闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第九十八節/「議会と君主と、そして……」】
「……かくして少年皇帝の宴席に招かれた重臣たちは、皇帝があらかじめ屋根裏に用意させていた大量の薔薇の花弁によって窒息死させられたわけじゃ」
ペンを動かしながら、フィロラオスは旧世界の皇帝の逸話を一つ語り終えた。ごりごりと豆を挽きながら聞いていたトビアは「それだけの薔薇を集めてくるのは大変だったでしょうね」と素朴な感想を漏らした。
午前中は書架の整理をし、昼食後はフィロラオスの雑務を手伝いつつコーヒーを淹れる。トビアにとっては、そんな一日の過ごし方がすっかり日常となっていた。フィロラオスには図書館長としての仕事があるが、その合間に本の解釈をしたり、こうして過去の逸話を語ってくれる。少年の知識欲を刺激するためか、フィロラオスは歴史に関する話をよく持ち出していた。
ただ、武将や英雄の物語には嬉々として耳を傾けるトビアだが、政治闘争や宮廷闘争の物語には、あまり心惹かれないようだった。
「ふむ……あまり興味を引かなかったかのう?」
「い、いえ……はい」
慌てて訂正しようとしたトビアだが、中途半端な気遣いはかえって失礼だと思い直した。そうした正直さは、幼さではなく、この少年特有の美点だった。
「政治の話って、僕とはすごく遠い世界の話みたいで……今の世界には皇帝なんていませんし、その人が好き勝手に権力を振るった理由も分からなくて、共感出来ないんです」
「ほっほっ、これまた正直な意見じゃな。もちろん馬鹿にしているのではないよ。徒に遠慮して口をつぐむことに比べれば、なんと実りの多いことか。
君の言う通り、皇帝の気分に共感することは、今の世界では誰も出来ないじゃろう。じゃが想像することは出来る。何故そう思ったのか、何故そうしたのか。その理由を探り、そこに至る心理を読み取ることが出来れば、権力の暴走に少しでも歯止めを掛けられるかも知れん」
「権力の暴走、ですか」
「君は、政治が自分と程遠いものじゃと言ったが、それは誤りじゃ。むしろ、政治は全ての人間に等しく寄り添うものなのじゃ。神殿の中で生まれた継火手の赤子も、森に住まう闇渡りの老人も、誰かと関わる以上、そこには必ず政治が発生する。これを回避しようとするなら、完全な孤独に身を置くしかない。
そして、政治と権力は切っても切ることが出来ない関係にある。であるなら、君もまた、権力のやり取りの一部として、確かに政治と関係しているのじゃよ」
そう言われても、トビアには今ひとつ分かりにくい話だった。土台十四歳の少年が取り組むには早過ぎる問題だ。
フィロラオスも、生徒の理解が進んでいないことを察して、一つ例えを出した。
出来立てのコーヒーが入ったポッドを持ち、二人分のカップを並べる。
「さて、ここに二人分のコーヒーがあるわけじゃが……これの分け方にはいくつか方法がある。
一つは、儂が権威者として一方的に量を決めること」
そう言うなり、フィロラオスは自分のカップに並々と注いだ。トビアはその行為にどんな意味があるのか見極めるかのように、じっと黒い液体を見つめている。
「これこれ、ここは不満を言う場面じゃろうが」
「……あ。はい」
「自らの権利意識が無いと、コーヒーだけでなく他のあらゆる物を好き勝手されてしまうぞ。
とまれ、儂の行為に異議を唱え、平等に注ぐことを主張した瞬間、儂と君の間でコーヒーをめぐる政治が発生するのじゃ」
「つまり、何かを分けるために話し合う、ってことですか?」
「その通り。政治の基本は、限りあるものをどのように分配するのか、という点じゃ。
先に挙げたように、基本的な政治の形態はこの二つに分類できる。
すなわち、皆で話し合って決めるか、あるいは誰か一人の決定に委ねるか。前者は議会を生み、後者は君主を生み出す。
じゃが、これ以外にもう一つ、ある特殊な例が存在する」
「特殊な例……? 皆で話し合うのと、一人が全部決める以外に、決め方ってあるんですか?」
「あるのじゃよ。それが……」
