闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第八十三節/営業聖女とトビア君 中】

 土地というものを何よりも大切にする煌都において、倉庫業を営むのは簡単なことではない。

 その商売をするためには、当然だが土地が必要になる。しかし煌都において土地は商売の対象とはならず、したがって不動産業という概念自体が極度に衰退している。
 何故なら、煌都のなかで居場所を失うことは夜の中に放り出されることであり、夜の中に放り出されればおのずと死を待つか、人間以下の生を甘受しなければならないからだ。

 土地を持つことが、すなわち人間の証なのである。

 人間としての尊厳に値段をつけることは出来ない。交換不可能なものは商品として成立せず、したがって土地の売買も原則的には生じえないのだ。

 そうなると、唯一交換可能な商品は同じく土地のみということになる。ニカノル本人や彼の父祖たちはいずれも、本来ならば取引さえ出来ない煌都の土地を再分配することによって富を築いてきた。倉庫業はその集大成だ。

 ニカノルの曽祖父の時代、彼の家はパルミラの島の一角にこじんまりと建っているだけだった。ところがある日、親戚の家系が断絶したことで、その家が所有していた土地を引き受けることとなった。だが、その家がある場所はパルミラの反対側で、あまりに不便である。
 そこでニカノルの曽祖父は、近所の人間に土地の交換を持ち掛けた。親戚の家はその隣人の家よりも大きかったため、隣人にとっても悪い条件ではない。土地には値段をつけず、家という付加価値から利益を得るのであれば、何の問題も無いのだ。
 こうして彼は家二つ分の土地と、親戚の家を売ることによって生じた利益を手にした。それから代を経ながら、ニカノルの家系は同じような方法で一か所に土地を集め、その場所に巨大な倉庫を築くに至ったのだ。

 予定通りに倉庫貸しのニカノルの元に到着したカナンは、彼自らの案内で倉庫の視察をすることになった。

 土地を集めたとはいえ、その範囲は限られているため、倉庫は地上五階、地下二階の計七階層から成っている。上に行くほど軽い荷物を起き、起重機を使わなければならないような重量物は一階に集められる。
 地下は半ば金庫のようになっていて、単価の高い品物が集中して管理されている。難民団が持ち込んだ聖銀も、今は彼の手によって保管されていた。

 倉庫の地下は、まるで独房の並ぶ収容所のようだった。一本の広い廊下の両側にずらりと貸金庫が並んでいる。壁には松明が掛けられていて、なかを仄暗く照らし出していた。

「商品はこちらです」

 ニカノルは一つの扉の前で立ち止まると、腰帯に吊るしていた鍵束を使って重たい錠を外した。

 彼のランタンに照らされ、金庫の中に山積みにされた聖銀がまばゆく輝いた。
 聖銀はいずれも地金の形に鋳造されている。カナンは目を丸くしているトビアに向かって「持ってみますか?」とたずねた。

 促されるまま手に取ると、思っていたよりも遥かに軽かった。同じ大きさの金塊ならばおよそ二ミナ(約一キログラム、一ミナは約五○○グラム)の重さがあるが、聖銀のインゴットは羽のように軽い。

「すごく軽いですね」

 トビアが驚きの声をあげると、同じくインゴットを手にしていたペトラが「そりゃあそうさ」と返答した。

「装飾品や武器に使われる金属のなかで、聖銀ほど軽い素材は無いのさ。腕輪や指輪なんて、身に着けてても重さが感じられないくらいさ」

 ウルクから逃げ出す際、何か一つでも価値あるものを持って出なければならなかった。その一つの回答としてペトラは聖銀を選んだが、これが見事に図に当たった。これほど軽く、運搬に負担の掛からないものでなければ、一緒に砂漠を越えてくることなど出来なかっただろう。

「しかし、軽いったって、いつまでも置いとかせてもらえるわけじゃないよね?」

「それは当然です。私も商売をしておりますので、対価はきっちりといただきます。
 ですが今のところ、この倉庫の使用料はパルミラ議会からの助成金で賄いきれておりますれば、私としても急かすつもりはございません」

