闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第九十一節/「世界で一番美味しいもの」 下】

 半日カナンの買い物について回ったイスラは、こうなったら今日はとことん付き合ってやろうと考え始めていた。

 カナンと一緒にいると、どうしてか心が乱される。以前と同じ、気安く接せられる関係性に戻りたかった。無理やりにでも前と同じノリ・・を取り戻したい。

(いや、それはちょっと違うな)

 二人の関係性は最初から変わっていない。変わってしまったのはイスラの気持ちの方だった。
 少なくとも、彼の認識できる範囲においては。

 継火手と守火手という単純な関係なら、変に心を乱されることも無かっただろう。だからこれまで上手くやってこられたのだ。そして、それはイスラにとって心地良い関係性だった。

 忌むべき闇渡りの身にありながら、夜の中で生き抜くための技術を必要とされてきた。それは、これまで誰にも見向きもされなかったイスラにとって新鮮な体験だった。

 ただカナンの役に立ちたい。そして、彼女の理想の行きつく先を見てみたい。

 別にエデンに住みたいとは思わないし、理想の中身にもそこまで興味は無い。
 彼が見たいのは、確固たる意志に基づいて生きる人間の姿だ。それをカナンから学びたかった。獣はただ飲み食いすることだけを目的とするが、カナンの生き方はそれとは全く異なる。己の存在意義を、文字通り命を懸けて追い求める姿は、イスラにとってこの上なく眩しいものだった。

 だからこそ、妙な感情など抱くべきではない。自分がカナンと居る、そもそもの理由が崩れてしまう。

 そして、そうなれば絶対に辛い目に遭うだろうということを、イスラは本能的に察していた。


◇◇◇


 バザールで必要な食材を買い込んだイスラは、カナンに船室で待っているように言いつけると、一人炊事場に向かって腕まくりをした。

「さて、と……」

 あいつのために料理するのはいつぶりだろう、と思いながら、イスラは次々と下ごしらえを済ませていく。
 メインは豚肉とレンズ豆のワイン煮。まず豚肉と野菜を豪快にぶった切り、豆やワインと一緒に鍋に放り込む。香草や生姜しょうがを入れて香りを付けつつ、砕いた岩塩をたっぷりと入れて火にかける。

 レンズ豆の見た目は悪いが、体力を付けなければならない闇渡りにとって必須の食べ物だ。とはいえ、他の豆と一緒に買っても二束三文の値段だ。豚肉も比較的安価で手に入るし、ワインも安物を使っている。それでも一度の食事にこれだけ材料を揃えるのは、結構な贅沢だった。

 ぐつぐつと煮立つ音を聞きながら、買ってきた白パンを切り分け残ったヒヨコ豆やソラ豆を適当に炒っていく。いくつか竈を併用しているが、何故か・・・人が少ないため自由に料理が出来た。

「それから……」

 ワインの残りの入った革袋とオレンジ。しかし、それにはまだ手を付けず、出来上がった料理を盆に乗せてカナンの居るところへ向かった。

 自室で待っていろと言ったにも関わらず、カナンは船尾桜の執務室で書類に目を通しているところだった。ただし、丸机の一つは綺麗に片づけられていて、向かい合って座れるよう椅子までセッティングされている。

「おい、飯だぞ」

 イスラがそう呼びかけると、カナンはいつものように「はいっ」と元気の良い返事を返した。

「今日は休みなんだろ。少しくらいは仕事のことを忘れろよ」

「えへへ……そうなんですけど、どうしても気になっちゃって……」

 椅子に座ったカナンはすまなさそうに頬を掻いた。

 バザールを回っている間も、カナンの目線はちらちらと難民たちの方に向けられていた。もちろんイスラと一緒にいることを純粋に楽しんでいるが、一方で難民たちの生活が順調に回っていることも彼女にとっては喜ばしいことなのだ。

