命から解放出来るかもしれない、と。
だが、フィロラオスの言う通り、それは不遜な考え方だ。
この世には人間の力ではどうにも出来ない事柄が確かに存在する。夜魔というのも、あるいはそれに属するものなのかもしれない。
それでも、諦める気にはなれなかった。
「先生、僕はどうしたら良いんですか?」
「学ぶことじゃ。道は一つではないということを忘れず、常に新しい道を探し続ける。そのためには、君の内面の引き出しを少しでも多くしておかなければならん」
「……はい」
トビアは老博士の言葉を何度も頭のなかで繰り返した。そうしないと、焦りに流されてすぐに忘れてしまいそうだった。そんな性急さも、自分がまだまだ未熟なせいなのだろうな、と思う。
ふと、気になったことがあった。
手元の本に視線を戻す前に、トビアはフィロラオスに一つ質問をした。
「今の先生には、何か壁がありますか?」
問われたフィロラオスは、少し困ったような表情を作った。そして、少し恥ずかし気に「老いじゃよ」と答えた。
「こればかりはどうにもならんでな。年々身体は固くなっていくし、物忘れも多くなってきおった。それを受け入れるのは、なかなかに難しいよ」
「……先生でもあるんですね、そういうこと」
「誰にだってあるとも。きっと、君が憧れている闇渡りの戦士にも、そういう壁があるのではないかな」
「イスラさんの壁、か……」
「ちと話が逸れ過ぎたの。では、続きを読んでいきなさい」
◇◇◇
いくつか問題や懸案事項はあっても、難民団とカナンの日々は穏やかに過ぎていった。天火から離れたこの集団のなかで、各人が自分の向き合うべき問題と向き合い、あるいは日々の糧を得るために働いた。
それは、元来彼らが望んでいたことだ。多少不便とはいえ、大坑窟の生活では決して得ることの出来ない平穏がそこにはあった。そして、それをもたらしてくれたカナンという女性に対して、彼らは感謝と信望の念を抱き続けた。
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