闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第九十二節/血の呪い】

「……カナン?」

 イスラは机越しにそっとカナンの肩を揺さぶってみた。反応が無い。カナンは幸せそうな顔で吐息を漏らしている。
 イスラは嘆息して立ち上がると、酔いの回った腕と脚に力を込めてカナンを抱きかかえた。思っていたほど重くはなかった。むしろ、ほっそりとした身体の輪郭が伝わってきて、自然と壊れ物を扱うような手つきになった。

 顔のすぐ近くにあるカナンの髪から、年頃の娘の発する匂いが立ち上っている。これじゃあ起こした時と同じだな、と思った。

 寝室の扉をつま先で小突き、棺桶のようなベッドの上に身体を横たえる。

「……」

 あとはこの場を立ち去るだけ。そんなことは分かっている。

 それでも、あまりに無防備なカナンの寝姿は、イスラの欲望を掻き立てるには十分過ぎた。

 こんな葛藤を覚えるのは、これで何度目だろう。数えるのも馬鹿々々しいくらいだ。アラルト山脈からパルミラに至るまでの間に、カナンの肉体に欲情したことは一度や二度ではない。その度によこしまな欲望をねじ伏せ、最初からそんなものを抱えていないかのように彼女と接してきた。

 そうしなければ、カナンとの関係性が壊れてしまいそうだったから。
 自分とカナンは、守火手と継火手の間柄に過ぎない。それは仲間という意味でもあるし戦友という意味でもある。だが恋人ではない。


 自分とカナンは他人同士だ。そんな立ち位置に立っているからこそ、自分はカナンの生き様をつぶさに見ることが出来る。


 仮にその関係性が変わってしまったら、自分はカナンの生き方をなぞるだけの存在になってしまう。それでは何のためにカナンと旅をしているのか分からない。
 同じ道を歩み、同じ場所を目指していようと、カナンの旅と自分の旅の目的は、全く別のものなのだ。

(でも、別に良いんじゃないのか?)

 今さら自分の感情を誤魔化して何になるというのだろう。



 ――俺はカナンに惹かれている。



 とっくの昔に気付いていた本心だった。

 自分でなくても、惹かれずにいられるだろうか?
 確かな知性と勇気を持ちながら、愚かなほどに善良で、時として抱きしめたくなるほどの弱さと脆さを見せる……そんな少女が、自分のすぐ手の届く場所に居る。イスラでなくても心を乱されずにはいられないだろう。

 カナンがそんな少女だからこそ、最大限の自制心をもって欲望を封じ込めてきた。彼女は自分の浅はかな感情で穢して良い存在ではない。

 ……第一、こんなものは全て、自分の身勝手な感傷に過ぎない。心の奥底に封じ込めておくべきものだ。

 後ろ髪をひかれるような思いで、カナンの傍を離れようとした。

 その手を、カナンがしっかと握り締める。



「行かないで」



 彼女の唇から漏れた一言は、心臓を揺さぶるほどに艶やだった。
 イスラは思わず息を呑み、カナンの顔を見つめる。

 寝ぼけているだけだった。

 薄っすらと目を開けているが、焦点が定まっていなかった。酔いが回っているせいか、それとも疲れているせいなのか、彼女の意識は朦朧としているようだった。イスラの肩から力が抜ける。
 それでも……だからこそ、「行かないで」という一言は彼女の本心に違いない。彼がいくら分からない振りをしようと、もう誤魔化すことは出来ないだろう。

「俺も……俺だってなぁ……!」

 言いたいことが山ほどある。こんな風にではなく、真正面から伝えたいことがいくつもいくつも積み重なっていて、どこから手を付けたら良いのかまるで分からない。言葉が喉に詰まって窒息しそうだった。

 その想いを表現する方法を、イスラは知らない。ただ吐き出すやり方は知っている。

 カナンの手をそっと振りほどくと、イスラは片膝を寝台の上に乗せた。ゆっくりとカナンの上に覆いかぶさりながら、左手を彼女の太腿に添わせる。すぐ近くにカナンの温もりを感じた。呼吸するごとに彼女の存在感が大きくなっていく。「ん……っ」カナンが小さく身じろぎした。それでも走り出した情動を止めることは出来ない。

 そう、イスラ自身の気持ちは定まっていたのだ。



 だから、カナンの肌着に触れた瞬間に脳裏を駆け抜けたは、彼の中から出たものではなかった。



 そのは、様々な音を絡みつかせてイスラの脳髄を揺さぶった。

 老人の声、子供の声、女の声、男の声……どのようにも聞こえる。そのいずれもが熱く深い憎悪を伴っていた。壊れた鐘のように、汚い雑音交じりに何度も頭の中で響き渡る。ほとんど物理的な威力さえ持っているかのようだった。脳が痺れ、身体が震えた。

 イスラに聞こえたのは、そう難しい言葉ではなかった。ほんの一言だけ、至極簡単なものだった。

 だが、その短い一言こそ、イスラにとって何よりも忌まわしい呪いだった。



 は言った――汝闇渡り也、と。



 それは死刑宣告のように、イスラの中で反芻された。

 それは彼に、己の分際を思い出させた。

 穢れた血筋、人殺しと淫売の子供、そして自分自身人殺しでもある……そんな事実が次々と思い浮かんできて、一つ思い出す事に、まるで崖から滑り落ちるようにカナンとの距離が開いていく。

 今や腕の中にあるカナンの存在が、地上から見上げる星のように遠く感じた。

 自分がカナンに触れていることが、取り返しのつかない大罪に思えた。もしこのまま彼女を抱けば、地獄の一番深いところに叩き落とされるような気がした。そして全ての人間に汚辱の如く蔑まれ、もう二度と誰かとつながることも出来ない未来図が脳裏に浮かんだ。


 その中には、カナンの顔も含まれていた。


 もう誰が何と言おうと無駄だった。仮にカナンが覚醒していて、力の限り彼を抱きしめ、言葉の限りを尽くして愛を語ろうと、そんなものは、血の呪いの前では無力だろう。



 イスラ闇渡りであること。その事実そのものが、彼にとっての呪いだった。



 自分は穢れている。闇渡りのイスラ、と名乗る限りにおいて、その認識が拭われることは決して無い。
 そして、穢れた者が清らかな人間と交わっても良いという道理が無い。

 イスラはカナンの寝室から逃げ去っていた。カナンが起きることを恐れたからではない。カナンと自分を見比べることが怖くてたまらなかったからだ。

 月明りの下をあてどもなく走り、川辺の砂の上で四つん這いになって息を切らせる。

 だが、いくら必死になって走ろうと、自分の影から逃げることは出来ないだのだ。月光は惨めにうずくまる彼を照らし、黒い影を砂の上に映し出した。

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