 特別な家に生まれた自分が、そこで得たものを人々に還元する……それがカナンという個人の立脚点だ。生きる意味の一つとさえいえるだろう。

「……なあ、今の仕事には満足してるのか?」

 一体何のつもりだ、と自分を罵ったが、イスラはそう言わずにはいられなかった。それに対する答えなど分かり切っているにも関わらず。

「ええ、とても」

「そうか。……なら、良いんだ。早く食おうぜ、冷めたら不味くなっちまう」

「はい。それでは、食前の祈りを」

 カナンは両手を組んで目を閉じ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。

「……天を去られし我らの神よ。この小さき祈りを聞き入れたまえ。
 難民団の人々の生活が守られ、一人ひとりの前途が祝福されますように。年老いた者に安らぎが与えられ、子供たちが健やかに育ちますように。糧を得るために働く人々が励まされ、心身ともに守られますように。そしていつか、彼らの受け入れられる場所が与えられますように。
 トビアさんが多くを学び、知見を広げられますように。エルシャに住む家族、姉、そして師の健康をお守りください。
 また、明日から旅立つイスラの身をお守りください。どうか、無事なまま帰ってこられますようお祈りします。
 この短い祈りを、食前の感謝とともに御前に御捧げ致します」

「……長い」

 イスラはどうしても、この食前の祈りというものに慣れることが出来なかった。祭司であるカナンが祈りを捧げるのは自然なことなのだが、こんなに頻繁にする必要があるのだろうかと思わずにはいられない。

「前から思ってたんだが、祈って何の意味があるんだ?」

 イスラがそう尋ねると、カナンはことも無さげに「色々ですよ」と答えた。

「神様ってのは、もうこの世界を見捨てたんだろ? だったら、お前がいくら祈ったところでそれを聞いてくれる保証なんて無いんじゃないのか?」

「だからこそ意味があるんです。たとえ神様が絶望してしまったとしても、まだこの世界には善意や感謝や、一人ひとりの祈りが宿っている……それを思い出してもらうために祈るんです」

「それが届いていないとしたら?」

「それならそれで良いんです。曖昧な思考に形を与えるためには、一度言葉にして言わなきゃいけない。そうして自分の弱さを覚えて、他者への思いやりを再確認する……それが祈るという営みです」

 カナンのことは嫌いではないが、こういう観念的なところは正直苦手だった。「飯時にする話じゃないな」と言って打ち切ると、彼女もクスリと微笑んで「そうですね」と答えた。

 それからは、取り止めのない話をしながら食べ始めた。お互いの身辺のこと、仕事のこと、仲間内であった馬鹿話……大声で笑ったり、深刻に話し合ったりすることはなかった。淡々と、ただ穏やかに時間が過ぎていく。
 イスラの作った豆と豚肉の煮込みは素朴な味だったが、ほくほくとしていて、空腹を満たしていく。もっと美味しいものなどいくらでも食べてきたカナンだが、イスラの作ってくれる手料理には他にない温かさがあった。もちろんそれは、たぶんに贔屓目な感想かもしれなかったが。

 話題を作っているのはもっぱらカナンの方で、いくら喋っても言葉が尽きない。もっとイスラに聞いていてほしかった。そんな自分の欲望を自覚する時、これまではやはりどこかで寂しさを感じていたのだな、と思わずにはいられなかった。
 だから、最後の一匙をすくって口に運んだ時、それまで忘れていた寂しさが隙間風のように心の中に染み込んできた。思わず目を伏せてしまった。

「……どうかしたか?」

「い、いえっ。何でもありませんっ」

「そうか。不味かったかと思ったよ」

「そんな……とても美味しかったですよ、イスラ」

「そんな難しい料理じゃないんだけどな。そうだ、今度はお前が何か作れよ」

「私が?」

「ああ。前からずっと考えてたんだ。忙しいだろうけど、一度くらいはやってみろよ」

「そうですねえ。ちょっと不安だけど、ペトラさんにも手伝ってもらおうかな」

 そう言いつつも、次にこんな時間を持てるのはいつなのだろう、と思わずにはいられなかった。

 難民団は不安定な集団だ。錨の無い船のように、世の中の潮流に簡単に流されてしまう。難破しないためには水先案内人が常に潮目を読み続けなければならない。
 ましてや、継火手の殺害などという事件が起きたばかりだ。これは決して小さな出来事ではないとカナンは直感的に悟っていた。ただ、これまで前例のなかったことであるだけに、完全な予測など立てられるはずもない。