フィロラオスの言いかけた言葉は、研究室に駆け込んできたペトラのせいで途切れさせられた。乱暴に蹴飛ばされた扉が悲鳴を上げ、コーヒーに口を付けようとしていたトビアは驚いて中身をズボンの上にこぼしてしまった。
「一大事だ、爺さん!」
「そのようじゃのう。ま、出来ればノックしてから入ってきて欲しかったがの」
熱さと染みに取り乱す弟子を横目に見ながら、フィロラオスはコーヒーを啜った。
「で、一体何があったか、落ち着いて話しておくれ」
◇◇◇
エリコの攻防がパルミラに知らされたのは、戦闘が終わってから二日と半日が経ってからだった。混乱の中でなんとかまとめられた報告は、パルミラの市内はもとより、商人会議にさえも大きな衝撃を与えた。
四人の継火手の戦死、エリコの半壊、数千名に及ぶ闇渡りの軍勢。そのどれもが、煌都という安寧の中で暮らしている人々の恐怖を掻き立てた。
とりわけ、継火手の法術が通じないという情報が漏れ出た時には、パルミラ市内は一時騒然となった。
エリコの戦闘では兵卒にも百人単位で死傷者が出ているが、彼らの命と継火手の命は比べ物にもならない。彼女たちを一人生き延びさせるためなら、千人の兵士が犠牲になっても御釣りがくる。
継火手が天火によって燈台を維持しているからこそ、都市の人々は平和を享受出来るのだ。それが失われるということは、道路や水道が破壊される以上の打撃となりうる。
燈台が無ければ、そこに住む人々も闇渡りと変わらない。彼らと同じ境遇に堕し、おぞましい夜魔に恐れながら生きていくことになる。
「……確かに、のっぴきならない話じゃのう」
ひとしきり報告を聞いたフィロラオスは眼鏡を外して嘆息した。目を覆いながら、これまで起きたこと、ここから起きるだろうことに思考を巡らせる。
「商人会議の連中も泡を食っててさ。あちこちの街道に闇渡りが出てるらしくて、商売どころじゃないんだと」
「商人たちにとっては悪夢のような事態じゃろうな。もちろん儂らとて他人事ではいられんか」
「当然。難民団にまでしわ寄せがくる有様で、今はカナンが応対してくれてるけど……正直、この状況が長引いたら、どんどんこっちの立場が悪くなる」
このまま闇渡りの集団が補足されなければ、溜まり溜まった不満が同じ「余所者」である難民団に向けられるかもしれない。それは不条理なことなのだが、感情的になった大衆相手に論理は通用しない。
最悪、雪崩れ込んできた暴徒と難民団の間で戦闘が起こる可能性さえある……それを見越して、カナンは早急にウドゥグの剣を破壊しなければならないと決めた。
「一刻も早く、その継火手殺しの剣ってやつをどうにかしなきゃいけない。都市の弱兵じゃあ闇渡りと正面勝負をしたって勝ち目が無いんだ。せめて法術が使えないと勝負にならない」
「そのための糸口を儂に探せ、というわけじゃな」
「……頼むよ」
「もとよりそのつもりじゃ。儂とて都市に住む人間の一人じゃからのう。断る理由などないわい。
そういうわけで、トビア、今から儂の書いた鍵言葉を頼りに資料を集めてきなさい。さっきの話で見えてきたものがある。恐らく、魔剣とやらの攻略は、そう難しくはなかろうて」
「はいっ!」
老博士は素早くペンを滑らせ、メモを受け取ったトビアは一目散に書架へと向かって駆け出した。連日の訓練のおかげで、どこからどんな本を持って来れば良いのか分かるようになっていた。
トビアが出ていくのを見送ってから、ペトラはようやく一息つくことができた。ようやく商売を始めることが出来ると思った矢先に、とんでもない事件が舞い込んできたため、まさに寝耳に水といった気分だったのだ。
「何とか都軍よりも先に魔剣を破壊出来たら良いんだけどね……ところで、攻略は難しくないって、どういうことだい?」
「なあに、君の話を聞いておったら、少し心当たりのある事例を思い出しただけじゃよ。もし儂の予想通りだとすれば、ウドゥグの剣そのものは大した武器ではないじゃろう。ただ……」
「何か引っかかるものがあるのかい?」
「ああ。この一件、重要なのは剣そのものよりも、それがもたらす影響力の方にある。現に継火手が殺され、闇渡りたちが独自に王権を主張しだすなど、前代未聞のことじゃ。これが各地の闇渡りたちに伝播すれば、たとえ魔剣を破壊したとしても反乱は続く。
その解決手段を見出さん限り、真の意味で事件が終わることはないじゃろう」