「感謝します、ニカノルさん」

「問題は今後のことです。貴方がたの商売が軌道に乗ったとして、その流通をいかに管理するのか。私の店はそういった仕事も取り扱っております。どうか御一考を」

 さすがに商人だな、とカナンは思った。機会があればすかさず売り込みを掛けてくる。伊達に商人会議の座を占めていない。
 だが、確かに考えるべき事柄でもあった。商品が出来上がったとして、それを置くための場所もまた必要になってくる。それら諸々の資金をどこから捻出するか。

 当ては、無いではない。ただ、いささか気が進まなかった。

「……それは後々考えましょう。予定が詰まっていますから、失礼させていただきます」

「またのお越しをお待ちしております」


◇◇◇


 次にカナン達が向かったのは、宝飾商デメテリオの店だった。

 彼の店はパルミラの最も大きな橋の近くに構えられている。人通りは格段に多く、それだけ大勢の人間が彼の店に並べられた装身具を目にすることになる。
 それらは全て一流職人の手になる物で、常に美しさと新しさを求めて磨き上げられていた。

 正面から迎え入れられたカナンは、物怖じすることなく店の奥に進んでいく。仕事柄宝石を見慣れていたペトラも同様だ。

 だがトビアには、まるで夜空の中に迷い込んだかのように思えてしまった。

 先ほど金庫の中の聖銀を見せられた時も驚いたが、今度はそれと別種の驚異だった。金銀だけでなくルビー、サファイア、エメラルドにラピスラズリ、そして光の粒のようなダイヤモンド。
 それからイスラの目とよく似た琥珀。

 それらの宝石が、これまた精緻を極めた装飾品に加工されているのだから、トビアが圧倒されたのも無理はなかった。ずっと昔、まだ彼の母親が生きていたころに語ってくれた寝物語のなかで、宝石は騎士や王侯、果ては竜までもが血眼になって集めたものだった。その程度の認識しかトビアは持っていなかったが、実物を嫌というほど目にすると、どうしてそんな物語が出来たのか分かる気がした。

「ビビったかい?」

 ペトラが少し意地悪そうな表情でたずねた。否定できないトビアは曖昧に首を振る。

「意地を張らなくたっていいんだよ。あたしだってこれだけの量の宝石は見たことがない。あの子カナンはそうじゃないみたいだけど……」

 ペトラはぴょんぴょんと飛び跳ねながら、何とかケースの上に顔を出した。
 店の中には、彼らの他にも身なりの良い客が何人も入っている。そのいずれもが、程度の差こそあれ顔色を変えて商品に見入っている。宝石などどこ吹く風といったカナンとは大違いだ。

 難民団のなかで、ペトラほどカナンの能力の多様さと高さを評価している者はいない。関係性においてはイスラが最も深いが、彼はカナンの官僚としての側面をほとんど知らないでいる。
 その点ペトラは、難民団の運営を一緒に行うなかでカナンという人物の真価を見極めつつあった。

 彼女たちがウルクから脱出した後、カナンは自然と難民団のトップに祭り上げられ、しかもその任をほぼ完璧に果たして見せた。凡人ならば、狼狽してろくに指揮も執れないまま全滅するだろう。だがカナンはそんな窮地をあっさり乗り越えてパルミラまで導いた。
 その後も難民団の内部関係に気を配りつつパルミラとの交渉をやってのけ、こうして商売を一つ立ち上げるまでに至っている。

 それを可能としたのは、彼女がこれまで受けてきた最高級の教育のおかげだ。祭司たる者、宗教学や哲学を修めているのは当然として、経済学、商学、社会学、歴史学、文学……そうした社会や言葉に関する学問の造詣が深く、それを実社会で活用するだけの応用力も備えている。

 これほどまでに知恵を持った人間ならば、目先の宝物に目を奪われることは無いのかもしれないな、とペトラは思った。自分たちには宝石と映っても、カナンの目にはまた別のものとして見えているのだろう。
 生産、加工、流通、取り引き、保管……所詮綺麗なだけの石に過ぎない宝石が、人間の間で価値を持つようになるメカニズム。それを視野に組み込んでいるのと、いないのとでは、見えてくる世界は全く異なったものとなるだろう。

「ペトラさん、どうかしましたか?」

「ん、いや、何でもないよ。トビア、一緒に行くだろ?」

「は、はい、すみません!」

 宝石に目を奪われていたトビアは慌てて二人の後に続いた。

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