(またしばらくは、目が離せないかな……)

 口に出すことはなかったが、表情に出るのは止められなかった。

「また何か考え込んでやがるな」

「……えっ?」

「えっ、じゃねえよ。お前はしょっちゅうそうやって、深刻そうな顔で黙り込むんだ。難しく考えすぎてるって丸分かりなんだよ。
 ちょっと待ってろ、良い物作ってやる」

「良い物?」

「世界一美味いものだよ。まあ、俺の主観なんだけどな。お前の堅苦しいところも、少しはほぐれるさ」

 そう言うなり、イスラは持ち込んでいた袋の中から葡萄酒の入った革袋とオレンジ、蜂蜜の入った小瓶と数種類の香辛料を取り出した。小さな鍋を机の上に置くと、おもむろに葡萄酒を注ぎ、オレンジの果汁を絞っていく。イスラの握力は強烈で、瑞々しかったオレンジがまたたくまにくちゃくちゃになってしまった。

 そこまでは良かったのだが、イスラがおもむろに明星ルシフェルを取り出した時はさすがにカナンもびっくりした。そんな彼女に構わず、イスラは片手に剣を、片手に鍋を持ち、刀身の上で鍋を温め始めた。

「ま、またそんな使い方して……」

「便利なんだよ。おかげで助かってる」

「そういう問題じゃなくて」

 剣の中の剣、伐剣の王。ペトラ曰くそれくらい価値のある剣なのだが、イスラの手に掛かれば松明代わりだ。
 ただ、イスラの制御力は確実に向上している。六つ首のティアマトと戦った時などは、単に出力を上げているだけだったのだが、今はこんな繊細な使い方も出来るようになった。

 やがて小さな泡が鍋底に浮かび始めると、イスラは明星を下げて香辛料や蜂蜜を次々と入れ始めた。葡萄酒の芳香に生姜や肉桂の香りが結びつき、思わずうっとりとするような素晴らしい匂いが広がっていく。

「……よし」

 十分に香りがついたことを確認すると、鍋の中身を二等分して注いでいく。片方の杯をドンとカナンの前に置く。

「飲め」

「……これは?」

「温めた葡萄酒」

「それはそうでしょうけど。名前とか無いんですか?」

「さあ。見たまんまの料理だからな。まあ名前なんてどうでも良い。とっとと飲まないと不味くなる一方だぞ」

「それじゃあ……」

 カナンは両手で杯を持ち上げた。立ち上る白い湯気の中に、複雑な匂いが絡み合っている。
 そっと唇をつけて飲んでみると、葡萄酒の熱さと酒気が淡く喉を焼いた。革袋に入れるような安物の葡萄酒のはずなのに、果汁の甘さと相まって渋みをほとんど感じさせない。だが、ただ甘いだけでもない辛さや苦さも入り混じっていた。

「美味しい……」

「だろ?」

 イスラは片手でぐいぐいと杯をあおり、さっそく二杯目を注ごうとしている。

「昔、闇渡りの集団と合流した時に出してもらった飲み物なんだ。安物の材料だけでも十分美味い酒が出来る」

 イスラの説明は、カナンの耳にはほとんど届いていなかった。それくらい葡萄酒の味に酔いしれていた。

 決して完璧なものではない。葡萄酒の中にはオレンジの果肉が混ざっているし、溶け切らなかった肉桂も浮かんでいる。イスラの大雑把な調理のせいで、見た目はそれほど良くなかった。

 それでもカナンには、イスラのいう通り「世界でいちばん美味しいもの」と思えた。

 張りつめていた緊張の糸が溶けていくようだった。連日の激務のせいか、本来なら効きにくいはずの酒気も簡単に体中を巡った。甘い酒が舌を焼く一方で、頭の中は心地良いもやに包まれて朦朧もうろうとしていく。

「おい、お前ももう一杯くらい……」

 そう言ってイスラが鍋を持ち上げた時には、カナンは空になった杯を手にしたまま、静かに寝息を立てていた。

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