「……」
ペトラは無言のまま頭を掻いた。
どうやら、自分が思っているほど楽に終わらない……それは予感というよりも、最早諦めに近かった。
ペンを動かしながら、フィロラオスは旧世界の皇帝の逸話を一つ語り終えた。ごりごりと豆を挽きながら聞いていたトビアは「それだけの薔薇を集めてくるのは大変だったでしょうね」と素朴な感想を漏らした。
午前中は書架の整理をし、昼食後はフィロラオスの雑務を手伝いつつコーヒーを淹れる。トビアにとっては、そんな一日の過ごし方がすっかり日常となっていた。フィロラオスには図書館長としての仕事があるが、その合間に本の解釈をしたり、こうして過去の逸話を語ってくれる。少年の知識欲を刺激するためか、フィロラオスは歴史に関する話をよく持ち出していた。
ただ、武将や英雄の物語には嬉々として耳を傾けるトビアだが、政治闘争や宮廷闘争の物語には、あまり心惹かれないようだった。
「ふむ……あまり興味を引かなかったかのう?」
「い、いえ……はい」
慌てて訂正しようとしたトビアだが、中途半端な気遣いはかえって失礼だと思い直した。そうした正直さは、幼さではなく、この少年特有の美点だった。
「政治の話って、僕とはすごく遠い世界の話みたいで……今の世界には皇帝なんていませんし、その人が好き勝手に権力を振るった理由も分からなくて、共感出来ないんです」
「ほっほっ、これまた正直な意見じゃな。もちろん馬鹿にしているのではないよ。徒に遠慮して口をつぐむことに比べれば、なんと実りの多いことか。
君の言う通り、皇帝の気分に共感することは、今の世界では誰も出来ないじゃろう。じゃが想像することは出来る。何故そう思ったのか、何故そうしたのか。その理由を探り、そこに至る心理を読み取ることが出来れば、権力の暴走に少しでも歯止めを掛けられるかも知れん」
「権力の暴走、ですか」
「君は、政治が自分と程遠いものじゃと言ったが、それは誤りじゃ。むしろ、政治は全ての人間に等しく寄り添うものなのじゃ。神殿の中で生まれた継火手の赤子も、森に住まう闇渡りの老人も、誰かと関わる以上、そこには必ず政治が発生する。これを回避しようとするなら、完全な孤独に身を置くしかない。
そして、政治と権力は切っても切ることが出来ない関係にある。であるなら、君もまた、権力のやり取りの一部として、確かに政治と関係しているのじゃよ」
そう言われても、トビアには今ひとつ分かりにくい話だった。土台十四歳の少年が取り組むには早過ぎる問題だ。
フィロラオスも、生徒の理解が進んでいないことを察して、一つ例えを出した。
出来立てのコーヒーが入ったポッドを持ち、二人分のカップを並べる。
「さて、ここに二人分のコーヒーがあるわけじゃが……これの分け方にはいくつか方法がある。
一つは、儂が権威者として一方的に量を決めること」
そう言うなり、フィロラオスは自分のカップに並々と注いだ。トビアはその行為にどんな意味があるのか見極めるかのように、じっと黒い液体を見つめている。
「これこれ、ここは不満を言う場面じゃろうが」
「……あ。はい」
「自らの権利意識が無いと、コーヒーだけでなく他のあらゆる物を好き勝手されてしまうぞ。
とまれ、儂の行為に異議を唱え、平等に注ぐことを主張した瞬間、儂と君の間でコーヒーをめぐる政治が発生するのじゃ」
「つまり、何かを分けるために話し合う、ってことですか?」
「その通り。政治の基本は、限りあるものをどのように分配するのか、という点じゃ。
先に挙げたように、基本的な政治の形態はこの二つに分類できる。
すなわち、皆で話し合って決めるか、あるいは誰か一人の決定に委ねるか。前者は議会を生み、後者は君主を生み出す。
じゃが、これ以外にもう一つ、ある特殊な例が存在する」
「特殊な例……? 皆で話し合うのと、一人が全部決める以外に、決め方ってあるんですか?」
「あるのじゃよ。それが……」
フィロラオスの言いかけた言葉は、研究室に駆け込んできたペトラのせいで途切れさせられた。乱暴に蹴飛ばされた扉が悲鳴を上げ、コーヒーに口を付けようとしていたトビアは驚いて中身をズボンの上にこぼしてしまった。
「一大事だ、爺さん!」
「そのようじゃのう。ま、出来ればノックしてから入ってきて欲しかったがの」
熱さと染みに取り乱す弟子を横目に見ながら、フィロラオスはコーヒーを啜った。
「で、一体何があったか、落ち着いて話しておくれ」
◇◇◇
エリコの攻防がパルミラに知らされたのは、戦闘が終わってから二日と半日が経ってからだった。混乱の中でなんとかまとめられた報告は、パルミラの市内はもとより、商人会議にさえも大きな衝撃を与えた。
四人の継火手の戦死、エリコの半壊、数千名に及ぶ闇渡りの軍勢。そのどれもが、煌都という安寧の中で暮らしている人々の恐怖を掻き立てた。
とりわけ、継火手の法術が通じないという情報が漏れ出た時には、パルミラ市内は一時騒然となった。
エリコの戦闘では兵卒にも百人単位で死傷者が出ているが、彼らの命と継火手の命は比べ物にもならない。彼女たちを一人生き延びさせるためなら、千人の兵士が犠牲になっても御釣りがくる。
継火手が天火によって燈台を維持しているからこそ、都市の人々は平和を享受出来るのだ。それが失われるということは、道路や水道が破壊される以上の打撃となりうる。
燈台が無ければ、そこに住む人々も闇渡りと変わらない。彼らと同じ境遇に堕し、おぞましい夜魔に恐れながら生きていくことになる。
「……確かに、のっぴきならない話じゃのう」
ひとしきり報告を聞いたフィロラオスは眼鏡を外して嘆息した。目を覆いながら、これまで起きたこと、ここから起きるだろうことに思考を巡らせる。
「商人会議の連中も泡を食っててさ。あちこちの街道に闇渡りが出てるらしくて、商売どころじゃないんだと」
「商人たちにとっては悪夢のような事態じゃろうな。もちろん儂らとて他人事ではいられんか」
「当然。難民団にまでしわ寄せがくる有様で、今はカナンが応対してくれてるけど……正直、この状況が長引いたら、どんどんこっちの立場が悪くなる」
このまま闇渡りの集団が補足されなければ、溜まり溜まった不満が同じ「余所者」である難民団に向けられるかもしれない。それは不条理なことなのだが、感情的になった大衆相手に論理は通用しない。
最悪、雪崩れ込んできた暴徒と難民団の間で戦闘が起こる可能性さえある……それを見越して、カナンは早急にウドゥグの剣を破壊しなければならないと決めた。
「一刻も早く、その継火手殺しの剣ってやつをどうにかしなきゃいけない。都市の弱兵じゃあ闇渡りと正面勝負をしたって勝ち目が無いんだ。せめて法術が使えないと勝負にならない」
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「……頼むよ」
「もとよりそのつもりじゃ。儂とて都市に住む人間の一人じゃからのう。断る理由などないわい。
そういうわけで、トビア、今から儂の書いた鍵言葉を頼りに資料を集めてきなさい。さっきの話で見えてきたものがある。恐らく、魔剣とやらの攻略は、そう難しくはなかろうて」
「はいっ!」
老博士は素早くペンを滑らせ、メモを受け取ったトビアは一目散に書架へと向かって駆け出した。連日の訓練のおかげで、どこからどんな本を持って来れば良いのか分かるようになっていた。
トビアが出ていくのを見送ってから、ペトラはようやく一息つくことができた。ようやく商売を始めることが出来ると思った矢先に、とんでもない事件が舞い込んできたため、まさに寝耳に水といった気分だったのだ。
「何とか都軍よりも先に魔剣を破壊出来たら良いんだけどね……ところで、攻略は難しくないって、どういうことだい?」
「なあに、君の話を聞いておったら、少し心当たりのある事例を思い出しただけじゃよ。もし儂の予想通りだとすれば、ウドゥグの剣そのものは大した武器ではないじゃろう。ただ……」
「何か引っかかるものがあるのかい?」
「ああ。この一件、重要なのは剣そのものよりも、それがもたらす影響力の方にある。現に継火手が殺され、闇渡りたちが独自に王権を主張しだすなど、前代未聞のことじゃ。これが各地の闇渡りたちに伝播すれば、たとえ魔剣を破壊したとしても反乱は続く。
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